今日の誕生日の花は・・・・ユウカオ
花言葉は・・・・・・・・魅惑の人

小沢一郎は弁解しない。
東京裁判の文官唯一の絞首刑の広田弘毅みたいである。
城山三郎著『落日燃ゆ』の文庫本で偲べる。
小沢一郎何故立ったか
昨日アップした小沢塾講義で十分に斟酌できる
歴史ある国のあり方を憂えている。
この国のあり方をである。
メディアはアメリカ人悪口のトコのみを拡大歪曲し記事にしている。
優秀なる記者のハズなのに悪意に満ちている。
小沢が権力を握る限りこの国の政治家の
売国奴・対米従属派
    VS
小沢が動かす従属離脱派
との暗闘が続く。
ここを政治過程として通過しない限りこの国の植民地化状況からの脱却はない。
この国はいつまでたっても国富の公平な分配が出来ない。
国富はアメリカに貢がれる
デフレからの脱却、雇用の安定はない。
中小企業、農林魚業もおなじである。
「アメリカへの基地の提供と、原油と資金を貢ぐキャッシュディスペンサー(ATM)の役割を行う」
コレまでの自民党政治65年とおなじである。
菅直人政権が小泉純一郎路線に傾斜し始めている。

菅直人党首は「国政選挙に大敗した指揮官」。
指揮官には責任がある。
これは選挙に負けた=国民より不信任を受けた政党・リーダーの党首が居座っていることになる
この国の政治史で始めてのこと。
「最低限経るべき手続き義務」であり責任放棄。
政治家として最低である。

小沢一郎による救国内閣の確立は急務。
政策は単純でイイ
緊急である。
一つは、「悪い円高をやめさせること」
二つは、「対米自立」。
三つは、「官房機密費の透明化」
事実でもない政治とカネではない。
「メディアとカネ」
国会はネジレにある。
小沢一郎は野党にさえ気配りは十分である。
民主党内での小沢の力は弱まりそうもなく夕顔が日々草がよく似合う。
日々草はこの日の花で昨年紹介されている。
当選は決まったようなるモノ。
苦難の中苦渋の決断
よくぞやった立候補。
当選前祝いで花で始まり花で終わる二重に二つと大奮発。

ゆうかおの おとのしそうな つぼみかな

大事より 小事重んじ 日々草

25日の152才のニュースには驚いた。
コレまで医者知らずが9月大手術を二度も控えておりなおさらである。
リンクの方もアップしておられ教え頂きました。
有り難うございます。
ほかに今日の話題をブログでもイロイロと教えて貰っております。
有り難うございます。
拡散、拡散。
9月14日向けて総てが動き始めている。

全国飛び回り戸籍で30年間飯を食ってきた爺目である。
民法903条の2権利者確定には安政 万延 文久 元治 と出てくる
ただしこの戸籍直接当たれなくなった。
改正原戸籍、壬申戸籍と閲覧できない戸籍からどうして調べたのか。
同和運動、小泉内閣の個人保護法の行きすぎゆえ
公務なら配慮でかって自由に観れてたこれらの戸籍。
士族、農民さらにはエタ、非人など身分が書かれて消してある。
それがお粗末だったり透かすなりすると解る場合がある。
ゆえに公務に携わる職員だろうとかってにその戸籍を観れない扱いとなり
異常が全国に生じてるのも一因があろう。
電子化したとき多忙でそのままにしてて視覚化が異常なる実数となってるのだろう。
戸籍なぞ明治維新の産物
もともとお寺さんの仕事。
住民票とは全く違う。
そうカッカナル問題ではない。
実務知恵で所有権登記は出来る

大阪市には120歳以上の高齢者が5125人もいるらしい。
同市内に本籍地があり、戸籍上は生存している状態になっているらしい
なかでも最高齢は、江戸時代の1857年=安政4年9月4日に生まれた152歳の男性。
その後山口ではもっと酷い例が26日報じられた。

安政年間は孝明天皇治世の1854年から1860年までの実質5年の通算7年間
将軍は徳川家定、徳川家茂。
嘉永の後、万延の前。
その後8っの時代を生き抜いてることになる。
イイ加減にしろッ!大阪死。

1854年 安政 7年間
1860年 万延 2年間
1861年 文久 4年間
1864年 元治 2年間
1865年 慶応 4 年間
明治
大正
昭和
平成

この国の安政生存者と聞いて、そこでである。
今年は咸臨丸が太平洋を越えて150年の祈念すべき年。
岸内閣安保改定の年から50年でその年が咸臨丸渡米100年。
日韓併合100年は記念行事を挙行したがこちらは何もないようでアル。
これは万延年間のことである。

万延元年=1860年、江戸幕府の遣米使節団が太平洋を渡った。
何故か。
1858年井伊直弼が結んだ「日米修好通商条約」の批准書交換が目的
日本政府の初めての正式な訪米使節。
正使新見豊前守正興、監察小栗上野介をはじめとする一行77人
米国のフリゲート艦ポウハタン号=2415トンに送り届けられて太平洋を渡った
語られてることはそれではない。

一行を「護衛・随行する」目的で派遣された威臨丸のコトである。

オランダで建造され、太平洋を渡った咸臨丸は函館近くの海で
座礁沈没その生涯は短く14年。
お台場船の博物館ではあの宗谷、福竜丸は現物だが
咸臨丸はスケールをかえオランダに残されていた図面を基にオランダで製作され復元ゆえそのものが偲べる。
詳しくは合田一道著作
「咸臨丸 栄光と悲劇の五〇〇〇日」道新選書から刊ている。

<そこで教えていただけること。>

咸臨丸は625トンの小船。
勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎といった日本近代史を彩る人物を乗せ
太平洋を注釈付き「日本人だけで」サンフランシスコを往復した。、

先立つこと6年前、1854年はペリー浦賀来航の翌年である。
この年幕府はスクリュー式のコルベット軍艦二隻をオランダに発注した。
当初は帆船を発注したのだが、三本マストを残しながら蒸気エンジンでも動くスクリュー式で、帆走・汽走併用型に変更された
1857年三月、オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)を経て長崎に回航されてきた。
幕府にとっては、1855年にオランダ国王から贈られた「観光丸」に次ぐ、二隻目の洋式軍艦咸臨丸。

咸臨丸の船体の大きさは、長さ三六・六m、幅八・六m、625トン
これに武士19人、水夫65人、大工鍛冶2人の
日本人86人
、事情あって乗船することになったロイテナント・ブルーク大尉他米海軍の軍人一10人の合計96人
ポウハタン号の四分の一。こちらは乗船者は77人

事情とは日本近海に測量目的で来ていた米海軍の船が座礁・沈没し、生き延びた米海軍軍人が帰国の機会を待っていたと
いうこと
建前では日本側の配慮で同乗させたことになっているが、実際は遠洋航海の実績もない日本の乗員にとっては有難い助tu人であった。
「日本人だけで太平洋を渡った」という通説は虚構であり、瀬戸内の塩飽諸島の水夫達を調達して乗船させていたもの

福沢の『福翁自伝』に「牢屋に大地震の如し」と表現されているような北太平洋の荒れ狂う波風に苦しめられ、日本人水
夫が全くお手上げだった中で、10人の米海軍の軍人が活躍して苦難を乗り切ったというのが実態だった。
ただし、帰途の復路については、日本人だけの操舵で太平洋を渡ったことは間違いない。

咸臨丸が浦賀を出航したのは
1860年2月10日(新暦)で、サンフランシスコ着は3月18日.
修理を終えて咸臨丸がサンフランシスコを離れたのは5月8日、
滞在期間は約50日間。
その間、11日遅れて3月29日に到着した正使一行が4月7日にワシントンに向かうためパナマに立つのを見送った。

咸臨丸に関し、「勝海舟や福沢諭吉もワシントンに行った」と思われがちだが、
彼らはサンフランシスコに行っただけ。

福沢は七年後の1867年(慶応三年)再び訪米し、ニューヨーク・ワシントンを訪れた、
その時多くの著書を持ち帰り咎められた。
何故か。
ドロボーである。
幕府の金で多くの本を持ち帰り悪事がバレ大変な事態に成ったことがある。
万延元年の遣米使節においては、サンフランシスコだけを見て帰ってきた。
それでもこの時の勝37歳、福沢27歳、
若い目線で目撃したサンフランシスコの意味はこの国の財産となった。

NHK大河ドラマ龍馬伝は薩長同盟経過にさしかかっている。
その前半最終の海軍総錬所で学んだことが後の亀山社中に連なる。
その確かな組織が犬猿の中にあった雄藩長州、薩摩を結びつけるところが描かれていた。
勝海舟の弟子たる龍馬。

師・勝海舟の開明さの因は咸臨丸渡米のココにある。

ただ勝海舟渡米には重大なる裏切りがある。
長崎語学で世話になった赤松小三郎を乗船させていないのである。
この人は龍馬より早く「船中八策」より先駆すること6ヶ月
四賢公福井の松平春嶽公に「御改正口上書」を上奏提出している
龍馬の「船中八策」はこの赤松小三郎案のパクリと思える。
いずれ触れる。
何故その英才が歴史に登場しないのか。
歴史は勝者で書かれるゆえ。
この英傑は人斬り半次郎こと桐野利秋の薩摩示現流で殺害されている。
薩摩藩はあくまで武力倒幕
薩摩の軍事師範であった赤松小三郎も
龍馬とも公武合体的新政府方針と相容れなかった。
あまりにも深く長州薩摩の対幕府政策を知りすぎていた共通点が見られる。
菅内閣で暗躍する仙石幹事長の如くの妖怪的思考が両藩を被っていた

サンフランシスコはカリフォルニア州の北部に位置する太平洋側の最大の都市、
アメリカ西海岸を代表する世界都市である。
漢字文字では 桑港や旧金山と表記する。

1849年に起こったゴールドラッシュにちなんだ名称である
なお「旧金山」でなく「新金山」はメルボルンを指す。
現地の中国系社会では、桑港と同様に「サンファン」の音を当てはめた三藩が旧金山よりも多用される
り、市当局も中文での名称を三藩市サンフラン=San-Franとする。
地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」

サンフランシスコ自体の人口は776,733人(2000年国勢調査)
対岸のオークランドなどを含めた都市圏(MSA)の人口は4,123,747人
全米第12位の規模。
更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は7,092,596人
広域都市圏(CSA)として全米6番目の規模。
シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。

サンフランシスコの気候は地中海性気候に属し、一年中気温の差があまり無く、
気候的にも住みやすい都市である。
急な坂や深い霧に覆われる場合が多いことでも有名。

観光地としての評価も非常に高い都市
外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。
有名な観光スポットとしてゴールデンゲートブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げ
られる。
市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。

2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、サンフランシスコは世界第12位の世界都市に選ばれている北
米では、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスに次いで、第4位。

サンフランシスコは1776年にフランシスコ派のメキシコ人伝道師によって建設された町
1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作
農場を作った

1848年近郊で砂金が発見されてからカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。
人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加
咸臨丸が訪れた1860年には5・6万人の街へと変身していた。
この新興の都市を日本の若きサムライたちは、カルチャーショックを受けながらも恐るべき好奇心で見て回った。
市庁舎、電信施設、造船所、砂糖工場、メッキ工場などに目を見張り、ホテルに絨毯が敷き詰められていることや女尊男
卑の風俗に驚嘆している。

福沢諭吉が米国の建国の父ともいえる「ワシントンの子孫はどうしているのか」と聞く。
、「知らない」といわれる。
、「源頼朝、徳川家康のような存在のはずの子孫が・・・・・」といぶかる姿が 『福翁自伝』に描かれている
ただし、「民主主義の国アメリカ」の衝撃は大きかったであろう。

勝海舟も『氷川清話』でこの時の体験に触れている。
、「おれがアメリカに行って帰朝した時、御老中から『異国にわたりて、何か眼を付けたことがあろう』と再三聞かれ、
『アメリカでは、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます』と答え、
『無礼者』と叱られた」という話を語っている。

世界恐慌の最中も、サンフランシスコではサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(1936年完成)とゴールデンゲートブリッジ(1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。なお、同じころ、軍事施設だったアルカトラズ島が連邦刑務所となり、アル・カポネ、マシンガン・ケリー、「バードマン」と呼ばれたロバート・フランクリン・ストラウドなどがここに収容された。

咸臨丸100年の年としての1960年
今から50年前、咸臨丸のサンフランシスコ渡航から100年という節目の年が1960年、
「60年安保」の年であった。
戦後日本の最も熱い政治の季節

日米安保条約の改定を巡り、「反安保」闘争が盛り上がり、この年6月15日の「安保改定阻止第二次実力行使」
には全国で580万人がデモ行進に参加
国会前では東大生樺美智子さんが死亡するという事態に至った。
6月19日には新安保・新行政協定が自然成立
アイゼンハワー米大統領の訪日延期、岸信介総理の退陣

岸内閣に代わって登場した池田勇人内閣は「所得倍増計画」を打ち出す。
米国でも、11月にJ・F・ケネディが新大統領に当選、
日米関係も新しい局面に入っていった。

なんと2010年8月27日状態と酷似していることか。

1951年のサンフランシスコ講話条約で国際社会に復帰した日本は、日米安保条約によって米国との二国間同盟に踏み込み

、西側陣営の一翼を占める形で冷戦の時代を生きるという路線を歩んだ。

サンフランシスコの太平洋を見渡すリンカーンヒルに「咸臨丸入港100年記念碑」がある。
咸臨丸が縁で姉妹都市となった152歳の人が生きている大阪市が建立したものである。

華やかな除幕式も行われたが、その時は、日米安保を巡る政治的熱狂の中でも、
咸臨丸100年を想う気持ちが太平洋を挟む日米双方に存在していた。

この1960年の日本の輸入の39%は米国からの輸入、
日本の輸出の30%は米国への輸出。
つまり、この国の貿易の三分の一以上が対米国で成り立っていた。
外交・安全保障の関係のみならず経済においても、日米関係の密度が重く存在していた時代。
1971年のニクソンショックまで、日本円の対ドルレートは一ドル360円に固定
多くの日本人はそれが当たり前だと思っていた
いまは菅直人内閣の元83円の時代に突入。
コレは人為的でもあり為替介入もなく無為無策の死に体内閣ゆえの政治災害で国家が危うい。

1960年安保改定とは、日本側にとって「日米間の事前協議制の導入」など
対米従属性を和らげる方向への条約改定という建前を確保した
ただ、実体は、米国側にとって「平時・有事にわたる在日米軍基地の長期・安定的確保」という
戦略体制の確立であった。
実態は今になり反対運動で主張した通りの外交機密の密約が明らかになっている。
多くの日本人は「東側の脅威に対して冷戦の時代に生きるためには」という思いで日米安保体制を容認
、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会を経るうちに「豊かさへの願望」に傾斜した
最後の「政治の季節」ともいうべき「70年安保闘争」「全共闘運動」の時代はあったが、
とても国民的関心を引き付けた運動とはいいがたく、時代は一段と「経済の季節」に彩られていった。

その「70年安保闘争」「全共闘運動」の運動の中にいた人々が菅直人政権である。

菅直人は東工大、仙石由人が東大、枝野が東北大
ネットで騒がれてる築地市場豊洲移転の副知事は信州大学
みな全共闘運動の指導者たち。
爺目はそのほんのチョット後燼の年代。
唯一違わぬのはこの社会的名声を地位を経たらナント
共同戦線党の民主党党是を捨てた。
6・2クーデターで対米対中国等距離を捨てた。
国民目線政治を葬り去った。
あろうことか
小泉純一郎の格差拡大の新自由主義路線を踏襲している。

一方で、日米安保体制下の重圧が「基地」という形でのしかかる沖縄という不条理を封印
円ドルレートも、気がつけば今や80~90円水準、この50年で円の価値は四倍。
咸臨丸150年の今 今、我々は「60年安保」から50年という時点に立つ。

改めてサンフランシスコから立ち位置で俯瞰すると、日米関係の位相の変化に驚かされる

かつて西海岸を訪れ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの「ジャパンタウン」「ジャパンビレッジ」
その記憶している人ならばその衰退に衝撃を受けよう。
27日NHKラジオ深夜便3時過ぎ流れるメロディー
渡辺はま子は「サンフランシスコのチャイナタウン」と歌い謳歌した。
その日本人の存在感が西海岸から急速に消えている。

この10年で米国への渡航者は年間200万人近く減少
とくにハワイを除く米本土への渡航者は半減。
貿易の関係でも、2009年の日本の輸出における
対米輸出の比重は16%、
輸入における米国からの輸入は11%
1960年時点と比べて約三分の一の比重にまで落ち込んだ。
西海岸における日系企業の支店は撤退・閉鎖を続けている。
経済の関係、つまり下部構造において日米関係は大きく変化している。

米国の経済人のみならず米国民の中国への関心は急速に高まっている。
西海岸における中国・韓国・日本の存在感の比重は「五:三:二」
その一つの象徴が、「咸臨丸150周年」を話題にする人が日米双方において皆無だという事実である。

ジョン万次郎顕著会の国家議員の会長は小沢一郎である。

その一方で外交・安全保障の関係だけが「過剰依存・過剰期待」の関係に埋没したまま
、極端な固定観念に凍り付いている。
50年前、1960年代の世界認識を引きずったまま、
日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で日米関係を「これまでどおりでいいのだ」
という状況に自らを置く日本人に未来はあるであろうか。

歴史的な「政権交代」を経てもなお、
「普天間問題」の経緯のごとく、基地と日米同盟の在り方について米国と正面から向き合うのではなく
、二一世紀のアジアの安全保障を配慮した「抑止力」の中身を真剣に吟味することはない。、
むしろ沖縄の期待を押さえ込むことで進路をとろうとする鳩山・菅内閣とシナリオを主導した外務省、防衛省の責任は重
い。
深い歴史観の中で、今を生きる日本人が立ち向かうべき課題が理解できていないのであろう。

咸臨丸の時代を生きた日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった、

いわんや敗戦後六五年が経過し、周辺状況がまるで変わっても「自立自尊」を志向しない脳力の虚弱さは悲劇的である。

咸臨丸の時代、そしてそれから100年後の「60年安保」の時代と比べ、
日本人が失っていることは自分の身辺的利害を超えて、国や社会の在り方のために立ち向かう気迫である。
日本の存在感の低下の本質はここにあるといえる。
従属国を受け入れなければ政治生命どころか生命そのものが奪われ数多く葬り去られている。
それを知ってて対米従属へ裏切ったユダ6/2裏切り政権。
全共闘メンバー菅内閣に国家を託すにこの国の未来はない。

菅直人内閣は国政選挙で信をとうと国会で宣言した。
議席を目標を下げ54議席が勝敗ラインとした。
ところが44議席の惨敗
参議院選挙は“反小沢”“脱小沢”を掲げて戦ったことは紛れもない事実。
ところが、その戦いで負けた。
しかも大敗である。
“脱小沢”で戦ったが大敗したことを少しは認めるべきだろう。

反省もなく責任もとらない。
それ以上に勘違いしている。
しかも、今回の参院選挙では仙石由人官房長官は勝たなきゃならない自分の選挙区・徳島で自民党に負けている。

ところがメディアも選挙敗北責任に一言も触れない。
野党自民党も不思議のそうである。
ただメディアはまたもや小沢立候補は政治とカネを言い出している。

菅内閣は昨年の衆院選マニフェスト(政権公約)の見直しを公言している。
現在の民主党政権は、このマニフェストの上に立っていること忘れたのか?
マニフェストを変えて、何を実現すると主張したいのか?
理解に苦しむ。
メディアは全くソコに触れない。
小沢一郎陣営の山岡賢治議員も弁舌爽やかでなくメッセージを発しない。
菅政権には要は、政策なんてものも何もない。
あるのは、単に権力にしがみつくことだけ。
そんな政権に「円高」や「株価」を何とかしろ…と言うこと自体、無理からぬコト。
国家が崩壊していく

救国内閣を早急に確立せねばならない。

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