国富町の古刹

2007年8月16日
宮崎市内から隣接する国富町には30分ともかからない。
「国富まで付き合わん!」
「いくとこね〜し」

精進料理食べさせ、「万福寺」ぐらいか。
抹茶を出してくれ、枯山水の庭を眺める。

「まんぷきじ・・お寺?・・枯山水・・はぁ〜・・}
これでは町から若人は逃げる。

足を伸ばせば草スキーの法華岳。
中央女流文人和泉式部も荘園主であったご主人の領地ゆえ滞在した。
天正遣欧使節正使・伊東マンショの祈願の天井書きもある。

昨日の国富町本庄・義門寺について 書き足らないところの補足、続きである。
もう少し地方史にお付き合いください。

こんなこと宮崎の人でもほとんど知りません。
このブログが唯一お伝えしてるだけですので。。
(短くやってくれよみんな忙しいの。!)

ではせきやんはなぜくわしいの。
実は内緒ですよ。名誉にかかわりますので。

今の町のメイン道路の本道より50Mぐらい南に並行して走ってるところ。
「この旧道がいいの!」
「ここがホント!ここがいいのです。」

なにが?・・野暮!
旦那衆ががイイッ!つッたらきまってろ!
言わせるのか!この・・
「・・・・ゥン・・?!」
「・・リトル吉原!。」

あのニックキ(笑)赤線禁止の法案を出した参議院緑風会・市川房江議員の昭和32年に法案が出なければ残ってたはずの遊郭跡が・・
「ええっ1あるの?」
「ナイデ・・アリンス」
「あれ?急に・・花魁言葉に・・」

高校生の頃にきたときは昭和40年代でしたので社会から赤線はもちろんなし!
名誉のために言っときますが、わたし行ってません!あがってません!

正確には行ってみたが・・・「なくなってた!」
あれば下を見下ろす二階の手すり。・・・の家屋・・

 新国劇舞台長谷川伸原作「一本刀土俵入り・・・・」
駒形茂兵衛が二階の女郎お蔦からお金を貰う時のあのシーン。
かすかに残ってマス。

茂兵衛が母親の墓の前で横綱の土俵入りを見せたいと言う。
お蔦は手持ちの金をすべて茂兵衛に与え、櫛・簪(かんざし)までも与える。

「きっと立派な横綱になっておくれ、」
越中富山「おわら節」をくちずさむ。

二階の木の手すりなんかを見て「あ〜〜は〜ん〜」
あなた!何でその情熱勉強に向けなかったの。

諸県地方は幕領たる天領の地の期間が長く続いた。
天領は他の藩より領民も気位が高い。日常生活も趣が違ってた。

国富高岡町には文化が花開き相撲も盛んであった。
国富町本庄・義門寺には大関竹縄大八郎の碑がある。

竹縄大八郎は阿波の国源氏山の弟子となり大関に出世した。
国富町本庄にも巡業にきた。
竹縄大八郎の供養相撲である。碑は義門寺門前に建立されている。

高岡町には相撲興行の取締役の免許を持ってる人がいた。
笹島宇兵衛である。

史跡顕彰会でどうしても何者かわからず探し回った碑の人である。
「笹島宇兵衛」は何代か前の先祖と名乗り出た。
加藤一男の先祖であった。甘ヶ城歴史館に残る資料では明治34年取締役のときは72歳
ピッタリと一致した。

何よりもの証拠は何枚かの力士の化粧回しの刺繍飾りが保存されていた。
見事な刺繍で織り上げられている。

龍福寺公園に記念碑がある
また54名の相撲取りの四股名が読み取れ、隆盛を極めていたことがわかる。
力士の記念碑もある。

中央地区・乱髪喜蔵碑
雲の井権九郎碑
久津良川周蔵碑
乱髪喜蔵碑に寄せる笹島宇兵衛の寄付金

柚木崎地区
二本松助五郎碑に笹島宇兵衛久津良川周蔵の寄付
ムカサ地区鬼神嶽休太
なんかムチャクチャみたいな四股名もあるが、鬼神嶽って強そ〜
鶴ヶ峰の子三兄弟の逆鉾の四股名もここから出ている

偏狭の地日向も上方の文化が大淀川右岸城ヶ崎 に花開き今も文人墓地が残る。
京都・五升庵蝶夢(1722〜1795)は芭蕉翁を全国区にした。
芭蕉堂の修復、芭蕉碑建立、作品集を刊行した
日向文化人もその指導を受け影響を残した。

よって県内にその芭蕉句碑をあちこちに確認できる。
国富町義門寺 を含め8ヶ所、九州管内でも多い。

芭蕉翁記念句碑
(をり〓〓に伊吹を見ては冬籠り)
 
           文化年間=文化十四年(一八一七)
           東諸県郡国富町本庄  義門寺
           句は風化が甚だしく判読できず
 
麥の穗や涙に染て鳴雲雀
芭 蕉 庵 桃  居 士
  左     當山澤似庵山天林寺淨現水上野町連中敬
        安永九庚子載初秋中旬
  右     加州散人仁田脇林耕松白蘭二誌之
 
           安永九年(一七八〇)七月
           現水建立
           宮崎市吉村町浮ノ城  正光寺
 

此 あ た り 眼 に 見 ゆ る も の 皆 凉 し  はせを
  陰     明治二年己巳盛夏吉辰
  台石    發起々庵魚竹菊池蘭雪
 
           明治二年(一八六九)夏
           徳々庵魚竹 菊池蘭雪建立
           宮崎市生目亀井山    生目神社
 

西 行 の 菴 も あ ら む 花 の 庭  はせを
  陰     文化十二年乙亥十月十二日
 
           文化十二年(一八一五)十月十二日
           内藤露沾の子孫内藤政脩建立
           延岡市天神小路二五五‐一 内藤記念館静思庵
 

古池やかわつとひこむ水の音
芭   蕉   翁
  右     寛政七乙卯天
  左     葉月十二日立之
 
                              
           寛政七年(一七九五)八月十二日
           西都市都於郡町   大安寺池の端弁財天社
 
  元祿七甲戌十月十二日佐土原城下連中
芭   蕉   翁
旅に病んて夢は枯野をかけ巡り
 
           文政年間=文政十二年(一八二九)
           佐土原城下連中建立
           宮崎郡佐土原町広瀬     久峰観音

 

う た か ふ な 潮 の 花 も 浦 の 春
 
           小村西卜建立
           児湯郡高鍋町蛟口      鵜戸神社
 
F 45009
梅 か 香 に の つ と 日 の 出 る 山 路 哉  はせを
  陰     安政二乙卯歳八月建立發起得々庵魚竹
 
           安政二年(一八五五)八月
           得々庵魚竹建立
           西臼杵郡高千穂町岩戸    天岩戸神社

 
国富町本庄・和泉屋・日高圃友(1745〜1811)長男習之(1778〜1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。

白鷺も首のす雁の別れかな
城跡の哀れに広し冬の朝

我が物とすれば少なし虫の声
初時雨油売り一人走りけり

大分県日田豆田には九州の天領地を支配する代官所があった。
又ここには全国一の規模の塾があった。

咸宜園(かんぎえん)1897年(明治30年)まで存続した。
延べ4000人を超える入門者があり江戸時代の中でも日本最大級の私塾。
出身者には、高野長英や大村益次郎、の名もある。

広瀬淡窓(1782〜1856)が塾を主唱。
淡窓の後、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨などが塾主を務めた
広瀬大分県知事は末裔。

日向人入門は1811年からで、1885年(明治18年)
までに62名
延岡19幕府領23高鍋5名砂土原5名飫肥5名外4本庄16名
幕府領23名のうち16名は実に多い。

その一人高妻五雲は六日町医者・秀庸ノ子
秀庸は大塩平八郎とも親交があった。
高妻は筆塚に祭られている。

16名の入門者に水筑周一の名がある。
元は秋月藩で事情で国富本庄に住んだ。
別の名を秋月橘門(1809〜1880)といった。

咸宜園の塾頭をつとめ、佐伯藩藩校・四教堂の先生となる。
明治期に新政府に指名され、たのか、名前が出てくる。

下総国内の旧幕府領を管理するために下総知県事と
を設けた(知県事熊本藩士佐々布直武→12月17日以後佐伯藩士水築之龍)。
とある。

明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。

知事は設置されずに初代の権知事には水築之龍が任命され、
県庁は東京に近い江戸川河畔の葛飾郡加村に設置され、県名もその郡名に基づいて定められた。

東京女子高等師範(現御茶ノ水)校長
貴族議員を務めた。
佐伯市養賢寺に眠る。

千葉県初代知事は柴原和:1873年6月15日-1880年3月8日(権令→県令)と成っていようが
歴史の間違い。その前の混沌としてた頃の千葉の歴史が欠落している。千葉の人調べてください!
千葉県初代知事は宮崎国富の人・ 水筑周一である。

白状するとジャーナリスト矢野龍溪(旧佐伯藩士であった父の矢野光儀)と間違い昨夜苦労した。

豊臣秀吉の全国統一は小田原・北条早雲を倒し、九州のみが残った。
「上下万民に対して一言半句にても虚言を申すべからず」
小田原評定と揶揄される早雲の書が残り伝えている。

天正15年1587年2月豊臣秀吉は軍を動かした。
総大将は弟の羽柴秀長。

ここは大友宗麟と戦い九州制覇の端緒となった偶然にも全く同じところでの戦い。
歴史の不可思議さを感じさせる。
島津にしてみれば全国制覇をかけた戦いである。

高城川に豊臣20万VS島津2万が対峙。
圧倒的軍事力の差でさしもの島津軍・島津3兄弟は敗北。

秀吉は福岡熊本、出水を経て和睦後に2万の軍勢で鹿児島で島津の和睦を受け入れた。

島津は高岡善哉坊を和睦の使者にし羽柴秀長の本陣に使わせた。。
国富町八代深年村寺善哉坊の僧。

羽柴秀長は都於郡から国富町本庄、野尻を経て
福岡で秀吉と合流して新しき九州の領主を決めた。

このときの本陣が国富町・義門寺
寺には羽柴秀長の義門寺 門に張り出した、
放火立ち木伐採の禁止など「禁制」が今に残る。

義門寺には石塔群が残っている。
義門寺の西にある墓地に残ってた。、

宝筐印塔一基、板碑二基、五輪塔一基(「應永」「明阿」 の銘あり)、笠塔婆一基が町の文化財
宝筐印塔は、県内でも珍しい花崗

岩の美しい石塔、南北朝時代の初め項(14世紀中頃)に作られたらしい。
その隣に二基並んだ大きな五輪塔(未指定)は、・伝・曽我兄弟の供養塔・・(またもや!)

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