12月26日の日記
2007年12月26日12月26日の花は・・ベゴニア
この時期は特別にクリスマス・ベコニア。シュカイドウ科
花言葉は・・・・・・・愛の告白。
昨日夜少しのお湿り。傘の要らない程度に道路は湿ってなく少々の雨があった.
今日の気温は11月初めという。兎に角暖かい冬4,5日前は22度にもなった。。
他方、旭川エタンベツは氷点下26,3度。旭川の昼でさえ氷点下3らしい。
凍裂なる言葉で北の寒さが表現される。
、CO2増加から来る気候の不安定さが温暖化の本質を全国民の総意となりにくさを、
具体的に表す諸現象ゆえ始末が悪い。
以下は25日のアップ漏れ。ウ〜〜ン一日で陳腐化するあわただしさ。。
クリスマスの一大イベントを二日も過ごした故からか。
田舎都市の宮崎の夜でさえ眠らなくなって久しい。
田舎街には似使わないニシタチの歓楽街だけでなくコンビニの24時間営業が人々を街へと駆り立て、不夜城と化す。
県外から一日二千人も県庁に押し寄せるそのまんま効果が拍車をかけている。
銀河の支配者の全知全能の神は闇黒の地球のほんの一部の列島が煌々と輝いているのをいかように観ていよう。
一滴も採れない石油なのに石油ガブのみ生活体質をネットの衛星写真で確認するがいい。
イルミネーションがクリスマスを盛り上げ、饗宴は正月にかけ続き、列島の輝度はピークに達す。
最近は家庭での電飾が楽しませる光景が冬の風物詩として定着しつつある。
それが以外にも観光の話題となってるそうだ。
台湾の旅行会社が最近行ったアンケート=あなたはクリスマスや年末年始を海外のどこで過ごしたいですか? の結果。
東京が断然1位で北海道が2位。
3位以下は香港、ニューヨーク、パリ、シドニーと続き、大阪も9位と健闘
47階シーガイアに見受けるお客さんの多くをしめてもいる。
パリ・シャンゼリーゼの通りのイルミネーションノ電球は省エネで日本製の豆電球の変わったそうだ。
75パーセントもの電気代金の減になるらしい。
新聞が台湾の人の言葉を教えてくれる。
「夜景はお台場、ショッピングなら渋谷、福袋も面白い。北海道はホワイトクリスマスのイメージね」
台湾からの観光客の言葉である。
生活燃料の変化はニシタチの歓楽街からマッチのサービス品をも姿を消させた。
嫌煙権の進展が拍車をかけた。
若きして逝った立原道造にマッチの詩がある。
「何しに僕は生きてゐるのかと/或る夜更けに/一本のマツチと/はなしをする」
この国の大きな変化は石化燃料に転化した頃を基点にして間違いない。
燃料の産地であった田舎の産業が滅んだことを意味した。
田舎は都会に人材供給として団塊の世代を送り出し産業国家としての繁栄の基礎を作った。
都市と地方の問題はより単純に所得差となり、今日言われている格差である。
逆境に打ち勝った立身伝の人がいる。
韓国の大統領についた李明博(イ・ミョンバク)(66)は大阪で生まれ貧窮のなか幼少を過ごした。
夜間高校から苦学して大学に進んだ。
財閥企業に職を経て35歳で社長、ソウル市長を経ての大統領職
に、まばゆいばかりの成功神話に彩られた人である
日本と韓国は核の不安を共有し拉致の怒りと悲しみを共有している
日韓の政治の出番である。
NHK大河ドラマの軍師・山本勘介の足を引きずり歩く姿に瀕死のマスコミ界を思った。
足を引きずりながら翼賛政治のすすむ軍部と戦った菊竹六鼓(ろっこ)(1880―1937)。
イマドキの記者には長谷川如是閑や大宅荘一どこか菊竹六鼓にはとりわけ読売記者にはWHO?であろう。
読売新聞社長にして主筆の渡辺恒夫の専横ぶりに読売マスコミ人の真理はありえない。
出世のみひたすらにおう読売人に社会の木鐸たる気負いさえ感じない。
翼賛政治の端緒となる大連合政治を画策した妖怪・渡辺恒夫はなにを勘違いしてるのか地位利用で読売新聞の部数伸長を狙っているのみとしか思えない。
憂国の情の吐露での行動とは到底思えない。
福田・小沢会談の真実を語ろうとはせず、小出しに語り自紙にチラつかせ小出しにする。マスコミ人にありえない倫理観。
マスコミの姿勢あり方を貫く信州新聞、秋田魁に負けない新聞に西日本新聞がある。
下関商業が池永を擁して初めての真紅の優勝旗を獲得したとき、九州に初めて優勝旗が渡ったかどうかで議論が分かれたのは
読者が山口にも及んでいたからであろう。
西日本新聞に寄せる明治を造った長州人の熱い新聞人に寄せる信頼があったからだ。
政治や国家をもてあそぶ大新聞読売の新聞人とは大違いである。
ネットからの引用で続ける。
「戦争の世紀」といわれる二十世紀に、人権と民主主義を守るため報道の自由に貢献した人がいる。
世界の報道人百人に、五・一五事件で敢然と軍部批判の言論を貫いた福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の編集局長・主筆、菊竹六皷と、大阪朝日新聞の長谷川如是閑(にょぜかん)(1875―1969)の二人が、日本新聞協会から世界新聞協会(WAN)に推薦された。
海軍の青年将校に暗殺された時の首相犬養毅。
1932年(昭和7年)5月15日のことである。
あろうことか、その重大事件でさえ軍部支配の強まる暗雲込める社会情勢から言論人は口をつぐむ。
その状況下で敢然と軍部を批判した言論人が福岡にいた。
福岡日々新聞の編集局長菊竹六鼓(ろっこ)(1880一1937)である。
「久留米師団の軍用機が威嚇のため福博の街に飛来し、福岡日々新聞社の上空で爆撃訓練をした。」
という伝説まで生まれた反骨の編集局長である。
1880年(明治13年)、福岡県うきは市吉井町福益の豪農菊竹辰二郎の次男として生まれた。
六鼓は2歳の時、左脚を負傷して骨髄炎となり、何度も手術したが成功せず、これが原因で生涯脚を引きずった。
六鼓の号はこれにちなむという。
久留米中学明善校から東京専門学校(現早稲田大学)英語政治学科をでて、徳富蘇峰の「国民新聞」を希望したが、障害のため果たせず、1903年(明治36年)福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)に入社。
27歳の時、野口静子と結婚。静子は看護士として働き、質屋通いをしながらも5人の子どもを育てるなど、
六鼓を物心両面で生涯支えた。
六鼓は、市民の目線からエリアの問題を果敢に取り上げた。
1905年(明治38年)、日本海海戦(5月27日〜28日)で大勝利し国中が戦争の勝利に高揚していたとき、
堅粕の踏切番の11歳の娘宮崎お栄が線路を歩く人に危険を知らせるため、紅白の旗を振り、自らが轢死した事件を「理想の死」として掲載した。
また公娼廃止を主張したため、遊郭業者が自宅まで押しかけてきて凄んできた。
もちろん公娼廃止の論陣を変えることはなかった。
1911年(明治44年)に編集長に就任、1928年(昭和3年)に編集局長となった。
編集局長時代の1932年(昭和7年)、5・15事件が起きた。
新聞各社が軍部の圧力に屈し、口をつぐむなか、軍部の暴力を厳しく糾弾。
翌日(5月16日)「首相兇手にたおる」
夕刊に「軍人が国を誤る・・・」
5月17日は 「敢て国民に覚悟を促す」
、5月19日は 「騒擾事件と世論」
ネットで今も読める。
5・15事件の1周年の1933年(昭和8年)、「憲法かファッショか」の論説を掲載したが、
同年、日本は国際連盟を脱退し、一歩一歩と暗い時代に進んでいった。
1935年(昭和10年)に福岡日々新聞社副社長兼主筆に就任した。
羽織袴で通し「古武士」といわれた反骨の言論人菊竹六鼓
1937年(昭和12年)7月、結核で倒れた。享年57歳。
東京・千鳥ケ淵公園の新聞人顕彰碑にその名が刻まれ、郷里に六皷記念館。
満蒙経営のためにも、経済復興のためにも、はた憲政擁立のためにも国民の一致結合が望ましい。
しかして、その一致結合を得べく、大いに国論を起こさねばならぬ。
外部から強要せられたる一致結合でなく、国民の内部から湧き来たった一致結合であってはじめて、国策遂行の源泉となり背景となることができるものであり、その一致結合の帰趨を発見すべくなんとしても大いに国論を起こさねばならぬ。
国民がそのいうべきところをいわず、論ずべきところを論ぜず、目をもって目に語り、面をもって面に語るがごときは平常時においてすら、不信と疑惑とを醸成するゆえんであって、けっして国民の一致結合を促すゆえんではない。
いわんや日本の現時におけるがごとき非常特別の時期において国民の真の一致結合をえんとするならば、かれらをしてその信ずるところを遠慮なく吐露せしめねばならぬ。しかして、かれらの良心の上に一致結合を策せねばならぬ。しかるに、これを外部より強要し、威迫し、誘惑して一致結合の形式を得んとするものがあるならば、世にそれほど愚劣なことはない。
今の日本にはともすればその愚劣を学ばんとするものがある。
真の国論の一致は三文雑誌や腐敗記者によって買いえらるべきものではない。
ただ国民の良心のみが国論一致の基礎である。
その国民の良心の上に、大いに国論を起こすためには、なんとしても国民をして、充分に当面の事実を知らしめねばならぬ。
その事実にたいする批判を自由ならしめねばならぬ。
それがもっとも肝要である。
約言すれば、いわゆる言論の自由を大いに認めねばならぬ。
今われわれはそれを早稲田擬国会の口吻においていうのではない。
左翼運動者の魂胆においていうのでもない。
現行法規の範囲内において、現社会組織の許しうべき限度において、常識的に今少しく言論の自由を認めよというまでである。
およそ現行法規の範囲においても、今日ほど差止事項のはなはだしいことはない。
かくのごとくにして国民をしてその当面の事実を如実に認識せしめ、その認識にしたがって正当に判断せしむることは
、真に木に拠って魚を求むるの類である。
しかし、それよりもなおいっそう悪いことは、法規以外種々の階級者より、かってなる言いまえをもって加えらるる圧迫である。
その圧迫による言論の萎縮である。
今日、日本にもっとも憂うるところは、この言論圧迫であって、もし国民がそこに覚醒してなんらかの方法を講じて救済の途を発見せぬならば、国民は自らしらずしらずのうちに、断崖絶壁に立って進退の自由を失うであろう。
広莫無人の沙原の中に東西を弁ぜずして孤立無援の自己を発見するであろう。
われわれはけっして放埓無制限のいわゆる言論自由を要求せんとするものではない。
けれども今日のごとき状態を放任することは、前述のごとく国民自身の存亡に関する重大なる危険を伴うばかりでなく、各種の潜行運動、破壊運動、直接行動を誘発するゆえんであり、社会人心をしてますます険悪ならしむるゆえんである。
鹿を追う猟師は山を見ない。
今日、日本の指導者たちが、ややもすればこの種のもっとも危険なる徴候を看過するのみならず、かえって国論の一致安定を得つつあるがごとく誤信するかにみゆることほど、あさましきことはない。
一枚の新聞をよけいに売ること以外、なんの考慮もなき新聞の論調は、けっして国論を反映するものではない。
威武に屈してはその所説を二、三にして少しも悔ゆるところなき新聞の論調は、けっして国論を反映するものではない。
真の国論はそれらの商売新聞以外ひそかに天下の憂を懐きて海内のことに任ぜんとするものの胸中にある。
かれらが悲々憤々の真情を叩きてこそ、国論の帰趨を知ることができる。
かれらをしてそのいわんと欲するところをいわしめねばならぬ。
かれらをしてまず、その当面の事実を知らしめねばならぬ。
われわれは年頭に際して、まず何よりも言論の自由を絶叫せんとするものである。
この与えられた言論の自由の風潮の平成時代。山本考史(58)議員が逝った25日の報道がある。
06年5月の参議院本会議で自らガンであることを宣言した。
権力機構は卑劣である。
健康が明日の自分の身分の是非にかかわる政治業において健康不安を開示した勇気は尋常なるものではない。
山本宣治や斉藤隆夫中野正剛の反戦演説の代議士につならる鉄の意志を感じる。
渡辺恒夫と菊竹六鼓が同じ新聞人として並べ評するのさえバカらしくなる。
この時期は特別にクリスマス・ベコニア。シュカイドウ科
花言葉は・・・・・・・愛の告白。
昨日夜少しのお湿り。傘の要らない程度に道路は湿ってなく少々の雨があった.
今日の気温は11月初めという。兎に角暖かい冬4,5日前は22度にもなった。。
他方、旭川エタンベツは氷点下26,3度。旭川の昼でさえ氷点下3らしい。
凍裂なる言葉で北の寒さが表現される。
、CO2増加から来る気候の不安定さが温暖化の本質を全国民の総意となりにくさを、
具体的に表す諸現象ゆえ始末が悪い。
以下は25日のアップ漏れ。ウ〜〜ン一日で陳腐化するあわただしさ。。
クリスマスの一大イベントを二日も過ごした故からか。
田舎都市の宮崎の夜でさえ眠らなくなって久しい。
田舎街には似使わないニシタチの歓楽街だけでなくコンビニの24時間営業が人々を街へと駆り立て、不夜城と化す。
県外から一日二千人も県庁に押し寄せるそのまんま効果が拍車をかけている。
銀河の支配者の全知全能の神は闇黒の地球のほんの一部の列島が煌々と輝いているのをいかように観ていよう。
一滴も採れない石油なのに石油ガブのみ生活体質をネットの衛星写真で確認するがいい。
イルミネーションがクリスマスを盛り上げ、饗宴は正月にかけ続き、列島の輝度はピークに達す。
最近は家庭での電飾が楽しませる光景が冬の風物詩として定着しつつある。
それが以外にも観光の話題となってるそうだ。
台湾の旅行会社が最近行ったアンケート=あなたはクリスマスや年末年始を海外のどこで過ごしたいですか? の結果。
東京が断然1位で北海道が2位。
3位以下は香港、ニューヨーク、パリ、シドニーと続き、大阪も9位と健闘
47階シーガイアに見受けるお客さんの多くをしめてもいる。
パリ・シャンゼリーゼの通りのイルミネーションノ電球は省エネで日本製の豆電球の変わったそうだ。
75パーセントもの電気代金の減になるらしい。
新聞が台湾の人の言葉を教えてくれる。
「夜景はお台場、ショッピングなら渋谷、福袋も面白い。北海道はホワイトクリスマスのイメージね」
台湾からの観光客の言葉である。
生活燃料の変化はニシタチの歓楽街からマッチのサービス品をも姿を消させた。
嫌煙権の進展が拍車をかけた。
若きして逝った立原道造にマッチの詩がある。
「何しに僕は生きてゐるのかと/或る夜更けに/一本のマツチと/はなしをする」
この国の大きな変化は石化燃料に転化した頃を基点にして間違いない。
燃料の産地であった田舎の産業が滅んだことを意味した。
田舎は都会に人材供給として団塊の世代を送り出し産業国家としての繁栄の基礎を作った。
都市と地方の問題はより単純に所得差となり、今日言われている格差である。
逆境に打ち勝った立身伝の人がいる。
韓国の大統領についた李明博(イ・ミョンバク)(66)は大阪で生まれ貧窮のなか幼少を過ごした。
夜間高校から苦学して大学に進んだ。
財閥企業に職を経て35歳で社長、ソウル市長を経ての大統領職
に、まばゆいばかりの成功神話に彩られた人である
日本と韓国は核の不安を共有し拉致の怒りと悲しみを共有している
日韓の政治の出番である。
NHK大河ドラマの軍師・山本勘介の足を引きずり歩く姿に瀕死のマスコミ界を思った。
足を引きずりながら翼賛政治のすすむ軍部と戦った菊竹六鼓(ろっこ)(1880―1937)。
イマドキの記者には長谷川如是閑や大宅荘一どこか菊竹六鼓にはとりわけ読売記者にはWHO?であろう。
読売新聞社長にして主筆の渡辺恒夫の専横ぶりに読売マスコミ人の真理はありえない。
出世のみひたすらにおう読売人に社会の木鐸たる気負いさえ感じない。
翼賛政治の端緒となる大連合政治を画策した妖怪・渡辺恒夫はなにを勘違いしてるのか地位利用で読売新聞の部数伸長を狙っているのみとしか思えない。
憂国の情の吐露での行動とは到底思えない。
福田・小沢会談の真実を語ろうとはせず、小出しに語り自紙にチラつかせ小出しにする。マスコミ人にありえない倫理観。
マスコミの姿勢あり方を貫く信州新聞、秋田魁に負けない新聞に西日本新聞がある。
下関商業が池永を擁して初めての真紅の優勝旗を獲得したとき、九州に初めて優勝旗が渡ったかどうかで議論が分かれたのは
読者が山口にも及んでいたからであろう。
西日本新聞に寄せる明治を造った長州人の熱い新聞人に寄せる信頼があったからだ。
政治や国家をもてあそぶ大新聞読売の新聞人とは大違いである。
ネットからの引用で続ける。
「戦争の世紀」といわれる二十世紀に、人権と民主主義を守るため報道の自由に貢献した人がいる。
世界の報道人百人に、五・一五事件で敢然と軍部批判の言論を貫いた福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の編集局長・主筆、菊竹六皷と、大阪朝日新聞の長谷川如是閑(にょぜかん)(1875―1969)の二人が、日本新聞協会から世界新聞協会(WAN)に推薦された。
海軍の青年将校に暗殺された時の首相犬養毅。
1932年(昭和7年)5月15日のことである。
あろうことか、その重大事件でさえ軍部支配の強まる暗雲込める社会情勢から言論人は口をつぐむ。
その状況下で敢然と軍部を批判した言論人が福岡にいた。
福岡日々新聞の編集局長菊竹六鼓(ろっこ)(1880一1937)である。
「久留米師団の軍用機が威嚇のため福博の街に飛来し、福岡日々新聞社の上空で爆撃訓練をした。」
という伝説まで生まれた反骨の編集局長である。
1880年(明治13年)、福岡県うきは市吉井町福益の豪農菊竹辰二郎の次男として生まれた。
六鼓は2歳の時、左脚を負傷して骨髄炎となり、何度も手術したが成功せず、これが原因で生涯脚を引きずった。
六鼓の号はこれにちなむという。
久留米中学明善校から東京専門学校(現早稲田大学)英語政治学科をでて、徳富蘇峰の「国民新聞」を希望したが、障害のため果たせず、1903年(明治36年)福岡日々新聞社(西日本新聞の前身)に入社。
27歳の時、野口静子と結婚。静子は看護士として働き、質屋通いをしながらも5人の子どもを育てるなど、
六鼓を物心両面で生涯支えた。
六鼓は、市民の目線からエリアの問題を果敢に取り上げた。
1905年(明治38年)、日本海海戦(5月27日〜28日)で大勝利し国中が戦争の勝利に高揚していたとき、
堅粕の踏切番の11歳の娘宮崎お栄が線路を歩く人に危険を知らせるため、紅白の旗を振り、自らが轢死した事件を「理想の死」として掲載した。
また公娼廃止を主張したため、遊郭業者が自宅まで押しかけてきて凄んできた。
もちろん公娼廃止の論陣を変えることはなかった。
1911年(明治44年)に編集長に就任、1928年(昭和3年)に編集局長となった。
編集局長時代の1932年(昭和7年)、5・15事件が起きた。
新聞各社が軍部の圧力に屈し、口をつぐむなか、軍部の暴力を厳しく糾弾。
翌日(5月16日)「首相兇手にたおる」
夕刊に「軍人が国を誤る・・・」
5月17日は 「敢て国民に覚悟を促す」
、5月19日は 「騒擾事件と世論」
ネットで今も読める。
5・15事件の1周年の1933年(昭和8年)、「憲法かファッショか」の論説を掲載したが、
同年、日本は国際連盟を脱退し、一歩一歩と暗い時代に進んでいった。
1935年(昭和10年)に福岡日々新聞社副社長兼主筆に就任した。
羽織袴で通し「古武士」といわれた反骨の言論人菊竹六鼓
1937年(昭和12年)7月、結核で倒れた。享年57歳。
東京・千鳥ケ淵公園の新聞人顕彰碑にその名が刻まれ、郷里に六皷記念館。
満蒙経営のためにも、経済復興のためにも、はた憲政擁立のためにも国民の一致結合が望ましい。
しかして、その一致結合を得べく、大いに国論を起こさねばならぬ。
外部から強要せられたる一致結合でなく、国民の内部から湧き来たった一致結合であってはじめて、国策遂行の源泉となり背景となることができるものであり、その一致結合の帰趨を発見すべくなんとしても大いに国論を起こさねばならぬ。
国民がそのいうべきところをいわず、論ずべきところを論ぜず、目をもって目に語り、面をもって面に語るがごときは平常時においてすら、不信と疑惑とを醸成するゆえんであって、けっして国民の一致結合を促すゆえんではない。
いわんや日本の現時におけるがごとき非常特別の時期において国民の真の一致結合をえんとするならば、かれらをしてその信ずるところを遠慮なく吐露せしめねばならぬ。しかして、かれらの良心の上に一致結合を策せねばならぬ。しかるに、これを外部より強要し、威迫し、誘惑して一致結合の形式を得んとするものがあるならば、世にそれほど愚劣なことはない。
今の日本にはともすればその愚劣を学ばんとするものがある。
真の国論の一致は三文雑誌や腐敗記者によって買いえらるべきものではない。
ただ国民の良心のみが国論一致の基礎である。
その国民の良心の上に、大いに国論を起こすためには、なんとしても国民をして、充分に当面の事実を知らしめねばならぬ。
その事実にたいする批判を自由ならしめねばならぬ。
それがもっとも肝要である。
約言すれば、いわゆる言論の自由を大いに認めねばならぬ。
今われわれはそれを早稲田擬国会の口吻においていうのではない。
左翼運動者の魂胆においていうのでもない。
現行法規の範囲内において、現社会組織の許しうべき限度において、常識的に今少しく言論の自由を認めよというまでである。
およそ現行法規の範囲においても、今日ほど差止事項のはなはだしいことはない。
かくのごとくにして国民をしてその当面の事実を如実に認識せしめ、その認識にしたがって正当に判断せしむることは
、真に木に拠って魚を求むるの類である。
しかし、それよりもなおいっそう悪いことは、法規以外種々の階級者より、かってなる言いまえをもって加えらるる圧迫である。
その圧迫による言論の萎縮である。
今日、日本にもっとも憂うるところは、この言論圧迫であって、もし国民がそこに覚醒してなんらかの方法を講じて救済の途を発見せぬならば、国民は自らしらずしらずのうちに、断崖絶壁に立って進退の自由を失うであろう。
広莫無人の沙原の中に東西を弁ぜずして孤立無援の自己を発見するであろう。
われわれはけっして放埓無制限のいわゆる言論自由を要求せんとするものではない。
けれども今日のごとき状態を放任することは、前述のごとく国民自身の存亡に関する重大なる危険を伴うばかりでなく、各種の潜行運動、破壊運動、直接行動を誘発するゆえんであり、社会人心をしてますます険悪ならしむるゆえんである。
鹿を追う猟師は山を見ない。
今日、日本の指導者たちが、ややもすればこの種のもっとも危険なる徴候を看過するのみならず、かえって国論の一致安定を得つつあるがごとく誤信するかにみゆることほど、あさましきことはない。
一枚の新聞をよけいに売ること以外、なんの考慮もなき新聞の論調は、けっして国論を反映するものではない。
威武に屈してはその所説を二、三にして少しも悔ゆるところなき新聞の論調は、けっして国論を反映するものではない。
真の国論はそれらの商売新聞以外ひそかに天下の憂を懐きて海内のことに任ぜんとするものの胸中にある。
かれらが悲々憤々の真情を叩きてこそ、国論の帰趨を知ることができる。
かれらをしてそのいわんと欲するところをいわしめねばならぬ。
かれらをしてまず、その当面の事実を知らしめねばならぬ。
われわれは年頭に際して、まず何よりも言論の自由を絶叫せんとするものである。
この与えられた言論の自由の風潮の平成時代。山本考史(58)議員が逝った25日の報道がある。
06年5月の参議院本会議で自らガンであることを宣言した。
権力機構は卑劣である。
健康が明日の自分の身分の是非にかかわる政治業において健康不安を開示した勇気は尋常なるものではない。
山本宣治や斉藤隆夫中野正剛の反戦演説の代議士につならる鉄の意志を感じる。
渡辺恒夫と菊竹六鼓が同じ新聞人として並べ評するのさえバカらしくなる。