勤皇の志士
2004年11月29日中也さん!ヨーロッパ行けますヨ〜〜〜!
日本人の価値観のひとつに勤皇家というのがどうやらあるのかもしれない。
換言するなら節操、女性の倫理観たる操とでもいおうか
政治は最高の道徳といわれてるので生き様そのもの
かって私は死しても初志貫くべしを座右の銘としていた
今だ何一つ変わらぬがナンセ生きてゆかねばならぬ。
つまり最低限の経済的保障でトーンが落ちる。
信条たる建前に生き抜く本音が出てくるわけである。
よってお墨付きがいるわけだ。
西洋人ならキリストをはじめとする絶対正義、神の子たる宗教的証である。
其れが日本人の場合は勤皇家や否やとなる。
皇室の地位と武家社会の地位が入れ混じっていた実力社会の武家社会でさえ勤皇家は絶対正義であった。
公家をはじめとする朝廷に金品を贈り官位を望んだ
生活の糧の武家の身分だけでは尊敬が得られなかったからだ
鳥羽伏見が圧倒的力の幕府軍が敗れたのも天皇軍たる「錦の御旗」
がたち、幕府軍が朝敵になってからである。
高野彦九郎は県内くまなく歩き日向地誌を著した。
彼には冠名士として勤皇家がついてまわる。
米良を治めてきた菊地氏は永きに渡り家訓的な生き様が受け継がれてきた。
動乱期の南北朝時代も忠臣・楠木正成に劣らぬ働きをした。
江戸末期たる明治初期は勤皇家を多く生み出した
昨日書き漏らしたことがある。
それは触れた去川の大銀杏を見守り続けた二見家についてである。
せっかくの源氏の世も源三代目の実朝を従兄弟たる公暁が暗殺して終わりを告げた。
鶴岡八幡宮の大銀杏の裏での暗殺劇である。
その大銀杏とほとんど同時期である高岡・去川の銀杏
なんか小説の伏線として使えそうである。
異種同株の樹種の特異性に話の根源を求める因果応報劇として描くのである
伊勢は三重県伊勢神宮で皇族の年間行事に組み込まれている第一の社である。
その国主たる佐々木義秀の家臣が伊勢二見ヶ浦を治めていた二見岩見守久信は
公暁に滅ぼされたあとも源家を守り使えた。
忠臣は何も勤皇家のみに与えられるものでもないようである
16代島津義久が二見久信を去川の関の御定番に指名されたのもうなずける。
日本人論たる勤皇家は義理人情の観点からも勤皇思想は言えるようだ
中原中也の会{会長北川透}は英訳に仏訳の60編を出版する
彼の偉功を偲んでである
「山羊の歌」「サーカスの歌」17編
死後編まれた「在りし日の歌」等々
ひとつのメルヘンでの23編も含まれる
宮崎日向での製材所のうたはなかろうな。
昨年10月12日のせきやん日記
その、若山牧水生家を尋ねた帰りに詩作が練られた。
中也の宮崎での作である。
製材所が、橋の袂にあったのである。
材木
立ってゐるのは、材木ですぢやろ、
野中の、野中の、製材所の脇
立ってゐるのは、空の下によ
立ってゐるのは、材木ですぢやろ、
日中、陽をうけ、ぬくもりますれば
樹脂の匂ひも、致そといふもの
夜は夜とて、夜露うければ、
朝は朝日に、光るというもの。
立ってゐるのは、空の下によ、
立ってゐるのは、材木ですじゃろ。
近代文学館は日暮里にあるが中村稔館長の言葉
「仏からのランボー全集を出したが渡仏の夢は実現できなかった中也
小説の仏訳はあるが詩となると数点のみである。」
「記念の弟10回大会と成る来年は記念事業となる。よって現地フランスでのイベントを企画している。」
ツールーズ大イブ=マリ・アリュー助教授が全訳にあたる。
京大宇佐美斎教授{近代仏誌}
「仏訳は画期的なこと。深い理解がいるので適切なる訳者であり、人にも評価される」
出版はアルル市フイリップ・ピキコ社来年5月が刊行の予定である。
今日のラジオから。生き様たる信念を感ずる。これもまた勤皇家。
長谷川きよしの演奏に惹かれ「テシゴトヤ吉兵衛」は芸大を目指すが資金難もありダイナマイト免許をとり、資金を集める・・わかります?
木地師につく。30歳でデビューNHKみんなの歌「雪」は7千通も楽譜依頼がきたヒット曲となる。
生命の尊さ生きる大切さを込めて唄う。
子供から芸能人の父を拒否され、公演をやめた。
再開したのが永六輔のはなしからであった。
新曲のC/Dを出した。「色即是空」である。永六輔の詩である。
「供養してから楽譜を渡してほしい。」とお寺さんから渡された。
永六輔の妻のまさこさんのことであった。
子供、家庭を思い休演していたのを再開した。
この人の命を含め大切にする心
私にはない。
あべまさしのチエロ「空にかけて」は心が洗われた。
津田邸他のパネルを上げる。
体力がよくももつものだ。
この多忙さでも120万の売上にしかなっていない。
どのようにすればよいのか見えてこない。
スタートしてから考えている。
露頭にに迷わすわけには行かない。
勤皇家は焦らない。ひたすらの忠節のみである。
それが日本人!
去る月
日本人の価値観のひとつに勤皇家というのがどうやらあるのかもしれない。
換言するなら節操、女性の倫理観たる操とでもいおうか
政治は最高の道徳といわれてるので生き様そのもの
かって私は死しても初志貫くべしを座右の銘としていた
今だ何一つ変わらぬがナンセ生きてゆかねばならぬ。
つまり最低限の経済的保障でトーンが落ちる。
信条たる建前に生き抜く本音が出てくるわけである。
よってお墨付きがいるわけだ。
西洋人ならキリストをはじめとする絶対正義、神の子たる宗教的証である。
其れが日本人の場合は勤皇家や否やとなる。
皇室の地位と武家社会の地位が入れ混じっていた実力社会の武家社会でさえ勤皇家は絶対正義であった。
公家をはじめとする朝廷に金品を贈り官位を望んだ
生活の糧の武家の身分だけでは尊敬が得られなかったからだ
鳥羽伏見が圧倒的力の幕府軍が敗れたのも天皇軍たる「錦の御旗」
がたち、幕府軍が朝敵になってからである。
高野彦九郎は県内くまなく歩き日向地誌を著した。
彼には冠名士として勤皇家がついてまわる。
米良を治めてきた菊地氏は永きに渡り家訓的な生き様が受け継がれてきた。
動乱期の南北朝時代も忠臣・楠木正成に劣らぬ働きをした。
江戸末期たる明治初期は勤皇家を多く生み出した
昨日書き漏らしたことがある。
それは触れた去川の大銀杏を見守り続けた二見家についてである。
せっかくの源氏の世も源三代目の実朝を従兄弟たる公暁が暗殺して終わりを告げた。
鶴岡八幡宮の大銀杏の裏での暗殺劇である。
その大銀杏とほとんど同時期である高岡・去川の銀杏
なんか小説の伏線として使えそうである。
異種同株の樹種の特異性に話の根源を求める因果応報劇として描くのである
伊勢は三重県伊勢神宮で皇族の年間行事に組み込まれている第一の社である。
その国主たる佐々木義秀の家臣が伊勢二見ヶ浦を治めていた二見岩見守久信は
公暁に滅ぼされたあとも源家を守り使えた。
忠臣は何も勤皇家のみに与えられるものでもないようである
16代島津義久が二見久信を去川の関の御定番に指名されたのもうなずける。
日本人論たる勤皇家は義理人情の観点からも勤皇思想は言えるようだ
中原中也の会{会長北川透}は英訳に仏訳の60編を出版する
彼の偉功を偲んでである
「山羊の歌」「サーカスの歌」17編
死後編まれた「在りし日の歌」等々
ひとつのメルヘンでの23編も含まれる
宮崎日向での製材所のうたはなかろうな。
昨年10月12日のせきやん日記
その、若山牧水生家を尋ねた帰りに詩作が練られた。
中也の宮崎での作である。
製材所が、橋の袂にあったのである。
材木
立ってゐるのは、材木ですぢやろ、
野中の、野中の、製材所の脇
立ってゐるのは、空の下によ
立ってゐるのは、材木ですぢやろ、
日中、陽をうけ、ぬくもりますれば
樹脂の匂ひも、致そといふもの
夜は夜とて、夜露うければ、
朝は朝日に、光るというもの。
立ってゐるのは、空の下によ、
立ってゐるのは、材木ですじゃろ。
近代文学館は日暮里にあるが中村稔館長の言葉
「仏からのランボー全集を出したが渡仏の夢は実現できなかった中也
小説の仏訳はあるが詩となると数点のみである。」
「記念の弟10回大会と成る来年は記念事業となる。よって現地フランスでのイベントを企画している。」
ツールーズ大イブ=マリ・アリュー助教授が全訳にあたる。
京大宇佐美斎教授{近代仏誌}
「仏訳は画期的なこと。深い理解がいるので適切なる訳者であり、人にも評価される」
出版はアルル市フイリップ・ピキコ社来年5月が刊行の予定である。
今日のラジオから。生き様たる信念を感ずる。これもまた勤皇家。
長谷川きよしの演奏に惹かれ「テシゴトヤ吉兵衛」は芸大を目指すが資金難もありダイナマイト免許をとり、資金を集める・・わかります?
木地師につく。30歳でデビューNHKみんなの歌「雪」は7千通も楽譜依頼がきたヒット曲となる。
生命の尊さ生きる大切さを込めて唄う。
子供から芸能人の父を拒否され、公演をやめた。
再開したのが永六輔のはなしからであった。
新曲のC/Dを出した。「色即是空」である。永六輔の詩である。
「供養してから楽譜を渡してほしい。」とお寺さんから渡された。
永六輔の妻のまさこさんのことであった。
子供、家庭を思い休演していたのを再開した。
この人の命を含め大切にする心
私にはない。
あべまさしのチエロ「空にかけて」は心が洗われた。
津田邸他のパネルを上げる。
体力がよくももつものだ。
この多忙さでも120万の売上にしかなっていない。
どのようにすればよいのか見えてこない。
スタートしてから考えている。
露頭にに迷わすわけには行かない。
勤皇家は焦らない。ひたすらの忠節のみである。
それが日本人!
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