菊と葵
2004年12月18日明治維新は世界に稀なる平和裏に政権が移動した当該者たる最後の
将軍慶喜の先見性が国の危機を救ったといえよう。
決断を迫る側の西郷を中心とした指導層の英断があったゆえ最小の戦いで済んだ
もちろん戊辰・会津悲惨な状況はあったが対極からは大異を捨て小異についた
人間の大きさはかかる事案が大きいほど大切な要素である。
清濁併せ呑む度量天真爛漫な明るさが人を作りそれが国を作る。
高松宮妃の報道の日は上野のお山の西郷さんの像が建立された日であった。
5年をかけ友人の募金で成り立ったそうな。
確かに末節を汚したゆえに国家資金での建立は無理であったんであろう。
薩長同盟の二人。長州の井上馨は西南戦争の最中に心を痛め逝った
国家の行く末を思ってである。
「西郷 もうそれぐらいで、よかろう」
その逸話には万感迫るものがある。
高松宮妃喜久子さまが逝去されたとの報道であった。
15代将軍慶喜の孫にあたられる方で命名にも慶喜の1字がとられた
最後の将軍の膝の上での写真は微笑ましくも、歴史の重さで異様に眺めた。
1911(明治四十四)年十二月、江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の家を継いだ故徳川慶久(1884年-1922年)の二女として生まれた。
母方は高松宮家から改称した有栖川宮家最後の威仁親王の第二王女・実枝子(1891年-1933年)。
1930年二月、大正天皇の第三皇子で海軍軍人だった高松宮宣仁親王と結婚した。
公爵 徳川慶光(1913年-1993年)の同母姉(文筆家・榊原喜佐子(1921年-)は異母妹)印は撫子
彼女達の母・実枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。
そのため、有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、威仁親王の外孫・喜久子が早くから擬されていた。
昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問した。
高松宮とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、ついに子に恵まれず、1987年(昭和62年)2月3日に高松宮が逝去。
高松宮家は後継となる子孫がいないので、これで系統が途絶えることとなっる。
母を癌で亡くしたのを機に癌撲滅運動に関わった。
「高松宮妃癌研究基金」の設立に関与して名誉総裁と
なったことや、日仏会館の総裁として日仏交流に尽くした。
著書には『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年)がある。
昭和天皇の弟故高松宮さまとの1930年の結婚は公武合体と話題を呼んだ。
天真らんまん、繊細にして豪放で、「さすがは大政奉還した将軍の孫」と評されるエピソードをいくつも残した
終戦直後、戦災孤児を宮邸に招いて一緒に野球をした
昭和天皇の訪欧実現のため吉田茂に直談判で働きかけたそうだ。
宮内庁の反対を押し切って、高松宮さまの日記を出版し
一昨年は「女性天皇は不自然でない」と婦人公論誌に発表
変装して乗り合い観光バスで東京見物を楽しんだ、
ゴルフに向かうとき自身で車を運転、スピード違反で白バイ警官に捕まった、と新聞を賑わした記憶がある。
テレビドラマ「徳川慶喜」の撮影現場を訪れた時は
「これで景気も良くなるといいですね」といった。
おい、めいやそのお子さまたちをかわいがった。
桂宮さまが独身のまま異例の宮家独立を果たした際の陰の立役者。
紀宮さまのご結婚問題にも、心を砕いてきた
どうも婚約発表に水をさしたようになった
高松宮ご夫妻の結婚式も、実父を亡くした当時の皇后の喪明けを待ってのことだった
愛情表現の最後のいたずらなんであろう。
本県には1872(昭和四十七)年十月、宮崎市であった第十八回全国里親大会出席のためご来県。
1979(同五十四)年十月の宮崎国体では、故高松宮宣仁親王と本県に二日間滞在し、自転車競技などをご観戦。
高松宮さまはゴルフ好きでも知られ、ご夫妻はプライベートで再三宮崎のゴルフ場を訪れ、プレーを楽しまれたとパブリックの友人が言ってた。
まだ明治の歴史がほんの少し残っていた。
少しぐらいのゆとりがなくっちゃ人間社会ではない。
がんじがらめの社会では世界に冠たる国ではない。
いまにタバコはすべてなくなろう
いいじゃないか。自己責任で。
菊と葵がイワンとしてるもの
公でもあり私でもある。
公継承者は三笠宮家、常陸宮家、高円宮家、秋篠宮家と4つ、
どの宮家も女子しか残すことができていない。
今上天皇の弟の常陸宮家のところは子供がなく、、
昭和天皇の弟の秩父宮家および高松宮家にも子供がない。
三笠宮彬子(あきこ)女王殿下 21歳
三笠宮瑶子(ようこ)女王殿下 19歳
高円宮承子(やつぐこ)女王殿下 17歳
高円宮典子(のりこ)女王殿下 14歳
高円宮絢子(あやこ)女王殿下 12歳
秋篠宮眞子(まこ)内親王殿下 11歳
秋篠宮佳子(かこ)内親王殿下 8歳
敬宮愛子(あいこ)内親王殿下 1歳
『女帝ノ夫ハ皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ』 における「皇統ニ近キ者」とは、元各宮家の皇族で臣籍降下した者のである。
皇后には天皇家に血が近い高級貴族がなることが多かったが、
実際に家系図を見ると、現天皇家につながる系統の生母は側室が多く、中級以下の貴族の娘が多い
また貴族は庶民出身の妾をもち子供をつくる。
例えば、明治天皇の曾祖父でもある光格天皇は、
閑院宮家出身(閑院宮典仁親王の子祐宮)で、直系が絶えた本家に代わって、宮家から天皇家を継いだ。
しかし、その母である蓮華院・橘岩代子は、伯キの国(鳥取県)
倉吉出身の町医者、岩室法橋の息女であり、純粋の庶民出身。
明治天皇の祖母(母方)も、松浦藩の家老の娘
、
大正天皇の生母も中級貴族の娘で、庶民の血が入ってる。
昭和天皇の祖母(母方)の野間幾子も庶民出身。
皇太后の母は薩摩藩主と庶民の妾の子。
政権返す慶喜イヤダロナ=1867
案外喜んで返したのかもしれない。
菊と葵の物語はそん所そこらいのお話ではない。
歴史の重みと国の運営の頂点に立つものの苦渋に満ちている。
高松宮日記〈第1巻〉 高松宮日記高松宮 宣仁 (著)¥3,568
徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき最後の将軍の横顔
徳川慶朝 著 集英社 97/10 \1500
菊と葵のものがたり 高松宮喜久子 著 中央公論社 98/11 \1600
将軍慶喜の先見性が国の危機を救ったといえよう。
決断を迫る側の西郷を中心とした指導層の英断があったゆえ最小の戦いで済んだ
もちろん戊辰・会津悲惨な状況はあったが対極からは大異を捨て小異についた
人間の大きさはかかる事案が大きいほど大切な要素である。
清濁併せ呑む度量天真爛漫な明るさが人を作りそれが国を作る。
高松宮妃の報道の日は上野のお山の西郷さんの像が建立された日であった。
5年をかけ友人の募金で成り立ったそうな。
確かに末節を汚したゆえに国家資金での建立は無理であったんであろう。
薩長同盟の二人。長州の井上馨は西南戦争の最中に心を痛め逝った
国家の行く末を思ってである。
「西郷 もうそれぐらいで、よかろう」
その逸話には万感迫るものがある。
高松宮妃喜久子さまが逝去されたとの報道であった。
15代将軍慶喜の孫にあたられる方で命名にも慶喜の1字がとられた
最後の将軍の膝の上での写真は微笑ましくも、歴史の重さで異様に眺めた。
1911(明治四十四)年十二月、江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の家を継いだ故徳川慶久(1884年-1922年)の二女として生まれた。
母方は高松宮家から改称した有栖川宮家最後の威仁親王の第二王女・実枝子(1891年-1933年)。
1930年二月、大正天皇の第三皇子で海軍軍人だった高松宮宣仁親王と結婚した。
公爵 徳川慶光(1913年-1993年)の同母姉(文筆家・榊原喜佐子(1921年-)は異母妹)印は撫子
彼女達の母・実枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。
そのため、有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、威仁親王の外孫・喜久子が早くから擬されていた。
昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問した。
高松宮とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、ついに子に恵まれず、1987年(昭和62年)2月3日に高松宮が逝去。
高松宮家は後継となる子孫がいないので、これで系統が途絶えることとなっる。
母を癌で亡くしたのを機に癌撲滅運動に関わった。
「高松宮妃癌研究基金」の設立に関与して名誉総裁と
なったことや、日仏会館の総裁として日仏交流に尽くした。
著書には『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年)がある。
昭和天皇の弟故高松宮さまとの1930年の結婚は公武合体と話題を呼んだ。
天真らんまん、繊細にして豪放で、「さすがは大政奉還した将軍の孫」と評されるエピソードをいくつも残した
終戦直後、戦災孤児を宮邸に招いて一緒に野球をした
昭和天皇の訪欧実現のため吉田茂に直談判で働きかけたそうだ。
宮内庁の反対を押し切って、高松宮さまの日記を出版し
一昨年は「女性天皇は不自然でない」と婦人公論誌に発表
変装して乗り合い観光バスで東京見物を楽しんだ、
ゴルフに向かうとき自身で車を運転、スピード違反で白バイ警官に捕まった、と新聞を賑わした記憶がある。
テレビドラマ「徳川慶喜」の撮影現場を訪れた時は
「これで景気も良くなるといいですね」といった。
おい、めいやそのお子さまたちをかわいがった。
桂宮さまが独身のまま異例の宮家独立を果たした際の陰の立役者。
紀宮さまのご結婚問題にも、心を砕いてきた
どうも婚約発表に水をさしたようになった
高松宮ご夫妻の結婚式も、実父を亡くした当時の皇后の喪明けを待ってのことだった
愛情表現の最後のいたずらなんであろう。
本県には1872(昭和四十七)年十月、宮崎市であった第十八回全国里親大会出席のためご来県。
1979(同五十四)年十月の宮崎国体では、故高松宮宣仁親王と本県に二日間滞在し、自転車競技などをご観戦。
高松宮さまはゴルフ好きでも知られ、ご夫妻はプライベートで再三宮崎のゴルフ場を訪れ、プレーを楽しまれたとパブリックの友人が言ってた。
まだ明治の歴史がほんの少し残っていた。
少しぐらいのゆとりがなくっちゃ人間社会ではない。
がんじがらめの社会では世界に冠たる国ではない。
いまにタバコはすべてなくなろう
いいじゃないか。自己責任で。
菊と葵がイワンとしてるもの
公でもあり私でもある。
公継承者は三笠宮家、常陸宮家、高円宮家、秋篠宮家と4つ、
どの宮家も女子しか残すことができていない。
今上天皇の弟の常陸宮家のところは子供がなく、、
昭和天皇の弟の秩父宮家および高松宮家にも子供がない。
三笠宮彬子(あきこ)女王殿下 21歳
三笠宮瑶子(ようこ)女王殿下 19歳
高円宮承子(やつぐこ)女王殿下 17歳
高円宮典子(のりこ)女王殿下 14歳
高円宮絢子(あやこ)女王殿下 12歳
秋篠宮眞子(まこ)内親王殿下 11歳
秋篠宮佳子(かこ)内親王殿下 8歳
敬宮愛子(あいこ)内親王殿下 1歳
『女帝ノ夫ハ皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ』 における「皇統ニ近キ者」とは、元各宮家の皇族で臣籍降下した者のである。
皇后には天皇家に血が近い高級貴族がなることが多かったが、
実際に家系図を見ると、現天皇家につながる系統の生母は側室が多く、中級以下の貴族の娘が多い
また貴族は庶民出身の妾をもち子供をつくる。
例えば、明治天皇の曾祖父でもある光格天皇は、
閑院宮家出身(閑院宮典仁親王の子祐宮)で、直系が絶えた本家に代わって、宮家から天皇家を継いだ。
しかし、その母である蓮華院・橘岩代子は、伯キの国(鳥取県)
倉吉出身の町医者、岩室法橋の息女であり、純粋の庶民出身。
明治天皇の祖母(母方)も、松浦藩の家老の娘
、
大正天皇の生母も中級貴族の娘で、庶民の血が入ってる。
昭和天皇の祖母(母方)の野間幾子も庶民出身。
皇太后の母は薩摩藩主と庶民の妾の子。
政権返す慶喜イヤダロナ=1867
案外喜んで返したのかもしれない。
菊と葵の物語はそん所そこらいのお話ではない。
歴史の重みと国の運営の頂点に立つものの苦渋に満ちている。
高松宮日記〈第1巻〉 高松宮日記高松宮 宣仁 (著)¥3,568
徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき最後の将軍の横顔
徳川慶朝 著 集英社 97/10 \1500
菊と葵のものがたり 高松宮喜久子 著 中央公論社 98/11 \1600