春の声
2005年1月9日7日で松の内がとれ、いよいよ今年も始まった
1/1に登録したBLOGの新着コーナーの欄も松の内が取れた
今日から新着から外され、「日記・雑談(会社員・OL)ranking」に登場、正式に登録
お陰さまでアクセス数は人気ベスト10内外をウロチョロと素晴らしい成果を頂いてます。
皆様のご協力のお陰。有難う御座います。
かってカウンター数を上げるにはセックス記事か株などの儲けを書くこことであると気づきました。
ベスト3は独身OLの表題の日記とありとても無理ですし、株情報やギャンブル情報もあり、でとてもそれに追いつくことは無理でしょう。
写真もなくビジアル制に欠けお粗末な日記にしてはこのあたりが最高の順番でしょう。
ただ日記アクセスの一割にもなっていないところを考えると上がる要素は十分あるようです。
総てのジャンルを一つにした日記全体の総合では350番位でまだ順位を上げる要素があるようです。
今後ともワン・クリックを宜しくお願い致します。
http://blog.with2.net/link.php/34016
厳しき寒さに突入したばかりですがわずかの中に春の呼び声を探すこともできます。
時期的に 早すぎる頃に覚え始めたのは中学2年生のとき。
音楽室から聞こえてくる他のクラスの歌声が数学を受けているときに聞こえてきた。
ナンカ男の声は少しも聞こえず聖女の声のみです
♪♪はる〜は、名のみぞ〜〜(ぞ)でなく(の)のようですね。
早春譜
1 春は名のみの 風の寒さや
谷の鴬 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
2 氷解け去り 葦は角(つの)ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
3 春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急(せ)かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
作詞:吉丸一昌
作曲:中田 章
二木 紘三(ふたつぎ)は仁科雄三の著書ネームを併せ持つ。
限りなき知識人でこれまで発行の著書から博学ぶりがわかる知の巨人、1942年長野県に生まれ65年、早稲田をでて著作業に入る。
早春譜についての記述。
作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵で生まれ、東京帝国大学を卒業したのち、明治41年(1908)に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)教授になる。
『尋常小学校唱歌』の編纂委員として、芳賀矢一、上田万年、高野辰之、佐々木信網らとともに日本の唱歌成立に重要な役割を果たしました。
『早春賦』のほか、『故郷を離るる歌』『木の葉』『四つ葉のクローバー』『お玉じゃくし』『蜜蜂』『蛍狩り』などを作詞したほか、『日の丸』『桃太郎』『池の鯉』『かたつむり』も吉丸の作品。
大正5年(1916)に43歳の若さで没。臼杵市に吉丸一昌記念館はユキ夫人の実家(旧板井家)で江戸時代からの「早春賦の館」が建っています。
吉丸は、大正の初期に何度か安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感動してこの歌を作ったと伝えられています。
穂高町にある大王わさび農場の近くを流れる穂高川の土手には、『早春賦』の歌碑があり、毎年4月に「早春賦音楽祭」が開かれます。
二木 紘三が生まれ育った村では、吉丸一昌の子息が歯医者を開業しており、子どものころ(昭和20年代)、何度か診てもらった記憶があるそうです。
東京育ちのはずの子息が安曇野に居を構えたのは、やはり父君の影響だったのかもしれません。
作曲を担当した中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』』『めだかの学校』などを作曲した中田喜直の父
。ある人が中田喜直(大正12年〜平成12年)に、「あなたは夏・秋・冬の定番曲は作っているのに、なぜ春の曲を作らないのですか」と訊いたところ、
「春の定番曲には『早春賦』があり、父を尊敬している私としては
、あえて作ろうとは思いません」と答えたという話が伝わっています
45歳の若さで逝去されました。
作詞 相馬御風(ぎょふう、1883−1950)
作曲 弘田龍太郎(、1892−1952)
春よ来い 早く来い
あるきはじめたみいちゃんが
赤い鼻緒のじょじょはいて
おんもへ出たいと待っている
春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと待っている
、相馬御風は新潟県糸魚川市出身の文学者。作曲者弘田龍太郎は、南国・高知生まれ『靴が鳴る』の作曲者。
大正10年に誕生した御風の長女「文子」を素材に作られたそうです。数えで3才。ちょうど「あるきはじめた」ばかり
一番可愛い盛りで自分の周囲に好奇心を向けるお年頃。
でも、糸魚川市は雪の国。家の中ばかりです。
雪が消えて、早く外出できるようになる春の訪れをひたすら待っているのです。
御風は「じょじょ」や「おんも」といった幼児語を取り入れ、彼女の心の叫びを見事に表現しました。
相馬御風 歌人、詩人、文芸評論家。随筆家。多彩です。
早稲田大学校歌『都の西北』や『カチューシャの歌』(島村抱月との合作)の作詞をしたことでも知られる。
大正5年に郷里に帰ってからは、童謡や民謡、校歌、社歌の作詞、良寛の研究などにつとめ、昭和25年に死去。享年66。
弘田龍太郎(1892〜1952)は三重県津高校の校長として赴任した父とともにこの地で育つ。
日露戦争中であり軍楽隊のパレードを楽譜に書いた
東京音楽学校(現芸大)に進み、在学中から作曲活動を行い、作者不詳となっている「鯉のぼりは」は、龍太郎最初期の作品。
弘田龍太郎の作曲が最も精力的に行われたのは大正7、8年(1918〜19)ごろのことで、 児童文学雑誌『赤い鳥』との関係からである。
日本の風土歌運動(赤い鳥運動)は、子どもにもっと自由な夢や 感情を訴える新しい児童文学・芸術運動を目指した、
童謡の作詞には、北原白秋・西条八十・野口雨情・鈴木三重吉ら詩人があたり、作曲には成田為三・草川信・中山晋平ら
この頃からおよそ5年ほどの間に、今でも歌い継がれる童謡・歌曲が生まれ、龍太郎の 作曲活動のなかで一番花開いた時期であった
「雨」靴が鳴 る」[浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」などを作曲し歌は数千曲に及ぶ。
昭和2711月17日に60歳で逝去台東区谷中の全生庵に葬られた
、
宮崎の2月には「スペシャルオリンピックス冬季世界大会」が開催される知的発達障害者のスポーツの祭典である。
テーマ曲「笑顔の花」を作詞作曲作った大野 勇太
、小林市内の知的障害者通所授産施設「ふれあいの里」でパート調理師として働く。
自作の十一曲を収めたCDを昨年十一月、自主制作した。
高原町後川内出身。小林市真方。二十二歳。
アスペルガー症候群は自閉症の一つのタイプで、脳の障害が原因と考えられている。知的には発達しているが、他者との接し方が分からなかったり、細かいことにこだわったりする。
自民党の中川秀直国対委員長は8日、憲法改正の手続きを定める国民投票法案について「通常国会で成立させなければならない」と述べ、成立に意欲を示した。
反戦歌に包まれてた青春時代には考えられなかった世相。
世界の理想は無くなろうとしている
吉永小百合は一昨夜筑紫との対談で
「声を出さなければ大変な年になりそうです」と愁いていたが
二日早く今日の日を知っていたのか
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今日から新着から外され、「日記・雑談(会社員・OL)ranking」に登場、正式に登録
お陰さまでアクセス数は人気ベスト10内外をウロチョロと素晴らしい成果を頂いてます。
皆様のご協力のお陰。有難う御座います。
かってカウンター数を上げるにはセックス記事か株などの儲けを書くこことであると気づきました。
ベスト3は独身OLの表題の日記とありとても無理ですし、株情報やギャンブル情報もあり、でとてもそれに追いつくことは無理でしょう。
写真もなくビジアル制に欠けお粗末な日記にしてはこのあたりが最高の順番でしょう。
ただ日記アクセスの一割にもなっていないところを考えると上がる要素は十分あるようです。
総てのジャンルを一つにした日記全体の総合では350番位でまだ順位を上げる要素があるようです。
今後ともワン・クリックを宜しくお願い致します。
http://blog.with2.net/link.php/34016
厳しき寒さに突入したばかりですがわずかの中に春の呼び声を探すこともできます。
時期的に 早すぎる頃に覚え始めたのは中学2年生のとき。
音楽室から聞こえてくる他のクラスの歌声が数学を受けているときに聞こえてきた。
ナンカ男の声は少しも聞こえず聖女の声のみです
♪♪はる〜は、名のみぞ〜〜(ぞ)でなく(の)のようですね。
早春譜
1 春は名のみの 風の寒さや
谷の鴬 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず
2 氷解け去り 葦は角(つの)ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空
今日もきのうも 雪の空
3 春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急(せ)かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
作詞:吉丸一昌
作曲:中田 章
二木 紘三(ふたつぎ)は仁科雄三の著書ネームを併せ持つ。
限りなき知識人でこれまで発行の著書から博学ぶりがわかる知の巨人、1942年長野県に生まれ65年、早稲田をでて著作業に入る。
早春譜についての記述。
作詞の吉丸一昌は、明治6年(1873)に大分県臼杵で生まれ、東京帝国大学を卒業したのち、明治41年(1908)に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)教授になる。
『尋常小学校唱歌』の編纂委員として、芳賀矢一、上田万年、高野辰之、佐々木信網らとともに日本の唱歌成立に重要な役割を果たしました。
『早春賦』のほか、『故郷を離るる歌』『木の葉』『四つ葉のクローバー』『お玉じゃくし』『蜜蜂』『蛍狩り』などを作詞したほか、『日の丸』『桃太郎』『池の鯉』『かたつむり』も吉丸の作品。
大正5年(1916)に43歳の若さで没。臼杵市に吉丸一昌記念館はユキ夫人の実家(旧板井家)で江戸時代からの「早春賦の館」が建っています。
吉丸は、大正の初期に何度か安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感動してこの歌を作ったと伝えられています。
穂高町にある大王わさび農場の近くを流れる穂高川の土手には、『早春賦』の歌碑があり、毎年4月に「早春賦音楽祭」が開かれます。
二木 紘三が生まれ育った村では、吉丸一昌の子息が歯医者を開業しており、子どものころ(昭和20年代)、何度か診てもらった記憶があるそうです。
東京育ちのはずの子息が安曇野に居を構えたのは、やはり父君の影響だったのかもしれません。
作曲を担当した中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』』『めだかの学校』などを作曲した中田喜直の父
。ある人が中田喜直(大正12年〜平成12年)に、「あなたは夏・秋・冬の定番曲は作っているのに、なぜ春の曲を作らないのですか」と訊いたところ、
「春の定番曲には『早春賦』があり、父を尊敬している私としては
、あえて作ろうとは思いません」と答えたという話が伝わっています
45歳の若さで逝去されました。
作詞 相馬御風(ぎょふう、1883−1950)
作曲 弘田龍太郎(、1892−1952)
春よ来い 早く来い
あるきはじめたみいちゃんが
赤い鼻緒のじょじょはいて
おんもへ出たいと待っている
春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと待っている
、相馬御風は新潟県糸魚川市出身の文学者。作曲者弘田龍太郎は、南国・高知生まれ『靴が鳴る』の作曲者。
大正10年に誕生した御風の長女「文子」を素材に作られたそうです。数えで3才。ちょうど「あるきはじめた」ばかり
一番可愛い盛りで自分の周囲に好奇心を向けるお年頃。
でも、糸魚川市は雪の国。家の中ばかりです。
雪が消えて、早く外出できるようになる春の訪れをひたすら待っているのです。
御風は「じょじょ」や「おんも」といった幼児語を取り入れ、彼女の心の叫びを見事に表現しました。
相馬御風 歌人、詩人、文芸評論家。随筆家。多彩です。
早稲田大学校歌『都の西北』や『カチューシャの歌』(島村抱月との合作)の作詞をしたことでも知られる。
大正5年に郷里に帰ってからは、童謡や民謡、校歌、社歌の作詞、良寛の研究などにつとめ、昭和25年に死去。享年66。
弘田龍太郎(1892〜1952)は三重県津高校の校長として赴任した父とともにこの地で育つ。
日露戦争中であり軍楽隊のパレードを楽譜に書いた
東京音楽学校(現芸大)に進み、在学中から作曲活動を行い、作者不詳となっている「鯉のぼりは」は、龍太郎最初期の作品。
弘田龍太郎の作曲が最も精力的に行われたのは大正7、8年(1918〜19)ごろのことで、 児童文学雑誌『赤い鳥』との関係からである。
日本の風土歌運動(赤い鳥運動)は、子どもにもっと自由な夢や 感情を訴える新しい児童文学・芸術運動を目指した、
童謡の作詞には、北原白秋・西条八十・野口雨情・鈴木三重吉ら詩人があたり、作曲には成田為三・草川信・中山晋平ら
この頃からおよそ5年ほどの間に、今でも歌い継がれる童謡・歌曲が生まれ、龍太郎の 作曲活動のなかで一番花開いた時期であった
「雨」靴が鳴 る」[浜千鳥」「叱られて」「雀の学校」などを作曲し歌は数千曲に及ぶ。
昭和2711月17日に60歳で逝去台東区谷中の全生庵に葬られた
、
宮崎の2月には「スペシャルオリンピックス冬季世界大会」が開催される知的発達障害者のスポーツの祭典である。
テーマ曲「笑顔の花」を作詞作曲作った大野 勇太
、小林市内の知的障害者通所授産施設「ふれあいの里」でパート調理師として働く。
自作の十一曲を収めたCDを昨年十一月、自主制作した。
高原町後川内出身。小林市真方。二十二歳。
アスペルガー症候群は自閉症の一つのタイプで、脳の障害が原因と考えられている。知的には発達しているが、他者との接し方が分からなかったり、細かいことにこだわったりする。
自民党の中川秀直国対委員長は8日、憲法改正の手続きを定める国民投票法案について「通常国会で成立させなければならない」と述べ、成立に意欲を示した。
反戦歌に包まれてた青春時代には考えられなかった世相。
世界の理想は無くなろうとしている
吉永小百合は一昨夜筑紫との対談で
「声を出さなければ大変な年になりそうです」と愁いていたが
二日早く今日の日を知っていたのか