今日の誕生日の花は・・・・ロウバイ
花ことばは慈愛心、思いやり

26日投開票の宮崎の新知事は投票率40・82%で河野俊嗣(46)広島呉の人を新知事に選んだ。
東大から旧内務省入省。
米ハーバード大ロー・スクールへの留学派遣のとき後で知ったがオバマ大統領が同窓だったと屈託がない。

川崎 展宏(1927年1月16日 - 2009年11月29日)広島呉の人。
東大文学部を経た国文学者として明治大学教授。
在学中から加藤楸邨に師事した俳人。
週一度朝日の文芸欄の「朝日俳壇」の川崎選で馴染みの方ゆえこの名の活字を見られたご記憶があろう。
1994年から2006年まで12年間続けられた。

民主党官岡田輿石鳩山小沢は温泉でも行けばいい。
1月1日から官邸での森総理以来の新年迎えは生々しすぎるではないか。
新年早々の踏み絵。
やだなぁ~
今年の初めからと・・
田舎の集合体たる政治家連中は正月早々、戦々恐々にあろう
官邸と小沢邸との睨み合い。
小沢邸宅の昨年新年会は菅直人が乾杯の音頭を取ったのにこの様変わり。
恩義理恥など説いた日本人論のベネジエクトの菊と刀が1948年邦訳された日である。
菅直人恥を知れッ!

朝日選者の川崎 展宏
このような句を残しているとラジオが教えてくれた。

蝋梅を 前にしばらく 湯のほてり

wikiが教える白水社の出典のことわり。
『淮南子』から「白水は崑崙(こんろん)の山に出て、これを飲めば死せず」に由来。
文庫「クセジュ 」でお世話になった。
京都学派の尾根をなす一つに桑原 武夫(1904年5月10日 - 1988年4月10日)人脈がある。
梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの弟子を育てた。
同僚にも登山家としても知られる今西錦司と言う別な大きな尾根があった。
1958年に、今西錦司は京都大学山岳会の隊長として、パキスタンのチョゴリザへの登頂を成功に導いた。

桑原 武夫はフランス文学にとどまらず広く学究の成果に俳句論がある。
1946年の雑誌世界「第二芸術論」で俳句界隈を一刀両断にした。

子規の弟子のハズの高浜虚子には辛辣である。

生き様があまりにも日本人論にあわず先哲を
ないがしろさげすむ。
それも実力さえないのに師匠たる子規を踏み台にしている。
師匠を呼び捨て、或いは敬称でさえ君づけで自分を尊大にみせる仕掛けがあるゆえ。

27日の「殺小沢」劇場に登場メンバー菅直人・仙石由人ら。
さらに小沢一郎に当てはめるときに人間社会の普遍性さえかいまみる。
あまりにも俳人界隈の人物像と似通って時空を越え俳人社会とダブル。

菅直人の同じ党員で政権交代の立役者その前任者の先輩方への思い扱いは日本人ではない。
昨日のブログに私怨での菅直人をアップしているので避けるが再読され原因をさぐってほしい。

この態度に象徴されてることが総てである。
輿石氏 「鳩山前総理と小沢元幹事長が来ているのに、菅首相も岡田幹事長もあいさつもしねえ。無礼だ!」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1293335900/-100

このブログのコピペを揶揄される趣もあるが自分史の記録ゆえなんら自覚はしていない。
ただその先駆が桑原 武夫師にみえるゆえなおさらだ。
ことはこうー。
外山滋比古に言わせれば桑原の「第二芸術論」は
アイヴァー・リチャーズ『実践批評』で用いられた手法をそのまま転用していると言う。
まぁ~それはさておき進めたい。
桑原 武夫師は1984年から世界平和アピール七人委員会の委員も務めた
桑原 武夫師は幕末四賢公福井敦賀町蓬莱のひと。
父は、京都帝大学教授で東洋史専攻の、桑原隲蔵(じつぞう)。

司馬遼太郎の史実の落ち度偏向思想はいずれアップしたい。
坂の上の雲の主役の一人に子規が描かれた。

子規俳句の「真価」に比して
その弟子たる虚子はまるでで成っていない。

せきやんブログはNHKラジオ深夜便朝5時前の放送終了前の歳時記の
教えを記録することからいつも長きご迷惑をかけている。
なにも小泉純一郎のワンフレーズに抗してるつもりはない。
いずれ短きブログにしたい。
実験的に二つアップしてみる。

馬齢を重ねたゆえまるで俳句が解らぬが・・・
江戸期の川柳集成の柳樽を何度か挑戦してはしている。
身には付いてはいないが・・・

27日たちあがれ日本は明星の死にたもうなかれの歌人与謝野晶子の孫の与謝野香の努力空しく
6人の国会議員さえまとめられず、菅直人の呼びかけで平沼赳夫副総理入閣を拒否した。
小沢一郎との碁対局は土壇場の逆転負けと古き教えの占い通り。

対局後イゴよろしくという小沢

桑原武夫の第二芸術論から言うならこうである。
元禄時代の俳人、捨女(田すて)は詠んだ

  雪の朝二の字二の字の下駄の跡

枕草子なり和泉式部なりの年端も重ねた文才教養溢れる才女・・
ところがである
この捨女・・・
六歳の時の句なんである。
では
この伝説的な名句とされているものが、
この句は、六歳の捨女が苦労して詠んだものだろうか。
桑原 武夫は第二芸術論で論考する。
そうではあるまい。
単に六歳の子供の頭に十七文字の言葉が出てきただけではないか。
多少の素養があっただろうが、ひらめきによって偶然に出来た句でないか。
 作句で苦労するのは、能力のない証拠である。
 思い上がりの能力のない人物を指して、桑原武夫は言う
「俳壇でもっとも誠実と思われる人」と評しているのだから
、虚子をはじめとした他の俳人の「誠実」は推して知るべしであろう。

 桑原武夫はさらに言葉を継いで言う。
「私と友人たちが、さきの15句を前にして発見したことは、1句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。

 子規が唱えた「写生」は、自然と向き合ううちに、いつしか自然と溶け合い、
雑念のない澄んだこころが俳句をもたらすことの真理にほかならない。

 捨女の「雪の朝」の句はものに感じ、それを平易な言葉で表わせば「俳句」になることを証明している。
言葉(手話)を知っていれば幼女でも誰でもが俳句をつくれ、ときに後生に残る名句さえ望めることを物語っている。

虚子の弟子らの堕落をあげつらう。

水原秋桜子のいう「高等な頭脳」の理屈や観念の遊戯と無縁な、
「純で素直なこころ」が味わいの深い句をなす。

 菩提樹のもとで悟りを得た釈迦をはじめ、宗教者はほとんどすべて自然から「啓示」を得ているはずだ。
自然から啓示を得ず、高等な頭脳とやらで開眼した宗教者がいたであろうか。
秋桜子の言うように絵画彫刻、文献によって悟りを得た人間がいただろうか。
秋桜子自身、「高等な頭脳」を有しているとの思い上がりから発する「軽薄なる頭脳」のタワゴトではないか。
真の高等な頭脳を有していれば、

  寒鯉はしづかなるかな鰭を垂れ
  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々
  ぜすきりしと踏まれ踏まれて失せたまへり
  滝落ちて群青世界とどろけり
  慈悲心鳥霧吹きのぼり声とほき

 こうした訳の分からない句は作らないはずだ。

 独りよがりの駄句凡句のどこに文学性があるのか。
 文学の片鱗すらもなく、俳句を冒涜しているとしか思えないこうした句を、今日なお名句秀句ともてはやす俳句界は堕ちるところまで堕ちているとしか思えない。 俳句界は堕落疲弊の極みにあるのではないか。

       事物の実相とらえる写生

 一度、名前を売って結社と言う一家を成せば、あとは駄句凡句を世に撒き散らしてもぬくぬくと生きてゆける俳句界ほどラクなものはない。
能力がなくとも師匠の歓心を買い、処世術で巧みに世に出れば、あとは井戸端会議よろしく選句・選評を適当にやっていれば、エスカレーターに乗っているごとく徐々に「格」が上がってゆく。
高浜虚子はその典型であろう。
虚子の名高い門弟のほとんどすべても例外ではない。

文学の片鱗でもあれば、高等な頭脳による「文芸上の真」を唱えるはずがない。
まさしく愚かさの雛形のようなものだ。
 また、そうした俳句感覚に疑問を抱かず、唯々諾々とそれを胸にたたみ込み、そして愚にもつかぬ駄句凡句を名句秀句と信ずる「精神風土」は、文学とはまったく無縁な、お稽古事や宗教のようなものではないか。

 「鰯の頭も信心から」というが、鰯の頭をありがたがる「滑稽さが」が俳句の諧謔に通ずるならばまだ救いがあるが、それを滑稽とも諧謔とも思わず、真底、「俳句」だと信じているところに、笑うに笑えものがある。
笑いが凍りつく遣り切れなさがある。
芭蕉の句をもじっていえば、「おもしろうてやがて哀しき俳句界」。
 子規は「写生」を提唱した。
 なぜ、子規は写生を提唱したのか。
 写生こそ物事の実相を捉え得るからである。
 子規は、知識にもたれた表現はもとより、思わせぶりや技巧、曖昧な言い回しを嫌った。
特定の知識を有する人々の間の「言葉あそび」に過ぎないからだ。
月並俳句は宗匠の評価で句の出来不出来が決められた。
知識にもたれた「ひねり」が利いているかどうか、そんなアホらしいことで一句の評価が左右された。
 子規は、いい句は誰が見てもいい句ではないか。
思わせぶりや自己宣伝、技巧・衒いなどによりかからない「透明な句」が優れた句だと見た。

      独活の大木のごとき句を
 子規は、俳諧大要(明治28年10月22日~12月31日新聞「日本」に連載)で次のように言っている。
1、俳句をものせんと思ひ立ちしその瞬間に半句にても一句にても、ものし置くべし、初心の者はとかくに思ひつきたる趣向を十七文字にならねば十五文字、十六文字、十八文字、十九文字乃至二十二、三字一向に差支なし。またみやびたるしゃれたる言葉を知らずとて趣向棄つるも誤れり。雅語、俗語、漢語、仏語、何にても構はず無理に一首の韻文となし置くべし。

1、初めより切字、四季の題目、仮名遣等を質問する人あり。万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。
文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。
しかし知りたき人は漸次に知り置くべし。
1、月並風に学ぶ人は多く初めより巧者を求め、婉曲を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。
初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。
独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松を好むめり。
尤も箱庭の中にて俳句をものせんとならばそれにても好し。しかり、宗匠の俳句は箱庭的なり。
しかし俳句界はかかる窮屈なる者に非ず。
1、俳句の古調を擬する者あれば「古し」「焼直しなり」などとて宗匠輩は擯斥すめり。何ぞ知らん自己が新奇として喜ぶ所の者の尽く天保以後の焼直しに過ぎず。
同じくこれを焼直しなりとも金と鉛とは自ずから価値に大差あり。初学者惑ふ莫れ。
1、俳句はただ己に面白からんやうにものにすべし。
己に面白からずとも人に面白かれと思ふは宗匠門下の景物連の心がけなり。
縮緬一匹、金時計一個を目あてにして作りたる者は、縮緬と金時計とを取り外したるあとにて見るべし。
我ながら拙し卑しいと驚くほどの句なるべし。
1、解しがたき句をものするを以て高尚なりと思惟するが如きは俗人の僻見のみ。
佶屈なる句は貴からず、平凡なる句はなかなかに貴し。

  自己のやさしさ思わせぶりを嫌う子規は、古句の批評により、俳句に対する「視点」を具体的に示している。
   朝顔に釣瓶取られてもらひ水   千代
 加賀の千代の有名な句だが、子規はこの句を「人口に膾炙する句なれど俗気多くして俳句といふべからず」と厳しく言い切っている。
どうしてなのか。
子規は、次のように説明をする。
 「朝顔の蔓が釣瓶に巻きつきてその蔓を切りちぎるに非れば釣瓶を取る能はず、それを朝顔に釣瓶取られたといひたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらひたるといふ意なり。
このもらひ水といふ趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶を取られたとばかりにてかへって善し。
それを取られてとは最も俗なり。
ただ朝顔が釣瓶にまとひ付きたるさまをおとなしくものするを可とする」と。
 千代女(元禄16年~安永4年)は、加賀松任の人で、生前「千代尼句集」が出たほど評判が高く、なかでもこの朝顔の句は、芭蕉の「古池」と並ぶほどひろく知られ、俳句の代表的な句と親しまれていた。
句意は句の通り、井戸の釣瓶に朝顔がからみ咲いていたので、隣から貰い水したというもの。
朝顔へのやさしい心づかいが出ていて、平明で分かりやすいものの、「釣瓶取られて」と朝顔を擬人化し、朝顔へのやさしさを詠むことにより自身の心持ちを炙り出しているところを「趣向俗極まりて蛇足なり」と看破したものである。

今もつづく「第二芸術論」の衝撃

 フランス文学者の桑原武夫の「第二芸術論」の衝撃は、発表から50年以上も経た今日なおもつづいている。
虚子をはじめ俳句界の論客が何ら有効な反論を為し得ずに、「俳三昧。松のことは松に習え」と何のことやら訳の分からない隔靴掻痒の言葉で繕ってきたからではないか。「第二芸術論」に真正面から向き合うことをせず、今日まで来た。

 朝日新聞の俳壇選者、川崎展宏氏は平成5年5月5日発行の「山本健吉俳句読本第一巻・俳句とは何か」の解説のなかで、
この第二芸術論の要旨を紹介し、「当時の心ある俳人にとって、衝撃は最初に並べられた有名無名の俳人の15句を見たときにあったろう。
衝撃は今もあるのではないか。
似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」述懐し、
自戒の論としていることを隠さない。

   かかげられた有名無名15句のインパクト
 さらに川崎展宏氏は言う。
山本健吉の「挨拶と滑稽」「純粋俳句」などは「直接『第二芸術論』に応えるものではなかったけれども、結果からみて、桑原武夫の俳句否定論に対し、俳句固有の方法を示すことで俳句の存在理由を裏付けることになった。
俳人の多くは、自らの存在理由を山本健吉の評論の中に探し求めたに違いないのである」と。

 「挨拶と滑稽」は山本健吉が昭和21年12月から同22年4月にかけて「批評」「現代俳句」に分載した「時間性の抹殺」「物の本情」「古池の季節」などを一括りした題名である。

山本健吉は第二芸術論に何も異を唱えず、ただ芭蕉、蕪村らの俳句から俳句固有の方法として「俳句は滑稽なり」「俳句は挨拶なり」「俳句は即興なり」の三命題のうえに成立するとして、それを解説しているに過ぎない。

 山本健吉自身「俳句を作らない僕が、作らざる者語るべからずいう掟が暗黙のうちに強く支配している俳句について語る資格を与えられたすれば」と述べているように、俳句界は「俳句を作らない僕」の文学者の俳句論のなかに俳人としての存在理由を求めざるを得なかったという状況が、今日なおつづいている「事実」を、川崎展宏氏の解説は物語っている。
     投稿句に劣る大家の俳句
 では、桑原武夫の「第二芸術論」とはどういう内容だったのか。
「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した」の書き出しで始まる

「第二芸術論・現代俳句について」は、昭和21年9月雑誌「世界」に発表された。
虚子をはじめとした大家の「家元俳句」の実体を完膚なきまでに暴き、文学・芸術の足を引っ張る「俳句」の社会的悪影響を厳しく指摘し、それ以後、俳句は井戸端会議の世間話の断片と同様の「第二芸術」の印象が蔓延した。
、「第二芸術論」の要旨。
 「私は試みに次のようなものを拵えてみた。
手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある。
こういうものを材料にして、たとえばイギリスのリチャーズの行ったような実験を試みたならば、いろいろ面白い結果が得られるだろうが、私はただとりあえず同僚や学生など数人のインテリにこれを示して意見を求めたのみである。
読者諸賢もどうか、ここでしばらく立ちどまり、次の十五句をよく読んだうえで」優劣の順位をつけ、どれが名家の誰の作品か推測を試みてもらいたいと、以下の15句を記した。

   1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
   2 初蝶の吾を廻りていずこにか
   3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
   4 粥腹のおぼつかなしや花の山
   5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
   6 鯛敷やうねりの上の淡路島
   7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
   8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
   9 終戦の夜のあけしらむ天の川
   10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
   11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
   12 囀や風少しある峠道
   13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
   14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
   15 柿干して今日の独り居雲もなし

 桑原武夫は言う。
これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じ得ない、と。
「これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形をとらぬからである。
3・7・10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。
これらが大家の作品だと知らなければ(草田男、井泉水、たかし、亜浪、虚子)、誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか」
「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。
現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。

風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、
そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない」
と断じ、俳人の言葉遊びを痛撃した。
      沈黙した虚子そして俳句界
 どのような句を詠もうと門弟たちは有り難がるとの思い上がりがあったのではないか。
また、そうした思い上がりを許す風潮があったのだろう。
桑原武夫の指摘が事実と異なるなら、真正面から文学論争をすべきだった。
俳句が虚子のいうように「花鳥諷詠の文学・大衆の文学」ならば、第二芸術論に対し堂々と論陣を張るべきではないか。
しかし、虚子ら槍玉にあがった大家はもとより俳句界は第二芸術論に沈黙した。
俳句界の視点からすれば「無視」したとなるのだろうが、しかし、事は俳句界の存在理由が問われているのではないか。
無視すれば済むというものではない。
個人に対する批難ではなく、俳句の文学としてのありようを厳しく問うているのである。

 第二芸術論になんら有効な反論をせず沈黙したことにより、川崎展宏師をして
「衝撃は今もあるのではないか。似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」
と言わせる状況にある。

 桑原武夫はさらに言う。
「こういうことを言うと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。
そして『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』
という(水原秋桜子「黄蜂」二号)。
ところで私は、こういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、
むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである」
「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、『小説のことは小説を書いて見なければわからなぬ』などといった者はいない。
ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。
映画を二三十本作ってから『カサブランカ』を批評せよなどといわれては、たまったものではない。
しかし、俳句に限っては、『何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはないと思う』(秋桜子、同上)というような言葉が書かれうるのは、
俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だということをよく示している」と。

   秋桜子の浅薄な「文芸上の真」
 俳壇で「もっとも誠実と思われる」水原秋桜子にして、文学の何たるかを分かっていない。
子供の喧嘩のような言葉を吐いて恥としない体質が、すでに形成されていたという事実である。
俳人と目される人物の感性がいかに疲弊堕落していたか。
桑原武夫の指摘は、文学としては当たりまえのことであり、それに堂々と反論し得ないで、「何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはない」いう秋桜子の言動は、思い上がり以外のなにものでもない。
 作句といっても、たかが知れている。
どんな苦労をして俳句を為しているのか。
苦労をして為す俳句にロクなものはない。
頭でひねくりまわした「文芸上の真」など耳障りのいい言葉をかぶせただけの「言葉あそびではないか」。

虚子は、斎藤茂吉が「俳句寸言」「正岡子規」等で繰り返し行った虚子批判、
さらには桑原武夫の「第二芸術論」に沈黙を通したが、だからといって虚子批判に口を閉ざしていたわけではない。

 復本一郎氏は、角川書店の「俳句」に「子規が愛した俳人」のサブタイトルを付けて「佐藤紅緑の眼」を連載しているが、その第15回(2000年3月号)で、紅緑と虚子との間に子規の呼び方をめぐってちょっとしたいざこざがあったと紹介している。
紅緑の門弟、伊藤葦天が昭和26年(1951)に俳誌「雪解」の9月号書いた「子規と紅緑」の文章の一節。
復本氏は引用する。
 「紅緑先生の部屋には弘前藩時代から佐藤家に伝えられた山鹿素行先生の肖像画が懸かっていた、其下で子規を語るに先生は必ず居ずまいを直されるのであつた。
其う言う時の先生は古武士の様な面影があつた。
そうして子規の事を子規先生呼ばれて決して子規とは言われなかった。
或る時私は先生に向つて虚子先生は子規の弟子なのですか友人なんですかとお尋ねしたら、先生は『そうだね』と言われたきりで何とも言われなかった」

 復本氏はこの引用文につづいて「葦天がこの文章を発表したのは、紅緑の没後二年の時点においてである。
葦天は、この文章の末尾に、紅緑を見舞っての、紅緑と虚子の関係を記している」と説明し、さらに葦天の文章を引用。

 「昭和24年の春、紅緑先生の病篤しと聞くや虚子先生は真砂子さんと先生を病床に見舞われた。
其時に小康を得ておられたのでいろいろの話を交えられた様である。
あとでも虚子先生の友情深きに涙を見せて喜ばれたのを覚えている」と。

 復本氏はつづけて言う。
「この二つの文章を読み比べていただきたい。読者諸賢はどのような感想を持たれるであろうか。(略)虚子が葦天の『子規と紅緑』なる文章を読む可能性は、きわめて高いのである。
そこで、葦天は、もし、虚子が自分の文章を目にしたとしても、不快な感情を抱かないように、配慮して末尾に付け加えたのが、病床を見舞った虚子の篤い友情の記述だったと思われるのである」と葦天の心くばりを推測。

   事実と異なる虚子の記述
 紅緑は子規について語るとき必ず「子規先生」と言い、子規と呼び捨てにすることはなかったというのである。
対して、虚子は「子規」と呼び捨てにすることが一再ならずあったのであろう。
と復本氏は記すが、子規の死後、虚子の発言や著述をあたれば直ちに分かることである。

虚子が、子規あるいは子規君という呼び方以外の表現をしたことがあるのだろうか。
7歳上の仰ぎ見る大先輩で、右も左も分からない虚子を俳句に導き教えた恩師の子規を、虚子は子規と呼び捨てて何ら恥じる、あるいは臆するところがなかったのではないか。

 呼び方には人間の親疎の感情がともなう。

 たとえ年上の恩師を呼び捨てにしていても第三者として違和感のないこともある。
むしろ呼び捨てにすることによりその人間のナマの思いが出て、好感のもてる場合のあろうし、また取り繕った尊称よりそのほうが自然なこともあろう。

しかし、虚子の場合は、どうにも不快感が付きまとう。
子規と呼び捨てることにより、自己の立場を他者より優越したところにあるような印象与え、さらには子規と同格のごとき錯覚を他者に与える効果を計算していたのではないか。

「子規」と呼び捨てる虚子のそうした「印象」が、私には不快感のもとになっている。

 復本氏はつづける。
「案の定、葦天の文章は、虚子の癇にさわったのである。
虚子にしてみれば、多忙を理由に黙殺してしまえる種類の文章ではなかったのである。
虚子、また、自分の人格を否定されてしまっているかのごとき印象を受けたのであろう。そこで、虚子は、早速、『ホトトギス』の昭和26年(1951)12月号に『子規雑記』なる文章を載せて反論するのである。
わずか三ヶ月後のことである。

それは『伊藤葦天君が「子規と紅緑」といふ文章の中にこんなことを書いてゐました』と書きはじめられる」と虚子の心情を推測したうえで、虚子の反論文を引用している。

 「私は、子規のまだ名を成さぬ以前、大学の学生であつた時分に私は故郷の中学校を卒業したばかりであつたが、初めて子規と交遊を求めたのでありました。
(略)始は先生としてではなく、まづまづ友達といつた恰好で子規に交遊を求めたのでありました。
(略)後になるとその兄貴分はだんだんと先生株になつて、その弟分はだんだん弟子になつた、といふわけであります。
併しながら始めの成り立ちは終ひまで物を言つて『升さん』『清さん』と呼ぶことは際立って改めるわけにも行かずそのままになつてゐたのであります。
紅緑は之と異り、子規がもう立派な一人前の人間になつて『小日本』の編集長であり、紅緑はその下に在つて露月と共に校正などをやつてをつたのでありますから、
はじめから『子規先生』と呼んでゐました」と虚子は反論とも弁明ともつかぬことを書いている。

 復本氏は、紅緑が子規を初めから子規先生と呼んでいたといる虚子の記述は「正確ではない」と遠慮がちに指摘する。
紅緑は陸羯南宅の隣人としての「正岡さん」時代、日本新聞社の同僚社員としての「正岡君」時代、そして本格的に子規に俳句入門してからの「先生」時代の三段階に呼び方が変わっている。

 虚子が言うように、日本新聞社の役職の上下関係から紅緑が「子規先生」と呼んでいたのではない。むしろ同僚社員として「正岡君」として付き合っている時期である。また、子規は、虚子と違って「先生」と呼ばれることをあまり好まなかった。それにしても虚子の文章の冗漫なこと、ねちねちと納豆のごとき歯切れの悪いこと、ここに虚子の人格がひそんでいるように思える。
 それに、虚子の言っていることには嘘がある。

   師弟関係を嫌った子規の思いを逆手に
 虚子が碧梧桐の紹介を得て子規に交遊を求める手紙を出したのは明治24年5月、子規が25歳、虚子は18歳の時。
たしかに子規は文科大学哲学科から国文科に転科していたが、この年の冬、子規は「俳句分類」に着手している。
翌25年には新聞「日本」に「かけはしの記」「獺祭書屋俳話」を連載している。今の感覚の大学生ではない。
すでに立派な文人、論客として存在し、虚子は友人としてではなく「師」として付き合い、仕えていたのではないか。

 子規は、宗匠による月並俳句の弊を一掃し、真に文学としての「俳句」をめざすうえで、「師弟関係」は障害になると捉え、師匠風を吹かさず、もっぱら俳句仲間として、人生の先輩として自らを律してきたのではなかったか。
また、子規は、文学には「門地、家柄、格、老少などの別はない」と既成の価値観にとらわれない自由な句作・批評をめざした。

 虚子は、子規のそうした思いを逆手にとって、自己の存在を大きく見せよう、アピールしようと「子規」あるいは「子規君」と言っていたのではないか。
その何とも打算的な呼び方、また子規の評価をいたずらに貶めるような遇し方に我慢ならない人々が、子規との関係において虚子を批判したのではないか。

 俳人としての虚子は、作句選句、批評において取るに足りないもので、論じるほどのこともないが、しかし、今日の俳句界の退廃は、虚子の業績と伝えられるものを検証し、正当に評価しなければ歯止めがきかいないところまできている。

 桑原武夫の第二芸術論に戻りたい。
 桑原武夫はさらに言う。「ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。そこで芸術家は芸術以外のところにおいて、つまり作者の俗世界における地位のごときものによって決められるの他はない。
ところが他の芸術とちがい、俳句においては、世評が芸術的評価のうえに成立しがたいのであるから、弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる。
かくて俳壇において党派をつくることは必然の要請である」「たとえば虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ『ホトトギス』の家元、『石楠』の総帥があるのである」さらに、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とある事実をとらえ、神秘化の傾向を指摘。
「神秘団体においては上位者が新しい入団者に常に説教することが必要とされる。

かくすることによってその権威が保たれるのである。
事実俳人ほど指導の好きなものを私は知らない。
俳三昧、誠をせめる、松の事は松に習え、人間の完成、等々。
ところで行住坐臥すべて俳諧というような境地は、封建時代においてさえも有名な専門俳人以外には実行不可能なことであった」と俳句結社のありよう、俳人の社会的感覚にまで踏み込んで実体を指弾。

  ひまと器用さの俳句の実体
 今から50年以上前の論文だが、今日なおこの第二芸術論が新鮮さを失わないのは、俳句界のありさまが第二芸術論をもたらした状況とたいして変わっていないということである。むしろ、当時より悪くなっているのではないか。愚にもつかぬ「師系図」を持ち出し、俳句批評や著述の中で引用する句はもっぱら師系に属する俳人の句ばかり。桑原武夫はこうした現象を党派と言ったが、まさしくお稽古事の「流派」に他ならない。今日、俳句はそこまで堕落しているのである。
 第二芸術論をさらに引用したい。
 「そこで俳壇においては、たとえば銀供出運動に実にあざやかな宣伝文句をたちどろこに供出し得た大家たちが、いまもやはり第一流の大家なのである。芸術家が社会的に何をしても、それが作品そのものに何の痕跡ものこさぬ、俳句とはそういうジャンルなのである」
 桑原武夫は核心の芸術論に話をすすめ、日本では芸術が軽視されてきたのは「俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。芸術は自分たちにも楽にできる。
ただ条件がよかったために作句に身を入れたものが大家といわれているので、自分たちも芸術家になり得た筈だ、芸術はひまと器用さの問題だ。
このように考えられるところに正しい芸術の尊重はあり得ず、また偉大な芸術は決して生まれない」と結論づけている。
 第二芸術論は、俳句界のぬる湯の体質に冷や水を浴びせた。「裸の王様」に成り下がっていた俳句界に、「箴言」を与えた。私には、第二芸術論は天の啓示と思える。
天が桑原武夫をして語らしめたのである。
 しかし、俳句界の体質は改善せず、自分たちにとって都合の悪いことには耳をふさぎ「誠をせめる、松の事は松に習え」と愚かな題目でなぐさめる体質を「深化」させていった


虚子を菅直人
子規を小沢一郎に
置き換えてみると
どうも本物論の文学論で俳句を愛した
桑原武夫の第二芸術論は小沢一郎の民族愛に通うづるものを感じる。

官邸と小沢邸との睨み合いでこの国は新年を迎える。
新年1日ぐらいは暇をくれッ!

門松は冥土の旅の一里塚

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今日の誕生日の花は・・・・ロウバイ
花ことばは慈愛心、思いやり

永田町もお役所の御用納めの日にしての
残り3日にしてようやく年越し準備が出来る

  菅直人も参加しての
  27日の民主党役員会の結論
<1月16日頃開会予定の国会開会前に政倫審出席を決議することを決議した>民主党役員会。

状況はどうなってるのか。
自民公明も政倫審出席決議に反対である。
なぜか。
国会は権力闘争の場である。
与党の国会対策の手の内のカード「小沢政倫審出席」をみせてては
野党は当然のことハードルをあげ、政倫審出席で手打ちにするはずがない。
各党間の権力争奪戦にあるゆえ明白なこと。

それが解らぬゆえ小沢が諭す。
「出席すれば国会が好転する約束があるのか。」
「野党と話を詰めてるのか」
「小沢が国会で説明をと野党はそう言っている」というばかり。

管岡田の学級委員会程度を証明してること。

宗主国アメリカオバマ政権は鳩山政権を潰した。
鳩山政権を潰す前から米帝はダメージコントロールするため「政治とカネ」の問題にすり替えた。
6・2クーデターの知恵を授け、仙谷・菅を使い小沢一郎を追い込んでいる。
この米帝の圧力に屈すれば、戦争勃発・金融収奪の深化により、数多くの国民が行き詰まろう。
この国特有の病巣が浸透深化しているゆえ死ぬこととなろう。
いまでも一日100人の経済苦自殺者は何人となろう。
今宗主国に抵抗しなくて何時抵抗するのか

米帝から兆単位で収奪されている構造を終わりにしなくては、小手先の雇用や貧困対策なぞは焼け石に水。
永田町は国民総動員法状態。
共産党はおろかついに人権の最後の砦の党の
社民党まで小沢一郎の証人喚問に賛成する旨、党首と幹事長が記者会見で明言。
状況がまるで解ってない。
検察という最高の捜査機関が放棄した起訴を放棄したのにますます疑惑深まる組織が強制起訴。

4月27日の1回目の起訴相当議決を行った審査員の平均年齢は34.27歳と発表された。
9月14日の2回目の起訴相当議決を行った審査員の起訴相当議決を行った審査員の平均年齢は二転三転ののち、34.55歳だと発表された。
 
 4月から9月までの期間に、4月議決の11人の審査委員のうち、3人が誕生日を迎えて1歳ずつ年齢を増やすと、
平均年齢が34.55歳になる。
つまり、審査委員が交代しなかったとの疑惑が存在しているー。 
 2度目の議決を行った検察審査会の補助審査員弁護士が委嘱されたのは9月7日だと伝えられている。
わずか1週間の期間で、新任の審査委員が協議を重ねて、重大な意味を持つ決議を行えるハズはない。
専門の弁護士さえ何ヶ月もかかる基礎資料の数ゆえだー

検察審査会の決議は、検察が不起訴としたー、
ただ、有罪率が99%を超える一般の起訴事案と強制起訴は性格がまったく異なる。

法廷が開かれる前から結審の行方は決まってるようなもの。
創価支配の司法の場ゆえ、確かに安心ではない。
くわえて宗主国から「殺小沢」命令を受けてる仙石が法務大臣である。
 対米関係を
「今ほど従属的なものでなく」
「比較的対等にあるべく努力」する事ができる政治家は小沢一郎と亀井静香のみ。
国益からも小沢一郎を失うは国家の損失である。
北方領土に手がだせずロシヤの成せるままの政治的無策
鈴木宗男の冤罪投獄ゆえに国富の損失が生じている。
爺目が宰相なら国民批判を覚悟に上特赦恩赦で北方領土にのみ邁進させる。
厳しき国際状況からして民族が生きるための処置。

菅直人の政治的意図とは「小沢一郎の政治とカネ」での三度目の正直たる政権浮揚が狙い。
宗主国からの指示でもある。

実は政権浮揚に国民が喝采する政治的課題がある。
何か
菅直人よよ、“身内”の小沢より竹中喚問だろう!

ウヤムヤの振興銀とかんぽの宿疑惑
国民の気質から身内のスッタモンダをやって喜ぶモノはいない。
管の勘違いである。
25日連合の古賀伸明会長が地方代表や幹部も同席しての仲介を無視。
 実に管政権のバカバカしい戦略
評論家の佐高信師の日刊ゲンダイ寄稿
「小沢氏より前に証人喚問をすべき人物がいるだろう」
「竹中平蔵元総務相ですよ。小沢喚問ですっかり忘れ去られているのが日本振興銀の破綻です。
ペイオフ第1号になったが、検査忌避で逮捕された木村剛氏を金融庁の顧問にしたのが竹中氏です。
これがあったので、振興銀は早期に銀行認可を得られたのに、竹中氏は責任を問われても知らんぷり。
コメントひとつ出そうとしない。
そうしたら今年11月、朝日新聞にかんぽの宿の不動産鑑定評価が日本郵政公社の要望で不当に下がった疑惑が報じられた。
当時の日本郵政の社長・西川善文氏も、かんぽの宿を安く手に入れたオリックスの宮内義彦会長も竹中人脈に連なるのです」

 振興銀行が認可された背景、そのときの竹中氏の役割、木村氏との関係など、国会がただすべき疑惑は山のようにあるわけだ。佐高信師は「竹中平蔵こそ証人喚問を」という著書まで書いているー
、これを菅も読んだらどうだ。
喚問すべきは“身内”で功労者の小沢一郎ではないはずだ。

菅直人は自分を総理にしてくれた恩人をムリヤリ「証人喚問」に引っ張り出すなんて、腐敗自民党だってやらなかった。
人の道に外れてる
狂気の沙汰だ。
「今回に限ったことではありません。小沢さんと20日にサシで会った時は、1時間30分、興奮状態で『政倫審に出てくれ。あなたは協力すると言ったじゃないか!』とヒステリックに繰り返していた。
面食らった小沢一郎が『冷静に、冷静に』と諭しても、最後まで半狂乱だったー」

「菅首相は、支持率が低いのも、選挙で連敗しているのも、すべて小沢一郎が原因だと“被害妄想”にとらわれているのではないか。異常な行動は、そうとしか思えません。
しかし、支持率が下落しているのは小沢一郎とは関係ない。
原因は、政権発足から7カ月も経つのに、無能な菅総理が何一つ実績をあげられないからです。
それなのに、政倫審だ、証人喚問だ、離党勧告だと『小沢切り』に血眼になるなんて見当違いも甚だしい。
しかも、政倫審も、証人喚問も、離党勧告も実現の見通しはほとんどない。
いったい、なにが目的で暴走しているのか、まったく意味不明です」
政治評論家の論評だが誰でも解っていること。
民主党幹部以外はー。

中村てつじ(民主党。参議院議員)
ブログが教えること。
来年の民主党日程

12日(水)13時から役員会・14時から常任幹事会・17時から全国幹事長会議。
翌13日は民主党大会。
この周辺で政治日程になる可能性。
噂では1月11日か12日頃に小沢氏の強制起訴があるという話。
強制起訴を検察官による通常の起訴と同視するのは問題。

このように解説してるブログもある。
板垣英憲評論家で自民党清和会の立ち位置にある人。

①「連合仲介会談」=12月25日について、新聞、テレビなどマスメディア各社は一斉に「不発に終わった」と報道している。だが、仲介に立った「連合」の古賀伸明会長に近い筋の情報によると、
見かけの張り詰めた対立ムードとは裏腹に、本質部分は、筋書き通りに着々と関係修復の方向に動いているという。

②12月27日たちあがれ日本(共同代表:平沼赳夫元経済産業相、与謝野馨元財務相、衆参各3人)が、党本部で議員総会を開き、民主党から打診のあった「民主・たちあがれ日本の連立」話を受け入れず、見送ることを決めた。
要するに、今回は、たちあがらなかったのである。
消費税と憲法改正を狙ってるナベツネら自民党を操るオーナー達。
自民党との大連立が本命ではないのか。

菅政権は「水と油」の関係である「たちあがれ日本」に、唐突に連立入りを打診する始末ー。
さすがに、党内からも批判が噴出しようてー。
なにしろ、たちあがれ日本は、結党趣旨で「打倒民主党」を第一の使命に掲げた最も右寄りの政党ー。
民主党のマニフェストを痛烈に批判し、仙谷官房長官の「問責決議」にも賛成している。
社民党の福島瑞穂党首が「民主党がどんな政治をしたいのか、ますます分からなくなってきた」と呆れているー

執行部のくせに、選挙で連戦連敗している責任も取らず、
敗因を小沢一郎に転嫁して政権維持を図っている姑息な手段。
政権維持のみの100日間の27日であった。
このままでは、菅総理だけでなく、民主党全体が国民から見放されてしまう。
国民の期待をつなぎとめるためにも、心ある民主党議員は、菅直人に引導を渡すべきー

もし、小沢一郎を離党に追い込んだら・・・・
「国民生活が第一」を掲げた民主党の理想は跡形もなくなってしまうだろう。
民主党議員は、本当にそれでいいのかー。

○1895年パリでリェーエル兄弟スクリーンで映画第一号
   列車が駅に着くだけの映像
○1948年占領政策の基本菊と刀日本語訳出る
○1965年日米民間空港協定
   66年ニューヨーク経由世界一周機とばせた日本

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