決断!加わるべきか
2004年12月15日「時は元禄15年12月14日・・・」
講釈台をビシビシとたたく音が聞こえそうです。」
吉良邸に討ち入る47士の打ち鳴らす山鹿流陣太鼓
いいですね〜
エェツ!1日遅れの今日は15日だと〜エェイ!もういいや〜
社会的には前の夜をその日とするゆえそうなるんである。
正確には元禄15年12月15日の午前4時頃のこと。
・・・・・・ 悔しい!強がってま〜す<笑>
こうなれば井沢元彦流の逆説忠臣蔵だ。
まずは割腹した人数から幕府の記録では正確には46士である。
寺坂吉右衛門は密使としての役割で吉良邸を引き上げるとき密使の役割もあり割腹し果てていない。
つまり生き残りのものがいたのある。
ドキュメントものの出版でもさせたら凄かろう。
これにはシバレンこと柴田錬三郎の作品がある。
・・・・
堀部安兵衛の許婚が亀戸に住んで弔らっていた
「妙戒依」<ミョウカイイ><字面あってるかな?>と称していた
高輪まで遠いので参詣しやすくとの江戸庶民の義侠心・江戸っ子ぶりが働き、泉岳寺のまえに庵をあんでショウジョウ庵と称し「妙戒依」は移り住んだ、
義士の話を聞くため引っ切り無しの泉岳寺
話のお礼で裕福であったが奢りも出始め、傲慢になり都合をいい参詣者に会わない日も出てきた。
遺児の堀部ヤソジが面倒を見ていた。
「10両包むので義士の話を聞かせてくれ!」
と会うのを断り続けられてた老師が現れた。
義士のことを話す「妙戒依」
「本当にそうですか」
矛盾点、話が変わっていくところを追求して
話を変えないように説諭する。
さらに、本当に許婚であったのかとさえ詰め寄る
墓に詣でて語る
「ご無沙汰をしておりました」
作者は言わないが読者には寺坂吉右衛門!その人を感じ取るシバレン作品の構成は見事!
ほんの少し昔の人はこのことを誰でも知っていたからである。
「当時36歳、裏門より討入りもうした。」
四十七士のうちただ一人生き残り、83歳まで生き延びたという。
寺崎忠左衛門の足軽として同志の連絡にあたり、討入り後、泉岳寺に引き揚げる時内蔵助から立ち去るように諭され
残された家族に見聞したことを伝える役目を与えられた
吉右衛門は後世の人のための「生き証人」として『忠臣蔵』〜赤穂義士物語を語り継いだ。
シバレンはこれを小説としたのである。
あいかわらずの都内一の人気の寺・高輪泉岳寺
去年まで ただの寺なり 泉岳寺
処分は浪士たちの遺児にも及んだ。
大石大三郎はじめ浪士の遺児19人に遠島流罪が申し渡され、内15歳以上の4名が実際に伊豆大島に流罪となり、15歳以下のものは親類預けとなった。
遠島になった4名の内1名は、赦免を待たず、遠島中に死亡した。
神崎世次郎は盗賊になり、大三郎も大石家の名を下げた
吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
史実を追ってみるといろいろとあがってくる。
元禄14年(1701年)3月14日午前11時頃が松の廊下の事件
元禄15年11月29日には、瑶泉院に報告にあがる
元禄15年12月14日15日午前4時頃
元禄16年2月4日に切腹<(現在の3月10日ころ>
旧暦12月15目は、現在の1月16日ころに相当し、その4日前に降雪があったが、当日に雪は降ってなかったらしい。
江戸城の“松の廊下"は公家以上の高家専用で、武家は通れないから、現場は違うトコロのはず。
大石内蔵助良雄は、真に女好きの遊び好きであった、とか。
「男でござ一る」の天野屋利兵衛や槍の名人の俵星玄蛮は架空の人物。
討ち入りに際しては黒地に白くジグザグ棋様(山型) を縁取った羽織や名前を書いた半襟なんぞは着てなかった。後の歌舞技上演に始まること。
隠密裏におこなう夜襲には山鹿流とされる陣太鼓や笛を鳴らすのは、もっての外である。
仇役の吉良上野介(享年62歳)は、三州塩の塩田を開発したり、用水や排水の築造などで領民の生活を向上させていて名君の誉れ高かったとのこと。
お城け渡し前に金を持って逃げたとされる大野九郎兵衛(勘定役)
福島県板谷峠に彼の墓があるという。
この峠こそは、もし吉良上野介が江戸を逃げて、息子の領地・上杉家領内(山形県)へ向かおうとする時、必ず通る道で、ここで一人待ち伏せしていたのだそうな。名誉回復させとこっと
実に用意周到に作戦は練られていたのである。
同士は最大で130人くらいいたが47士になった。
江戸急進派の1人高田郡兵衛は養父に仇討ちの計画がばれ、同士から脱退しなければ幕府へ訴えると言われたので、同士から脱退
刃傷事件を早駕籠で伝えた萱野三平は、仇討ちの意志と、父の仕官の勧めとの板ばさみに悩み、元禄15年1月14日に自殺
月日は人の心もすっかり変える。
事件より47年後、時代を平安にし登場人物名を変え「仮名手本忠臣蔵」として11段の物語とした。
あの近松門左衛門がこの話をもとに「太平記」を書き上げ、最初に人形浄瑠璃が演じられたのが大阪の竹本座(1706年)
さらに竹田出雲らの「仮名手本忠臣蔵」の初演(1748年)竹本座。
赤穂ものは人形浄瑠璃や歌舞伎、浪曲講談にあるところだ
私は円楽師の「中村仲蔵」や浪曲の義士伝は誰のでも言い。
浅草・木馬館では寄席のように出演者を見ないで木戸にいるぐらいだ、
大仏次郎は『赤穂浪士』で、この赤穂事件を大胆に読み替えた。
主君の仇をうつ忠孝の臣とされた大石内蔵助を幕藩体制に抗議する
批判者として描いた。
「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」。
批判者としての大石を生き生きと描くことで「忠君愛国」
的な時代思潮をみごとに裏返してみせた。
小説が書かれた昭和二年は、不況風が吹く金融恐慌の頃。
失業者が群れたこの時代を武士があぶれた元録時代に重ねあわせた。
上杉方の間者になり大石らの動きを追う堀田隼人や怪盗「蜘蛛の陣十郎」、架空のこの二人もまた時代が生み落とした浪人だった。
大仏はこの小説で「義士」でなく「浪士」を書いた。だから浪士たちの世俗的な悩みや苦しみもどこか実感がともなう。
、
「もっともらしい理屈や意見は平穏無事の時のことだ。いざとなると人間は卑怯か卑怯でないかに分かれる。
なまじ知恵があったり学問のある上層の者が事変に無力になるのはそのためだ
大石のつぶやきは私が一番実感しそのまま現代にも通じる。
『赤穂浪士』が、いまだに新鮮に読めるのはそのせいかもしれない。
四十七士らをまつる赤穂の大石神社に一通の公文書が保存されていた。城明渡しのさいに作成された城内所蔵品リスト。
『城内犬之覚』には「赤 拾匹、白 九匹、赤ぶち 一匹、黒 弐匹、 外に子犬八匹 廊下下などに所在 員数不明」。
城を後にする浪士たちの律儀さか、それとも”お犬将軍”への皮肉だったのだろうか。
そんな時代の閉塞感のなかで浪士たちは「討ち入り」を果たし、ニヒルな浪人、堀田隼人は討ち入りによる変革を期待する。
しかし変わらない、むしろ武士道はすたれていく。
殿中での刃傷事件が起きてからことしで三百二年になる。
赤穂浪士は外伝のほうが面白いのかもしれない。
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講釈台をビシビシとたたく音が聞こえそうです。」
吉良邸に討ち入る47士の打ち鳴らす山鹿流陣太鼓
いいですね〜
エェツ!1日遅れの今日は15日だと〜エェイ!もういいや〜
社会的には前の夜をその日とするゆえそうなるんである。
正確には元禄15年12月15日の午前4時頃のこと。
・・・・・・ 悔しい!強がってま〜す<笑>
こうなれば井沢元彦流の逆説忠臣蔵だ。
まずは割腹した人数から幕府の記録では正確には46士である。
寺坂吉右衛門は密使としての役割で吉良邸を引き上げるとき密使の役割もあり割腹し果てていない。
つまり生き残りのものがいたのある。
ドキュメントものの出版でもさせたら凄かろう。
これにはシバレンこと柴田錬三郎の作品がある。
・・・・
堀部安兵衛の許婚が亀戸に住んで弔らっていた
「妙戒依」<ミョウカイイ><字面あってるかな?>と称していた
高輪まで遠いので参詣しやすくとの江戸庶民の義侠心・江戸っ子ぶりが働き、泉岳寺のまえに庵をあんでショウジョウ庵と称し「妙戒依」は移り住んだ、
義士の話を聞くため引っ切り無しの泉岳寺
話のお礼で裕福であったが奢りも出始め、傲慢になり都合をいい参詣者に会わない日も出てきた。
遺児の堀部ヤソジが面倒を見ていた。
「10両包むので義士の話を聞かせてくれ!」
と会うのを断り続けられてた老師が現れた。
義士のことを話す「妙戒依」
「本当にそうですか」
矛盾点、話が変わっていくところを追求して
話を変えないように説諭する。
さらに、本当に許婚であったのかとさえ詰め寄る
墓に詣でて語る
「ご無沙汰をしておりました」
作者は言わないが読者には寺坂吉右衛門!その人を感じ取るシバレン作品の構成は見事!
ほんの少し昔の人はこのことを誰でも知っていたからである。
「当時36歳、裏門より討入りもうした。」
四十七士のうちただ一人生き残り、83歳まで生き延びたという。
寺崎忠左衛門の足軽として同志の連絡にあたり、討入り後、泉岳寺に引き揚げる時内蔵助から立ち去るように諭され
残された家族に見聞したことを伝える役目を与えられた
吉右衛門は後世の人のための「生き証人」として『忠臣蔵』〜赤穂義士物語を語り継いだ。
シバレンはこれを小説としたのである。
あいかわらずの都内一の人気の寺・高輪泉岳寺
去年まで ただの寺なり 泉岳寺
処分は浪士たちの遺児にも及んだ。
大石大三郎はじめ浪士の遺児19人に遠島流罪が申し渡され、内15歳以上の4名が実際に伊豆大島に流罪となり、15歳以下のものは親類預けとなった。
遠島になった4名の内1名は、赦免を待たず、遠島中に死亡した。
神崎世次郎は盗賊になり、大三郎も大石家の名を下げた
吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
史実を追ってみるといろいろとあがってくる。
元禄14年(1701年)3月14日午前11時頃が松の廊下の事件
元禄15年11月29日には、瑶泉院に報告にあがる
元禄15年12月14日15日午前4時頃
元禄16年2月4日に切腹<(現在の3月10日ころ>
旧暦12月15目は、現在の1月16日ころに相当し、その4日前に降雪があったが、当日に雪は降ってなかったらしい。
江戸城の“松の廊下"は公家以上の高家専用で、武家は通れないから、現場は違うトコロのはず。
大石内蔵助良雄は、真に女好きの遊び好きであった、とか。
「男でござ一る」の天野屋利兵衛や槍の名人の俵星玄蛮は架空の人物。
討ち入りに際しては黒地に白くジグザグ棋様(山型) を縁取った羽織や名前を書いた半襟なんぞは着てなかった。後の歌舞技上演に始まること。
隠密裏におこなう夜襲には山鹿流とされる陣太鼓や笛を鳴らすのは、もっての外である。
仇役の吉良上野介(享年62歳)は、三州塩の塩田を開発したり、用水や排水の築造などで領民の生活を向上させていて名君の誉れ高かったとのこと。
お城け渡し前に金を持って逃げたとされる大野九郎兵衛(勘定役)
福島県板谷峠に彼の墓があるという。
この峠こそは、もし吉良上野介が江戸を逃げて、息子の領地・上杉家領内(山形県)へ向かおうとする時、必ず通る道で、ここで一人待ち伏せしていたのだそうな。名誉回復させとこっと
実に用意周到に作戦は練られていたのである。
同士は最大で130人くらいいたが47士になった。
江戸急進派の1人高田郡兵衛は養父に仇討ちの計画がばれ、同士から脱退しなければ幕府へ訴えると言われたので、同士から脱退
刃傷事件を早駕籠で伝えた萱野三平は、仇討ちの意志と、父の仕官の勧めとの板ばさみに悩み、元禄15年1月14日に自殺
月日は人の心もすっかり変える。
事件より47年後、時代を平安にし登場人物名を変え「仮名手本忠臣蔵」として11段の物語とした。
あの近松門左衛門がこの話をもとに「太平記」を書き上げ、最初に人形浄瑠璃が演じられたのが大阪の竹本座(1706年)
さらに竹田出雲らの「仮名手本忠臣蔵」の初演(1748年)竹本座。
赤穂ものは人形浄瑠璃や歌舞伎、浪曲講談にあるところだ
私は円楽師の「中村仲蔵」や浪曲の義士伝は誰のでも言い。
浅草・木馬館では寄席のように出演者を見ないで木戸にいるぐらいだ、
大仏次郎は『赤穂浪士』で、この赤穂事件を大胆に読み替えた。
主君の仇をうつ忠孝の臣とされた大石内蔵助を幕藩体制に抗議する
批判者として描いた。
「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」。
批判者としての大石を生き生きと描くことで「忠君愛国」
的な時代思潮をみごとに裏返してみせた。
小説が書かれた昭和二年は、不況風が吹く金融恐慌の頃。
失業者が群れたこの時代を武士があぶれた元録時代に重ねあわせた。
上杉方の間者になり大石らの動きを追う堀田隼人や怪盗「蜘蛛の陣十郎」、架空のこの二人もまた時代が生み落とした浪人だった。
大仏はこの小説で「義士」でなく「浪士」を書いた。だから浪士たちの世俗的な悩みや苦しみもどこか実感がともなう。
、
「もっともらしい理屈や意見は平穏無事の時のことだ。いざとなると人間は卑怯か卑怯でないかに分かれる。
なまじ知恵があったり学問のある上層の者が事変に無力になるのはそのためだ
大石のつぶやきは私が一番実感しそのまま現代にも通じる。
『赤穂浪士』が、いまだに新鮮に読めるのはそのせいかもしれない。
四十七士らをまつる赤穂の大石神社に一通の公文書が保存されていた。城明渡しのさいに作成された城内所蔵品リスト。
『城内犬之覚』には「赤 拾匹、白 九匹、赤ぶち 一匹、黒 弐匹、 外に子犬八匹 廊下下などに所在 員数不明」。
城を後にする浪士たちの律儀さか、それとも”お犬将軍”への皮肉だったのだろうか。
そんな時代の閉塞感のなかで浪士たちは「討ち入り」を果たし、ニヒルな浪人、堀田隼人は討ち入りによる変革を期待する。
しかし変わらない、むしろ武士道はすたれていく。
殿中での刃傷事件が起きてからことしで三百二年になる。
赤穂浪士は外伝のほうが面白いのかもしれない。
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