新しく村2

2007年8月7日
日向木城町の理想郷を白樺派・武者小路実篤の実践報告を書いたが書き足りない。
嘘だろ!あんなに長文を書いといて迷惑千万のブログと忌み嫌われよう。

8・6地元紙に偶然にも木城町が紹介されている。
慶事である。

日本医療福祉建築協会主催医療福祉建築賞に
木城クリニックが選ばれたんだそうだ。
おめでとうございます。

永田昌彦医師は地元宮崎出身。延岡の人
写真からはとてもお若い。よく読んでみると50歳とある。
お子さんの関係であろうか宮崎市内江南にお住まい。通勤

小丸川を南に和風で病院らしくない概観がこの田園街にマッチしたのであろう。
専門家に設計を依頼したら引き受けていただき、この火の発表の名誉になったようで先生のお人柄の賜物。

景観を生かしている待合室の外にはデッキが常備
開放的な室内もプライバシー配慮には障子風の衝立で万全。

過疎化が進むこの地域を安心して生活を見守って頂いてることであろう。

この木城は九州における覇権をかけ、天下分け目の関ヶ原を
二度も演じた歴史の舞台でもある。

島津三兄弟で伊東氏を日向から追い出し大分の大友宗麟と対峙したのは
この木城の町より北に200m北の切原川であった。

歴史書は耳川の戦いと50kも離れた美々津に注ぐ川名で戦場地と書くが間違いである。
正確には切原川のたたかいである。

大友軍は全面敗北。息子の代で、ついに鎌倉以来の名家は滅んだ。
川の北台地に宗麟原の名を残し供養塔がある。島津軍が創建したものである。

南九州を制覇し大友軍を破った島津氏はその勢いで肥後、肥前、筑紫と九州全土に近い覇権を持つ。
豊臣秀吉は北条早雲を徳川勢とともに破り、残るは九州島津だけであった
豊臣政権の配下につくよう恭順を求めるが島津は戦いを挑む決定をする。
その決戦場になったのがまたもや全く同じ場所の木城町である。

この地は二度も九州の覇権の
いや二度目は天下国家を賭けての主戦場となった。

ただし、今回は兵力に勝る豊臣軍が島津勢を打ち破る。
ここに豊臣秀吉の天下統一はなったわけである。

大正7年1918年11月14日三位入道伊東義祐の48城のひとつがあった後に地元民津江市作らの尽力もあり土地交渉が成立した。
其の日は奇しくも名声も得ている作品のやり取りのあったロダンの生誕記念日であった。

二つの歴史的古戦場が同じ場所であることも不思議だが、
この山峡の町が日本における二つのことの先駆をなしたこともまた不思議なことである。

文学と其の理想郷としての生活の場の「新しき村」は昨日来ご紹介してきたとうり。

それより前に孤児救済の父石井十次の木城町茶臼原・石井十次友愛社が設立され、
自活に向けた田畑の開墾がなされてお茶園などが整備されつつあった。

武者小路一行もここを尋ね交流しているが尽力をいただけるものではなかったようだ。
岡山倉敷紡績の御曹司・大原孫三郎の学友からの資金援助で設立されたものである。
このことは何回か触れてきているので改めて別にまとめたいので割愛する。

この時代の先駆をなした白樺派文学と福祉の日本最初の出来事が同じ町内でなされたのはこの土地のもつ天の恵みにあるのであろうか。

新しき村の選定経過を触れてきたが日向が偶然であり昨日書いた、
「米良重穂」なる人物の手紙が武者小路を動かし
小林串間西都と変遷する中で木城町石河内字城が選定された。

当時の交通の要所は船便の有利さにあるが小丸川河口、蚊口は支配者秋月氏の港はあったが、
参勤交代や交易の港は日向市の五十鈴川河口を利用した。
秋月藩専用の旅籠も歴史建造物として保存されている。

日向灘の海岸線は単調で北と南以外は良好がないゆえである。
だしが(潮の引き)きつく「蚊」の名前があるぐらいで近隣の小船の接岸ぐらいに限られ、
良港の条件たる深く船の接岸がしやすい状況にはなかったんであろう。

ただ、この当時の河川は「く」の字型に曲がって流れ肥沃な土を運び水質は豊かで海にはシラスをはじめ豊魚が約束されてた様で海産物店がある。

今でも自然「カキ」として名産広島を越える通人の間でひそかに楽しまれている。
秋月城下は5kぐらい西で政商安松、黒木に匹敵するのは蚊口で日田家である。

秋月は「高鍋で学者ぶるな!」と向学の町民意識が多くの要人を生み出した。
ケネディーの訪日の折、尊敬してる人は?で一躍時の人になった上杉鷹山の生誕の地。秋月氏の出である。

明治天皇の使えた秋月種樹は筆をよくして、明治の三筆。
掛け軸どこに行ったかな〜鑑定団に出せばよかった。

最高裁長官を勤めた三好退蔵、
強国ロシアの皇太子訪日の明治初期、あろうことか皇太子襲撃が生じたが普通の傷害事件に照らして裁いた
公正中立権力の要請に応じなかった。

太平洋戦争・最後の海軍提督・小沢治三郎。
DNAは今の小沢町長に引き継がれている

皇太子のとき愛飲酒は?「百年の孤独」で人気の黒木酒店。
社長の兄が厚生次官のときのお土産でもあったんであろうか。

お話にお酒が出たので元に戻そう。
小丸川は木城町と高鍋町を経て日向灘にあることを紹介したが、おそらく一番短い一級河川であろう。
宮崎にはこれより長く川幅も広いのに二級河川・一ッ瀬川さえあり、小丸川への国の力の入れようがわかるものだ。

新しき村は「く」の字でなく「ひ」の字であり、連絡誌「ひ」を発行してるぐらいである。

文庫本は昭和二年に岩波文庫が発刊してるが、新しき村には印刷所が作られそれより早く文庫本が発刊された。

新しき村東京支部池袋長崎村印刷所コウ野社印刷所以前のことだ。
そのときの人・倉田百三、NO1詩人千家元麿、作家長与善郎の作品を出版し機関紙新しき村を出している。

白樺派は学習院のお坊ちゃま集団と揶揄され、後の業績をあげる評価は発足時には受けていない。

明治期の堺利彦の売文社の発行する平民新聞を武者小路は学生自分から購読していた。

大正時代は浅草六区街に大衆演劇の花が開き文芸運動も労働者文学が起こった
雑誌「種蒔く人」はアンリーバルビュスのクラルテ(光)運動非戦論を参加。小牧近江が持ち帰り金子洋文、青野李吉らと共に秋田県土崎を含め出版した。

1921年この雑誌が関東大震災の亀戸事件の朝鮮人大虐殺を種まき雑記で描いた。

大杉栄伊藤野江年端の行かない二人の子を含め社会主義者のカドで虐殺されたことも取り上げた
。。
堺利彦の売文社の発行する新聞を武者小路は学生自分から購読していた。
なお金子洋文は我孫子時代の武者小路の書生であり、日向の新しき村にを訪れている。

大正4年に志賀直哉が我孫子に移り住んだ時、「白樺派」の知己は柳宗悦くらいだったので、もう一人二人この地に誘い込もうと考えていた折も折、学習院の同級生であり武者小路が胸を病んだというので移り住んできた。

大正5年、武者小路は我孫子のやや柏寄りの地(現在の船戸2丁目)に住むようになった。

医者の誤診がわかっても我孫子の地が気にいったものとみえ、「新しき村」運動の発会式もこの地で行っている。

作品の中でも我孫子の風景の美しさに触れており、「或る男」では、新しき村の建設地を求めて、日向に出向く「彼」の家でのお別れ会の折り、集まった人々が手賀沼に映える夕日に感嘆する様が描かれている。

病院の紹介ではじめたが話を戻したい。
小学校まではよいがその後の教育環境に困った。さらに病院である。

「教育と医療」過疎地域の悩みは普遍であったのに全く進展していない社会構造に気づかされる。

新しき村には無料診療所があった。・・・ホント?
ただし東京支部。日向木城からは遠いゆえ恩恵を受けたのはそこに住む人のみ。なぁ〜んだ

新潟支部の新しき村村外会員の垣沼隆三郎(改姓して式場)は23歳のインターン生。
兄弟の教育、妻の病弱と経済環境が悪く改善したら現地に赴く意思であったが実らなかった。

太井町の診療所開設後は新潟に病院を作り、後に千葉県市川国分台精神科病院を開設
日本のゴッホ・山下清の画才を見抜き世間に紹介した式場隆三郎其の人である。

中国大陸にも影響を与えた。
「一人の支那人が新しき村を注文してきた。このことはわれらをよろこばす」周作人のことである。北京大学の教授

明治39年から日本に留学し44年秋に帰国
さらに紹介すると魯迅の弟。

日向新しき村を訪れ、気に入ったのか4泊もしている。
大正8年7月8日からのことである。

北京支部周作人は時代に翻弄されたのか発展はしなかった。
魯迅の手で訳され「或る青年の夢」は大陸の多くの人に読まれた。

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