水入り
2007年7月21日スポーツ界が活況、賑わいでいる。
楽天田中、オールスターのガルビッシュvs小笠原、早稲田のハンカチ王子、ゴルフ界のハニカミ王子らの若さあふれる人の輝きぶりは老人性白内障?気味にはまぶしすぎる。
34歳のチャンプ、大リーグの桑田、遅咲きのあっち向いて・ホイ!投球術の岡島、
ベテラン勢の活躍は判官びいきの民族性ゆえか、いぶし銀のほうに軍配を上げる。
琴光喜が31歳という最高年齢で3場所で33勝をクリアーし、大関をほぼ射止めた。
長谷川、琴錦のジングスを破ったのはよかった。
とっ貫太郎の持味の相撲からして、ケガに泣かされチャンスをつぶしてきた。
が、遅まきの大関昇進に甘んじたが、まずはめでたい。
新大関本当におめでとうございます。
日経文化欄の長嶋茂雄の履歴書はいよいよ佳境。
公立大では学生さんたちの怪訝そうな視線。その噂でもちっきり。
引退表明の懐古。これには参った。
涙が止まらない。
ONアベック・ホームラン、天覧試合のホームランでさえないことがセキヤン内部で起こってるわけだ。
昭和天皇唯一のプロ野球観戦の天覧試合はシーソーゲーム。
昭和天皇は私どもがサッカーに感じる気持の類でプロ野球を見ておおられたのか。
この一試合のみ観戦しておられる。
終回、ザトペック投法の・村山実の投げた球は長嶋のバットで観客席へ。
昭和天皇が身を乗り出されての微笑ましい写真の記憶が私の脳裏にはある。
これまで読み進めてたものは感動はあっても涙はなかった。
同時代を一瞬共有した記録だ。
年齢との戦いに甥の複雑な心境が重なり涙腺はゆるみぱなしに短い嗚咽。
琴光喜の昇進もそのたぐい。
言葉にない多くの勲章をひっさげている。
佐渡ヶ嶽部屋は「琴」が由緒のしこ名。
さしみのうまい「琴ヶ浜」の取り口を「琴」が彷彿させてくれる。
お家芸のガブリよりの名称もその時以来やもしれぬ。
とかくマイナス報道の続いていた角界。
先場所の新横綱もあり、国技の慶事はなにより。
国際化が進んでいるが将来はおぼつかない。
場所前の新弟子検査に「0」と初めてのこと。
力を秘めた力士の早急なる大関横綱レースを切磋琢磨してほしい。
琴奨菊 23
栃煌山 20
稀勢の里21
豊真将 21
ロシア露鵬
ブルガリア琴欧洲
エストニ把瑠都
グルジア黒海
皇太子の一粒種は相撲通らしい。昭和天皇のDNAを受け継いでいるようだ。
私どもの幼き頃と同じで力士の出身県、得意技、所属部屋をすべて諳んじてるらしい。
意外な人が相撲通のようだ。
その一人の俳聖・松尾芭蕉
むかしけき
秩父殿も すもうとり
畠山重忠はその領地から秩父守。
相撲好きの確たる証拠の芭蕉の句。
鎌倉幕府高官の御家人で唯一歌詠みがいた。
文武両道に通じていた畠山重忠。
鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。
頼朝の舅の北条時政の娘を妻に娶った。
『源平盛衰記』『吾妻鏡』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている
静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めている。
奥州藤原氏討伐では先陣を賜った、
頼朝は死に際し、嫡男頼家の後見を重忠に任せた
初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。
大分県は日田に代官所が置かれ九州を統治支配した。
その大分県は近代相撲名横綱双葉山を生んだ
破られない不滅の記録69連勝。
野見宿禰と当麻蹴速(のみのすくねとたいまのけはや)に始まるライバルたち。
似たようなお話が天領日田に伝わる。
浜田昌澄天領豆田地区新興会長は歴史をよびおこされる。
そこに代官を務めた名相撲取りがいた。
大蔵永李(1056〜1104)その人。
鬼太夫と呼ばれた。
16歳で宮中んみ上がり相撲を取ってる記録がある。
無双の強さの出雲の小冠者と闘うため上洛の途中大宰府に祈願する。
大宰府で童女が弱点を授ける
出雲の小冠者は鉄の皮で体が覆われている。
母が砂鉄を食い続けて願をかけ、産んだ子である。
ただ、夏のある日に瓜を食べてしまった。
よって膚の一部たる額の一部が弱い弱点がある。
永李は試合で負けそうになるとそれを思い出して額を押した
出雲の小冠者は見る見るうちに血を流しその場で死んだ。
その功により大蔵永李は日田の代官を生涯賜った。
日田が九州を支配したのはこの辺りにあるということ。という。ホント〜〜??
名代官も排出している。時は幕末のころ。
日本の生んだ国際人・川路聖謨 (かわじとしあきら)である。
日田代官所に勤めていた内藤歳由の次男。御家人川路光房の養子となる。
江戸幕府勘定奉行を勤める。
勘定奉行で1854(安政元)年ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たり日露和親条約の締結にこぎつけた。
1858(安政5)年の日米修好通商条約調印の折には老中堀田正睦とともに上洛して条約調印の勅許を得るべく
奔走するが果たせず、逆に翌年、大老井伊直弼による安政の大獄に連座して蟄居命令を受ける。
1863(文久3)年に外国奉行に任ぜられて公務に復帰、程なくして辞して隠居した。
1868(明治元)年3月、江戸城の開城が迫る中、自宅にて割腹の後、短銃で自殺して果てた。享年68。
その人格見識をロシヤ当局から高く買われた国際人。
トヨタ自動車相撲部監督の次男、高校は鳥取城北高へ相撲留学。
日大相撲部在籍中に27個のタイトルを獲得し鳴り物入りでプロ入門。
高見盛は日同期生。
幕下60枚目格附出で初土俵。以後負け越し知らずで平成12年(2000年)5月場所に入幕
場所直前の怪我で全休。
再入幕の場所でいきなり13勝2敗というあわや事実上の新入幕優勝かという成績を挙げ、三賞を総ナメ。
この場所西前頭9枚目の位置だったが、1横綱(武蔵丸)3大関(出島・雅山・武双山)を破ったことが評価されたか
番付運が良かったか、小結を飛び越して関脇に昇進。
事実上の1場所三役昇進で陰の最短記録である。
平成13年(2001年)9月場所は13勝2敗で平幕優勝を果たした
その後関脇のままで低迷していた。
極度の近視である。
、
愛子内親王は相撲好きだが、特に琴光喜がお気に入りらしい。
皇太子徳仁親王が「愛知に行く」と言ったら、
「琴光喜のところ?」と尋ねたという。
相撲全般にはさすがに国技、お国柄お人柄が出る。
総称の権威が日本文化の担い手たる横綱である。
モンゴル人にわからぬ伝統に貫かれた奥ゆかしさである。
総理の言う美しき国づくりはこれらを兼ね備えた人々作りでいいんではなかろうか。
愛知県岡崎市はわきに沸いてることであろう。
楽天田中、オールスターのガルビッシュvs小笠原、早稲田のハンカチ王子、ゴルフ界のハニカミ王子らの若さあふれる人の輝きぶりは老人性白内障?気味にはまぶしすぎる。
34歳のチャンプ、大リーグの桑田、遅咲きのあっち向いて・ホイ!投球術の岡島、
ベテラン勢の活躍は判官びいきの民族性ゆえか、いぶし銀のほうに軍配を上げる。
琴光喜が31歳という最高年齢で3場所で33勝をクリアーし、大関をほぼ射止めた。
長谷川、琴錦のジングスを破ったのはよかった。
とっ貫太郎の持味の相撲からして、ケガに泣かされチャンスをつぶしてきた。
が、遅まきの大関昇進に甘んじたが、まずはめでたい。
新大関本当におめでとうございます。
日経文化欄の長嶋茂雄の履歴書はいよいよ佳境。
公立大では学生さんたちの怪訝そうな視線。その噂でもちっきり。
引退表明の懐古。これには参った。
涙が止まらない。
ONアベック・ホームラン、天覧試合のホームランでさえないことがセキヤン内部で起こってるわけだ。
昭和天皇唯一のプロ野球観戦の天覧試合はシーソーゲーム。
昭和天皇は私どもがサッカーに感じる気持の類でプロ野球を見ておおられたのか。
この一試合のみ観戦しておられる。
終回、ザトペック投法の・村山実の投げた球は長嶋のバットで観客席へ。
昭和天皇が身を乗り出されての微笑ましい写真の記憶が私の脳裏にはある。
これまで読み進めてたものは感動はあっても涙はなかった。
同時代を一瞬共有した記録だ。
年齢との戦いに甥の複雑な心境が重なり涙腺はゆるみぱなしに短い嗚咽。
琴光喜の昇進もそのたぐい。
言葉にない多くの勲章をひっさげている。
佐渡ヶ嶽部屋は「琴」が由緒のしこ名。
さしみのうまい「琴ヶ浜」の取り口を「琴」が彷彿させてくれる。
お家芸のガブリよりの名称もその時以来やもしれぬ。
とかくマイナス報道の続いていた角界。
先場所の新横綱もあり、国技の慶事はなにより。
国際化が進んでいるが将来はおぼつかない。
場所前の新弟子検査に「0」と初めてのこと。
力を秘めた力士の早急なる大関横綱レースを切磋琢磨してほしい。
琴奨菊 23
栃煌山 20
稀勢の里21
豊真将 21
ロシア露鵬
ブルガリア琴欧洲
エストニ把瑠都
グルジア黒海
皇太子の一粒種は相撲通らしい。昭和天皇のDNAを受け継いでいるようだ。
私どもの幼き頃と同じで力士の出身県、得意技、所属部屋をすべて諳んじてるらしい。
意外な人が相撲通のようだ。
その一人の俳聖・松尾芭蕉
むかしけき
秩父殿も すもうとり
畠山重忠はその領地から秩父守。
相撲好きの確たる証拠の芭蕉の句。
鎌倉幕府高官の御家人で唯一歌詠みがいた。
文武両道に通じていた畠山重忠。
鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。
頼朝の舅の北条時政の娘を妻に娶った。
『源平盛衰記』『吾妻鏡』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている
静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めている。
奥州藤原氏討伐では先陣を賜った、
頼朝は死に際し、嫡男頼家の後見を重忠に任せた
初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。
大分県は日田に代官所が置かれ九州を統治支配した。
その大分県は近代相撲名横綱双葉山を生んだ
破られない不滅の記録69連勝。
野見宿禰と当麻蹴速(のみのすくねとたいまのけはや)に始まるライバルたち。
似たようなお話が天領日田に伝わる。
浜田昌澄天領豆田地区新興会長は歴史をよびおこされる。
そこに代官を務めた名相撲取りがいた。
大蔵永李(1056〜1104)その人。
鬼太夫と呼ばれた。
16歳で宮中んみ上がり相撲を取ってる記録がある。
無双の強さの出雲の小冠者と闘うため上洛の途中大宰府に祈願する。
大宰府で童女が弱点を授ける
出雲の小冠者は鉄の皮で体が覆われている。
母が砂鉄を食い続けて願をかけ、産んだ子である。
ただ、夏のある日に瓜を食べてしまった。
よって膚の一部たる額の一部が弱い弱点がある。
永李は試合で負けそうになるとそれを思い出して額を押した
出雲の小冠者は見る見るうちに血を流しその場で死んだ。
その功により大蔵永李は日田の代官を生涯賜った。
日田が九州を支配したのはこの辺りにあるということ。という。ホント〜〜??
名代官も排出している。時は幕末のころ。
日本の生んだ国際人・川路聖謨 (かわじとしあきら)である。
日田代官所に勤めていた内藤歳由の次男。御家人川路光房の養子となる。
江戸幕府勘定奉行を勤める。
勘定奉行で1854(安政元)年ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たり日露和親条約の締結にこぎつけた。
1858(安政5)年の日米修好通商条約調印の折には老中堀田正睦とともに上洛して条約調印の勅許を得るべく
奔走するが果たせず、逆に翌年、大老井伊直弼による安政の大獄に連座して蟄居命令を受ける。
1863(文久3)年に外国奉行に任ぜられて公務に復帰、程なくして辞して隠居した。
1868(明治元)年3月、江戸城の開城が迫る中、自宅にて割腹の後、短銃で自殺して果てた。享年68。
その人格見識をロシヤ当局から高く買われた国際人。
トヨタ自動車相撲部監督の次男、高校は鳥取城北高へ相撲留学。
日大相撲部在籍中に27個のタイトルを獲得し鳴り物入りでプロ入門。
高見盛は日同期生。
幕下60枚目格附出で初土俵。以後負け越し知らずで平成12年(2000年)5月場所に入幕
場所直前の怪我で全休。
再入幕の場所でいきなり13勝2敗というあわや事実上の新入幕優勝かという成績を挙げ、三賞を総ナメ。
この場所西前頭9枚目の位置だったが、1横綱(武蔵丸)3大関(出島・雅山・武双山)を破ったことが評価されたか
番付運が良かったか、小結を飛び越して関脇に昇進。
事実上の1場所三役昇進で陰の最短記録である。
平成13年(2001年)9月場所は13勝2敗で平幕優勝を果たした
その後関脇のままで低迷していた。
極度の近視である。
、
愛子内親王は相撲好きだが、特に琴光喜がお気に入りらしい。
皇太子徳仁親王が「愛知に行く」と言ったら、
「琴光喜のところ?」と尋ねたという。
相撲全般にはさすがに国技、お国柄お人柄が出る。
総称の権威が日本文化の担い手たる横綱である。
モンゴル人にわからぬ伝統に貫かれた奥ゆかしさである。
総理の言う美しき国づくりはこれらを兼ね備えた人々作りでいいんではなかろうか。
愛知県岡崎市はわきに沸いてることであろう。