SONY

2007年7月16日
新潟がゆれたようだが、被害は柏崎市に集中。あの原発のところだがどうなんであろう。

原発3、4、7号機は地震発生で自動停止。
1、5、6号機は点検のため停止中だったという
3号機の変圧器の一部から出火したが、正午すぎに鎮火した。
放射能漏れなどはないという

選挙戦たけなわ。
凶とでるか吉と出るか。
安倍総理は長崎からトンボ帰り。

ブログから選挙記事が少なくなっている。
選挙法に引っかかるので候補者はブログ停止。
関係者もそうらしい。
そうなるとせきやんブログも危ない!。??

法って、とかく現実とそぐわない面がある。
選挙ってそんなもんなんだろう。
「とにかく勝つ!」「なんとしてでも勝つ」
それでヒート過ぎることとなり、品格をうしないかねない。

阿部内閣の幼さが馬脚を現し自民党長老方は注意する一幕もあったとか。

党首討論でも安部総理の「数字を挙げての反論」にとりあわない小沢。、
悠然として年金問題は「国に責任か個人に責任か」と聞いている。
小沢総理にこともあろうに野党の安部が噛み付いてる構図でこれはいけない。

年金でも管直人やはては小泉総理まで俎上に載せ責任転嫁。
小泉サイドから選挙応援演説にいかない!とクレームをつけられてはいただけない。

仲良しクラブの中川幹事長や政調会長の中川は懲りずに「小沢政界退場論」をぶち上げている。
この攻撃性丸出しで品のなさに長老方のお目玉だったらしい。
「政権与党は堂々と戦え!」

女性党なるものが5人宮崎駅前で運動を展開しているので聞いてみた。
福岡かららしい。
宮崎の人はいないようである。

「野党が分裂していては自民党を利するだけでは・・」
女性党が躍進することで自民党が考慮するんだそうである。
「死票になるのでは」
「結果自民党が利して共産党と同じみたいな役割になってしまうのでは。」
「・・・・・・」
レベルが低い運動員たちである。

選挙のロゴで考えていたら「アリャッ!」2〜3日たってしまった。
実家西都では新盆、盆踊りで霊を鎮めてることであろう。
あの天正遺欧少年使節を生み出したる・宮崎県西都市の出身。
どうもここんとここの地域が出てくる。
言霊がハレを催促し祓いを迫ってつのるやも知れない。

「SONY」のロゴをうみ、「ウオークマン」を世に送り出した
黒木靖夫が逝ったことをアップ・ロードしないままであった。

SONY退社後は富山県デザインセンター所長。多摩美大講師。
昨年「Gマーク50ねん」=グッドデザイン賞50年、で多忙がたたったのか。

日本のデザイナー100の一人秋田道夫。
車・自転車・DIY商品・楽しい台所をもテーマにしておられる。

DIYで「オヤッ!」と思えるデザインはまず秋田作品と思えばいい。
握るところが手前上がりで宇宙船見たいなケトルを見たとき
「コイツ!」と思い秋田ブログを見たら同じものがあり「ヤハリ!」と思ったことがあった。

黒木との接点をを探っていたらやはりこのブログに行き着いた、

言葉とともに生きた人
昨日 黒木靖夫先生が亡くなられた事を桐山さんがメールいただきました。
数年前から体調を崩されていたことを知ってはいたのですが、こうやって二度と声をお聞き
することが出来なくなるという事実はとても深く大きい。
わたしはソニーの入社試験で、
どんどんどんと前に言葉が出てくる「生まれてはじめての人」を知ったわけです。
言葉が出ててくる人は知っているのですが、
発せされた言葉が空間の中でも前に進み続けるという方は以降も知りません。
とにかく「怖かった」「恐かった」。
なにをいってもなにをやっても
欠点をばしっと指摘されるそういう感じでした。 
会社時代も辞めてからもほとんど黒木さんのそばによることはありませんでした。
きっとそういう自分の了解は的を得てはいなかたのだと思います。
日本のデザイナー100人にわたしの名前もあったことを喜んでくださっていたことを人づてに
聞きました。 わたしも癖が強く一筋縄でいくひとではないと自覚しています。
そんなわたしの生き方を心配してくださていたんだと思います。
葬儀が行われる外苑前の梅窓院は、先日INCLINEの発表会のあった青山タワービルのすぐ
手前にあります。 なんだか不思議な気持ちです。

西都弁でまくしたてられたんじゃぁたまらない。
相当なる洗礼を受けられたものと推察する。
「怖かった」「恐かった」は正直な実感であろう。

7人兄弟で姉4人、兄一人。妹ひとり。7人兄弟。
兄は教員を経て東大に入学。受験誌を出版している。
西都・妻高校から東大受験に失敗して米良山奥の代用教員で再受験も失敗。千葉大工学部に入学卒業のトップ。
そごうからソニーに。
入社9ヶ月コ後にはソニーロゴを作成する。
ニュヨークに初の日の丸企業。パリ、ロンドンと支社を現地指導。

地元紙の1998年3月10日〜5月30日まで80回で自伝が書かれていた。
図書館で確認するのに400文字の80倍32000文字単行本じゃん!
二時間以上もかかった。

他に:大事なことはすべて盛田昭夫がおしえてくれた 黒木靖夫著

ソニーで宣伝、商品部長、取締役などを務め、盛田の身近にいた。
 1921(大正10)年、盛田は愛知県知多半島の小鈴谷(現常滑市)で、代々酒造業(銘柄は「子の日松」)
を営む家の長男として生まれた。
 大阪帝国大学(現大阪大学)の物理学科に進み、実験物理学を志した。卒業して、海軍技術見習尉官となり、中尉に任官している。

海軍では技術主任として、”測距儀”をつくった。これは長い尺を使って三角法原理で距離を測る道具で、敵の軍艦までの距離を測るものだった。
それよりも盛田はそこで、生涯のパートナー、井深大と出会う

その井深は、早稲田大学理工学部長時代に「走るネオン」を発明し、また、パリー博覧会で優秀発明賞を受賞するという
天才的技術者の芽をみせた。

「大学卒業の際、東芝の入社試験を受けたが落第した。ここで入社していれば、今日のソニーはなっかた」という。
井深と盛田は、その後二度目の出会いをすることとなる。

日本測定器という軍需会社の常務だった井深は、陸海軍の技術研究所の委託研究のリーダー
盛田海軍技術中尉は「熱線誘導兵器」や「暗視照準装置」のい共同開発のメンバー
これが最初の出会い。
終戦を迎え、二人は別れた。
盛田は東京工業大学の講師となり、井深は東京通信研究所(ソニーの前身)の看板を掲げた。
音信不通だった二人は、新聞のコラムjが縁で再開することになる。
名古屋版朝日新聞の「青鉛筆」に井深の動静を伝える記事が載り、それを盛田が目にし。上京再開した。

東京通信研究所の設立趣意を読んだ盛田は、井深とともに会社を興すことになる。
ビル・ゲイツとポールアレンとのマイクロソフト社の設立と似ている。

ココにウォークマンの黒木靖夫がくわわる。

実は「ウォークマン」基本をつくったのは、ソニーの若き技術者・浅井俊男。
「プレスマン」という小型テープレコーダーを改造し、ステレオ音楽をイヤホンで聴いて自ら楽しんでいた。
1978年、黒木氏は浅井にあって”改造プレスマン”を聴いてみて、その迫力ある音に驚嘆したという。
これに黒木が総合プロヂュースした。

「ソニーは世界でも初の最高の録音機をつくっていたから、録音機事業部で”録音できない機械”をつくるのには
最初から抵抗があった。」と回想する。

しかし、盛田の「カーステレオを見てみろよ。あれは録音できないだろう?でも売れているじゃないか」
ソニーはラジオもテレビもパーソナル化したから今度はステレオをパーソナルにする番だよ」

井深さんは純粋に技術屋であり、思想家だったが、盛田は底抜けに明るい戦略家だった。と黒木は二人を分析している。

家庭用VTR「ベーターマックス」ができたとき、井深は早く市場に出したいと思ったが、盛田は次のようにいったという。

「井深さんがすぐ売りたいのは分かるが、いまVTRは一時間しか録画できない。
映画を録画するには一時間二十分はいるから、それができるようになってから発売したい。
映画が録画できないと商品価値は落ちる。それまで待つように君たちからも、井深さんを説得してくれ。」

井深はなによりも研究開発に価値をおいて新製品の開発に邁進し、盛田は甘えを廃し責任を明確にする事業部制で業績を伸ばしたと
黒木氏は指摘している。ソニーの躍進には、井深と盛田の両雄が不可欠だったのだ。

1955年のこと、
ソニーのトランジスターラジオに、時計メーカーから10万台のオーダーがあった。
当時のソニーにとっては、喉から手が出るような大きな商談だった。
しかし、無名のソニーの名前では売れないから、その時計メーカーの社名で売る
、OEM(相手先ブランドによる生産)が条件だった。

盛田は受注の話に大乗り気だったが、結局は断念した。
創業してすぐの小さな無名の会社が、創業50年以上の会社の注文を蹴ったのである。

時計メーカーの担当者は盛田に、自分達は50年以上かかっていまのブランドをつくった。
ソニーなんて誰も知りませんよといい放った。
それに対して、盛田・・・「50年後には、、絶対にあなたの会社よりも有名になってみせます。」と啖呵をきった。

10年後にその会社を追い越した。
盛田は、単にプライドのためだけで注文を蹴ったのではなく、
「目先の利益にこだわらず、理想を貫き努力する」という自分の哲学に正直に従ったまでのことだったと黒木はいう。
 
7階は井深さん(当時名誉会長)と盛田さん(当時会長)、6階には私と大賀さん(当時社長)がいる。
そのすぐ下のフロアが、もうデザインの現場。

経営陣のいちばん近くに、財務や技術のスタッフではなく、デザイナーがいるんですよ(笑)。

ある雑誌に「ソニーが次々と面白いことをできるのは、会社の中枢がデザイナーだからだ」と書かれたくらいです。

そのころでさえ、ソニーは部品も含めて年に約600もの新製品を市場に投入していました。

そこで、戦略的なプロダクトを選んで、開発者が経営陣に直接プレゼンテーションする機会を設けました。
それもデザイナーたちが作業しているフロアまで、トップに足を運んでいただくんです。

普通ならこちらから役員室に出向くべきところでしょうが、
私が「プロダクトは動けません。でも井深さん、盛田さんには足があるのですから、ぜひご足労を…」と進言しましてね。

アタマの固い人たちからはずいぶん叱られましたが、おふたりとも喜んで降りてきてくれました。
モノが見られるんだもの、きっと役員会議より面白かったんでしょう(笑)。

その際に、井深さんや盛田さんに見せるのは、デザインモックです。
モックだからと手を抜くことなく、本当にきれいにできているんですよ。
そのモックを最終的な目標に、デザイナーもエンジニアも力をあわせていく…こういうモノづくりのスタイルは、
とてもユニークでしたね。

ビジネスマンのための「個性」育成術   著: 黒木靖夫
 ソニーの人事本部が保管している社員の人事カードには「学歴」の欄がない。
だから誰がどんな学校を出て何を勉強してきたか分からない仕組みになっている。
 盛田昭夫が『学歴無用論』を出版したのは一九六六(昭和四十一)年

その前年の六五年の春、盛田が「社員の履歴書を焼いてしまう」という宣言
れが世間で評判になる。

学歴無用論とは裏を返せば学問有用論だったにもかかわらず、勉強の嫌いな子どもを持つ親たちから
「ソニーなら入れてもらえるのではないか」という問い合わせが
相次いだからだ。
そこで自分の考え方を一冊の本にまとめたのである。

 盛田は学歴を記入すると、その人に対して無意味な先入観を持ってしまうと考えた。
先入観を持つとその人の正しい評価ができなく
なる。
人の評価が入社前の学校や大学の名前で左右されるのはおかしいと思ったのである。

 これには社内からも異論が続出した。
学歴は現在ともかくも客観的評価基準としてあるのだから、一挙に取り去るのは危険だし暴挙ではないかというのである。

 しかし盛田は反論した。
学歴を基準と考えること自体が間違っている。
大学卒のわりにはできないとか高卒のわりにはよく働くとい
うその“わりには”がすでに先入観念であると言ったのである。

学歴というものは客観的評価手段というより安易な手がかりにすぎな
いし、下手をすると人から誤った評価を受けると主張して、盛田は自分のことをこう書いている。

「たとえば、私は学校では物理を修めたことになっている。しかし、いまやまったく物理屋としては通用しない。私が物理屋としてど
こかに雇われていった場合、まったく無能力だし、それがアメリカででもあれば、一日でクビになるだろう」(盛田昭夫『学歴無用論』文藝春秋 一九六六)。

 かつてソニー時代の私の部下に社内でも有数のメカニック設計のエンジニアがいた。
ウォークマン用の扁平モーターを使ったテープ駆動のメカニズムを開発した時など、周囲の者をうならせたものだった。

 しかし彼は大学では機械を勉強したことは一度もなく、出身はなんと文学部だった。

それを尋ねると彼は、
「私は子どものころからおもちゃの機械をいじるのが好きで、作っては壊し、壊しては作り直していました。大学の学部に関係なく卒業するまでずっとこの趣味を続けていたのです」
 と答えた。

好きこそ物の上手なれではないが、趣味が専門学部卒より優れた専門家を育てることはよくあることである。

 。事実、ソニーにも学校では秀才だったかもしれないが、会社に入ると凡才だった例が少なからずあった。
 人間の能力の成長速度は一様ではない。

子どもの時は神童で、はたちを過ぎたらただの人、という人もいれば、その逆で遅咲きの大
器晩成型の人もいる。なのにたった一度の入学試験とか、たった一度の入社試験でその人の一生を決めていいものか。

かえって真の実力評価を妨げているのではないか。

盛田は大学の卒業席次や国家試験などの成績が一生ついて回ることを、本当に恐ろしいことだと言い、
“言語道断”と断じている。

 もちろん盛田は学校教育を否定しているわけではなく、多くの人が良い学校で高い教養と深い専門知識を身につけることは、社会のために望ましいことだと信じていた。
しかし日本はあまりにも卒業した学校名だけがまかり通っていることを嘆いたのである。

 なぜ盛田はこれほどまでに学歴を毛嫌いしたのか。
それは人に対する偏見をなくそうとしたからである。

偏見に陥りやすいのは初めて人に接する際その人の学歴を事前に知ったからだ。
学歴を知るとその人の正当な評価が出来なくなる。
だからその人の持つ能力を正しく評価するためには、まず学歴を取り去ることだという論法だった。

 評価が大事ということは、個々の人が持つ能力や考え方を尊重するということだ。
特にその人の考え方というのは個性にほかならな
い。盛田は人の個性を伸ばすことが即組織の活力を生むと考えたのである。

 企業の意志は個人の意志
 企業の個性を表すものに社風というのがある。
社風が作られる要因はいろいろあって、経営方針や経営者の性格、事業の内容、メーカーの場合はその製品、社会貢献度、社員気質等々……そしてそれらが総合されて社風が形成される。
 ところがこの社風というものがどうも欧米では理解されていない。

日本の企業は家族主義的団結を美徳としていたのだが、欧米人に
してみると、日本企業の社員の誰に何を聞いても同じ答えが返ってくる、つまり「金太郎飴」的集団だという見方が定着してしまった。

家族主義というのは和気あいあいさであり、一致団結であり集団主義である。

 企業の組織には日本的集団主義はいらない、それが必要なのは警察と軍隊だけだ、と欧米人に言われたことがある。

私がベルギーのアントワープに滞在していた時、そこに当時あったソニーのヨーロッパ戦略本部のスタッフは、昼になると一斉に同じレストランで食事をしていた。

しかも同じ料理をものすごい速さで食べて風のごとく立ち去るから、店の主人は目を丸くしていた。

彼らから見ると日本企業の社員の行動はあたかも警察や軍隊のように見えて異様だったに違いない。
 しかしまだソニーはいいほうかもしれない。
日本の大企業の中には、いまだに毎日朝礼を行ない、社歌を歌い、社是社訓を唱え、社旗を掲げるところがある。

しかもそれが家族主義を醸成すると信じているから、海外に進出しても日本と同じことをする
企業があって、現地の人に違和感を与えている。

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