備前の国

2007年8月4日
遠くなってる昭和を惜しむかの如くNHKは3日22時から阿久悠=悪友の特番を組んだ。
いずれにも日向のDNAの感じるものが哀愁、涼秋がある。

時代おくれ・あの鐘を鳴らすのはあなたと情感と歓喜。
人間生活の一コマを切り取り擬似共通体験の幻想的な夏のフアンタージ。

♪うらら〜ウララ〜うらうらヨ〜〜ねらいうちの山本リンダの魅惑的肢体に酔えば、
沢田研二は男らしさを投げ捨て、ひたすら恋願う怪しい妖艶さ。
「ジュリィ〜〜〜」
津軽海峡冬景色は宮崎のDNAがあったれ場こそ書けた雪国への憧れの風景、情念の歌詞

歌詞のすべては覚えてなく好きな部分のフレーズの繰り返しを口ずさむ。
おもわず手でリズムを取っている。

ただ、昭和団塊の世代の残滓ゆえリズムテンポは
「♪小皿たたいてチャンチキおけさ〜♪〜」調で
原曲とは程遠い勝手なる、ド演歌調に無断編曲されている。
現代の挑戦的時代にメッセージをおくった。

一言でいえばメロディーより情感、歌詞が大きなウエートを占めていた時代。であった。
いまは曲が先。
歌詞はいらない時代。
リズムのみでいいらしい。
言葉から言霊が逃げ去っている。
あとで述べるが阿久悠の霊はDNAをしっていた。

今夜は宮崎・大淀川には花火が夜空を焦がす夏の日の夕涼み
台風5号の「うさぎ」さんは津軽に再度上陸しようとしている。

性格的に内向きの津軽人が短い夏を謳歌するが如く「ねぶた」での熱い意思の発散の場。
一台に1000個もの電飾の電球は津軽人の意思の真髄が見て取れる

先霊の御霊は楽しき見守ってくれることであろう。
太宰に象徴される内向的コニの人たちは
「ハッセラ〜」(だったか??)湧き上がる感情を祭りに一挙にぶっつける。

地球温暖化のせいでの警告であろうか
あろうことか東北に夏台風である。
ねぶたはどうなる。?
紙の芸術は天敵たる雨は想定外。

さて今回の選挙のご当地である。
中世日向の伊東氏の調査からの岡山。

和気清麻呂、吉備真備の宮廷人を生み、
3人の総理犬養毅、平沼騏一郎、橋本龍太郎(第82・83代)を送り出した。

今次の選挙を象徴する人は笠岡の人。
大臣を複数に経験した片山虎之助の地盤である。

選挙で最大の象徴視された姫の虎退治。
片山虎之助VS姫井由美子の岡山をつれずれに。
岡山のブロガーいらっしゃったか。?

宮崎から備前の国を目指すと知られてる最初の街は笠岡市。

縁あってこの土地を二度も訪れている。
2億年前のバタバタカニ=兜ガニが生息している。
佐賀の産卵の報道があったがどう違ってるか。

小野竹僑は京都画に日本画でその美術業績を残した。
作品を収集して記念の美術館にその偉業をたたえている。

芭蕉の奥の細道は製本されてると思っていたら巻物であることをこの会館の展示で知った。
30代の手習いのあのころ。
・・月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり。・・・

備前の岡山の国は、宮本武蔵や将棋の大山名人を生み、三大名園後楽園ものこっている。
特筆される人はクラレの大原孫三郎。

日本の社会福祉の原点である孤児問題に国を超えて取り組んだ。
孤児の父石井十次は日向の人。大原の学友。

学生時代に放蕩癖のあった学友を儒教的生き方、或いは学究の方に善導した。
友人石井十次があればこそ大原孫三郎の業績はあるといっても過言ではない。
資本家御壇さんと岡山孤児院・日向茶臼原孤児院の情熱の石井十次。

日本の社会主義経済史その山脈をなす山川均をはじめとする東大教授陣を含めた人々は生まれなかった。
大阪に大原社会主義問題研究所を興し経済学の研究の没頭する人々を生んだ。

今は法政大学の書架にその研究成果を残す。
美術史界に世界の七不思議の展示物、
受胎告知の名画が倉敷美術館にあるのも業績のひとつ。

備前牛窓は海岸線が入り組み万葉の昔から栄えていた。
平清盛が滞在し西行が留まっている。
牛窓は万葉奈良から交易の中心。
牛窓=潮間門で良港である。

牛深=潮深ウシオフカに通づる九州の良港。
佐渡オケサなど海岸都市の民謡の原点で九州・牛深=潮深ウシオフカに通づる。

歴史にあらた登場する人々でこれほどまでの数奇な人生はあるまい。
伊東三位入道義祐。息子祐兵は秀吉に仕えお家再興を図らんとしている。
義祐には百姓の出の秀吉配下にはなる相談ではない。

岡山県牛窓市、伊東三位入道義祐はこの地にも足跡を残している。

日向での伊東家には地付きの四天王・山田、荒武、津留、大脇がいた。
稲津、落合、湯地、川崎は従って下ってきた四天王。

初めての顔合わせのとき、
下向の衆として客間、
居付の衆として主座に着した地付き四天王。
これは先例となりこのことが家臣団にはいろいろと困難が生じ、お家の一大事になった。

源氏・頼朝は二代頼家が暗殺され、三代実朝が二代目の息子の甥公卿から鎌倉八万の前で刺され三代で滅んだ。

頼朝の代になるも義経、4年後その兄の範義と兄弟間で殺戮があった。
その伯父たちも壮絶なる動きがあった。

前九年後三年、保元、承久、源氏は血の争いが耐えなかった。
頼朝の御家人も滅亡の歴史が横たわる。

その御家人の一人が伊東家の祖・工藤祐経。
領地が伊東ゆえ職種からきた工藤を伊東とした

不思議で背中がゾットするが、日向の阿久悠は伊東市に自宅があったが、日向の祖の伊東氏が伊東市と知っていたのであろうか。
魚がうまいところのみで家の購入を決めたとだけはある。

工藤祐経は自分自身が日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。

日向に下向して伊東家が242年も続いたが
家督をめぐっての争いは家臣団をも巻き込んで壮絶であった。

四天王、大脇曽丹は三位入道義祐から犬追物の下役を命じられ
、これを不服して伊東家を立ち退き山口の大内家に召抱えられていた。

山口では奇縁でそのかっての家臣の家で一年ばかりを過ごしていた伊東三位入道義祐。
大内文化の瑠璃光寺、雪舟の庭などを見たものであろう。

周防山口に、として伊東三位入道義祐の歌

行く末の 空知らぬとの言の葉は
     今身の上の限りなりけり
          
後醍醐天皇が隠岐に流される途中の摂津の昆陽野で読まれた

命あれば こやの軒端の月も見つ 
     またいかならむ 行く末の空
            こやの=今夜=昆陽野

後醍醐帝が隠岐にあったことを知ってるので読める教養人の一端を示している。
さすがに従三位の官位をえてた人である。

当時の武士には従三位との最高の栄誉は、言われてる金銭だけで買ったものでゃないことの証左である。

従三位は朝廷と武家の力が逆転した徳川時代には家康の孫クラスには官位が出てるがこの当時の武士では際立ってる高官位。
ぴったりとはいかぬが明治期の子爵でいいかと思える。

それが一人、いわゆるのたれ死に。
このような波乱万丈な人はこの人のみである。

従者の黒木総右衛門について周防を出立するときのことである。
「総右衛門!曽丹の家に忘れ物をした取って参れ」
真に受けて走り去るのを見て義祐は道を変えて姿をくらました。

後で必死に探すもわからず、やむなく摂津にいた祐兵へ報告すると
祐兵は怒って黒木に勘気を申し付けた。

73さいの天正13年ころの天涯孤独の彷徨。
かって三州の太守と豪語して金柏寺に寄進した鐘に刻んだ。

周防の三田尻から息子祐兵に上方を志し、備前牛窓に船が着いた。
大きな光がポッカリと小波に光を落とし・・中秋の名月である。

風もなく散る病葉に秋の楽士は秋の香りである。
秋の陽はうら寂しく真っ赤に落ち一面には虫の音の違いがあり秋も足音を忍ばせている。

草むらのそこそこたまらななくさびしいものがある。
6尺の大男も72歳。気分も滅入ってくる。
名月や・・
廊下を風鈴がリリ〜ンと歩いてくように這って鳴る。

歌詠みには夢のような静寂
名月や・・・

うなるような声が漏れる。
寺はあちこちから旅僧も訪れるのでいまのアンテナショップ

満月夜の感激は名月の空にいろんな形をした雲が過ぎてゆくところにもある。
日向路の秋を思っての万巻の想い

旅は憂いし 窓のつき見る 今宵かな。
 (牛窓風土物語)

境の浦に船中で病気の乞食坊主を捨て去った
噂は「大きな乞食坊主が浜で行き倒れになっている」と風評が立った。

人生とは奇縁とは言ったもの不思議なものである。

朝鮮出兵で息子の祐兵はいないが妻の松寿が境に住んでいた
日向西都・都於郡から大分四国松山との同行者でもある。

天正13年8月15日に没した。
美禄で貧しきゆえ旅の遍僧に頼んでの野辺の送りであった。綺羅の法燈の下の回向でなく
ましてや、従三位の官位を知られずに秀吉に仕官しない魂ゆえ
不本意ながらも満足なるものであったろう。

これほどの波乱万丈の人は日本の歴史に存在しない。

岡山の人はスジを通す。
隠岐に流されていた後醍醐天皇が伯耆国・船上山で旗揚げすると
備前美作から管、和田・・・、備前の武人はいち早く南方朝天皇の下に駆けつけた。

忠臣・児島高徳もここの人
南朝の忠臣として讃えられ、『太平記』にその名を記す。

妻は、伊予国の河野氏一族、河野和道の三女の貞子で、夫婦の間には3男1女が生まれた。

伊東一族が大分大友宗麟の元を去り伊予河野のを頼った。
なんと不思議なことか。
  
1914年には、文部省唱歌『尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された。
児島高徳   岡野貞一作曲

船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄、
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』

御心ならぬいでましの、
御袖露けき朝戸出に、
誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、
桜の幹の十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』


国立銀行紙幣2円券の表面には、右側に稲村ヶ崎で太刀を奉じる新田義貞が
左側に桜の木に詩を墨書する児島高徳が描かれている。
いずれも、第二次世界大戦終結までの学校で使われた
教科書で取り上げられた有名なエピソードである。
裏面は竜宮城。

後醍醐天皇が隠岐に流されるときに救出を何度も試みたが果たせなかった。
傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。
きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)
という漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。

因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい
為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。

この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、
翌年に名和長高名和氏の導きにより天皇が隠岐を脱出した。

有名人を訪ねる。
大森うたえもんは宮崎に先月着て芸能人学校の校長に就任

参議院議長江田五月コウホ 江田三郎
野球界
川相昌弘 星野仙一 平松政次
映画人
水野晴郎
八名信夫 長門勇

有森裕子 木原光知子 水泳

井上聡(次長課長)いしいひさいち 漫画家

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