「新しき村」

2007年8月6日
「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」 
 これは、どこかで誰もが聞いたことがあるかも知れない。
実は武者小路実篤の作詩だ。

中世伊東氏の調査から白樺派の新しき村の土地に導かれている。
日向木城町大字石河内字城のあの理想の土地さえ、伊東48城のひとつであったのだ。
伊東義祐が天正6年1578年6月に築城した。
「石ノ城」跡と「日向古跡誌」にある。

「日向古跡誌」を著したのは平部僑南。
江戸・昌平講の塾頭・日向の人・安井息軒の高弟である。

木城町中心地から山中を3里、峠にでる。突然大パノラマが広がる。
小丸川が90度に蛇行したところに突き出したる半島状の土地。
そこが武者小路実篤の開いた新しき村。
現在も受け継がれている。

「そのところに無数の山が島のように浮いて見えた。その山がみな鋭い輪郭をしていて高さがほとんど同じであった。
この土地を見ればいかにも天孫の降臨しそうなところに見えた。そういう伝説でも生み出したいところに思えた
。これでこそ日向だ。」

「そのところはすり鉢の底のように四方、高い山に囲まれていた。
そして城は石河内の村とは川を隔てていかにも別天地だった。それの三方を囲んで流れる川は昨日見た川の上流でさらに美しかった。
激流のところやがあった。仲間の一人は11月に近かったがその川に飛び込んで泳いだ。」

作品「土地」に詳しい。
その絶景の峠の地に武者小路実篤直筆の石碑がある。

「山と山とが讃嘆しあうように
  星と星とが讃嘆しあうように
  人間と人間とが讃嘆しあいたいものだ 」

いまではバイパスができ木城町中心地より20分とかからない。
社会主義協会の田中勝行先生をご案内したころは悪路を二人訪ねたものである。

まだこのときは房子夫人はご存命で先日ナント田中先生がご逝去されたこと読んだ。
山川均全集を振作・菊栄夫人から何かの経緯で引き継がれた山崎耕一郎の著書で知った。

その運動から離れたせきやんの傷心の大きさが新しき村騒動の初期に似ている
生身の人間、そのことを愛してるがゆえにソッ〜と去らねばならぬことがある。

自分の存在が染み付いてしまい将来的にそこの発展に齟齬を起こすやも知れないからだ。
もう関係者の多く亡くなられ時効ゆえ書こう。

徹夜で議論し全員一致で決定されたことが翌日恣意的にひっくり返っている。
、(党からの介入だろう。)
これでは責任が持てず!辞職届で逃げ出すと次の役員体制にも誰かの手で立候補届けが出されており
、事情を知らぬ人が4000票も入れ当選している。
これは犯罪である。私文書偽造!

筆跡から遣ったものは解かっているが発展してもらわねばならず、
警察沙汰、訴訟沙汰は避け、無言の抵抗でひたすら耐えて人生観の変更を強いられた経験を持つ。
いまだ遣ったやつは侘びにも来ない非法もの。根源たる人間ではないのか。)

新しき村の木村荘太がそうであった。

村長が武者小路だったとするならば、絶対の武者小路信奉者木村荘太は差し詰め助役。
土地選定でも4人の一人に名を成し武者小路も絶対の信頼を寄せていた。

、武者小路実篤、木村荘太、中村良平、加藤勘助と1918年大正7年10月9日夕方
大分佐伯から日向県北土々呂港に降り立った一人である。
シベリア出兵、米騒動で世の中が騒然としていた時期である。

村のゴタゴタで去った。木村、中村(いずれ詳しく触れる。)
郷里長野で代用教員その後、杉並区、鷺宮で美術の高校教諭をしておられる。

これが奇縁だ。この鷺の宮には何度となく行った
面白いことに杉並区の鷺宮下車でなくひとつ手前の下井草で降り
のんびりした武蔵野の風情を楽しみ歩くとついたものだ。

日本の社会主義運動を思想的に高めマルクス・エンゲレスの原著書がほとんど漏れなく収集保管された不燃図書館のトーチカ型図書館があった
ソ連邦時の社会科学研究所も驚嘆した蔵書資料類は法政大学に引き継がれている。

そのお屋敷の主は向坂逸郎先生。
官憲からは九大教授職を追われ牢獄につながれ
共産党系学者は岩波書店刊全集資本主義講座に結集し明治維新をめぐる論争を仕掛けられ雑誌労農を創刊して
先頭になって経済政治論の共産党の誤謬是正に奮闘した。

資本論の完訳は講座学者陣で完成せず岩波書店社主岩波茂雄は向坂逸郎を通じて完成刊行させた。
反対勢力の力のなさに手を貸すほど度量が大きい逸話を物語っている。

学問を象牙の塔に留まらせず三池炭鉱の労働者とともに学びあった。
労組員は社会党に結集し、働くものの政治的地位を高めた。

自民党とその3分1勢力の社会党はことごとく政治的に対立した。
安倍信三の政治モデルとされる叔父岸信介が総理で安保改定・三池炭鉱縮小閉山反対を理論的にも支えた。

訪日に向け米国を離れたのにアイゼンハワー大統領さえ国会デモで途中引き換えした。
岩波・世界に論文を発表するので岩波グループなる知識人の頂点にいた。

1960年エネルギー転換で石炭から石油に切り替わる政策が急激に進められようとしていた。
石炭は列島のあちこちから採掘できるが石油は神が授けてくれなくほとんど取れない。
海底採油技術はまだ進んでなかった。

理論的支柱がなきゆえ混迷の政治となり対極にあった社会党は村山委員長時代に
あろうことか自民党と手を結び村山社会党内閣を作りその政党の存在価値を無くし
現在10議席ないため党首討論にも出れないミニ政党となっている。

今の宮崎の人福島瑞穂委員長の社民党である。宮崎では鳥飼謙二が県委員長を歴任している。
社会・自民なる保革合同など向坂逸郎、大内兵衛、山川均、岩井章等々がいればありえるはずがない。
社会党・総評ブロックが喪失しつつあったからで小沢一郎の政界かく乱術の顛末であった。

武者小路実篤の読み名であるが「ノ」はいる。
三条西家から初代公種が京、武者小路通りに邸を賜ったことから名乗るようになった。
子爵。兄の公共(キントモ)が11代目。御所の上京区に今もある。

武者小路は暗鬱な自然主義文学に挑戦する白樺派人道主義、
理想主義の旗手と閉塞した時代の寵児であった。

芥川竜之介は大正8年1月号中央公論で述べている。
「文壇の天窓を開け放ってさわやかな空気を入れたことを愉快に感じているものだった。
我々の中に燃えていた理想主義の火をふいて一時に光焔を放たしめるだけの大風のような
雄々しい力が潜んでるのも事実だった」。

89年後の今も武者小路の夢ばかりでなく人類の夢である新しき村は日向木城町と
そこが昭和13年のダム建設移転で第二の新しき村埼玉県ユートピアは生きているのである。

「オーエンやサンシモンやフーリエの空想的社会主義が歴史の海で難破してしまったのに
何故村は50年生きているのか?」
共産党との文芸論争も辞さなかった文学者・本田秋五は書いた。

「オーエンの亜流として批評し、空想社会主義と決めかかっていた。」
「一人の男」に武者小路が滑り込ませた文章がある。

18世紀から19世紀アメリカ各地に相次いで建設された共同体で107にものぼる。
新大陸には思想・信教の自由があり広大な土地が広く安く手に行ったからだ。

宗教的共同体・・・・26・・カーペ等独自の共同体。
オーエン主義共同体・14・・協同組合的共同体。
フーリエ主義共同体・27・・その他

話を戻そう。
そういえば住所の字が大字石河内(字城)となっていたがこれまでは別に気にならなかった。
視点が文学的見地や種蒔く人クラルテ、労働者文学運動ユートピア思想、
社会主義としての人道的改革運動の空想的社会主義としてのみで見ていたからであろう。

中山間地帯でえ建国以来支配者はいたわけでこの地は菊地の殿様が治めていた地域で、
明治期になり、無償で領民に分け与えた地域民からあがめられてる殿様ゆえ、
村民は貴族議員を辞め帰村した殿様に立派な住家を提供した。
今も現存してる菊地記念館である。

もちろん中世は伊東の領地であった。
人よしの相良藩の騒動は伊東が出陣して治まった程の力を持って治世していた。

江戸期には殿様の教養であった鷹狩りの優秀なる鷹を献上しつづけた。
駒を選ぶなら日向の駒と名馬の産地の日向はあちこちに有名であるが
こちらのほうは経済性に欠けるからか知る人は少ない。

先月この小丸川下流に日本でも珍しきこの時期揚水ダムが発電し始めたが
ダム建設で日向の新しき村は埼玉「第二の新しき村」に移転した経緯を思い出す。

名馬のことは高鍋・秋月藩のの飛び領地であった日向の最南端の串間で
今も全国ここだけの野生馬が生存して観光客を楽しませてくれる。
飛び魚漁の体験ツアーと自慢の温泉施設組み合わ急がれる。

ただ宮崎の高速道路未整備のご多分に漏れず現代感覚のアクセスが悪い。
高速道路の土地買収の杭が打たれたが小泉安倍の緊縮予算、地方切捨てゆえ事業が進まない地方の怨瑳の声がある。

実は武者小路の新しき村は小林の土地が値上がりして予算が合わず
この串間・市来、大束に作られることが約束されていた経緯があるほど温暖で住みよいところである。

野生サルが幸島に住み海水で洗って食べることでも研究が進められてるところでもある。
ここを守る三戸サツキさん、
ネルギーは太陽光発電で市民発電所としてNPOの中川さんらの手の尽力もあり最初に建設された。

鉄砲伝来初期の信長のころときの硝煙の原料はこの地の福島港から一手に運び出された隆盛を極めた時期もあった。
伊東氏日向支配を完成させる時期隣接する飫肥=日南市を島津と争いこの地も治めていた時期さえある。

第一回芥川賞昭和10年受賞者は石川達三。
「蒼亡」(ボウは変換未熟・亡の右に民がぬけてマ〜〜ス)
ブラジル移民を描いた。
昭和初期は移民でなく棄民といわれたものだ。

その石川達三が新しき村にかかわること書いている。
「米良功さんには兄が会ってブラジルに日本人のための理想の村を建設使用と考えていた。
その調査と現場に足場を作るためとで弟を先行させたのだった。
数年うちにその兄が亡くなり先発隊であった米良さんは島流しの状態になってしまった。
日本人の理想の村は全く、別の村として出来上がったようである。
経済的には成功したが理想は見失ってしまったらしい。
米良 重穂は昭和6年1月結核病棟で36歳でなくなった。

その墓碑
宮崎師範学校卒業後「新しき村」の産婆役をなし「更正のの母」の著あり
雑誌「明日の教育」「殖民」の編集主任となり、同誌の声価をあぐ
後任を辞し自ら「愛の村」を発行し同窓を糾合し南米にある季弟、功と応呼してブラジルに「愛の村」
を創建し人類の真の生活所たらしめんと計画中と今日において病死す。

フーリエの実践はファランクスの土地のボストン付近の一番美しい丘陵や森林のあるところに選ばれた。
英国欧州のオーエンフーリエの空想社会主義はは宗教的純化されての集団的特異性もありアメリカで花開いた。

何故新しき村が日向の偏狭の地に決まったか。
選定経過は触れてきた動機である。

機関紙白樺8月号
土地は今のところ日向を狙っている。
しかし決めたわけではない。
行ってみてよくなかったらやめる。日向のどこにするか検討はまだつけない。
日向という名が気に入り日向という土地を聞いて気に入り冬も働けるのに気に入り
日本の最初に起こった土地であるのに気に入ったのだ。
他愛ない話のようだが、ともかくそのうち行ってみようと思っている。

新しき村の選定は「第三の対話」大正7年5月にある。
・・・東京朝日9月4日
武者小路氏の新しい村愈々日向に建設。
霧島山ろくに10町部を購入し農民生活に入る。
今月末に引き移らん・・・・

マスコミのいい加減さは今に始まったモンじゃぁないようだ。
いいかげんさは習性、宿悪のようである。

「田舎に入るのはきらいじゃあない」
新聞にはにはもう買ってあるように書いてあったが、真っ赤なウソだ」
白樺6月号
「東京から日帰りできるところを選ぼうとした。近くにいい土地がないと決まるとだんだん遠いところでもいいということに
なった。解放誌大正9年4月号

そこに登場してくるのが米良重雄である。
日向・門川小学校の教師。22,3歳の文学青年。

我孫子での武者小路は書いている。
「日向の知らない人から小林方面一番いいだろうと知らせてきた。自分は喜んでみなに聞かせた。」
結局その手紙の主を頼りに佐伯から土々呂についたわけである。

米良の出版書「更正の母」に描かれている。

・・・自分はせきこんで「M先生ですか」と口火を切った。
「お、A君そうですか。白樺を持ってらっしゃるからきっと君だと思っていた
。どうもいろいろありがとう。」
M氏は近づきがたい人のように思っていたがs少し寂しい気のするうち解けた実に感じのいい人だった。

武者小路の推薦もあり自伝小説「更正の母」が出せるようになった米良重雄であったが、
武者小路に原稿を見てもらってない増補された半分の分量にあたるところに問題があった。
新しき村の内紛を如実に描いてる部分である。

それ以前にも紹介してくれた小林の土地は大きな食い違いがあった
ただ、そのことは武者小路は気にしてないことがハガキのやり取りなや作品からも読み取れる。

「原野が一段歩40円。畑が50円以上とのことで、少しあてがちがったような気がしております。それが決まった相場なら
致し方ないと思います。」

或る男
「二倍以上処によっては四倍以上かかった。それは新聞で書き立てられたので彼らを金持ちのようにおもわれたからであろう」

何度同じところをグルグルと回っているのであろう。
日向国内の百姓一揆と廃仏毀釈
白樺派と種蒔く人のクラルテ運動
「高屋」は天孫降臨のウミサチの陵墓跡であり、景行天皇自ら熊襲征伐のときの天皇仮皇居
高屋山稜の地と伊東が何故との自らに宿題を定めたかテーマを抱えこんでいる。

友人諸氏にご心配の掛け同士で申し訳ないどころか、お恥ずかしい次第。
先日は白き金銭入りの包みを両手を合わせて頂くはめで恥じ入っている。
法人化の苦悩で今しばらくお許しを頂きたい。

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