この土地・・・山城

2004年12月10日
牧場用地の件で午後2時江平ジョイフルで会う
高城町からご苦労さんな事である。よく動かれる。
国富の2町歩もの用地開発の現場に行く

驚きの現場である
優に30メートル以上の谷間でいったいどのくらいの土量がいるのだろうか

あまりにもの巨大な谷ゆえ驚いた狂気の沙汰どころではない。
困難では造成はとても不可能

ここは宮崎ですぞ!こんなとこ開発しようとするのがわからぬ。
本来なら開発行為、あるいは林地開発の届出、字図からして青線、赤線たる国有地の付け替え

触れるものではない一部の杉は90度に近い高さ20メートルぐらいを含んでいる

底地ごとが杉伐採の条件との事である
冗談じゃない!強い抗議は誹謗さえ帯びていた。

南側は八代城跡も看板があるので山道を小走りに急いだ
まったく人跡がない無人の地であるしばらく上ると頂上が開けてきた

国富町南俣川上原の東の端に位置する北方向、東方向に開けた山頂にある国富城である

付近の栗栖?地区からすれば40メートルぐらい高きこんもりした高さとなっており中世の典型的な山城である

東本丸で約30アール二の丸10アール三の丸10アール
下の地区の取添は35アールもあるという

昭和10年4月に建立された記念碑がある
知識のなさと待ってる車のクラクションもあり教育委員会の看板を急いだ

時代は戦乱の南北朝の天皇方についた伊東祐広は1336年北朝方の伊東祐持{従兄弟の孫}と土持宣栄{のりひで}
の連合軍の前に陥落し猪見城に落ちていき76歳の生涯を終えた

南九州を一時は島津氏を凌ぐほどの権勢を誇っていた伊東氏の48城のころかと思っていたが少し前のことのようである

安土城の信長以前は皆そうで山城である
日向の城は本城たる西都市都於郡とよく似通っている。

北と西に大きく大パノラマの都於郡城海抜100メートルぐらいの山頂なのに東は堀さえある

芭蕉の句碑さえ立つ大安寺下の堀跡
江戸期の宮崎市内の大淀川右岸河口に栄えた赤江俳人が立てたものであろう

断崖に囲まれた伊東氏本城である
考えるにつれ何故この地なのか。

源頼朝より下地されたからは当然としても私は
景行天皇の熊襲征伐の本拠地たる高屋跡であったからであろうと察する。

もしくは荘園制度の国づくりの国分寺が児湯たる西都に於かれていたからかもしれない。

「春は花秋は紅葉の帆を揚げて・・・浮き船の城」
と形容される自然の要塞

西方の戸敷、亀塚地区からの見上げる三の丸絶景は誰しも歴史のロマンに溺れてしまう

明治期の城跡が県庁でないのは札幌とわが宮崎県のみである。
宮崎市内は延岡の飛び地であったり、天領の地であった。

漱石の「ぼっちゃん」にして・・サルと人間の同居する延岡・・と形容された状況に変化はない。

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