四角いギザギザ

2007年4月24日
40年ぶりの学力テストに33000学校が参加したそうだ。
1964年以来のことだ。
総評闘争史の日教組の項にある。
、学力テスト反対、勤務評定反対=学テ、勤評反対闘争のことだ。

せきやん世代が受けた受難を記憶している。
学力テストが始まると校庭の隅に集合されてる先生たちに
「なにしてんの!」
何もわからず、怒り侮蔑を向けたものであった。

社会人となり九州狭しと全国の平和、労働運動に邁進したのはそのときのせめてもの罪滅ぼし。

改憲に伴う「国民投票法案」18歳選挙権は今の社会世情からは早すぎよう。
もっと社会を教える時間がないといけない。
このときの「しまった!」若気の至りの反省があるからだ。

一斉試験は知らず知らずのうちに、
教育を
試験対策の範囲内に押しこめその改良進歩の途を塞ぐ。

文部官僚の結果論である。

明治初期は4日がかりで学校から推薦されたもののみを学校対抗で試験した。
最終は知事招待の洋食フルコ−ス立食の饗宴にあやかれた。

安倍政権になって混乱は深まるばかりだ。
 
「戦後レジ−ムからの脱却」で訪米する。
1泊2日で出かけるが
プレスクラブでの会見なし議会での演説なし

全面講和&片面講和(アメリカとの講和)で
勝利国の連合国の全面講和の途をとらなかった。

いわゆる戦後の出発はサンフランシスコ体制である。
「戦後レジ−ムからの脱却」はアメリカとの喧嘩になりはしないのか。
論理の矛盾に陥らないのか。

サミットが安倍主導で無理に北海道になった嫌いがする。
倒産した拓殖銀行がセコムに売却してる。
ハウステンボスの窪山哲雄が経営している。
またもや黒い影?

佐賀県唐津郵便局販売の記念切手が、使われてる花の図柄が違った。
差し替えるというがとんでもないプレミアモン。
切手についてはチョット五月蝿い。
「月に雁」「見返り美人」・・・何が値打ちもんかよく分かる。

田舎の山間の偏狭の地に育ったものは都会的憧れが付きまとった。
郵便局が売り出す記念切手はシ−トで保存が好事家の慣わしだが資金難のため一枚ずつ買うほかなかった。
シ-トの下の大蔵省造幣局印刷の文字があるところが価値が出るとされそこを局長さんにおねだりした。
ところがお役所仕事で販売時間が朝の八時で学校が遅刻かギリギリ。
時間がない中の無理な交渉ゆえ月に1〜2度の売り出し日は資金難もあり苦労したものだ。

その記憶にある記念切手が忘れもしない笠戸丸。
58年発行の緑と黄色が鮮やかなブラジル移住50周年記念切手

それが、あのころは値上がり益と収集を始める!
との心ひそかな兄・隆士へのライバル剥き出しの
餓鬼そのもの意欲のみ。
今の追求心向学心好奇心にかけていた。

笠戸丸の歴史ほど数奇に満ちたものはない。
もともと日本のドッグでできたものではない!。略奪船!である。

イギリスのドッグで完成し、ロシアに買われ貨客船。
日露戦争で病院船として従事、敗戦で日本に接収。
接収時「カサン」から笠戸丸に船名変更。

移民船として南米に移民を運ぶ。
台湾航路の客船
北の海でイワシやサケの漁船
外国航路船として活躍
太平洋戦争末期カムチャッカ沖でソ連に撃沈された。

宇佐美昇三著、「笠戸丸から見た日本」
運命を通して波乱の日本近代史が見えてくる。

昭和48年ごろであったか歌手北原ミレイが
石狩挽歌をヒットさせた。
その歌詞に登場した同じ船?である。

海猫(ごめ)が鳴くから、ニシンが来ると  赤い筒袖(つっぽ)の、やん衆がさわぐ
雪に埋もれた、番屋の隅で  わたしゃ夜通し、飯を炊く
あれからニシンは、どこへ行ったやら  破れた網は、問い刺し網か
今じゃ浜辺で、オンボロロ  オンボロボロロー
沖を通るは、笠戸丸  わたしゃ涙で、ニシン曇りの、空を見る

燃えろ篝火(かがりび)、朝里(あさり)の浜に  海は銀色、ニシンの空よ
ソーラン節に、頬そめながら  わたしゃ大漁の、網を曳(ひ)く
あれからニシンは、どこへ行ったやら  オタモイ岬の、ニシン御殿も
今じゃさびれて、オンボロロ  オンボロボロロー
かわらぬものは、古代文字  わたしゃ涙で、娘ざかりの、夢を見る

作詞なかにし礼は小樽出身、作曲浜圭介も札幌出身。  
浜圭介は奥村チヨと結婚し式は札幌で挙げている。

ブログ検索で見えてくるものがある。
石狩挽歌(1975)作詞/なかにし礼 作曲/浜圭介  歌/北原ミレイ
この歌は作詞なかにし礼の実体験を元に作られた歌とある。
兄は終戦後、小樽に引き揚げ、母の実家を担保にした借金で増毛(留萌のそば)のニシン網を1ヵ所手に入れ、
群来に当たり大金を手にした。

ここで止めておけば良かったのでしょうが、山師の兄はさらに大儲けをしようと船5隻をチャーターして内地
にニシンを運ぼうとしますが、時化に遭ってすべてを失い、
借金だけが残り一家は離散し、各地を転々とする事態となった。

ニシン=春告魚は明治中頃水揚げが70万トン 我が国水産高の70% (総水揚げトン数が100万トン)     
 銀鱗荘、祝津にある旧青山別邸とニシンの網もとの豪邸が栄華をしのばせ記念館として残っている。。
  その鰊、実は石狩浜では全く捕れない
、産卵の為に大挙して押し寄せるのは江差、積丹、余市や 増毛(留萌のそば)の浜である。
 
 雌は浜辺の海草にひたすら産み付けるだけで、後は雄が殺到して精子をかける。  
 浜辺は白く変わり、ヤン衆と呼ばれる秋田からの出稼ぎ衆が寝る間もなく ただただ拾い捲る。  
 落ちている?のを無くなる迄拾うだけだから、夜も昼もない。  
 腹が減れば握り飯を喰らいながらの大漁節。  
 ♪わたしゃ、夜通し飯を炊く〜。♪     

  鰹や鯨と違い何の努力も要らぬ、今時珍しい略奪産業。  
 マッコト不条理な利得であったが、不条理な幸運は不条理に消え去る。  
 ある日パッタリと捕れなくなり、栄華の記憶だけが文学と化していく。  
 今日、出回っているのは殆どはカナダ、アラスカからの輸入品。  
 
  現代鰊産業の本質はその卵で、黄色いダイヤと呼ばれる数の子。  
 黒いダイヤが石炭、赤いダイヤは小豆  
 鰊御殿とは当時漁業権を持っていた漁師の豪邸で、観光用で有名な小樽のオタモイ岬に
 ある御殿は積丹から移したもの。     

  その本当は鰊が捕れない石狩湾。  
 捕れるのは鮭と後一つが八目鰻。
 ♪変わらぬ文字は古代文字〜とも歌うが、此も小樽方面の事で、
 ♪燃えて篝火、朝里の浜に〜と此も小樽方面。  
 と、この歌はただ題名だけが違う。  
 強いて付け直せば鰊挽歌か?  
 しかし石狩は落陽の美しい浜、真のテーマは此処に有る。

サントス日本人会(上新会長)が毎年欠かさず、その命日に足を運ぶ墓地がある。
第一回笠戸丸移民をサントスで出迎えた五人の日本人通訳(通訳五人男)の一人、
峯昌(みね・さかえ/一八八八〜一九二七/群馬県出身)の墓がそれだ。

 峯は弱冠十九歳で二等通訳官として着任。
笠戸丸到着より一カ月程早く、一九〇八年五月三日にサントスに降り立った。
 サンパウロ、リオデジャネイロと駆け巡り、海外興業支店員、カタンヅーバのコメルシオ銀行員を経て一九二三年、サンパウロ

総領事館のサントス出張所の開館とともにその副領事に着任している。移住者とともに苦労した経験が役立ってか、在留日本人か

ら人気が高く、特に沖縄県人から慕われたという。
 その後、病に伏し一九二七年六月二十三日、三十九歳の若さでこの世を去っている。
最後にはサントス領事館の領事に昇格している。(『埋もれ行く拓人の足跡』から)

 その峯の眠る墓がサントス市営市場からほど近いパケタ墓地にある。
二百十九番にある墓石には、一九二八年八月サントス日本人会によって建立とある。

この峯の墓は数十年もの間、その存在を忘れられていた。
それは戦中、日本人移住者に対する二十四時間以内の強制立ち退きがあったためだ。
サントスの何もかも、日本人の記憶すべてが消失された。
 戦後に日系人が戻ってきてからも、峯の墓もまた分からずじまいだった。

 そんな墓を偶然見つけたのが、現在のサントス日本人会の上会長だ。
親戚の墓参りにパケタ墓地を訪れた時、ふっと変わった墓石があるのに気が付いたという。

 「話には聞いていましたが、まさか峯昌の墓だとは思いませんでした。発見したときは手入れも何もしていないから
荒れてましてね。墓標の銅版も盗まれていました」と当時を振り返る。
 その後、サントス日本人会で墓の管理するようになった。
墓石の清掃はもちろん毎年、命日の墓参も欠かさない。
月々、日本人会で墓地の方に管理費を払い、荒らされぬように見てもらってもいる。

 「管理費もばかになりませんが、日本移民の歴史で欠かすことのできない重要な人物であり、またこのサントスと
ゆかりの深い人だけに、お世話を続けたい」

 そしてもう一人、このパケタ墓地には、歴史的な日本人が眠っているとみられている。
その墓は墓地の北側の五十番にあり、墓標も何もなく、ただ一風変わった墓石のみがポツンと、
黒ずんだ姿をさらしていた。

 「笠戸丸に乗っていた水野龍の刃傷未遂事件で身代わりに刺され死亡した、横山清蔵火夫長の墓ではないか」
 「笠戸丸刃傷事件」とは、笠戸丸がサントス港に到着する三日前、一九〇八年六月十五日の夜のできごとだ。
ブラジル移民を企画した水野龍は道中、懐寂しく十分なチップが払えず、船員間に不満が高まっていた。
また長旅で船員のモラルが低下していたのも重なったのか。
ある火夫が夕食時、酒に酔い「水野を殺す」と刃物を持って襲った。
これに止めに入った横山火夫長が腹部を刺されたという事件だ。
火夫長はサントスのサンタ・カーザ病院でなくなったと
日本移民五十周年記念誌『かさと丸』にある。

「一九三〇年代に、大雨でサンタ・カーザのあった崖が崩れ、墓も落ちたようです。その後、サントス市内にその
当時、一カ所しかなかったこのパケタ墓地に移されたらしい」と上会長。

日本的な雰囲気を持った形。石材は他の墓にある御影石や大理石ではなく、日本の大谷石のようなもろく、ごつごつした石を使用

している。
 墓標も墓石への刻名も何もなく、だれの墓なのかいつ頃の墓なのか、その詳細は全くわからない。

4/20読売にブラジル日本人学校閉鎖あいつく記事がある。
ブラジル大使館は56学校のカリキュラムを母国と一緒にして認可。
ところが、経営不振長野、愛知静岡など8学校が閉鎖
親の失業や転職、無認可学校との競争も原因。
外交人登録者数のブラジル人5〜14歳は2万8800人
学校に在籍してる数は7600人
ギャップの数を考えなければ反日の感情が芽生えよう。
授業料滞納でも受け入れるなどしている例もあるようだが
企業、自治体を含めた対応がなければ解決できるわけがない。。

江戸時代に始った日本のニシン漁は、明治、大正、昭和と漁獲方法などの発達で次第に漁獲量を増やして行った
1957(昭和32)年には殆どとれなくなって幕を降ろした。
ブラジル移民100年。何らかの策が必要ではないのか。
栄枯必衰の理とおごる平家を戒める言葉もある。
海の神たる山幸海幸を日向人は大事にしている。

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