詩と挿絵・・
2007年4月6日イラン核関連高官・アリ・レザ・アスカリ(63)が
CIAイスラエル対外情報機関モサトが「拉致された」と伝えて2ヶ月もなろうか。
ロンドン紙アッシャルクアルアウサトはトルコ入国後にまもなく米国に向かった。
トルコ、イランの核開発にかかわっていた・・
その後にイランによる領土侵犯英国軍人15人だ捕の経過があった。
強硬派でならすアフマディネジャド・イラン大統領が粋なことをやった。
「大統領恩赦!」
緊張緩和になったやならずやらはブッシュ次第。
さぁどうするブッシュ!
星の王子様は現れるか。
松坂は期待道理に一勝を上げ皇子様振りをアピ−ル。
39歳桑田はナント!両足を使ってのピッチング
いたいけなる皇子様だ。
山梨北杜市「交流ミュ−ジアム清里」は渋谷稔(60)が経営している。
1994年に骨董展で120万円で便箋に描かれている絵を買った。
この25日から銀座での展示会で見れる。
「サンテクジュペリ・星の王子様展」
原画展を開くTBS。
TBSの調べで本物であることがわかったからだ。
1943年初版本のペ−ジがあっている。
シミをはじめ原画とされている他のものと一致
地球に来る前に立ちようった実業家の住む星の様子。
「星の王子様」の47点の挿絵の原画のうちの一枚。
宮沢 賢治81896年8月27日- 1933年9月21日)は、
多用なる能力を多方面に発揮した。
日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者・作詞家。
私にとっては記念館の黒板。
「下ノ、ハタケニ オリマス」
ただ名声と収入は生前にはそれほどもなかった。
没後世評も急速に高まり国民的作家になった
賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話「雪わたり」で得た5円だけとも言う。
大正8年(1919年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。
この滞京中に友人宅で
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。
本とは何か
栃折久美子装丁の本で感じる感触。
乱暴に大雑把に定義付けで言うと詩、挿絵、装丁三種の職人技といいたい。
「宮沢賢治」を生み出すほどの感動を与えた
萩原朔太郎「月に吠える」
挿絵;田中恭吉
装丁:恩地幸四郎
田中恭吉は(1892年明治25年〜1915年大正11年)22歳で夭逝
わすれらられた原画が地元和歌山美術館で田中恭吉展とよみがえっている。
友人・版画家恩地幸四郎の収集があればできたこと。
なみだたれ
なみだをたれ
いまはや懺悔をはれる肩の上より
けぶれる竹の根はひろごり
するどき青きものぢ面に生え
この詩の挿絵。
絵は竹ではないが詩全体の雰囲気に鮮やかに一致している。
葉のギザギザからアロエの根っこ?だろうか。
詩人と後に残れるもの。作品と挿絵のハ−モニ−。
憂鬱、生への不安、腐乱の臭い、性への哀傷、
詩人の固有の世界の気配が立ち上がっている。
ところがこれは詩のために描かれたものではない。
二人は一度も会うこともなく面識さえなかった
詩人と画家の心が通じた無関係に製作されたはずの
詩と絵が出会い共鳴している
文庫本でも手に取るがいい。
数奇な運命の意図を感じ取れよう。
田中恭吉と恩地幸四郎(1891〜1955)は美術大学生同士今の芸大生。
「月映」の版画雑誌を発行して当時の流行画家・竹下夢二に認められようとする。
その「月映」は北原白秋が雑誌でとりあげ、それを見た朔太郎が恭吉の絵にとりつかれる
結核をわずらい和歌山で療養中の恭吉。
挿絵の依頼をする朔太郎
力の要る版画はできぬがペン画ならと100枚を書きはじめる。
依頼から1ヶ月、断ろうとしてその2ヶ月後に約束を果たせないまま亡くなる。
詩集を飾ることを捨てていない。朔太郎
恩地は遺作から11点を選び、挿絵とカバ−に使い自作を表紙と三点の挿絵にした。
その三点は日本でもっとも早い抽象絵画を描いたとされる
ただ遠慮して巻末に収められている。
詩集の中の愛憐、恋を恋する人の詩が発禁。
官能的な絵がよりそうさせたのだろうか。
絵と文には共同制作的部分もあるはずだ。
夏目漱石には浅井忠、樋口五葉、津田清楓、
泉鏡花には 鏑木(カブラギ)清方、小村雪岱
深い人間関係があってのことである。
田中恭吉と恩地幸四郎は文もよくした。
えと詩に差異はない。
田中恭吉のペン画
一冊の名詞集に名を刻んで
鮮烈な挿絵、若き画家のきらめく才能を伝える。
高村光太郎はこの詩集を「全体の飽和した芸術」と呼び
北原白秋は
「まったく田中は偉い」
「君の詩にもっともふさわしき絵を描く人」と賞賛
優れた眼力の詩人の目が詩画一体まれな詩集に結晶した。
萩原朔太郎「月に吠える」
花は満開だが何故に寒いのかよくわからぬ天候が続く。
読み手も書き手もいない絶対孤独
いつまで耐えられうるか。
花はまもなく終わらん。
。
CIAイスラエル対外情報機関モサトが「拉致された」と伝えて2ヶ月もなろうか。
ロンドン紙アッシャルクアルアウサトはトルコ入国後にまもなく米国に向かった。
トルコ、イランの核開発にかかわっていた・・
その後にイランによる領土侵犯英国軍人15人だ捕の経過があった。
強硬派でならすアフマディネジャド・イラン大統領が粋なことをやった。
「大統領恩赦!」
緊張緩和になったやならずやらはブッシュ次第。
さぁどうするブッシュ!
星の王子様は現れるか。
松坂は期待道理に一勝を上げ皇子様振りをアピ−ル。
39歳桑田はナント!両足を使ってのピッチング
いたいけなる皇子様だ。
山梨北杜市「交流ミュ−ジアム清里」は渋谷稔(60)が経営している。
1994年に骨董展で120万円で便箋に描かれている絵を買った。
この25日から銀座での展示会で見れる。
「サンテクジュペリ・星の王子様展」
原画展を開くTBS。
TBSの調べで本物であることがわかったからだ。
1943年初版本のペ−ジがあっている。
シミをはじめ原画とされている他のものと一致
地球に来る前に立ちようった実業家の住む星の様子。
「星の王子様」の47点の挿絵の原画のうちの一枚。
宮沢 賢治81896年8月27日- 1933年9月21日)は、
多用なる能力を多方面に発揮した。
日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者・作詞家。
私にとっては記念館の黒板。
「下ノ、ハタケニ オリマス」
ただ名声と収入は生前にはそれほどもなかった。
没後世評も急速に高まり国民的作家になった
賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話「雪わたり」で得た5円だけとも言う。
大正8年(1919年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。
この滞京中に友人宅で
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。
本とは何か
栃折久美子装丁の本で感じる感触。
乱暴に大雑把に定義付けで言うと詩、挿絵、装丁三種の職人技といいたい。
「宮沢賢治」を生み出すほどの感動を与えた
萩原朔太郎「月に吠える」
挿絵;田中恭吉
装丁:恩地幸四郎
田中恭吉は(1892年明治25年〜1915年大正11年)22歳で夭逝
わすれらられた原画が地元和歌山美術館で田中恭吉展とよみがえっている。
友人・版画家恩地幸四郎の収集があればできたこと。
なみだたれ
なみだをたれ
いまはや懺悔をはれる肩の上より
けぶれる竹の根はひろごり
するどき青きものぢ面に生え
この詩の挿絵。
絵は竹ではないが詩全体の雰囲気に鮮やかに一致している。
葉のギザギザからアロエの根っこ?だろうか。
詩人と後に残れるもの。作品と挿絵のハ−モニ−。
憂鬱、生への不安、腐乱の臭い、性への哀傷、
詩人の固有の世界の気配が立ち上がっている。
ところがこれは詩のために描かれたものではない。
二人は一度も会うこともなく面識さえなかった
詩人と画家の心が通じた無関係に製作されたはずの
詩と絵が出会い共鳴している
文庫本でも手に取るがいい。
数奇な運命の意図を感じ取れよう。
田中恭吉と恩地幸四郎(1891〜1955)は美術大学生同士今の芸大生。
「月映」の版画雑誌を発行して当時の流行画家・竹下夢二に認められようとする。
その「月映」は北原白秋が雑誌でとりあげ、それを見た朔太郎が恭吉の絵にとりつかれる
結核をわずらい和歌山で療養中の恭吉。
挿絵の依頼をする朔太郎
力の要る版画はできぬがペン画ならと100枚を書きはじめる。
依頼から1ヶ月、断ろうとしてその2ヶ月後に約束を果たせないまま亡くなる。
詩集を飾ることを捨てていない。朔太郎
恩地は遺作から11点を選び、挿絵とカバ−に使い自作を表紙と三点の挿絵にした。
その三点は日本でもっとも早い抽象絵画を描いたとされる
ただ遠慮して巻末に収められている。
詩集の中の愛憐、恋を恋する人の詩が発禁。
官能的な絵がよりそうさせたのだろうか。
絵と文には共同制作的部分もあるはずだ。
夏目漱石には浅井忠、樋口五葉、津田清楓、
泉鏡花には 鏑木(カブラギ)清方、小村雪岱
深い人間関係があってのことである。
田中恭吉と恩地幸四郎は文もよくした。
えと詩に差異はない。
田中恭吉のペン画
一冊の名詞集に名を刻んで
鮮烈な挿絵、若き画家のきらめく才能を伝える。
高村光太郎はこの詩集を「全体の飽和した芸術」と呼び
北原白秋は
「まったく田中は偉い」
「君の詩にもっともふさわしき絵を描く人」と賞賛
優れた眼力の詩人の目が詩画一体まれな詩集に結晶した。
萩原朔太郎「月に吠える」
花は満開だが何故に寒いのかよくわからぬ天候が続く。
読み手も書き手もいない絶対孤独
いつまで耐えられうるか。
花はまもなく終わらん。
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