今日の誕生日の花は・・・ヨルガオ
花ことばは・・・・・・妖艶
6日朝8時いよいよ二回目の断頭台にのぼる。
オスのお医者様の持つメスが「スッー」と前回体内をかき分けるがよくわかる。
う~~ん
気持ちのいいモノではない。
お参りで心を整える。
「スッー」何かが通り過ぎた。
確かに。
好くは解らぬが確かに何かに生かされている。
白き花でいいではないか。
今夜は幾つの白き花を咲かしてくれようか。
夜顔の ひらくは風の 湧くところ
初代若乃花=花田 勝治(1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)
の告別式が5日に行われたとアル。
団塊の世代のお相撲のさん最後の英雄が逝ってしまった。
多くの夢を有り難うございました。
ご冥福をお祈りした。
戦火で国内は灰燼に帰した。
明治以来の営々積み立てられてきた国富も総て吹き飛んだ。
衣食住にも不自由した。
遊びはモノのがいらず円を描く棒きれ一本。
学校の休み時間、川遊び夕方の日暮れ間際まで相撲をとった。
農家は幼子だろうとも家族全員が日々それぞれの任務を持つ。
幼子の学校が引けた後の午後夕方は
手伝いの牛馬世話、井戸から釣瓶でスイジ場用の水くみ運び、風呂沸かし・・・
それらさえ遊びに熱中し忘れ怒られたモノである。
要領よくなり、
納屋の牛馬のハミ(餌)は準備、
湯殿の風呂は五右衛門かまの下に大木を燃やして火事を注意して。
相撲の遊びの時間を作ったものだった。
日清日露に従軍した爺も助けた。
「風呂火付けちょるかい、たのむわー」
「いろいろあっとよー」
「牛馬の餌は切っちょった」
返事を気かずに押しつけてひたすら逃げる。
行司兼横綱不在では遊びも盛り上がらない。
幼き友みんなとの遊びも農家の子は時間を作るに大変である。
戦後世代の我らの世代の英雄はテレビの社会的導入にも重なる。
国民的英雄は相撲界から転じた元関脇・力道山。
暴力団から刺され死亡したときのショックは酷いモンであった。
義務教育機関全体から活力を奪ったほどの大きな影響力を残した。
弟子・若乃花にとっては語れないモノであったろう。
後で触れる。
プロスポーツは限定されていた。
お相撲さんは憧れのひと
少子化の影響はあらゆる所に及んでる
とりわけ厳しき角界は褌一丁の姿ゆえもあり、なかなか入門者がない。
各部屋は親方任せでの経営実態にある。
ゆえに新弟子を外国人に求める。
何故か。
入門に当たって身体検査の合格が必すうである。
こんなニュースがある。
スポニチ 9月4日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100904-00000044-spn-spo
中学校卒業新弟子検査 異例の“マゲ受験”も2センチ及ばず
今年の春場所では身長が足りずに不合格
ストレッチなどで身長を伸ばす努力をして8月下旬にマゲを結った。
しかし、この日の計測は1メートル71。
基準に2センチ及ばなかった。
相撲協会によると、マゲを結って受検したケースは最近では異例だという。
3度目のチャレンジについて椎名は「師匠と相談して決めます。」
最低のクリアー身の丈の基準は
<身長173cm / 体重75kg以上. >
???
高知県宿毛市出身時津風部屋
豊ノ島関は
<170cm、体重150kg>
何故・・
WIKIにある。
平成の若貴ブーム沈静後、検査受検者が減少した
2001年より受検者層の拡大を狙い、
<身長167cm以上、体重67kg以上>
を基準として第二検査が設けられた。
3月場所、5月場所、9月場所の入門希望者を対象に、両国国技館で年3回行われる。
「第二検査」では体力検査を行い、平均的な体力があれば合格となる。
身長および体重が「第一検査」の基準を満たす場合は、第一検査に回る。
「第二検査」受検者で最初に関取に昇進したのは豊ノ島。
2007年11月場所には、磋牙司が、第二検査から二人目
2010年1月場所後に十両昇進を決めた黒澤改め益荒海は三人目の関取。
ちなみに
琴欧洲関は
<203cm、体重151k>
第二検査が導入される以前に、身長が足りず不合格になった大受や舞の海
頭にシリコーンを埋めて身長を高くして合格
日本人は上背基準でひっかかる訳である。
外国勢が占めてる一因はこの国のDNA事情によるところが大きい。
小兵は相撲では不利である。
相手の手の届く範囲から相手の胴体部への距離を「ふところ」と言う
その距離は身長に比例し、手をひろげた時の右手の中指と左手の中指の先端の距離がほぼ身長に一致する
身長に差があれば、突っ張りであれ、回しをとるのであれ、相手に先んずることが可能
ゆえに背が高い方が有利。
背の低い力士が背の高い力士に勝つのは、身長の差を、猛練習による技術でカバー
結果、小兵が大兵に勝つこともある
勝負数の多い相撲ではどうしても勝率には差がでてしまう
ところがそれを覆す異能力士がいた。
小兵横綱若乃花。
青森・弘前市青女子(あおなご)出身。
ほかのお相撲さんより何倍もの稽古量。土俵の鬼と呼ばれた。
それもそうだ戦後最軽量横綱である。
歴代史上最軽量は栃木山の103㎏
ただし角界でのお話。
一般人からすれば堂々たる体型である。
語られるライバル
栃錦 清隆(1925年(大正14年)2月20日 - 1990年(平成2年)1月10日)
、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)
JR小岩駅構内に銅像が立っている。愛称・土俵の名人、マムシ
若乃花勝治
<身長179cm、体重107kg。>
栃錦 清隆
<身長178cm、体重132kg。>
多くの弟子を育てる貢献を果たした。
実の弟である大関・初代貴ノ花、
横綱・2代若乃花(現:間垣)、
横綱・隆の里(現:鳴戸)
大関・若嶋津(現:松ヶ根)
第65代横綱・貴乃花
第66代横綱・3代若乃花
は甥にあたる。
愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門
幕下止まりで1997年に廃業している。
ウィキに記録がある。
幕内在位:57場所(うち小結3場所、関脇8場所、大関10場所、横綱26場所)
幕内通算成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
横綱通算成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
年間最多勝(1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
幕内最高優勝:10回(全勝1回)
三賞:殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回
金星:6個(羽黒山2、東富士2、千代の山2)
各段優勝:序二段1回(1947年11月場所)、三段目1回(1948年6月場所)
幕内連続2桁勝利記録:22場所(当時1位・現在歴代4位タイ、1955年9月場所~1959年11月場所)
17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦
林檎園農家の長男、1934年の室戸台風のため作物が全滅、北海道室蘭に移住。
沖仲仕などの仕事で家計をささえていた
1946年大関佐賀ノ花ら二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、
本職の力士を数名倒してみせた。
このことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。
条件は「3年で関取になれなければ帰る」
「若ノ花」の四股名は大ノ海の若いときの名を譲られたもの。
「若ノ花・若乃花は全部で何人か」
「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
「二所一門の猛稽古」によって力をつけた。
最も彼をしごいたのは関脇力道山
ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなった
それでも容赦ない。
このままでは殺されると力道山の脛にかみつき、廻し姿のまま部屋から脱走
隅田川に飛び込んだという逸話がある。
本当だろうか。
のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツ
この時の古傷を隠すためだったともいう。
本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。
当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かった
東富士にも可愛がられた。
鏡里もまた若乃花によく稽古をつけた。
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期
相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々
1947年6月場所は明治神宮外苑で行われた
そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、
「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
若乃花足取り
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、
1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。
関取昇進を祝って弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなりあわてて東富士に金の無心
東富士としては、可愛がっていた相手
すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだ、
後で相撲協会の側で「新十両の分際で横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。
中には除名まで主張する意見もあった
羽黒山のとりなしもあってすくわれた。
「あの2人(東富士と羽黒山)には脚を向けて寝られません」
やがて入幕してこの恩人2人から金星を奪い恩を返している。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。
脚の筋肉の付き方は見事
室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。
その必殺技として名高い「呼び戻し」=仏壇返し
実際に食った体験者である鳴門海
「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。
のちに「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。
角界には“動物のあだ名がつくと出世する”という言い伝えがある
1953年、師匠の大ノ海が引退二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設
それに従う
当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。
巡業も引き受け先が見つからず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。
この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。
この相撲を評価され場所後関脇松登とともに大関に昇進。
昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29)なので
、現在の基準で言えば甘い昇進。
、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝、
ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落
大関陥落決定となる黒星をつけたのは若乃花である。
翌場所も12勝で優勝決定戦出場(優勝は関脇朝汐)
、次の5月場所12勝3敗で前頭9枚目大晃との決定戦を制して初優勝、
翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入り
、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。
水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、
連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、
千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、
結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗)
綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。
翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。
愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点
翌1958年1月場所は13勝2敗で優勝。
場所後45代横綱に推挙される。
丁度昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに順ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員
会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。
昭和生まれで最初の横綱である。
横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はない
横綱は三ツ揃えの化粧廻しが揃うまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが
玉錦以来実に20年ぶりの横綱、
しかも玉錦の廻しは空襲で焼けたのか使えない。
さらに困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。
困っていた若乃花を助けたのは理事長の時津風とその弟子鏡里。
事情を知った時津風は土俵入りの指導を引き受け三ツ揃えの廻しも唯一焼けずに完全な形で残っていたものを貸し出して
くれた
栃・若時代
「栃錦清隆#横綱昇進」
初対決がいきなりの大勝負、
次の対戦も水入りの末二番後取り直し
、栃錦との取組は常に大熱戦
技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了
当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいもの
初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のた
めに星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。お互いに横綱となってか
らも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に
年六場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である
「栃・若時代」を実現する。
現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない
朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居たことはいた。
1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。
これは史上初めてのケース。
1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。
これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。
当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。
決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。
中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、
頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。
これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、
すっかり緊張が解けて気分が楽になり、
翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。
後日談として、この時の映画
若乃花は「西部劇だった」
栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」
一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。
爺目判定するに淀川長治と交流のあった映画好きの栃錦に軍配アリ?
栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角。
大関昇進までは11勝が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、
横綱時代には.794。
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。
爺目はコレを名のった。
その後は柏戸剛。
日本人ゆえ判官贔屓思考。
1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があっ
た。
1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、
(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。
1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝
は阻まれた。
1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったから
1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。
影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立ったのだ。
奄美大島出身ゆえ胸毛揉み上げの印象
東宝映画「日本誕生」の手力王の朝潮太郎
隠れた天照大神を連れ出すため天の岩戸を開く横綱朝潮の演技は記憶に強く残る。
「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは1962年1月場所
、関脇だった栃ノ海に負けた相撲。
倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花
栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされた。
「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」
と若乃花は語ったという。
夏の暑い盛りを嫌がる風潮は知恵がない。
ダニ、のみ吸血ムシたちが畳の中下着の縫い目に闊歩していた。
田んぼには蛭、山には山蛭ダニ、
常に吸血鬼たちが悩ませていた。
学校ではDDT散布で真っ白の頭。
太陽光は殺菌作用がある。
この時期、畳を庭にハの字かたちに虫干した。
一面のノコギリ型の小人の家
無邪気にその間をかくれんぼ遊びで走り回る。
「バタッ!」
ハの字の畳が崩れる
「コラッ!」
慌ててハの字かたちに組み直し。
楽しみは他にもある。
畳の下のDDTにまみれた新聞の相撲とり番付表。
宝物である。
昨年やら古きやらのお相撲さんたち。
懐かしい。
ああ・・あの頃の英雄たち
東富士羽黒山大内山千代の山鏡里朝潮琴ヶ浜房錦明歩谷・・・
その最後の生き残りが逝った。
確実に爺目幼き頃は消滅しつつある。
5日 イチロー174本
偉大な大リーグ史上初のレコードの10年連続200安打まで一歩づつ。
一試合一本で丁度200安打。
固め打ち3~4本といかないものか。
日々実にニュースを見るのが辛い。
「達成感はアルが満足感はない」
早く聞きたいモノだ。
日向の神童は柔道部で鍛えた経緯を持つ。
高校までは特別進学コースでそれを維持された方。
ただ大人でただの人。
宿題が色々あり5日夕方YAHOO宮崎で会う。
会うと宮崎弁で喧嘩ばかりでよく解らない
手術台の話をすると「おくっちゃろか」
「自分でいくわ」
残り少なき人生の中で一番長き縁の方となっている現状には確かにある。
どちらが先に逝き棺桶をかつぐのであろうか。
年寄りの未来はどうにも明るさが足りなくいけない。
こな~~た~菅直人
こな~~た~小沢一郎
「睨み合って・・・ハッケヨ~~イ」
がっぷり四っつのおお相撲
「ノコッタ~ノコッタ~」
5日民主党代表選の立会演説会は大阪
総理たる菅直人は上着にネクタイをシロッ!
暑かろうと遊び人的見掛けはイケナイ。
服装は・・仕事着はマナー、
仕事をするに当たり基本である。
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花ことばは・・・・・・妖艶
6日朝8時いよいよ二回目の断頭台にのぼる。
オスのお医者様の持つメスが「スッー」と前回体内をかき分けるがよくわかる。
う~~ん
気持ちのいいモノではない。
お参りで心を整える。
「スッー」何かが通り過ぎた。
確かに。
好くは解らぬが確かに何かに生かされている。
白き花でいいではないか。
今夜は幾つの白き花を咲かしてくれようか。
夜顔の ひらくは風の 湧くところ
初代若乃花=花田 勝治(1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)
の告別式が5日に行われたとアル。
団塊の世代のお相撲のさん最後の英雄が逝ってしまった。
多くの夢を有り難うございました。
ご冥福をお祈りした。
戦火で国内は灰燼に帰した。
明治以来の営々積み立てられてきた国富も総て吹き飛んだ。
衣食住にも不自由した。
遊びはモノのがいらず円を描く棒きれ一本。
学校の休み時間、川遊び夕方の日暮れ間際まで相撲をとった。
農家は幼子だろうとも家族全員が日々それぞれの任務を持つ。
幼子の学校が引けた後の午後夕方は
手伝いの牛馬世話、井戸から釣瓶でスイジ場用の水くみ運び、風呂沸かし・・・
それらさえ遊びに熱中し忘れ怒られたモノである。
要領よくなり、
納屋の牛馬のハミ(餌)は準備、
湯殿の風呂は五右衛門かまの下に大木を燃やして火事を注意して。
相撲の遊びの時間を作ったものだった。
日清日露に従軍した爺も助けた。
「風呂火付けちょるかい、たのむわー」
「いろいろあっとよー」
「牛馬の餌は切っちょった」
返事を気かずに押しつけてひたすら逃げる。
行司兼横綱不在では遊びも盛り上がらない。
幼き友みんなとの遊びも農家の子は時間を作るに大変である。
戦後世代の我らの世代の英雄はテレビの社会的導入にも重なる。
国民的英雄は相撲界から転じた元関脇・力道山。
暴力団から刺され死亡したときのショックは酷いモンであった。
義務教育機関全体から活力を奪ったほどの大きな影響力を残した。
弟子・若乃花にとっては語れないモノであったろう。
後で触れる。
プロスポーツは限定されていた。
お相撲さんは憧れのひと
少子化の影響はあらゆる所に及んでる
とりわけ厳しき角界は褌一丁の姿ゆえもあり、なかなか入門者がない。
各部屋は親方任せでの経営実態にある。
ゆえに新弟子を外国人に求める。
何故か。
入門に当たって身体検査の合格が必すうである。
こんなニュースがある。
スポニチ 9月4日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100904-00000044-spn-spo
中学校卒業新弟子検査 異例の“マゲ受験”も2センチ及ばず
今年の春場所では身長が足りずに不合格
ストレッチなどで身長を伸ばす努力をして8月下旬にマゲを結った。
しかし、この日の計測は1メートル71。
基準に2センチ及ばなかった。
相撲協会によると、マゲを結って受検したケースは最近では異例だという。
3度目のチャレンジについて椎名は「師匠と相談して決めます。」
最低のクリアー身の丈の基準は
<身長173cm / 体重75kg以上. >
???
高知県宿毛市出身時津風部屋
豊ノ島関は
<170cm、体重150kg>
何故・・
WIKIにある。
平成の若貴ブーム沈静後、検査受検者が減少した
2001年より受検者層の拡大を狙い、
<身長167cm以上、体重67kg以上>
を基準として第二検査が設けられた。
3月場所、5月場所、9月場所の入門希望者を対象に、両国国技館で年3回行われる。
「第二検査」では体力検査を行い、平均的な体力があれば合格となる。
身長および体重が「第一検査」の基準を満たす場合は、第一検査に回る。
「第二検査」受検者で最初に関取に昇進したのは豊ノ島。
2007年11月場所には、磋牙司が、第二検査から二人目
2010年1月場所後に十両昇進を決めた黒澤改め益荒海は三人目の関取。
ちなみに
琴欧洲関は
<203cm、体重151k>
第二検査が導入される以前に、身長が足りず不合格になった大受や舞の海
頭にシリコーンを埋めて身長を高くして合格
日本人は上背基準でひっかかる訳である。
外国勢が占めてる一因はこの国のDNA事情によるところが大きい。
小兵は相撲では不利である。
相手の手の届く範囲から相手の胴体部への距離を「ふところ」と言う
その距離は身長に比例し、手をひろげた時の右手の中指と左手の中指の先端の距離がほぼ身長に一致する
身長に差があれば、突っ張りであれ、回しをとるのであれ、相手に先んずることが可能
ゆえに背が高い方が有利。
背の低い力士が背の高い力士に勝つのは、身長の差を、猛練習による技術でカバー
結果、小兵が大兵に勝つこともある
勝負数の多い相撲ではどうしても勝率には差がでてしまう
ところがそれを覆す異能力士がいた。
小兵横綱若乃花。
青森・弘前市青女子(あおなご)出身。
ほかのお相撲さんより何倍もの稽古量。土俵の鬼と呼ばれた。
それもそうだ戦後最軽量横綱である。
歴代史上最軽量は栃木山の103㎏
ただし角界でのお話。
一般人からすれば堂々たる体型である。
語られるライバル
栃錦 清隆(1925年(大正14年)2月20日 - 1990年(平成2年)1月10日)
、東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)
JR小岩駅構内に銅像が立っている。愛称・土俵の名人、マムシ
若乃花勝治
<身長179cm、体重107kg。>
栃錦 清隆
<身長178cm、体重132kg。>
多くの弟子を育てる貢献を果たした。
実の弟である大関・初代貴ノ花、
横綱・2代若乃花(現:間垣)、
横綱・隆の里(現:鳴戸)
大関・若嶋津(現:松ヶ根)
第65代横綱・貴乃花
第66代横綱・3代若乃花
は甥にあたる。
愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門
幕下止まりで1997年に廃業している。
ウィキに記録がある。
幕内在位:57場所(うち小結3場所、関脇8場所、大関10場所、横綱26場所)
幕内通算成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
横綱通算成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
年間最多勝(1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
幕内最高優勝:10回(全勝1回)
三賞:殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回
金星:6個(羽黒山2、東富士2、千代の山2)
各段優勝:序二段1回(1947年11月場所)、三段目1回(1948年6月場所)
幕内連続2桁勝利記録:22場所(当時1位・現在歴代4位タイ、1955年9月場所~1959年11月場所)
17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦
林檎園農家の長男、1934年の室戸台風のため作物が全滅、北海道室蘭に移住。
沖仲仕などの仕事で家計をささえていた
1946年大関佐賀ノ花ら二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、
本職の力士を数名倒してみせた。
このことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。
条件は「3年で関取になれなければ帰る」
「若ノ花」の四股名は大ノ海の若いときの名を譲られたもの。
「若ノ花・若乃花は全部で何人か」
「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
「二所一門の猛稽古」によって力をつけた。
最も彼をしごいたのは関脇力道山
ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなった
それでも容赦ない。
このままでは殺されると力道山の脛にかみつき、廻し姿のまま部屋から脱走
隅田川に飛び込んだという逸話がある。
本当だろうか。
のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツ
この時の古傷を隠すためだったともいう。
本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。
当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かった
東富士にも可愛がられた。
鏡里もまた若乃花によく稽古をつけた。
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期
相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々
1947年6月場所は明治神宮外苑で行われた
そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、
「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
若乃花足取り
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、
1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。
関取昇進を祝って弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなりあわてて東富士に金の無心
東富士としては、可愛がっていた相手
すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだ、
後で相撲協会の側で「新十両の分際で横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。
中には除名まで主張する意見もあった
羽黒山のとりなしもあってすくわれた。
「あの2人(東富士と羽黒山)には脚を向けて寝られません」
やがて入幕してこの恩人2人から金星を奪い恩を返している。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。
脚の筋肉の付き方は見事
室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。
その必殺技として名高い「呼び戻し」=仏壇返し
実際に食った体験者である鳴門海
「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。
のちに「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。
角界には“動物のあだ名がつくと出世する”という言い伝えがある
1953年、師匠の大ノ海が引退二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設
それに従う
当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。
巡業も引き受け先が見つからず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。
この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。
この相撲を評価され場所後関脇松登とともに大関に昇進。
昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29)なので
、現在の基準で言えば甘い昇進。
、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝、
ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落
大関陥落決定となる黒星をつけたのは若乃花である。
翌場所も12勝で優勝決定戦出場(優勝は関脇朝汐)
、次の5月場所12勝3敗で前頭9枚目大晃との決定戦を制して初優勝、
翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入り
、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。
水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、
連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、
千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、
結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗)
綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。
翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。
愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点
翌1958年1月場所は13勝2敗で優勝。
場所後45代横綱に推挙される。
丁度昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに順ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員
会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。
昭和生まれで最初の横綱である。
横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はない
横綱は三ツ揃えの化粧廻しが揃うまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが
玉錦以来実に20年ぶりの横綱、
しかも玉錦の廻しは空襲で焼けたのか使えない。
さらに困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。
困っていた若乃花を助けたのは理事長の時津風とその弟子鏡里。
事情を知った時津風は土俵入りの指導を引き受け三ツ揃えの廻しも唯一焼けずに完全な形で残っていたものを貸し出して
くれた
栃・若時代
「栃錦清隆#横綱昇進」
初対決がいきなりの大勝負、
次の対戦も水入りの末二番後取り直し
、栃錦との取組は常に大熱戦
技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了
当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいもの
初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のた
めに星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。お互いに横綱となってか
らも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に
年六場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である
「栃・若時代」を実現する。
現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない
朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居たことはいた。
1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。
これは史上初めてのケース。
1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。
これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。
当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。
決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。
中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、
頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。
これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、
すっかり緊張が解けて気分が楽になり、
翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。
後日談として、この時の映画
若乃花は「西部劇だった」
栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」
一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。
爺目判定するに淀川長治と交流のあった映画好きの栃錦に軍配アリ?
栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角。
大関昇進までは11勝が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、
横綱時代には.794。
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。
爺目はコレを名のった。
その後は柏戸剛。
日本人ゆえ判官贔屓思考。
1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があっ
た。
1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、
(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。
1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝
は阻まれた。
1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったから
1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。
影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立ったのだ。
奄美大島出身ゆえ胸毛揉み上げの印象
東宝映画「日本誕生」の手力王の朝潮太郎
隠れた天照大神を連れ出すため天の岩戸を開く横綱朝潮の演技は記憶に強く残る。
「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは1962年1月場所
、関脇だった栃ノ海に負けた相撲。
倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花
栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされた。
「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」
と若乃花は語ったという。
夏の暑い盛りを嫌がる風潮は知恵がない。
ダニ、のみ吸血ムシたちが畳の中下着の縫い目に闊歩していた。
田んぼには蛭、山には山蛭ダニ、
常に吸血鬼たちが悩ませていた。
学校ではDDT散布で真っ白の頭。
太陽光は殺菌作用がある。
この時期、畳を庭にハの字かたちに虫干した。
一面のノコギリ型の小人の家
無邪気にその間をかくれんぼ遊びで走り回る。
「バタッ!」
ハの字の畳が崩れる
「コラッ!」
慌ててハの字かたちに組み直し。
楽しみは他にもある。
畳の下のDDTにまみれた新聞の相撲とり番付表。
宝物である。
昨年やら古きやらのお相撲さんたち。
懐かしい。
ああ・・あの頃の英雄たち
東富士羽黒山大内山千代の山鏡里朝潮琴ヶ浜房錦明歩谷・・・
その最後の生き残りが逝った。
確実に爺目幼き頃は消滅しつつある。
5日 イチロー174本
偉大な大リーグ史上初のレコードの10年連続200安打まで一歩づつ。
一試合一本で丁度200安打。
固め打ち3~4本といかないものか。
日々実にニュースを見るのが辛い。
「達成感はアルが満足感はない」
早く聞きたいモノだ。
日向の神童は柔道部で鍛えた経緯を持つ。
高校までは特別進学コースでそれを維持された方。
ただ大人でただの人。
宿題が色々あり5日夕方YAHOO宮崎で会う。
会うと宮崎弁で喧嘩ばかりでよく解らない
手術台の話をすると「おくっちゃろか」
「自分でいくわ」
残り少なき人生の中で一番長き縁の方となっている現状には確かにある。
どちらが先に逝き棺桶をかつぐのであろうか。
年寄りの未来はどうにも明るさが足りなくいけない。
こな~~た~菅直人
こな~~た~小沢一郎
「睨み合って・・・ハッケヨ~~イ」
がっぷり四っつのおお相撲
「ノコッタ~ノコッタ~」
5日民主党代表選の立会演説会は大阪
総理たる菅直人は上着にネクタイをシロッ!
暑かろうと遊び人的見掛けはイケナイ。
服装は・・仕事着はマナー、
仕事をするに当たり基本である。
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