今日の誕生日の花は・・・オシロイハナ
花言葉は・・・・・・・・内気柔和

一日花で白黄ピンクと農家はしにあった。メキシコ原産。
次々に沢山の花を付けるゆえ一日花とは思えない勘違いが起きる。注して花跡を何日ヶ後に見ると黒い実。
花後の黒いタネを割ると白い粉。
幼子はコレを化粧遊びに使う。
才女須磨 佳津江アナは(旧姓:井出、1949年5月13日 - )は江戸の人。東京女子大を経て72年NHKへ。
柳滋民と趣味の園芸を長く放送していた。
お花に関する著作もある。
なのに須磨アンカーはこの遊びをしてないという。
島津DNAゆえ女っ気は無し。
それでさえオシロイバナ遊びを知っている。
情操の豊かさは田舎の子育てがイイ。

オシロイの 花の紅白 はね違い。

9月1日は関東大震災1823年より87年。
一府6県、火災津波山津波の罹災者の方々。
ご冥福をお祈りいたします。

日本サッカー界。
再度4年後に備えて陣容を固めるためローマより助略を求めた。
アルベルト・ザッケローニ氏が8月31日赴任した
愛称と言うより自分で言う「ザック」
バランスの人らしい。
次は日本語で会見するという。
ゴッホふぁん。
サムライは知っている。
「岡田ジャパン」から「ザック・ジャパン」
いたりあ・エミリア=ロマーニャ州の県 から監督を迎え入れた。
この土地には丁度
「ルビコン河」が州内を流れアドリア海に注ぐ。
  賽は投げられたのだ。

NHKテレビ8月30日(月)午後10:55~午後11:25
[名将の采配]
「カエサル~伝統打ち破る奥の手~ファルサルスの戦い」

古代ローマの共和政時代(紀元前509年~紀元前27年)
このテレビ以前の紀元前60年、ローマ。

・民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、
・元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、
・経済力を有するクラッスス
三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。
この共和政ローマ末期に現れた政治体制を三頭政治という。
改革を進める三頭政治のカエサル、クラッスス、ポンペイウス
「元老院派」は その三頭政治を突き崩そうとする。
現在はロシアのソリからとって三頭政治をトロイカ体制という

ルビコン川(Rubicon)は、イタリア北部を流れる川で、
リゾート地として開発されているガッテーオ・ア・マーレでアドリア海に注ぐ。
全長は50キロ弱とそれほど長くはない川
共和政末期の古代ローマにおいては、本国である「イタリア」と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていた。
軍団を連れてこの川を越え南下することは法により禁じられており、その南下行為はすなわち共和国に対する反逆とみ
なされた。
ルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日、
ローマ内戦においてユリウス・カエサルが
 ルビコン川を渡ったことで知られる

カエサルがガリアで戦っているあいだ、ローマ元老院派はポンペイウスをたてカエサルにたちむかわせる。

紀元前48年8月9日に、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派と
ガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派の間で行われた戦
これをファルサルスの戦いという。

カエサル派が元老院派を破った結果、カエサルはローマの覇権確立へ大きく前進した。

プルタルコス( 46年から48年頃 - 127年頃)は、帝政ローマのギリシア人著述家。
著作に英雄伝などがある。
プルタルコスは「ポンペイウスとカエサルが協力して7万の軍を率いて進軍するならば、パルティアの弓兵でもスキタイの騎兵部隊でも、インドの富を以てしても対応できなかったであろう。不敗の将軍であった両者の間にかつてあった友情も所詮は真の友情ではなかった」
と記す。

古代ローマの将軍カエサルが劣勢を覆して完全勝利を収めた大平原の戦い=ファルサルスの戦い。
騎兵戦や歩兵戦の数的不利を一気に跳ね返した「奥の手」作戦を、戦場のジオラマを使って推理する。

ポンペウス軍
騎兵22000
歩兵45000

カエサル軍
騎兵1000
歩兵7000

戦場のファルサルス平原
東西5キロ
南北7キロの平原
川、が途中にある。

軍で圧倒する有利性もあり持久戦を目指すポンペウス軍

少数派カエサルは英知を絞る。
戦力を別ける騎兵力。
ポンペウス軍の騎兵は若い貴族であると諜報戦で見抜くカエサル。
勇気が勝負を決める
奥の手は自軍騎兵の後ろにベテランを配置

戦術と奥の手のバランス
ベテランの力を上手く使ったカエサル軍が勝利した。

ポンペウス兵24000人捕虜の数から解るように
寛容さが読み取れるカエサル。

カエサルは
エジプト内乱で政治生命を落としてた。
クレオパトラと出会う。

“ローマの将軍・カエサルが最大のライバルと雌雄を決した戦い”のジオラマで、
完全勝利までのシナリオを推理し教えてくれた。。
兵力で劣るカエサルが、序盤の騎兵戦を制するため、歩兵の一部に授けた「奥の手」作戦
 相手に押し込まれた歩兵戦で、戦局を一気に変えるため命じたユニークな陣形
 古代ローマの基本戦術を踏まえて、サッカー解説者・松木安太郎さんと水野裕子さんが、
数的不利の危機的状況をどう打開するか知恵を絞った。

ブログにはこうある。

そして小沢一郎はルビコンを越える。賽は投げられた。

西洋人以外で初めてローマしを上辞したローマ在住の人
塩野七生「ローマ人の物語〈4〉ユリウス・カエサル ルビコン以前」より
  ・・・・
進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!

ルビコンの川岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。
しばらくの間、無言で川岸に立ち尽くしていた。
従う第13軍団の兵士達も、無言で彼らの最高司令官を見つめる。
ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚達に言った。

「ここを越えねば、人間社会の悲惨。越えなければ、わが破滅」

そしてすぐ、自分を見つめる兵士達に向かい、迷いを振りきるかのように大声で叫んだ。
「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

9月1日民主党党首選が告示された。

民主トロイカ体制 小沢・鳩山・菅というのは 第一次三頭政治に似ている

現状は カエサルがルビコンを越えた時と 非常に似ている部分が多い。
ガリア戦役という政権交代 と 次の内乱記が始まる。
その事と21世紀のこの国の今を比較して
カエサルがルビコンを渡った紀元前49年1月12日、カエサル50歳と6ヶ月の朝 の背景

ガリア戦記の後半。
行くところ敵なしの快進撃を続けたカエサル、
それはガリア人が部族ごとにバラバラで、
組織的な反撃ができるほどにはまとまっていなかったからだった。

しかし、ガリアにもひと味違う戦術家ヴェルチンジェトリックスが現れて、
彼のもとに部族が結集し、ローマ軍への反撃を試みる。
その最後の決戦アレシアの戦い
カエサル軍5万強は 総兵力25万強を擁したヴェルチンジェトリックスのガリア連合軍との決戦に勝ち
8年にも渡るガリア戦役の最終的な勝者となった。

さて、カエサルがガリアで戦っているあいだ、
「元老院派」は カエサル、クラッスス、ポンペイウスの三頭政治を突き崩そうとする。

急激な成長をして覇権国家となり世界の首都と化したローマだったけれども
その覇権国家へと至ったが故に物流交流の盛んさを呼び
安い作物の流入が中間層を直撃し貧富の格差をも急激に拡大が拡大させていた。

富裕層でもある元老院派が政治の中枢を圧倒的に牛耳り
しかも富裕層や元老院派は ローマ強国となったが故に 覇権下にある各地で土地を持ち
そこで奴隷を働かせての大規模農園を経営させては 安い作物をイタリアへ流入させていた。

農業こそが一般市民である中間層の自作農でもあった古代にあって
この現象の意味合いは極めて大きかった
元老院派から その解決を見込むは 絶望的な状況でもあった。

そんな中に登場した 議員になった当初は単なる女ったらしにすぎないカエサルではあったが
民衆派に属するとされていて 元老院派からは 敵視される存在ではあった。

第1次三頭政治の残りの二人
クラッススは金持ちだが カネに汚く市民に人気が無かったので
市民集会の選挙の投票で決まる政治の要職に就けなかった。

ポンペイウスは極めて強力な武将だったが 政治的能力がなく
元老院派から良いように使われ続けていた。
ポンペイウスは優秀な武将ゆえに 兵達のという強力な支持基盤があり
カエサルも奇抜な醜聞で無党派層にはそれなりの人気があり
そして その年の市民集会を見事に乗り切り
第1次三頭政治の一人カエサルは1年任期の執政官(首相)に就任した。

結果として カエサル自身が反元老院派として最も敵視される存在になっていた。

そしてガリア戦役の戦勝による市民からの圧倒的人気を背景に
カエサルが再び執政官を目指すのは確実視されていた。
けれども
彼らは結局ポンペイウスを離反させることに成功し、クラッススは中東で戦死していた。

帰国しようとするカエサルに、元老院は「元老院最終勧告」という最後通牒を突きつける。
ここのところは正確には細かい説明が必要だが、
簡単に言えばガリアでの戦勝を引っさげて帰国し、翌年の執政官選挙に立候補しようとするカエサルに、
元老院は軍団を解散しろと命じたほか、
功労者に報償で報いるどころか、恩を仇で返すような陰湿な意地悪をする。

ローマの法では イタリア半島は非軍事化する事で政治的平和を作り出させる とされていて
ルビコン川が その境界線とされていた。

それ故に 執政官に立候補するにはカエサルが執政官へ立候補するには
カエサル軍団を解散させ 単身ローマへ入らなければならない
 と元老院派は付きつけてきたのだ。

けれどもガリア戦役の長い激闘という戦時の中にあったカエサルゆえに
政治とカネ という観点では脛に傷を探すのは容易でも有り、
単身でローマへ飛び込んだ瞬間に
軍事力を失ったカエサルの身そのものが極めて危険になるのは明らかだった。

しかもガリア戦役が終結直後でもあり
カエサル軍団の大半は アルプスの北側のガリア(フランス)に貼りつけていて
カエサル自身はアルプスの南側のイタリア北部にて 第13軍団だけが手元に在る状況だった。
ガリア戦役におけるカエサル軍団の忠誠度や能力は文句無しではあったが
とはいえ第13軍団は子飼い中の子飼いと呼ばれた第10軍団と比べれば やはり・・という面は否めなかった。
しかもカエサルは戦死者などが出ても あまり補充をしないので
第13軍団と周辺の者達を加えれば 総数は たった5000前後であった。

カエサルは決断を迫られた。

ローマの法では属州の総督が軍を率いてルビコン川を越えれば、それは国に対する反乱となってしまう。
カエサルに率いられた兵士たちは、彼ら自身も反乱軍の兵士となってしまうのだ。
法治国家ローマの市民である彼らは、カエサルに従うだろうか。

常勝将軍であり最高司令官であるカエサルに対する信頼は厚く、結束力は堅かった。

彼らは「この内線が終われば、カエサルは名誉を回復し、われわれは自由を回復する」と考えた。
自由の回復とは、兵士一人一人がカエサルに与えた誓約からの解放であり、
実際上は軍務からの退役を意味していた。離反者は一人しか出なかった。
手元の兵員数は僅か5000前後しかいない北イタリアに居るカエサルがルビコンを越える
とは元老院派は誰一人として思っていなかった。

しかもカエサルが若き頃のローマでは こういう事件があった。
強力な武将で在り優秀な政治家でもあるスッラという男が 
政治改革を断行すべしを強行するべく 自分の軍団を持ってローマへ襲いかかり 反乱を勝ち切り
言う事の聞かない元老院や周辺の者達を容赦なく粛清しては殺しまくったのだ。
スッラは「元老院派の強化」を計ろうとしていた為 粛清の対象は「民衆派」が圧倒的に多くなり
カエサル自身も その標的であったが 若過ぎたが故に見逃されたのだ。

カエサルは 若き日の その陰惨なローマの光景を見ている、
そして その政治的行動などを見ても 残忍さは無い、
つまり スッラと同じ事をして ローマを再び血の惨劇で染める事は無い
と元老院派は踏んでいた。

そして、帰国しようとするカエサルに、元老院は「元老院最終勧告」という最後通牒を突きつける。
ルビコンの北側とローマの間で 妥協策の交渉が続いていた。
ルビコンの北側でのカエサルの立候補という特例を求めるカエサル 元老院の討議は当然に否決。
様々な妥協案がカエサルから提示されるも 元老院は悉くに否決。
そのカエサルの姿勢から カエサルのルビコン越えなどあり得ないと踏んだ元老院派は
「元老院最終勧告」という伝家の宝刀を可決した。

「元老院最終勧告」とは その対象にすべきと元老院が可決すれば 裁判なしの死刑 とできるのだ。
カエサルは 元老院議員になった直後の頃に
「カティリーナの陰謀」という国家転覆劇 において「元老院最終勧告」の討議が行われている時に
 「裁判なしの死刑」という権限を元老院が持つのはオカシイ と明確な反論をしている。

その元老院派からの「元老院最終勧告」の「裁判なしの死刑」が
反論を述べたカエサル本人へと突きつけられたのだ。

その採決直前に 情報を掴んでいたカエサルは
もはや可決は間違いなしだろう コレを突きつけられて丸腰で生き延びられる者はいない。
さりとて こういう言葉をも残しているカエサルだ。
わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになろうとも、そのようなことには心をわずらわせたくない。 -

Google 検索
「わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることになろうとも、
 そのようなことには心をわずらわせたくない。
 何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。
 だから、他の人々もそうであって当然と考えている」

カエサルがキケロへ出した手紙の中で。
カエサルには 目指すべき政治があった。それは明確に有った。
ルビコンを前にして カエサルは逡巡した、そして時間は もはや無かった。

ルビコンの川岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。
しばらくの間、無言で川岸に立ち尽くしていた。
従う第13軍団の兵士達も、無言で彼らの最高司令官を見つめる。
ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚達に言った。

「ここを越えねば、人間社会の悲惨。越えなければ、わが破滅」

そしてすぐ、自分を見つめる兵士達に向かい、迷いを振りきるかのように大声で叫んだ。

「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

(第13軍団の) 兵士たちも、いっせいの雄叫びで応じた。
そして、先頭の馬を駆るカエサルにつづいて、一団となってルビコンを渡った。
紀元前49年1月12日、カエサル、50歳と6ヶ月の朝であった。

小沢一郎出馬!! 賽は投げられた。
後は徹底的に戦うだけだ。
小沢一郎の今回の出馬は決して状況としては芳しくはない。
にも拘わらず敢えて出馬する決意をしたのは、
政権交代の意義を改めて問い直し、初心に返って改めて改革を成し遂げるためである。
その為にはもう人には任せておけないと判断したからに相違ない。

情勢は厳しく、どうなるか予断は許せない
、賽は投げられたのだ。
、後は徹底的に戦う他ない。
何れにしても小沢一郎は本気だろう。
生半可なことで終わることはないだろう。

<三頭政治トロイカ体制政治が出現した世界の歴史>

①フランス革命末期、1799年11月9日のブリュメールのクーデターの後、
・ナポレオン
・エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
によって設立された執政政府(統領政府、Le Consulat, 1799年 - 1804年)において
同格の3人のコンスルが置かれた。
この体制でもやがてナポレオンが3人の中の最強の者となり、独裁体制を確立していった。

②桂園時代(けいえん)とは、
陸軍・山県閥に属する桂太郎
伊藤博文の後継者として立憲政友会第2代総裁に就いた西園寺公望
政権を交互に担当した1903年(明治36年)から1913年(大正2年)の10年間をいう。
「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったもの。
桂園時代においては、桂を首相候補とする官僚・軍部と西園寺を党首とする立憲政友会が交互に首相を出し、
内閣を組織した。
一種の二大勢力間の内閣輪番制の時代である。
この間、松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、
両者以上の政権基盤を持たず、あるいはそれぞれの勢力内で桂や西園寺に取って代わる基盤を持たずに、いずれも断念に

追い込まれている。
特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、
いずれも任期満了に伴うものであった。
2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけ。

自民党主流から立ち位置を勇気を持って変えた。
民族派リベラル政治家
評しようのない幅広き政治家。
悲しきは哀しきは・・
  情けなきは・・・
  元左翼陣営
国民目線を失った
米国にころんだ社会党右派の情けなさ。
対米従属の左翼陣営の裏切りユダ政権菅直人政権。
リーマンの回し者の売国奴巨姦・仙石由人幹事長。
何が元社会党員なもんか。
左翼対米従属売国奴ッ!

菅直人政権の基本政策は、

①対米隷属
②官僚利権温存
③市場原理主義
④財政再建原理主義
⑤景気よりも財政
である。

 これに対して、小沢一郎前幹事長は

①対等な日米同盟
②官僚利権根絶
③共生重視主義
④財政の無駄排除の徹底
⑤国民の生活が第一

を基軸にしている。

ゆえにアメリカ支配にあるこの国ゆえ
小沢一郎には旧支配政治勢力から総攻撃を賭けられている。

自民党、野党総て・・
民主党内の元自由党以外の全てとの闘い。
圧倒多数を敵に回しての闘いである。
苦境に負けるな小沢一郎ッ!

宗主国へ物言える国作り。
65年間モノ植民地国
国富が貢がれていく
そろそろアメリカから解放すべき時期にある。
唯一立ち向かう政治家小沢一郎に国家を託したい。
この国の夢を賭けたい。
ズーット小沢一郎的自民党政治と身体の時間の総てを賭けたたかって
身もボロボロ。
ナンカ生きてきた実績からおかしいんだが
  国家の未来を小沢一郎に託したい。

60年を耐えた爺目の身体
ついにその一部を捨て去り人工物に変えて
命を長らえるに賭ける第一次手術の日。
酷使しすぎ乱暴だったゆえ自業自得。
医者知らずゆえ恐怖でおののいている。
難所清水さった峠超えの心境

酒の肴は マグロと塩辛
これがホントのとろいか体制

親から頂きし五体満足の最後の書き残し事。
大逆事件の項を定稿したがアップまでに時間がない。
8時には執刀台に雁字搦め。

手術成功、回復平癒・・
     祈念しての(おねだり)
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