巨匠

2008年2月15日
市川昆監督ほど作品事のテーマが大きく変化する監督を日本映画界は持たなかった。
その偉大な才能は多くの作品テーマごとに見事に咲き開いた。

国家の威信をかけた記録映画を担当しても同じである。
東京オリンピックの総監督は担当大臣河野一郎の芸術主義過ぎるの批判も何のその。
全編記録映画のジャンル分けを越える芸術的オリンピック映画を残した表現の自由の真骨頂。
世界の映画界は特別招待でその業績を称えた。

北京オリンピックのスピルガーク監督が選ばれてるのを考慮すればいかほどのものであるか、ヒトラー時代のオリンピック映画の与えたことを見ればその異議はより理化し去れようというものだ。」

政情不安に揺れる現代ミャンマー=ビルマは国家名称さえ軍事政権の下変わってるほどの気に成り下がった。
市川昆監督はこの国の正常の予測を知り予測して記録に残したんであろうかたんであろうか。
映画に冠をつけて「ビルマの竪琴」は強烈なる反戦メッセージをこめていた、
「ビルマ」を象徴的に残した金字塔。

テレビの社会的進出 存在から娯楽の殿堂の映画は斜陽産業。
プロ野球球団のオーナーを殆ど持ってた時代が夢のような時代の変遷を見聞きしてる世代ゆえなおさらその偉大さを畏怖の念で感じ取るのである。

その位置から市川昆監督は4騎の会を結成し手、社会的にアピールして監督業の人材を強調した。

残されたる頭脳産業の同世代監督、新藤兼人は市川昆監督より三才年上として凛として存在している。
宮崎の黒木和雄監督亡き今一番大切な人となってる映画界の財産。
日経新聞の私の履歴書を昨年登場してるので上がりが近いとはチョットおせっかいのしすぎ。
いや映画愛といってほしいものだ。

ご冥福を祈ります。市川昆監督!御霊よ!安らかに。

このブログはチョット気取って花言葉で始めることを心がけている。
この国の人々の生きる規範の根本は、穢れを忌み嫌いそれを祓い、ハレをまつ生き方を基本とする。
その生き様の矜持は宗教感まで高まった民族である

ただ、身近な日常には圧倒多数が、ジャンル分けに血液型選択が多いのではなかろうか。
少数派と思うがイヌ派ネコ市川昆監督派の区分もある。
今ではクロサワなる怖いものが黄泉の国にしかいない、ゆえに暴く如き会話がある。

黒沢ファンなら誰でも知っている最終作品の「まあ〜だだよ」。
漱石の最後の高弟・内田百?のネコ好きゆえの映画から
黒沢明をネコ派と断定する誤解が世界に伝聞してしまう。

ところが以外にも事実は小説よりも奇なりなんである。
現代の絵草紙の双璧をなす和田誠との対談で忌憚なきクロサワの秘話が明かされる。

此れまでの映画の中でトラとかウマとかどうやって映画に出演させたか。
カラスはたいへんだった事を著作で知った。

「まあ〜だよ」のネコを撮ったのか知りたいの。と真相の裏話に迫る。

幕末太陽伝と共に映画史上の金字塔「麻雀放浪記」を撮り、言葉と日本文化を大事にする和田誠にして落語通の豊かな人格は、猜疑心、追及心として際限、限りない。

内田百?はネコ好きでこの映画の原作名は「ノラ」。
意外な事実が開陳される。

「だいたいクロサワ監督はイヌは好きだけどネコは嫌いなの。」
これはどう転んでもクロサワはネコではない。

カンヌ映画祭で気をきかした雑誌記者がクロサワにしてネコを抱かせての写真を撮ろうとした。・・・
「なんですって。バカね。!」

わざわざパリからカンヌまでネコを連れてきたんだって。

黒澤さんがネコを抱くわけはなく失敗してネコを連れて帰ったらしい。ですよ。
そのぐらい嫌い。
撮影のときだって、ネコなんか触ったことも無いんですよ。

多いときで8匹いた。
冷暖房完備のプレハブをわざわざ建てて助監督らが世話をした。
その辛辣さがいい。

業者に借りようとした。
原作に近いネコを探した
ネコを研究してる女性。

目方も大体同じでけっこう重い。
難しい。

現場に慣れる事がだいたい難しい。
ネコ係りが三人程いた。
ならすための訓練などをしていた。

映画にはその中から一匹のみを出演させた。
百間に扮した松村辰雄は、相手がネコだったから大変。

抱き方が悪い!
こっちを向かせろ!
あっちを向かせろ!
ネコはその都度「ギャァッ〜!」といって逃出す、
ハイッ!次って。
「一番大変だったのはフッーとやるところなの。」

「あれはいいなーと思ってました。」
だってネコが芝居してるわけだから。

ネコが玄関まで行って相手が気に入らないのでフッとやると
大変なのは助監督。

あれはネコが驚いてフッーですからね。
イヌを出したりしていろいろ試した
やらなくて。
いきなりフッーとやった。を使ってんです。
二日ぐらいかかった。いまではCGでしょうけどね。

CGとわかっちゃぁつまんない。やっぱりコツコツやるのがいいのでね。

そのプロセスがいいのよね。
現場は大変だけれど。
助監督がかわいそうよ。ボロクソ言われて。兎に角生き物は大変ですよ。

八月の狂詩曲ラプソディーのアリがありましたね。

あれも最高ね。
アリは最高の助監督泣かせ。。
まさか教徒から運んだと思わないでしょう。
大學の研究者が掃除機で捕獲しいた一万匹を持ってきたの。

アリの訓練て出来ないですもんね。

だから本当にフェロモン本能に頼るしかない。
フェロモンを取るためにアリをすり潰すちゃうんだから。
それを道に染み込ませアリを放す。
だけど元が田んぼだから土に染み込んじゃってアリには解からない。の
話したからって、アリはかってな方向に行く
。バラバラと逃出しちゃって行ってしまって。
ただ、なんでアリの行方に苦労しなきゃいけないのかと。

アリと一緒のルチャード・ギアなんて
あきれた顔して見ていました。
シナリオでは数行なのにこんな蟻地獄を招くとはギアも思わなかった。
日本にしばらく滞在してたので気に入ってたかも。

映画史に埋もれたお話があった。文芸春秋3月特別号。
阿川弘之をトップにして巻頭言扱いのコラム欄。

高野虎市なるチャプリンの秘書のことである。
何故に新婚旅行や講演会などに当時の交通事情の不便さから壮大なる時間のロス。
それが何であったのかをチャプリンが日本国に尽くしたか解明できた。

友人同然のいやそれ以上にチャップリンから総てをまかされていた秘書がいたのである。
大番頭の立場を見事に貫き果たした。
その人は日本人。
三番目の妻ポーレットの浪費癖を直し切れず、静かにチャプリンの元を去った。
チャプリン来日のときは美学に準じて会いに行きたくても行かない。
それは世間からさえ忘れ去らせることとなっていたのだ。

スイスまでチャプリンを訪ねた萩本欣一、
親密な交際にあった淀川のサヨナラの奥にある真実はないのか。
いずれも語られてはいない。

「いまはもう立場が違うんだ。」
目を真っ赤にして来日のチャップリンとの会うことは無かった。

昨年来日したチャプリンの娘ジョセフィン
「コーノは使用人でなく身内だったんだ」とのチャプリンの逸話を伝えている。

それは数々の名作に高野の映画作りに取り入れられたアイデアさえ考え出していたからである。
チャプリン映画は日本人的視点で全編見直されなければならない重要なる事実を提供している。

1925年の傑作黄金狂時代。
あの家が絶壁で揺れるヒヤリ!の映像。
だれもがご記憶にあられよう。
笑いと恐怖をこめて。
高所恐怖症の人は見つめていることが出来ないほどの恐怖心でスクリーンを見れない。あのスリル感。
「もつと差し出せ!せりだせ!」
チャプリンの助言でがけ下に家が落下した・・・
「コーノなにやってんだ!」
「言われたとおりにやったらこのざまだ!」
言い返してやった。
なんたるエピソード。

「おまえなんかもうクビだ!」
五分後には「コーノ!コーノ!」

たくさんの取り巻きの人間の中で「コーノがいちばん最初にナンにつけよばれる
金庫番を負かされていたことの証左である。

映画裏面史で此れに優る記述を呼んだことは無い
。妻であった人の惜別の快筆。
これ以上涙なしでの文章に接したことは無い。号泣。!
市川昆監督からのバレンタインの最大のプレゼントであった。

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