「北」の大兄様コメント有難うございます。
僅か一晩のみ試験的の異物ゆえコロコロで涙止まりません。
明日再手術。
まだ仮りゆえおうようとしています。
さすがに17日夜だけはタップリの睡眠でしたが
僅か前夜だけ。
18日夜の過ごしも乱暴なる者。
昼すぐはさすがに安静にしてたのですが
シャクで焼酎を引っ掛け友人のその人ともども興じてたギャンブル・パチンコ
持参眼帯にサングラスと異様で笑われながら気紛らし
フィナーレ22時40分まで美空ひばりの楽曲流れるデ楽しんだ
唸ってるより乱暴の方が自分らしさ。
珍しさもあり友人の誘いは爺目気性を見抜き丁度ありがたかった。
お医者様看護婦様には
言いつけ守らぬことの乱暴で申し訳ない。
帰りしなの「北」の大兄様のお言葉
実に感謝に耐えません。
人間山脈とあらためてみて一文を奉げたい。
明治維新の国づくりをなしえたことに廃藩置県がある。
お城アトに県庁が出来た。
ただし全国唯二つ
そうでない所がある。
「北」の大兄様のところの北海道と宮崎
悲しきかな江戸期の富の蓄積がなかった。
結果文化不毛の地。
宮崎ではいまだ芥川直木賞作家が誕生してません。
天領の地、小藩統治の五つの県内都市には
さすがに風情伝統が残ってます。
文化人有名人はここ出身です。
たとえば現代芸能人今井美樹は高鍋町秋月城下町
オーデオ・イマイは本店がここにあり
県内4箇所に支店を置く宮崎一の専門店。
ここのお嬢さんが今井美樹。
出入りしてた爺目
西中生美樹は陸上部
チョウチンブルマーで帰宅
「おじちゃんまたきちょっとー」
「こりゃー!スカートにハキ着替えて帰ってこんかー」
「痴漢がデッどー」
「ここに犯人がいるかい心配ねー」
たわいない中学生であった。
有名人一人作るに資産総て食い潰した。
父君は事業を絶たんで終末、そして逝かれた
宮崎人117万の人口の40数パーセントが住む宮崎市内。
この田舎の県でもその実態はまた過疎で悩むより田舎がある。
ただし江戸期宮崎のには城下町はなかった。
市内西北部奥の宮崎城は遠く県北延岡の飛び地。
明治10年西南戦争では母なる宮崎太郎・大淀川を挟んで
南飫肥藩に山県有朋率いる新政府軍。
北の野っ原で何もなきところが西郷隆盛軍。
江戸期の輸送は船。
大淀川上流は明治維新をなしえた雄藩薩摩藩につならる
大淀川右岸河口は集積地で栄え遊郭もあった赤江町があった。
いまも赤江俳人墓地がその当時の文化興隆を伝える。
軍事資金不足ゆえ軍票西郷札が刷られた
にわか日銀券発行である。
日向の地の造幣局でヒョウタンブチの地から西郷札が出た。
実はこの地は確定してない。
①佐土原石崎川国道10号より200メートル上流部
②西都にヒョウタンブチの地名はある。
歴史は勝者の手で書かれることを示している。
この社会は僅か二代入れ替わると皆目不明という
文化不毛の地である。
歴史学を志してるなり学芸部員は多く存在する。
ようは立ち位置、
燃え上がる郷土愛がなければどんな多量な要因がいても無理であろう。
西郷札を持ち夜々、赤江で豪遊。
ソレを繰り返した。
何故か。
つり銭ナゾとしての政府札と西郷札を交換して軍費にした。
唯一の陸軍大将はお飾りに過ぎぬゆえ名前でのみの西郷軍御大将。
のんびり犬を連れ大淀川左岸部分での野ッ原で狩り
いまのキリスト教会のところに西郷軍本陣があった。市内中心部はほとんど野っぱら。
富の集積なきところに人材は出てこない。
ポーツマスの外務大臣小村寿太郎も飫肥藩
ロシア皇太子受難を裁いた一員の司法三好退蔵は高鍋
孤児の父石井十次も高鍋。
県民の近世史歴史の造詣の薄っぺらさが明治10年の記録さえ再現できない文化不毛の地。
お恥ずかしき底浅き宮崎市内である。
宮崎神宮は財部彪大臣の尽力で威容をなしえたもの。
この人は薩摩の国たる都城のひと。
八紘一宇の塔は紀元2600年記念モニュメント。
そのまんまの騙しで県庁が観光人気スポットに急浮上
歴史的の指定の建物ほうが先だろう順序が違っている。
お恥ずかしき観光先進県の実態は底浅い。
日向の国は5つの小藩統治で江戸期を過ごした。
県の存立の深さを知るに江戸期を見るが手っ取り早い
大城下町であったや否やである。
それは富の集中に関わることである。
裏返しにあるのが文化発展と庶民クラスにまでのその享受に伝え連なる
文明開化後の九州雄藩の肥後の国の熊本バンド。
徳富蘇峰蘆花兄弟を輩出。
何故なしえるのか。
肥後は佐々の殿様の国。
或いはその後の細川様の国
ただしお客さん宅二泊三日の太陽光工事のとき
このお役での先祖様の会話では
細川様でなく佐々の殿様であった。
爺目少し肥後歴史をかじってたゆえ大いに喜ばれた。
佐々の殿様
その末裔たる流石に内閣危機感室初代室長佐々弘雄室長をご存知。
その兄たる佐々弘雄九大教授の功績は詳細に知られず披瀝した
八重洲口左手の国労会館にあった研究所に足を運んだ時期
岩井章国際労働問題研究所刊の国際労研で
佐々弘雄九大教授の解かれる「螺旋状的発展」のコラムは
毎月親しんだ
消費者行政の紀平悌子元議員は佐々弘雄のその妹
この国の歴史性から比較しても
自治権限の処理は普遍である。
歴史の認識がないゆえ起きてる政治の混乱。。
日本史の戦国時代の中央歴史に三大重大なる出来事に
信長将軍足利義昭追放
本能寺の変
関が原のたたかい
を爺目はあげる。
政権中枢部に会った名門細川家はこれに真正面から向きあわさせられた。
この苦難の時期の政局を見極め乗り切った。
それもそれぞれが風向きが決まってから出なく
将来を見据えての決断ゆえ特筆さる。
評価には二面性が伴うが細川家を風見鳥という人もあるがそうであろうか。
上野のお山では6月5日までであったか国立で細川家の展示会がなされている。
日曜美術館での放映に先立ちNHK実況番組お昼パークに
総理を務めた人の初出演。
湯河原で焼き物や絵画三昧の室町時代の細川藤高より18代下っての
細川護熙元総理そのひとである。
県知事から総理は確か初めてのことのハズ。
竹下登は県議を経ての総理で少し違う。
藤高の子忠興は千利休の高弟利休七哲
利休が太閤秀吉より避けられ堺へ下るとき権力者に恐れて見送りに
に来たのはただの二人。
綾部織部と細川忠興
足利家に仕えてたが義昭の人物を知ってたゆえ織田信長に仕えた。
足利軍に囲まれたとき御陽成天皇が救済させた。
何故か
古今伝授の唯一の人物という事で当人が亡くなると
その学風の伝承者、跡継ぎが無くなると言うを見越しての処置。
人となり学問は命を守るということか。。
明智光秀の二女タマは織田信長を仲人として細川家忠興に嫁した
洗礼してガラシャとシテ名高い。
本能寺の変のアト助力を求める光秀の書状を無視。
織田家は仲人であり謀反には組しないという筋立てでの事
石田三成が人質をとって自軍に加わるように迫ったとき
細川ガラシャは喉を掻き斬きって果てる
細川軍は石田三成軍一万五千を500の軍勢で二ヶ月守り抜き
天下人家康は細川幽才を丹後23万石を与えた。
九州の大半肥後の名城熊本城主加藤家は清正の子の代で改易
細川家忠利が入った。
忠利は細川の御世とする出なく加藤治世の人たちも家臣とした。
次男であるが兄宗孝が江戸で殺され藩主が転がり込んできた。
人格がなさせたものか。
宮本武蔵を迎え入れ兵法五輪の書を編んだ
最後行のみ新たに繰り返す。
細川藤高より18代下ってが護熙
藤高の子忠興は千利休の高弟利休七哲
利休が太閤秀吉より避けられ堺へ下るとき
権力者に恐れて見送りにに来たのはただの二人。
綾部織部と細川忠興
意志の人である。
元禄時代に名家細川家も派手になり第六代シゲタカ公は改革の断行
藩政改革を質素倹約を掲げ当時の産品での殖産興業に努めた。
奨励品目の蝋、紙材料ミツマタ、コウゾで藩政を改革した。
人材育成のジシュウカン医学のサイシュウカン建学
メドがつくと実務は官僚に任せた。
近代的博物学の基礎となる鳥虫植物花をおか抱え絵師に写生描かせ図鑑とした。
いまでも絶滅種研究に使われてるようである。
大淀川赤江俳人墓地がある。
実はここは正当なる文化が伝わる。
芭蕉の著した俳句秘伝書は日向俳壇に伝わった。
芭蕉→支考→春波→西雪
多くの赤江俳人が育った。
小村菊路、小村西雪 大田可笛、荒川秀山小森舵岳「舵」は船でなく馬の字PCで音痴ゆえ時間なく出てこない
赤江には多くの文化人が投宿した。
京の文化人百井唐雨( 唐の左には場の左がいるがPC音痴ゆえ字が出ない。)
伊勢の国松浦武四郎(1818~1888)
伊勢の国大淀三千風(1639~1707)
この人は西行の敬慕した元禄の俳諧指導者
次世代者が安楽坊春波(1694~1756)
詳しく詠んだ句評論はいずれ表したい。
お礼に奉げて感謝としたい。
奥の細道本当の終焉地は岐阜大垣である。
縁あって二桁回数ほど行った街
昔を偲ん出のこともある。
新幹線岐阜羽島駅開業の頃は田んぼのど真ん中
何もない。
ポっ~ント大野伴陸銅像があった。(ボクがでてこない。
そこが大垣。
あの大垣の田舎駅舎が近代的になったのは京都駅の変貌ほど驚いた。
斉藤道三の金華山の最古のお城は岐阜市内。)
奥の細道の有名なる部分のみは覚えてるが
実践できてなきゃー知らぬこと。
あの著書は冊子と思ってた。
岡山笹岡美術館で巻物製の奥の細道・月日は百代の・・に感動した。
あれ以来の感動を受けた。
「北」の大兄様有難うございます。
何故か止まらぬ
涙腺の弛緩
よくもドクドクと
可笑しな物である。
乱暴はいけない。
少しは休めよう。
世代的に一番働きゃぁならぬのに
爺目のストカー
ほんに爺婆のケツなめ好きな輩めっ!
なにやってんの?
あーあ
爺目まとわりの憑きもの。
爺目老い先なく、いずれ死期が近い
末代にまで憑きものお返しで祟ってやりゃぁー
年寄りを弄ぶと祟りは早く来て
そりゃぁーひどいいでー
薩摩のDNA半端じゃないでー
先行きなき瀕死の叫び・・覚えとけ。
実際はこの何倍になってるの?
2010年8月18日1:04 猿滑骸骨
2010年8月18日 8:05 猿滑骸骨
2010年8月18日 8:06 猿滑骸骨
2010年8月18日16:14 猿滑骸骨
2010年8月18日17:52 猿滑骸骨
2010年8月18日22:52猿滑骸骨
2010年8月18日23:44 猿滑骸骨
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僅か一晩のみ試験的の異物ゆえコロコロで涙止まりません。
明日再手術。
まだ仮りゆえおうようとしています。
さすがに17日夜だけはタップリの睡眠でしたが
僅か前夜だけ。
18日夜の過ごしも乱暴なる者。
昼すぐはさすがに安静にしてたのですが
シャクで焼酎を引っ掛け友人のその人ともども興じてたギャンブル・パチンコ
持参眼帯にサングラスと異様で笑われながら気紛らし
フィナーレ22時40分まで美空ひばりの楽曲流れるデ楽しんだ
唸ってるより乱暴の方が自分らしさ。
珍しさもあり友人の誘いは爺目気性を見抜き丁度ありがたかった。
お医者様看護婦様には
言いつけ守らぬことの乱暴で申し訳ない。
帰りしなの「北」の大兄様のお言葉
実に感謝に耐えません。
人間山脈とあらためてみて一文を奉げたい。
明治維新の国づくりをなしえたことに廃藩置県がある。
お城アトに県庁が出来た。
ただし全国唯二つ
そうでない所がある。
「北」の大兄様のところの北海道と宮崎
悲しきかな江戸期の富の蓄積がなかった。
結果文化不毛の地。
宮崎ではいまだ芥川直木賞作家が誕生してません。
天領の地、小藩統治の五つの県内都市には
さすがに風情伝統が残ってます。
文化人有名人はここ出身です。
たとえば現代芸能人今井美樹は高鍋町秋月城下町
オーデオ・イマイは本店がここにあり
県内4箇所に支店を置く宮崎一の専門店。
ここのお嬢さんが今井美樹。
出入りしてた爺目
西中生美樹は陸上部
チョウチンブルマーで帰宅
「おじちゃんまたきちょっとー」
「こりゃー!スカートにハキ着替えて帰ってこんかー」
「痴漢がデッどー」
「ここに犯人がいるかい心配ねー」
たわいない中学生であった。
有名人一人作るに資産総て食い潰した。
父君は事業を絶たんで終末、そして逝かれた
宮崎人117万の人口の40数パーセントが住む宮崎市内。
この田舎の県でもその実態はまた過疎で悩むより田舎がある。
ただし江戸期宮崎のには城下町はなかった。
市内西北部奥の宮崎城は遠く県北延岡の飛び地。
明治10年西南戦争では母なる宮崎太郎・大淀川を挟んで
南飫肥藩に山県有朋率いる新政府軍。
北の野っ原で何もなきところが西郷隆盛軍。
江戸期の輸送は船。
大淀川上流は明治維新をなしえた雄藩薩摩藩につならる
大淀川右岸河口は集積地で栄え遊郭もあった赤江町があった。
いまも赤江俳人墓地がその当時の文化興隆を伝える。
軍事資金不足ゆえ軍票西郷札が刷られた
にわか日銀券発行である。
日向の地の造幣局でヒョウタンブチの地から西郷札が出た。
実はこの地は確定してない。
①佐土原石崎川国道10号より200メートル上流部
②西都にヒョウタンブチの地名はある。
歴史は勝者の手で書かれることを示している。
この社会は僅か二代入れ替わると皆目不明という
文化不毛の地である。
歴史学を志してるなり学芸部員は多く存在する。
ようは立ち位置、
燃え上がる郷土愛がなければどんな多量な要因がいても無理であろう。
西郷札を持ち夜々、赤江で豪遊。
ソレを繰り返した。
何故か。
つり銭ナゾとしての政府札と西郷札を交換して軍費にした。
唯一の陸軍大将はお飾りに過ぎぬゆえ名前でのみの西郷軍御大将。
のんびり犬を連れ大淀川左岸部分での野ッ原で狩り
いまのキリスト教会のところに西郷軍本陣があった。市内中心部はほとんど野っぱら。
富の集積なきところに人材は出てこない。
ポーツマスの外務大臣小村寿太郎も飫肥藩
ロシア皇太子受難を裁いた一員の司法三好退蔵は高鍋
孤児の父石井十次も高鍋。
県民の近世史歴史の造詣の薄っぺらさが明治10年の記録さえ再現できない文化不毛の地。
お恥ずかしき底浅き宮崎市内である。
宮崎神宮は財部彪大臣の尽力で威容をなしえたもの。
この人は薩摩の国たる都城のひと。
八紘一宇の塔は紀元2600年記念モニュメント。
そのまんまの騙しで県庁が観光人気スポットに急浮上
歴史的の指定の建物ほうが先だろう順序が違っている。
お恥ずかしき観光先進県の実態は底浅い。
日向の国は5つの小藩統治で江戸期を過ごした。
県の存立の深さを知るに江戸期を見るが手っ取り早い
大城下町であったや否やである。
それは富の集中に関わることである。
裏返しにあるのが文化発展と庶民クラスにまでのその享受に伝え連なる
文明開化後の九州雄藩の肥後の国の熊本バンド。
徳富蘇峰蘆花兄弟を輩出。
何故なしえるのか。
肥後は佐々の殿様の国。
或いはその後の細川様の国
ただしお客さん宅二泊三日の太陽光工事のとき
このお役での先祖様の会話では
細川様でなく佐々の殿様であった。
爺目少し肥後歴史をかじってたゆえ大いに喜ばれた。
佐々の殿様
その末裔たる流石に内閣危機感室初代室長佐々弘雄室長をご存知。
その兄たる佐々弘雄九大教授の功績は詳細に知られず披瀝した
八重洲口左手の国労会館にあった研究所に足を運んだ時期
岩井章国際労働問題研究所刊の国際労研で
佐々弘雄九大教授の解かれる「螺旋状的発展」のコラムは
毎月親しんだ
消費者行政の紀平悌子元議員は佐々弘雄のその妹
この国の歴史性から比較しても
自治権限の処理は普遍である。
歴史の認識がないゆえ起きてる政治の混乱。。
日本史の戦国時代の中央歴史に三大重大なる出来事に
信長将軍足利義昭追放
本能寺の変
関が原のたたかい
を爺目はあげる。
政権中枢部に会った名門細川家はこれに真正面から向きあわさせられた。
この苦難の時期の政局を見極め乗り切った。
それもそれぞれが風向きが決まってから出なく
将来を見据えての決断ゆえ特筆さる。
評価には二面性が伴うが細川家を風見鳥という人もあるがそうであろうか。
上野のお山では6月5日までであったか国立で細川家の展示会がなされている。
日曜美術館での放映に先立ちNHK実況番組お昼パークに
総理を務めた人の初出演。
湯河原で焼き物や絵画三昧の室町時代の細川藤高より18代下っての
細川護熙元総理そのひとである。
県知事から総理は確か初めてのことのハズ。
竹下登は県議を経ての総理で少し違う。
藤高の子忠興は千利休の高弟利休七哲
利休が太閤秀吉より避けられ堺へ下るとき権力者に恐れて見送りに
に来たのはただの二人。
綾部織部と細川忠興
足利家に仕えてたが義昭の人物を知ってたゆえ織田信長に仕えた。
足利軍に囲まれたとき御陽成天皇が救済させた。
何故か
古今伝授の唯一の人物という事で当人が亡くなると
その学風の伝承者、跡継ぎが無くなると言うを見越しての処置。
人となり学問は命を守るということか。。
明智光秀の二女タマは織田信長を仲人として細川家忠興に嫁した
洗礼してガラシャとシテ名高い。
本能寺の変のアト助力を求める光秀の書状を無視。
織田家は仲人であり謀反には組しないという筋立てでの事
石田三成が人質をとって自軍に加わるように迫ったとき
細川ガラシャは喉を掻き斬きって果てる
細川軍は石田三成軍一万五千を500の軍勢で二ヶ月守り抜き
天下人家康は細川幽才を丹後23万石を与えた。
九州の大半肥後の名城熊本城主加藤家は清正の子の代で改易
細川家忠利が入った。
忠利は細川の御世とする出なく加藤治世の人たちも家臣とした。
次男であるが兄宗孝が江戸で殺され藩主が転がり込んできた。
人格がなさせたものか。
宮本武蔵を迎え入れ兵法五輪の書を編んだ
最後行のみ新たに繰り返す。
細川藤高より18代下ってが護熙
藤高の子忠興は千利休の高弟利休七哲
利休が太閤秀吉より避けられ堺へ下るとき
権力者に恐れて見送りにに来たのはただの二人。
綾部織部と細川忠興
意志の人である。
元禄時代に名家細川家も派手になり第六代シゲタカ公は改革の断行
藩政改革を質素倹約を掲げ当時の産品での殖産興業に努めた。
奨励品目の蝋、紙材料ミツマタ、コウゾで藩政を改革した。
人材育成のジシュウカン医学のサイシュウカン建学
メドがつくと実務は官僚に任せた。
近代的博物学の基礎となる鳥虫植物花をおか抱え絵師に写生描かせ図鑑とした。
いまでも絶滅種研究に使われてるようである。
大淀川赤江俳人墓地がある。
実はここは正当なる文化が伝わる。
芭蕉の著した俳句秘伝書は日向俳壇に伝わった。
芭蕉→支考→春波→西雪
多くの赤江俳人が育った。
小村菊路、小村西雪 大田可笛、荒川秀山小森舵岳「舵」は船でなく馬の字PCで音痴ゆえ時間なく出てこない
赤江には多くの文化人が投宿した。
京の文化人百井唐雨( 唐の左には場の左がいるがPC音痴ゆえ字が出ない。)
伊勢の国松浦武四郎(1818~1888)
伊勢の国大淀三千風(1639~1707)
この人は西行の敬慕した元禄の俳諧指導者
次世代者が安楽坊春波(1694~1756)
詳しく詠んだ句評論はいずれ表したい。
お礼に奉げて感謝としたい。
奥の細道本当の終焉地は岐阜大垣である。
縁あって二桁回数ほど行った街
昔を偲ん出のこともある。
新幹線岐阜羽島駅開業の頃は田んぼのど真ん中
何もない。
ポっ~ント大野伴陸銅像があった。(ボクがでてこない。
そこが大垣。
あの大垣の田舎駅舎が近代的になったのは京都駅の変貌ほど驚いた。
斉藤道三の金華山の最古のお城は岐阜市内。)
奥の細道の有名なる部分のみは覚えてるが
実践できてなきゃー知らぬこと。
あの著書は冊子と思ってた。
岡山笹岡美術館で巻物製の奥の細道・月日は百代の・・に感動した。
あれ以来の感動を受けた。
「北」の大兄様有難うございます。
何故か止まらぬ
涙腺の弛緩
よくもドクドクと
可笑しな物である。
乱暴はいけない。
少しは休めよう。
世代的に一番働きゃぁならぬのに
爺目のストカー
ほんに爺婆のケツなめ好きな輩めっ!
なにやってんの?
あーあ
爺目まとわりの憑きもの。
爺目老い先なく、いずれ死期が近い
末代にまで憑きものお返しで祟ってやりゃぁー
年寄りを弄ぶと祟りは早く来て
そりゃぁーひどいいでー
薩摩のDNA半端じゃないでー
先行きなき瀕死の叫び・・覚えとけ。
実際はこの何倍になってるの?
2010年8月18日1:04 猿滑骸骨
2010年8月18日 8:05 猿滑骸骨
2010年8月18日 8:06 猿滑骸骨
2010年8月18日16:14 猿滑骸骨
2010年8月18日17:52 猿滑骸骨
2010年8月18日22:52猿滑骸骨
2010年8月18日23:44 猿滑骸骨
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