諜報戦

2010年8月2日 お仕事
今日の誕生日の花は・・・サギソウ
花言葉は・・・・・・・心の強さ

鷺草の そよげば翔(た)つと 思いけり

月があけた。
8月である。
風の匂いを探せば
はや秋風が遠くに感じられる。

8月になると心根を取り戻し縄文の心の共生のになるこの国はにわか平和国家になる。
1日テレビは大忙し。

①シリーズ日本と朝鮮半島 第5回
1日午後9:00~午後10:15(75分)
②大人ドリル「核兵器はなくせるか?」
1日午後11:25~午後11:55(30分)
アップにそなえてまとめたんだが調べてたら又未了。
いずれアップしたい。

「2万人」
文科系のこの国の未来の財産を宮崎がお預かりしている
高文祭が1日開催。
皇族次男秋篠宮夫妻も見守っておられる。
こうてい疫の爪あとは残る
16校が参加予定校から落ちた
2日は合唱や将棋が会場地域を分けて開催さる。
一日夜メイン道路橘通りは若者の熱気で落ち込んでた宮崎に最大のプレゼントをくれた。
不思議である。
何年も準備されてきたこと。
癒しの場とさえなっている。
若者の集い
未来はいつの時代も変わらず
 若者が切り開く。

ヒロシマ長崎を訪れたことがあるんだろうか。
歩む道を少し変えた人々への鎮魂歌である。

石原に拾われ匿われた副知事猪瀬直樹のジャーナリスト時代の仕事。
日本の近代 猪瀬直樹著作集10 天皇の影法師 第10巻

大正15年(1926年)12月大正天皇崩御の朝に当時最高部数を誇った新聞が、新元号をスクープ。
「光文」
である。
????
明治大正光文平成
???
「昭和」だろうが・・・

新元号のスクープ

しかし、
それは「昭和」ではなく「光文」
すぐに訂正された。
この誤報の反響は?
そして、担当記者のその後は?
ジャーナリストの本領発揮
光り輝いてた 著者/猪瀬直樹

WIKIが教えてくれる。
「昭和」の由来は四書五経のひとつ、書経尭典の
「百姓昭明、協和萬邦」による

学究の姿勢に畏怖されてた吉田増蔵の学業の功績による。

吉田増蔵(慶応2(1866)年11月23日~昭和16年12月19日、76歳)は、福岡勝山町の人
、幕末の漢学者・村上仏山の開いた私塾・水哉園(行橋市上稗田)に学び、
漢詩文に抜群の才能を発揮、明治42年、京都帝大で支那哲学を専攻した。
奈良女子高等師範で教べんをとり、さらに当時、宮内省図書頭を務めていた文豪森鴎外と出会う。
大正9年、宮内省図書寮に勤務となる。

この時鴎外は、同省御用掛をしていた吉田増蔵の学識、蘊蓄の深さを知り驚異した。
病床、鴎外は自らの膨大な蔵書を、没後どのように処理するかを考えて、長男、長女の婿、そして吉田増蔵に、と遺言したという。死後を託するのに他人である吉田増蔵に譲るとは、彼への信頼感がどれほどであったかを物語っている。
鴎外の死にあたり未完の『元号考』を託されるほど信頼されていた。

大正15年、大正天皇が崩御するや、宮内大臣一木喜徳郎から元号勧進の命を受ける。

「百姓昭明」「協和萬邦」の書経の1節から2字を取り、平和を願いつつ「昭和」の元号を考案した。
結局、枢密院全員審査委員会は、他に提案された4案から「昭和」を採用。
こうして、新しい時代の幕明けとなったのである。
この他にも、今上天皇「明仁」の名前をはじめ、多くの皇族の名を考案するなど天皇家と深く関わった。

「昭和」の元号は、64年をもって終焉した
それは紆余曲折、激動の時代であり、吉田増蔵の一生に似て、波乱万丈であった。
漢詩集『学軒詩集』が、平成16年(2004年)に無窮会で出されている。

もうあの猪瀬直樹の頭脳と其処から紡ぎだされる切れ味よい名文筆は戻らなかろう。
腐った根性ではいい仕事は出来まい。

辻本社民党離党で思いをはせることである。
「総理そうり」
権力の魔力に取り付かれタンであろう。
「アイアムソーリ」
菅直人もそうであったんであろうか。
ソレが取り返しのつかない方向に驀進してたからいただけない。

どうなってるんだろう。
小沢鳩山路線の修正を隠しつつ登場した菅一派の
6・2クーデター。
菅直人の本性が宗主国の手先に落ち、影の指令者・小泉純一郎売国奴路線に乗り換え
マスメディア・霞ヶ関官僚群のみならず警察検察の後押しもあるゆえ
遣りたい放題。

ところがコレはどうなんだろうか。

輝ける小沢鳩山路線の変革の実績。
  国家中の国家たる事務次官会議
その明治以来の国家の本性であった事務次官会議を廃止した小沢鳩山政権

ところがである。
こんなニュースがある。
仙谷官房長官:全事務次官と懇談会 
  「廃止」一転、重用?
http://mainichi.jp/photo/archive/news/2010/07/31/20100731k0000m010132000c.html?inb=yt

空ろな目線が論じられが頭の中までおかしき情況。
すべてを仙谷に丸投げ状態にあるらしい。
ところが何を遣りたいのかわからないのは菅直人だけではない。
仙石さえおなじ。
其処でである。

仙谷由人官房長官は各府省の事務次官を集めた懇談会を開いていた

民主党は昨年9月の政権交代に合わせて事務次官会議を廃止
、当時、行政刷新担当相だった仙谷は次官ポスト廃止まで唱えていた
懇談会では政権運営への協力を呼びかけ、今後も随時開催する考えを示したという。

 懇談会は6月末から7月上旬にかけて東京都内のホテルで4回開かれ、
各府省の事務次官を半数ずつ2回、官房長も2回に分けて招集された。
仙谷と滝野欣弥官房副長官が出席し<官房機密費?>、酒食でもてなした。

 自民党政権時代、事務次官会議は閣議にかける案件を事前審査する場で、
民主党は「官僚主導の象徴」として廃止。
だが、「過度な官僚排除が士気低下を招いている」と批判され
、菅直人は「官僚を使いこなす」との姿勢に転換。
仙谷は「省庁によっては素晴らしい事務次官が有機的に組織を動かしている」と軌道修正している。
懇談会は霞が関で「事務次官会議復活への布石では」との憶測も呼んでいる。

キム・ヨンヒは確実にメッセージを伝えたようである。
菅直人には「北」対応無理であろう。
同胞の拉致からの解放は無能なる政治家がいる限り遠のくばかり。

一昨年は秋丸機関に驚いたものであった。
それも宮崎の人秋丸であった。
ジャーナリスト猪瀬直樹は力を出せなかった。
今年はコレである。
1日のニュース。
「ムサシ機関」

中ソ諜報「ムサシ機関」私が率いた!
 元陸将補が証言

中ソ諜報「ムサシ機関」私が率いた 元陸将補が証言
asahi.com http://bit.ly/daVlLE


 冷戦期に米軍と共同で情報収集活動に当たった自衛隊の元情報機関長が、
朝日新聞の取材に応じ、国内外で行っていた諜報活動や創設の経緯などを明らかにした。
民間人になりすまし、旧ソ連や中国などの共産圏諸国に出入りする人々から軍事情報を聞き出すのが主な活動だったという。同機関の存在は、金大中氏拉致事件などにからんで注目されたことがあるが、直接の責任者が証言するのは初めて。

 明らかにしたのは、陸軍士官学校出身で、陸上自衛隊の情報部門で長く旧ソ連担当を務めた元陸将補の
平城(ひらじょう)弘通さん(89)。
現在は東京都内で不動産業を営んでいる。

 1964年から2年間、情報収集の実動部隊だった
「陸幕第2部特別勤務班(別班)」の班長(2佐職)を務めた。陸幕第2部が公刊情報の収集や電波傍受を
行っていたことは防衛省も認めている
ただ、諜報活動に従事した別班の存在については一貫して否定してきた。
別班は部内で「ムサシ機関」と呼ばれ、在日米陸軍の情報部門と秘密裏に連携した。

 平城氏によると、情報協力をめぐって在日米軍の情報部門と陸幕第2部との協定が結ばれて
米側との共同機関が創設され、56年から米軍の指導のもとで情報専門家を育成する訓練が始まった。
米軍がもっていた偽装の仕方や人的情報の集め方などの基本ノウハウを身につけたという。

 拠点は東京郊外にあった米軍施設のキャンプ・ドレイク(現・朝霞駐屯地)。
ここに米側の情報部門「500MIグループ」があり、61年、さらに共同責任で合同工作を行うことでも合意、
62年から実践活動に移行したという。

 「日系の米側将校と意思疎通を図るため、慣れないゴルフを一緒に重ねた」と話す。
日米ともに要員は15人前後。
国内で写真店や小さな商社などを経営して、中ソや北朝鮮、北ベトナムなどに出入りする日本の商社員や
漁業関係者などに接近し、日本への敵対行為の兆候などがないか情報収集をしたという。

 例えば、シベリア抑留者の現地墓参団の参加者に関係者を装って近づき、
ソ連国内の写真撮影や地図の入手などを依頼した。

 また将来は、海外に住む日本人らの間に
「独自の情報源と連絡網を作ることを目指していた」という。

 平城氏が活動した60年前後は、冷戦構造の東西対決が深まった時期にあたり、
中国が金門島に砲撃を加え米第7艦隊が出動した第2次台湾海峡危機(58年)や
米ソが対峙(たいじ)したキューバ危機(62年)などが起きている。

 機関員になると自衛隊との一切の接触が禁じられたが、
「陸幕第2部長の指示を受けた連絡幕僚から受ける形」で陸幕の指揮を受けたという。

 収集した情報は日米双方に提供され、防衛庁(当時)の防衛計画の立案に役立てられたほか、
米太平洋陸軍(ハワイ)と陸幕の極秘の情報会合「JA会議」などで、
米側の偵察衛星画像や通信傍受情報と交換されたこともあった。

 運営資金は60年代には「月額100万円程度」(60年当時の大卒の国家公務員の初任給は約1万2千円)。
陸自と米陸軍から支給された資金などでまかなったという。

 ムサシ機関がいつまであったのかについては
「ある時点で途絶えたという話を最近聞いたが、確かめようがなく、わからない」という。

 同機関については、日本共産党の赤旗が、「影の軍隊」として73年の金大中事件に関与したのではないか
との疑惑を70年代に報道したことがある
平城氏は「任務は国内での対外情報収集だけ。謀略や破壊工作、海外活動をしたことはない」と否定する。

今回、内幕を明かした理由については「邪悪な謀略機関というイメージを払拭し、国家の正当な情報収集活動
だったことを明確にしたかった」と話している。

 80年に防衛庁を退官した竹岡勝美・元官房長
「初耳だ。自衛隊が独自の秘密情報組織をもつことは認められるはずもなかった」と話す。

 平城氏はムサシ機関にかかわった当時の陸自幹部らを実名で登場させ、
その内幕を描いた著書を9月に講談社から出版する予定。

まぁ不可思議な事件も含め謎の諜報機関存在の察しはつく。
たとえば・・・
自衛隊員が私邸のプールに投げ込まれて死んでた事件あった・・・
あの隊員は諜報活動が任務だって言われてた・・・

「自衛隊クーデター事件」
1983年の国会
衆議院予算委員会で自衛隊でクーデター計画問題が浮上していると喧伝した。
社会党衆議院議員 楢崎弥之助
上田哲、飛鳥田・・綺羅星の如くの社会党の志士

情報ソースから
自衛隊クーデター計画自体が存在していないことが結論づけられ楢崎は国会を混乱させたとして新聞に謝罪広告を掲載し、この影響で同年の総選挙で落選。

陸軍中野学校は東大と外語大の奴をスパイにしてたし 東大ロポポ事件も実際生じている。
中野学校のカリキュラムは世界中の諜報機関やら特殊部隊に取り入れられてる
映画市川雷蔵の名演はリアルすぎて怖かったものだ。

夏はオバケの季節
ゲゲゲが好評らしい。
その効果なんだろうか
何が飛び出すかわからない。

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