縁はいなもの

2007年4月27日
相撲の番付が出た。今場所の焦点は・・・
新立行司34代木村庄之助は父を戦争で母は病気と幼さなくして両親をなくし、育ての親の叔父の母校江戸川区下小岩小学校の栃錦先輩の偉大さを教えらる。
叔父自身も幕内力士有明を務めた。

14歳で相撲の世界に飛び込む。178センチのいなせな井手達。
うらやましきと思いきや、これが変だ。ギャップ、ハンディ−という。
行司は所詮力士の引き立て役。
長身を隠そうと屈むがかえって見栄が悪い。

能や歌舞伎で所作を研究
結びの触れはとりわけ絶えず土俵際。
日ごろの鍛錬である。

入れ歯では声が悪いので歯を大事にする。
差し違えはご法度。進退伺いは常に軍ぱいケ−スの中にある。
1年間勤めた式守伊之助と違い最高位の厳しさ。」
熊本の木村司家から名を借りる。
「こなた〜・・」
澄み切った声で始まる結びの一番。

熊本肥後の国は常に物事の中心であった。
天正15(1587)年、九州を平定した秀吉は、佐々成政を肥後の国主に任ず。国衆一揆により佐々は失脚。
今でも佐々は熊本では殿様である。
学生運動の左翼最後の組織状況の浅間山山荘事件の総指揮を採ったのはこの佐々の直系・初代危機管理室長佐々淳行。
総評議長岩井章の国際労働問題研究所のコラムには触発されたもんだが著者佐々弘行は九大教授(だったか)兄。

加藤清正が県北を、小西行長が県南を、相良氏が球磨を支配
熊本城を築造した加藤清正は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで滅んだ小西氏のあとを受けて肥後を統一。
寛永9(1632)年、肥後に入国した細川は明治維新まで肥後54万石を治め、茶道の肥後古流、能の喜多流と金春流、門外不出の肥後六花、相撲の吉田司家、肥後象嵌などの文化育成に力を注いだ。
3代細川忠利の招きで剣豪宮本武蔵は、晩年を熊本で過ごし、
「五輪書」を著す。
天草は長崎に近く、小西がキリシタン大名であったことから、キリスト教が広く浸透、コレジオ(天草学林)が建てられたり、ラテン語や天文学などキリシタン文化が栄えた。
慶長18(1613)年に禁教令
次第にキリシタン弾圧が厳しくなる中、重税に苦しめられた農民3万7000人が寛永14(1637) 年、一揆を起こす。天草島原の乱。

あの人は今・・とやったほうがブログカウントはあがるのであろうや。
それは知事から総理の座までいとも簡単に上り詰めた殿様・細川護煕。

「細川護煕 数奇の世界展」
日本橋・高島屋

陶芸を中心に書、漆絵130点を展示。

作陶の先生は室町や桃山そのものと言うほどの自作の力。
ゆえに作品の範囲が楽,高麗、唐津、志野、信楽と多岐にわたっている。

黒茶碗は千利休に仕えた楽家初代長次郎の質黒の味に挑戦している。
細川家に伝わってた永青文庫の所蔵する名品を同時に展示
瀬戸茶壷、禾目天目茶碗、中国南宋

湯河原に不東庵を建て閉居
晴耕雨読の生活から読み解いていただければ

明治4(1871)年、熊本医学校、熊本洋学校が設立さる
一方、士族たちの新政府に対する不満が増大。同9(1876)年に神風連の乱、同10(1877)年には西南戦争で、熊本がその主戦場
水前寺公園の近くに移築されている熊本洋学校教師館は、西南戦争時に佐野常民が博愛社創立の許可を受けたところで、日本赤十字発祥の地とされている。
明治20(1887)年には第五高等中学校が設けられ、夏目漱石、小泉八雲らが教鞭を取り、多くの人材が巣立った。

門外不出の肥後六花の菊の花の切手でまたもや熊本郵政局が
「ヤッテモウタ」
ほんの何日か前にボタンとシャクヤクをヤッタばかりなのに。

九電社長の飛び越し人事は熊本支社で実績を上げたためなに熊本は上がったり下がったり。
東風の宮崎とは大違い。

真打興行の案内状は親友代表と師匠がお祝い書きを寄せる
そこに縁ある師匠連の寄せ書き。
寄せ書きが今に伝わってるのはこれが始まり。?
47年8月に真打になった三遊亭円弥のしょっぱなに江国滋が毛筆でしたためる。
もともと上手くない字が貧弱なのは、その後に書いてある円生の達筆があり、より引き立て役の江国。

58年、八代目春風亭柳枝に入門。
師匠死後、六代目三遊亭円生門下になった。
ゆえに円生門人で真打ち昇進。

女性が登場する話や「七段目」など芝居を題材にした話が得意だった。似た境遇の円窓とは芸風や趣が違う。

日舞、清元を得意とし、毎年8月に浅草演芸ホールで落語家らが行う「風流住吉踊り」には欠かせない人物だった。
雷門助六の力をかり古今亭志ん朝がはじめたもの。
男の粋ここにあり!
最後の高座は2006年3月20日で、末広亭昼席トリの「子別れ」
息子や娘、一族に聞かせたい

よろこびひとしお
いい真打が生まれた
おっとりとした味わいがある
出てきただけで明るくなるタイプ
パット明るくなるタイプキ
tラキラと光るタイプ
ふあっと明るくなる
そういう芸はざらにはない。
円生の達筆に比べ下手な字の江国滋

を寄せており、引き続いて師匠6代目三遊亭圓生の挨拶。

江国滋に限らず落語評論家の著書は集めに集めた。
矢野誠一、大西信行 色川武大 山本夏彦 ・暉峻康隆、小島貞二
大御所安藤鶴夫、正岡容何故か徳川夢声 小泉信三
落語の素養がないとゲンダイの絵草子山藤章二 の存在さえない。
和田誠の名作映画「麻雀放浪記」の映画は生まれなかった。
それを下敷きにした「三丁目の夕日」もしかり。
落語は日本人の基本的素養常識である。
この良さがわからずして毎日を過ごしてる人は
人生の5/4を楽しんでいない。

県立美術館で郷土出身の展示会が催されてる。
村山俊夫画伯(83)=東京都東大和市在住
と25日厚生年金会館ロビ−で素敵な2時間が過ごせた。
高崎町生まれで福岡で育つ。
熊本工専のお仲間4人がそろわれる。
市内、荒尾、
九重でホテル経営の女性の方もお一人。
フランスの方が長くなっているが九州弁がいい。

藤田嗣治の知識にはただただ敬服していられた。
「ありゃあ大したやっじゃった。ようなんでもしっちょル。
人のもてなし方のうまいこと。
刀を鞘より脱いで剣舞をする。
焼き物、絵画論・・うゥん話がうまかった。」

「荒尾議会議場の建物から村山俊夫画伯の絵が出てきたと言う話は・・・:」
即興で調べた事を問うてみる。
なぜ議場にあるのか不思議であるとの新聞の文脈のくだりの真実を本人からの独白が聞けるからだ。
「荒尾の議員に友達で絵を贔屓にしてくれてたその人が議長室に持ち込んでた。」
本人でなく緒方さんの説明
「阿蘇外輪の雪景・・・」
「30代の頃そういうこつが・・おりゃぁたしかあげたつよ」
こりゃぁ聞かにゃあ〜ソンそん。
「モンマルトルのブドウ畑は昔からなかったんですか」
「あるもんか、集中した建てモンで空きなんぞなかった」


末原晴人生誕百年記念作品展が山形屋で7日まで
渡欧の夢は65年と72年に果たす。
詩絵画文芸全般に秀でていた自治労全国評議をなさってた黒岩重郎さんとモンマルトのわずかに残るブドウ畑を見たかったものだ。

160年の歴史を持つデイロ−芸術協会グランプリ
佐々木敦子(42)本県初の個展
宮日パピルスホ−ルギャラリ−
13日まで

「ホテルカクタス」は江国香織の作品だが佐々木敦子の絵に触発され描いたと述べている。
カバ−絵を佐々木が書いている。

「絵に出てくるひんやりとした壁や階段静粛のおとがしそうに静かな空間怖いほどの植物の生気の立ち込めた温室を書いてみたいと思ってました。怪しく落ち着くあの物語の場所で・・」

江国滋は(1934〜1997 )東京生まれ。
慶応を卒て、随筆家。「週刊新潮」編集部を経て著述業となる。随筆、紀行、評論の分野にて活躍。
また、俳句にも親しみ、俳号は「滋酔郎」。
江國 香織は娘。
妹・晴子"夢日記"

高鍋クロギ清三朗家は旧家。
中は広い土間になっていて、傍らに大きな臼と杵があり、
水琴窟が設えてある。
高い澄み切った高い音質。
「ポチョン〜の(ポ)がキ〜ン」となって小気味いィ。
まるで天上天下の対たる地底からの土地主の霊の声ではないか。この世のものと思えない音。

「ごめんください!」
恐る恐る声を出すと、
「はい」の返事とともにお上さんが出てきて、
「ご機嫌よろしゅうございます」
と三つ指を揃えての挨拶。
この挨拶にどう返事したものか参ってしまった。
三遊亭円生演ずる「八五郎出世」(「妾馬」ともいう)の八五郎の心境である。

冷や汗三斗の状態と表現されている。
兎に角しどろもどろの言葉遣いで
井上スポ−ツの社長さんの紹介の手紙を渡すと
、立派な部屋に案内さるる。
御前会議でもやるようなテーブルと椅子が並び、一番端に座り緊張してきれいな器でお茶を頂いていると、間もなく
「お確かめねがいます。」
と言って渡されたのがこの家の権利書。
最初だったと思う。

いま思うとう思いがけない言葉を使われた事に
井上社長の大きなお人柄をかんじる。
二階を拝見。古書類が見たかったから・・・

会田プロ1勝 史上初!父子勝利
野球はドラマだ!
巨人がトップに立った三日目の天下である。
昨夜絵に描いたような8回の逆転4連打。
このうらに浪花節があった。
巨人5−3横浜(26日・東京ドーム)

8回2死満塁。尾花投手総合コーチがマウンドにやってきた。「いつも通りやれ」それだけ言って、きびすを返した。
続投―意気に感じたが、それを抑えて無心で投げた。代打・藤田をシンカーで三ゴロに仕留め、絶体絶命の危機を断った。

8回の1イニングを1安打2四死球ながら、無失点で終えたサブマリンにプロ初勝利が舞い込んだ。
父・照夫さん(59)は通算29勝を挙げた元ヤクルト投手。
親子勝利は、プロ野球史上初の快挙。

小学校3年生の時、埼玉・春日部市内の自宅に、日テレ系で放映されていたワイドショーの自宅発信
落語家の野球通ヨネスケやカメラに向かって「プロ野球選手になって、勝ちたい」と宣言。15年の時を経て、有言実行。

 最終回を締めた豊田から記念のウイニングボールを渡された。「父親に贈ります」

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