残り火
2004年12月17日 年も押し迫り1年を振り返る新聞記事も現れ出した、
流行語大賞は「人生いろいろ」「たかが選手」をものともせず「チョ!気持ちい」だったとか、
プロ野球の大変革につながった言葉がベスト10にも入ってないのは怪しく訝しい
所詮マスコミはマスコミ界の一員でもある読売も含め巨大な支配者がいる。
支配者も生老病死の定めには逆らえず、いずれ外棺蓋で釘を打たれ焼却されて同じである。
転生輪廻が在ろうとも今年の一年の訃報録に収まろう。
水上勉は1919年3月8日生まれの福井の人
今年2004年9月8日、肺炎のため死去した85歳。
深く沈んだ文章には瞑想が語る語り口を感じた
他方「凍てる庭」での赤裸々な法廷における離婚裁判は
ノン・フイクション張りの私小説風で読みやすかった。
それもそうであろう。実は実録であった。
京王線下高井戸の隣の明大前ここいらがどうもこの人には鬼門であった、
幼きころ禅寺で働くが出帆
貧乏作家のため二度の離婚でそれぞれ子供を残されて困り果ててしまう。お金がないと女は逃げるわ〜一度の人生を無駄にはしないも〜ん
水上勉略歴
昭和15年 1940 21才 上京
昭和16年 1941 22才 秋頃 コトブキハウス六号室に転居、加瀬益子と同棲
9月20日 長男 誕生
昭和18年 1943 24才 9月30日 長男を養子にだす
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和20年 1945 26才4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
昭和24年 1949 30才6月頃 妻 子供をおいて家出
昭和26年 1951 32才 10月 妻と協議離婚
昭和31年 1956 37才 西方叡子と再婚
昭和52年 1977 58才 6月 水上勉 長男と再会
『雁の寺』が直木賞を受けたのが1961年で、『飢餓海峡』『五番町夕霧楼」(1962年)、『越前竹人形』(1963年)と、読んだ記憶がある。
NHKラジオ深夜便16日400〜500放送の明け方窪島誠一郎が朴訥と喋っていた。63才に成っておられた。
昔の記憶がよみがえってきた。
ネットで調べてみると当時の事もうっすらとよみがえってくる
昭和52年8月4日の朝日新聞朝刊の社会面である。
切抜きした新聞記事ゆえ記憶は鮮明である
「捜しあてた父は水上勉氏、”孤児の一念” 戦災の空白を克服」、
と昭和18年に養子に出した長男との再開を10段の大きなスペースを割いて報じていた
すぐに出版されているを「父への手紙」買ったが今に思えば計画的だわな〜
水上勉は昭和15年4月、21歳の時に上京、淀橋区柏木五丁目のコトブキハウスに住む加瀬益子と同棲、
昭和16年9月20日 長男(水上凌)が生れますが戦争と生活苦のため止むを得ず長男を明大前の窪島家(靴修理屋)に養子に出す、
しかし、水上勉は養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていた。
実は養父母と石巻市に疎開しており空襲は無事に逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開。
しかし本人は血液型などにより養父母が実の親ではないと確信し、
本当の両親を捜し始める、
その後「明大前物語とか出生を書いたものを出されてるが食傷気味であった。
キッド・アイラック・アート・ホールは養父の靴屋跡に戦後の土地問題を乗り越え建設したものである。
1941年東京都生まれになるわけだが、
この人は信濃デッサン館、無言館館主。を経営している。
長野県上田市に、大正・昭和の夭折画家の素描を展示するユニークな
美術館「信濃デッサン館」を開設。
関根正二遺稿・追想をよむ「小熊秀雄の世界」展とロルカなど映画界の岩波ホールの如きである。
信州の丘の上にたつ美術館からのメッセージは確かに全国に発信してある。
静かに語りかける感動のノンフィクションの世界に誘う。
如何せん、遠いワ〜
8月の平和の季節は無言館のマスコミ占拠の季節でもある。
1997年にはその隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。
もっと描きたい!描きつづけたい!
画家への道のなかばで、戦場に散った若者たち。その熱い思いと生命のさけびを、
今、〈戦争を知らない〉君たちに伝えたい。
「無言館」には、約50年前におこったあの太平洋戦争(大東亜戦争ともよばれましたが)
で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、
そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり
病気にかかったりして死んでいきました。「無言館」には、そうした画学生さんたちが、戦争にゆく前に
一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いていたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、
そのときに使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
ぼくたちは絵を描いた
ぼくたちの絵は今も生きている
戦争になんか負けないで
今も生きている
ぼくたちの絵は
戦争によって
描かされた絵でもなければ
戦争のために描いた絵でもない
ぼくたちは
ぼくたちのために絵を描いたんだ
ぼくたちだけの絵を描いたんだ
さあ、みんなみてほしい
五十年も生きつづけた
ぼくたちの美しい生命(いのち)の絵を
今こそ、みんなみてほしい――。
ラジオの窪島誠一郎63さいの言葉を拾う。
この年になると多くの人との別れと出会いがある。
窪島シゲル、ハツの養父母に二人のともらいに参列していない。
ましてや母の死は半年後に知った具合である。
人間の死は誰でも同じである。
死に様を周りに見せてくれることにより、生きる勇気を得、生きさせてくれた
自立引きずる残り時間が少ない無様な死に様はしたくない恥ずかしくない生き方答えたい
先日幼きころのお墓のことを書いて以来こんなことによく引っかかる
朝のラジオがそうさせた残り火はどうなっているのか。
残りにほど赤々と燃え盛るものはないはずだ。
そうでないとすれば私がそうして見せる!
落語「死神」の世界における私のローソクはどうなっているのであろうか。
流行語大賞は「人生いろいろ」「たかが選手」をものともせず「チョ!気持ちい」だったとか、
プロ野球の大変革につながった言葉がベスト10にも入ってないのは怪しく訝しい
所詮マスコミはマスコミ界の一員でもある読売も含め巨大な支配者がいる。
支配者も生老病死の定めには逆らえず、いずれ外棺蓋で釘を打たれ焼却されて同じである。
転生輪廻が在ろうとも今年の一年の訃報録に収まろう。
水上勉は1919年3月8日生まれの福井の人
今年2004年9月8日、肺炎のため死去した85歳。
深く沈んだ文章には瞑想が語る語り口を感じた
他方「凍てる庭」での赤裸々な法廷における離婚裁判は
ノン・フイクション張りの私小説風で読みやすかった。
それもそうであろう。実は実録であった。
京王線下高井戸の隣の明大前ここいらがどうもこの人には鬼門であった、
幼きころ禅寺で働くが出帆
貧乏作家のため二度の離婚でそれぞれ子供を残されて困り果ててしまう。お金がないと女は逃げるわ〜一度の人生を無駄にはしないも〜ん
水上勉略歴
昭和15年 1940 21才 上京
昭和16年 1941 22才 秋頃 コトブキハウス六号室に転居、加瀬益子と同棲
9月20日 長男 誕生
昭和18年 1943 24才 9月30日 長男を養子にだす
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和20年 1945 26才4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
昭和24年 1949 30才6月頃 妻 子供をおいて家出
昭和26年 1951 32才 10月 妻と協議離婚
昭和31年 1956 37才 西方叡子と再婚
昭和52年 1977 58才 6月 水上勉 長男と再会
『雁の寺』が直木賞を受けたのが1961年で、『飢餓海峡』『五番町夕霧楼」(1962年)、『越前竹人形』(1963年)と、読んだ記憶がある。
NHKラジオ深夜便16日400〜500放送の明け方窪島誠一郎が朴訥と喋っていた。63才に成っておられた。
昔の記憶がよみがえってきた。
ネットで調べてみると当時の事もうっすらとよみがえってくる
昭和52年8月4日の朝日新聞朝刊の社会面である。
切抜きした新聞記事ゆえ記憶は鮮明である
「捜しあてた父は水上勉氏、”孤児の一念” 戦災の空白を克服」、
と昭和18年に養子に出した長男との再開を10段の大きなスペースを割いて報じていた
すぐに出版されているを「父への手紙」買ったが今に思えば計画的だわな〜
水上勉は昭和15年4月、21歳の時に上京、淀橋区柏木五丁目のコトブキハウスに住む加瀬益子と同棲、
昭和16年9月20日 長男(水上凌)が生れますが戦争と生活苦のため止むを得ず長男を明大前の窪島家(靴修理屋)に養子に出す、
しかし、水上勉は養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていた。
実は養父母と石巻市に疎開しており空襲は無事に逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開。
しかし本人は血液型などにより養父母が実の親ではないと確信し、
本当の両親を捜し始める、
その後「明大前物語とか出生を書いたものを出されてるが食傷気味であった。
キッド・アイラック・アート・ホールは養父の靴屋跡に戦後の土地問題を乗り越え建設したものである。
1941年東京都生まれになるわけだが、
この人は信濃デッサン館、無言館館主。を経営している。
長野県上田市に、大正・昭和の夭折画家の素描を展示するユニークな
美術館「信濃デッサン館」を開設。
関根正二遺稿・追想をよむ「小熊秀雄の世界」展とロルカなど映画界の岩波ホールの如きである。
信州の丘の上にたつ美術館からのメッセージは確かに全国に発信してある。
静かに語りかける感動のノンフィクションの世界に誘う。
如何せん、遠いワ〜
8月の平和の季節は無言館のマスコミ占拠の季節でもある。
1997年にはその隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。
もっと描きたい!描きつづけたい!
画家への道のなかばで、戦場に散った若者たち。その熱い思いと生命のさけびを、
今、〈戦争を知らない〉君たちに伝えたい。
「無言館」には、約50年前におこったあの太平洋戦争(大東亜戦争ともよばれましたが)
で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、
そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり
病気にかかったりして死んでいきました。「無言館」には、そうした画学生さんたちが、戦争にゆく前に
一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いていたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、
そのときに使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
ぼくたちは絵を描いた
ぼくたちの絵は今も生きている
戦争になんか負けないで
今も生きている
ぼくたちの絵は
戦争によって
描かされた絵でもなければ
戦争のために描いた絵でもない
ぼくたちは
ぼくたちのために絵を描いたんだ
ぼくたちだけの絵を描いたんだ
さあ、みんなみてほしい
五十年も生きつづけた
ぼくたちの美しい生命(いのち)の絵を
今こそ、みんなみてほしい――。
ラジオの窪島誠一郎63さいの言葉を拾う。
この年になると多くの人との別れと出会いがある。
窪島シゲル、ハツの養父母に二人のともらいに参列していない。
ましてや母の死は半年後に知った具合である。
人間の死は誰でも同じである。
死に様を周りに見せてくれることにより、生きる勇気を得、生きさせてくれた
自立引きずる残り時間が少ない無様な死に様はしたくない恥ずかしくない生き方答えたい
先日幼きころのお墓のことを書いて以来こんなことによく引っかかる
朝のラジオがそうさせた残り火はどうなっているのか。
残りにほど赤々と燃え盛るものはないはずだ。
そうでないとすれば私がそうして見せる!
落語「死神」の世界における私のローソクはどうなっているのであろうか。