山の文化

2004年12月21日
「災」は今年を表す字である
列島を沸かせたアテネ五輪の「金」は四位、イチロー選手の安打新記録にちなむ「新」は五位である。

海外から届いた朗報も、肉親を奪い、住む家を奪った「災」を相手に太刀打ちは容易でなかったろう

前後左右から押し寄せる災難に、髪をかきむしってでもいるのか。
詠み手の泣き顔が目に浮かぶような江戸期の俗謡を円楽師匠が噺す。

「雨は降りだす屋根の薪ャぬれる背中で餓鬼ャ泣く飯ャ焦げる」

災難を乗り切り本懐を遂げると調子がいい。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 
  (大石内蔵助良雄)
私は午後3時40分過ぎに100Kかなたの北郷町を目指し出発した
午後1時のお客さんの予定が2h時間も遅れて見えられたので遅れたのである。

6町村を結ぶ六峰街道は九州の尾根を海抜100Mを走るまさにスカイ・ウエーである

燃え上がる紅葉は地理的に望めぬとしても夕暮れで柔らかな紅葉さえ十分に堪能できない。

すべてがこのように兇で「災」である。来年は改めよう。

360度が見渡せる中小屋=昴天文台には驚いた。

通称M51=メシエ51は太陽が燃え尽きた50億年後の姿でリング星雲となって消えうせようとしている。

西の空のそれを広角60cm日本で初めてのリッチー・クレチアン式の反射望遠鏡は捕らえている。

破滅の姿・・これもあくまでも「災」なのか。

災いを転じて福くとなそう。福に寿と何か縁はないものか。
先の47義士に書き足らぬものがあった。

 第4回大仏次郎論壇賞(朝日新聞社主催)は、ケネス・ルオフ・米ポートランド州立大助教授の「国民の天皇」(共同通信社)

瀧井一博・兵庫県立大助教授の「文明史のなかの明治憲法」(講談社)に決まった。

日本に留学中で (H16.1.5-H17.6.30)で推薦人 は北大助教授 高木博志  副賞200万円。贈呈式は来年1月27日、東京・帝国ホテル

ところで 12月6日東京丸の内・東京會舘において、第26回角川源義賞・第2回角川財団学芸賞の贈呈式を開催した第2回角川財団学芸賞受賞者は
  瀧井一博氏  『文明史のなかの明治憲法』

なんとダブル受賞ではないか。
大仏次郎賞の権威も落ちたものである
これもお祝いどころか「災」と成ってしまう。

俳優の人選に成功したらしく大河ドラマ新撰組は好評のうちに義経にバトン・タッチするようである。

NHK大河ドラマの第一回は63年花の生涯であった。
第二回は赤穂浪士で出演者が何と豪華なこと。

長谷川一夫(大石内蔵助)、志村 喬(小野寺十内)、中村芝鶴(堀部弥兵衛)、中村賀津雄(大石主税)、滝沢 修(吉良上野介)
ほか下に挙げたとおりである。

当時だれしもが長谷川一夫の真似で「おのおのがた」といったものである。

尾上梅幸[7代目]
山田五十鈴
宇野重吉
志村喬
轟夕起子
林与一
滝沢修
大友柳太朗
嵐寛寿郎
尾上松緑[2代目]
舟木一夫
淡島千景
中村嘉葎雄
浦辺粂子
中村栄二
安井昌二
芦田伸介
守田勘弥[14代目]
坂東三津五郎[8代目]
浜野圭子
外山高士
内藤武敏

原作は大仏次郎でTVは白黒であったが、画面に大きく書かれた名前は記憶にある
「原作・大仏次郎」と一人大書であった。

鎌倉の五山三位の寿福寺に眠る大仏次郎の墓碑はつつましい。
この寺は頼朝没後1年正治2年1200年政子が栄西禅師を招き建立した父義朝の邸跡であった。
うらの横穴の櫓は政子実朝だと言われている。

子規亡き後の高浜虚子の墓地もある。
子規は根岸の林家三平さん宅の傍ですごした。

その三平堂の第1号入館者は何を隠そうこの私です・・・エバッテ
オリマ〜ス
明治の外交官陸奥宗光の墓もある。

あそうそう!中也やんさんに報告しとこっと。

中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれ。
軍医であった父親に伴って金沢、広島と移った。のはご存知のとおり。

父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぐ。
同棲相手の長谷川泰子を小林秀雄に奪われてから、上野孝子と結婚する頃まで、さまざまな人との出会い。

 中原中也の友人といえば、大岡昇平ですが、檀一雄が書いている「太宰と安吾」にもたびたび中原中也が登場。

特に太宰との出会いでは,
「…中原中也がはじめて私のところに顔を見せたのは、草野心平氏に同道されてやって来たものに相違ない。・・、少しおくれて太宰治がやってきた

しばらく「おかめ」でいっしょに飲み合っているうちに、いつの間にか、大乱闘になった。

、この時、中原中也が、太宰をつかまえて
「おめえ、一てえ何の花が好きだい?」 たしか、こうきいた。太宰に狼狽の色が見えた

「モ、モ、ノ、ハ、ナ」

必死の抵抗とでもいうか、ためらいとでもいうか、その揚げ句の果て、何ともやりきれない含羞の面持ちを見せながら、今にも泣きだすような声である

それからが乱闘だ。何がどうなったのかわからない。
。気がついてみた時にほ草野心平氏の髪をつかんで狂いまわっていた
。店のガラスはこなごなになり、

太宰はいつの間にか、逃げ帰っていたから、私も「おかめ」の店先を出た

中原中也は会う人会う人すべて喧嘩。
いまなら警察沙汰。

ここに出てくる「おかめ」は荻窪駅北口前、アサヒ通りの青梅街道角にある”おでん屋”(昭和30年代まではありました)

戦前の荻窪周辺は太宰の師匠の井伏鱒二を初めとする文士たちの溜まり場(現在は中華料理屋)

 昭和12年2月、中也は鎌倉駅裏近くの扇ヶ谷の寿福寺に転居。

「…中也が鎌倉へ引越したのは、関口隆克さんのつてがあったからだったと思います」

との受戒があるように後の教育学会の大学者になる大学時代の友人の協力があった

中也が借りた家というのは、扇ヶ谷の寿福寺境内にある六畳二間と四畳半と台所のある小さな家

寿福寺の門前から、その境内にある中也の借りた家までは、かなり離れておりました

9月、「在りし日の歌」を小林秀雄に託す
10月6日発病し鎌倉養生院(現 清川病院)に入院、22日死去
寿福寺で葬式

嵐山光三郎の「追憶の達人」によると、
「…酒乱でありつつも痛々しいほどの純粋な性格のためか葬式には五十人近い友人が集った。
しかし追悼文はおどろくほど少ない。

小林が編集責任者であった「文学界」には、小林をふくめて九人の追悼文が載ったが、
二百五十二ページ中でわずか二十三ページの分量である。

そして「文藝では百六十五ページ中の四ページである。
「新潮」はまったく無視した。

のみならず、死ぬ前月の新刊月評では中也訳『ランボオ詩集』を
「全くの無秩序で、これがいやしくも詩人の手になつたものとは到底想像もつかない」(春山行夫)と酷評。

生前の中也が文壇でしめていた評価はせいぜいこの程度であったのだ。新潮の見る目。それにしても半世紀早い詩人。

中原中也が住んだ家は、本堂の手前を右に曲がり、池の向こう側の崖の手前。

現在も家は残っているが一般公開されてないが、予約で見れるやも知れません。中也んさん

郷里の山口市吉敷の経塚に埋葬された。水無川のほとりの竹薮の一角にある中原家の墓で中也は今も故里の山口で永眠している。

彼の一生を一時であらわせば「災」である。

山の文化?

2004年12月21日
 つづき・・で〜す 
ところで
 鞍馬天狗」(大正13年)
「赤穂浪士」(昭和2年)
「ドレフュス事件」
「パリ燃ゆ」
「天皇の世紀」
「帰郷」(昭和24年)
の著者長谷寺の裏に住んでいたので大仏次郎を名乗った。材木座由比ガ浜稲村ヶ崎の鎌倉文化人

。岩波の映画は日曜日夜のNHK12チャンネルの世界名画劇場で私の映画鑑賞の世界の殆どをしめている。

その支配人は発足の日より高野悦子が務めている。
黎明期の映画人、川喜多かしこご夫妻のご尽力のたまものであろう。

1968年2月9日 岩波ホール・ホール開き(232席)には大内兵衛氏、野上彌生子氏の祝辞、山本安英氏による朗読、近藤乾三氏の舞囃子で幕を開ける。とあるが

向坂逸郎・大内兵衛は共産党を勝る科学的社会主義の
当代一の理論家。

70年安保時の社会党の活発な議論は向坂逸郎・大内兵衛の社会主義協会を抜いては語れない。

私も大内兵衛宅の稲村ヶ崎には訪ねたことがある。
「社会主義」の月刊誌には稲村ヶ崎知識人も加わった。

白い表紙に横真一文字で社会主義 知の塊の月刊誌

大仏次郎はパリの紹介等の名随筆でこの月刊誌の高級感に
花を添えた。

小牧近江はパリ大に学び大正8年に帰国アンリ・バルビュスの反戦運動たる「クラルテ」・「光」を日本に最初に紹介した
また第3インターを最初に紹介した。

労働者文学の嚆矢「種まく人」の秋田版さえ発行し続けた。小牧近江
山梨美術館や岩波社章を飾ることでいまでも偲べる

秋田の地では県議の故小幡屋政治らが種まく人顕著会で先哲の偉業を偲び守っておられた いただいた画集がもう一度見たいものだ。
近江谷左馬の輔、田中慎一郎北九大学長先生もお元気であろうか。

稲村ヶ崎・・・鞍馬天狗の大仏次郎宅やその頃の私の限界での資本の走具たる川端康成邸もあり鎌倉文化人をなしていた土地

わが日向の見聞録の大仏次郎
「神国日本」に「一本の白い道」として作品となった

昭和9年10月別府より一直線に青島まできてそれから高千穂まで走った。国府、田中純が同行した。

70年を経て私は今日たどってみた。それは一本の白き道であった。
大仏次郎がハンドルを握った道である。

かれのドライブの最中には子牛さえ道路に歓迎者として現れたが今わそれはない。

私どもの幼きころはよくバスを止める使者としてヒンズー教の国のごとき呈をなしていた。

時間がゆっくりと流れていた。
自然の姿そのものの如くに。自然あたりはすべてが山

落ち葉の季節。

山が教えてくれるものこそ本物の文化やも知れない。
木そのものが生命そのものであるからだ、

葉っぱ一枚に土に返っていくまでに生命の行方がある
水をろ過し、朽ち、川を下りプランクトンで魚類を栄えさせ、

生々流転生命そのものである。
山が荒れれば自然界すべてが荒れる。

山を見ればその国がわかる。
無償の・・経済性の・・田舎の代名詞たる山。

これからはCO2環境税の時代からは評価は変わろう。
生命の根源的問題である。

きょうは昼が一番短い冬至なそうな
厳格には陽のいりは毎日秒単位で遅くなっており、
日の出が遅いからのようである。

夕方山に向かい深夜に帰ってきた。
朝日新聞を読んでたら、私のことである。

 声高に冬至の山を出できたり。
作者は今月亡くなった鈴木六林男さん

教科書で「冬至」を覚える前に家庭で
「トウジだからカボチャを食べユズ湯に入る」と教えられた。

今もカボチャとユズは冬至となれば定番商品だ。
昴天文台にも弁当にカボチャの煮つけを加えての差し入れであったが気づいていただいてたのかどうか。

 冬至は湯治だからユズ湯の語呂合わせ。
日向以外を見ると面白い。

「冬至に“ン”が二つ付くものを7種食べるといい」は京都。

ナンキン(カボチャ)、ニンジン、レンコン、ギンナン、キンカン、カンテン、ウンドン(うどん)ナンカ無理ないうま過ぎる語呂合わせ。

古都の知恵に勝てるはずはない。

きょう財務原案 一般歳出0.7%減、47兆2829億円 3年ぶり「緊縮型」

かっての語呂合わせを聞かないが青色吐息の余裕がないと
そうなるのか。

金欠病であったが、甲○さんに助けてもらった、
武士は食わねど・・

『人生、粋に 感ずる』
男にとって大切なものをあげるとその人の生き様が分かろう。

山また山を夜通し走り弁当を届けただけと言う壮大なる無駄
童心とゆるぎない信念、男の本懐である。

ポリシーも文化であろう。
まもらねば苦しくとも。

朽ち果てていくまで
山は生き様から、それを教えてくれる。

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