九州山地中央部になる西郷村まで110KM。
体感温度が5度は違おう。風が冷たい!昨日の御池と同じ状況。

電気温水器を取り付けるにあたっての下調査である。
この地には山の神がいるのか。この私が組織に属したのである。

ベルポの会なる30年もになった会があり、それに対して私の当初の認識は摩訶不思議な団体が素直な感覚である。今もそうだが。

では何故に持論の猜疑心は湧かぬのか。七福神の大黒様の笑顔を四六時中絶やさぬ敬愛するヒロ○さまの導きだからである。

この会は生活信条は宗教団体さえ、しゅんがした物がある。

フランス語で「美しい帆」というそうだ。全国に5万人の会員と豪語する。

「敗戦と憲法が私の原点」海軍での戦いの経験をもち「死に損なった」が生活の信条みたいに重くのしかかってるようである。

ナンカで・・あるぞ?・・そうだ!黒木監督の戦争三部作ツモロー、キリシマそして宮沢リエ。原田、三人しか登場しない最新作の映画であり、遅作の井上ひさし原作を読んでるみたいである。

鶴会長そのものみたいであるのでその一挙手一投足を見てみると理解は簡単である。

一番大事なものは憲法12条の「自由および権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」

「個人と社会・自然との調和」がアイデンテイと感ずる。

運営実態は寄付とボランテアと会長の私財で事業が続いてる。
この時代にである。

中国の内陸部に学校を多数作り温暖化の先取りでの緑の植林を実践してきた。ベルポは中国語の碧波に由来する。

何でそんなに・・だって!訳もわからず・・私の人生ではじめて
無心に参加したのである。神のなせるもの・
美人に釣られた?どこかの宗教団体などがやっている美人攻撃・
・この好々爺め!不逞の輩!

政治からも宗教からも距離をおき見返りを求めない
会のあり方誰でも怪しげとみろうよ。このようなご時勢だもの。

鶴会長さんネェ・・おみやげ?・・
わたしの郷里の焼酎は「岩の鶴」・押川酒造は吸収されるもんな〜

山岸会とかマスコミ風評害の電磁波白装束の移動する組織をトンと報道しないマスコミの不気味さのアナウエーブ・・

ベルボの会ねェ〜
かってこの日記でお困りの方のために必死で調べたときに書いたことがあるので今日で二回目にはなる。

甘茶でカッポレ!案外いいのかも知れぬ。
中○さんとは早朝電話しあったが冬虫夏草の組織つくりを話したばっかり。

中国ね・・経熱政冷を地で行ってる現状を私も生きてるようだ。
一衣帯水仲良くできぬのかネェ〜何のための友好条約ぞ!政治!小泉!

この北郷は携帯が通ぜぬ地域。これ直してあげよう。KDDIがいいわ〜
携帯には問題があるようではあるが・・麻薬は止められぬ。

携帯電話は欧州では子供は健康に害なので完全に禁止されている。
スゥエーデンの調査では10年で耳と脳に腫瘍が2〜4倍できた・
聴覚障害もそうである。

オランダでは記憶障害EUは耳の障害健康障害
世界保健機構も調査に乗り出すそうだとNHK深夜ラジオの0時20分

4輪駆動車の排ガスの量の多さと死亡事故に啓発もしていた
平地に必要なエンジン車といえるのか。と併せて黒川イクコの報告

東郷町坪谷を経てやはり国民的歌人に
触れずしてこの項を終えるわけには行かぬ

国民的歌人牧水(明治18,8.24〜昭和3.9.17)である
生家は改修中であった

祖父健海が弘化2年1845年に建てた家である。
写真ではなじみの二階つくりで桜の大木は理解できてたが右の大木は栴檀であった。
根の幹周りは2メートルもあろう

埼玉所沢から不思議な縁でこの地で家を建て医業を施した
天保7年1834年欄人モーニッケより種痘を学ぶ

大阪の適塾の緒方洪庵よりもおそらく早いころの種痘の実施を宮崎の地で実施している医業史を変える出来事をしてる事は私の知識にあった。

あの幕末の4賢公の福井の松平春嶽にして橋本左内も師弟であったが及んでないはずだ。大獄で憤死が惜しまれる厳しき時代。

この日向の種痘の歴史は前々から行ってはいたが’日記でも主張してきたが書き換えられなければならぬ。残念ながら手元に年表とかがまったくない。所詮一夜付けよりひどいその場漬けご理解アレェ!

みなかみ時代の9ヶ月の牧水。45年7月から
父を見舞って帰郷してた時代のことである

家を継ぐべきか放浪の貧苦の旅を続けるのか
この家の二階で悶々としていたのである

飲むなと叱りつけながらに、母がつぐうす暗き
部屋の夜の酒の色

納戸の隅に折から一挺の大鎌あり
汝が意思をまぐるなと言うがごとくに

白玉の歯に染みとおる秋のよは酒は静かに飲むべかり

ふるさとの山に向かいて言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな

幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅行く

牧水は時間をとって触れてみたい

山陰一揆は私の生きるテーマで未消化部分である。
坪谷の牧水生誕の地を訪ね他後に探したが宿題とした。

そのことが気になり帰りしな、神が導いた
「甲斐さんとまれ!」大声で叫んだ。畑のど真ん中添いの道。

武者小路実篤は日向の地に理想を求めた
宮沢賢治は岩手に帰り実践した。

それに勝るとも劣らぬ偉人がいた
知の大巨人・松丸志摩三である。

ここはその実験ほ場お家があるところ
何万株の水仙に囲まれた環境であった・・・・

松丸志摩三の名前には実は苦き思い出がある。
農業の理論的支柱・農業専門誌たる家の光の中心的思想家
著作を上げればキリがない。

 村の教師にうったえる 松丸志摩三 新評論社 1955
村つくり教室 松丸志摩三 中央公論社 1955
  農業問題の疑問点 松丸志摩三 農山漁村文化協会

戦後すぐ出版の「馬の文化史」は興味深かった。

西都の文化不毛の地に生まれ育った私の家うちで唯一の文化の香りは
西日本新聞と家の光であり、希望的に富山の薬売り佐土原からこられる生魚を背にした行商のおばちゃんの魚に混ざってる氷であった。

そのときの家の光は大便を済ましたときの新聞紙が切れたときの代替を果たした。

お笑いめさるな!戦争で負けた国の後は悲惨でトイレット・ペーパーなるものは国内どこにもなかったのですぞ!

紙たる新聞紙とかの家はまだよかったんですぞ!もっと悲劇の生活をしていた人さえいたんですから。

  いいから・・シモ・・やめてください!・・食事中です!・・
コリャマタ・シッレイ!”

そこにかすかに松丸の名をうろ覚えでおぼろげに・・・松丸志摩三・・
神戸生まれではこの茶臼原での農業実践は大変であったろう。

平均海抜100メートルの新田原、茶臼原大地の4200hrの広大な営農にあった環境を作り豊満なる水を有する畑地としたのは20年前である。

反対の記事が毎日地元紙のトップを飾った。
毎夜畑地で過ごした。その事業が完成してる現在である。

築城とこの新田原で西日本の空の防衛を一手に専守してるとの空軍人の誇りの地でもあろう

30年ぶりの訪問で松丸まつ子さんとの茶話にはずみ過ぎた。
論より証拠に台所は火災寸前でしたもの。
なに焦がしたんでしょう。アイスミマセンデシタ

このひとも綾の森、小丸川揚水発電、イラク戦争反対。高鍋国際交流文化人と一通りの多忙さではない

医食同源と文化の旅仕事は道楽である
誰か〜太陽光発電つけてくださ〜い

そんな余裕はないのである
地球環境を守らねばならぬ

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