2007年12月3日
あさの最低温度が10度C、昼間は20度Cと宮崎の大気は最高の状態。
一年中、大空からはなんのメーッセージもこず、どこまでも抜けた青空が全国一に広がるのみ。
ただ芥川、直木賞が唯一出てない県の自然の懐たる心の襞を造りえない県民性の陽気さとなってるんであろう。
新聞が教えてくれる

12月3日の誕生日の花は・・葉ボタン
花言葉は祝福。愛を包む
葉ボタンの 渦一鉢に溢れたる。

晴れた空から舞い降りる雪を、風花という。
冬の季語であるが、三島由紀夫の遺作「春の雪」に、奈良の寺院に散る風花が描かれている

「空が曇っているあいだは空の色に紛れ、かすかに弱日が射すと、却ってそれがちらつく粉雪であることがわかった」。
淡くはかない寒空の使者である

主人公の青年「松枝清顕(まつがえきよあき)」の禁断の恋が描かれている。
三島が学習院高等科1年生のときに使っていた教科書から、作品の題名と主人公の姓が登場する古い歌謡のメモ書きが見つかったという

教科書「東洋史概説」に挟まれた半紙に鉛筆書きで、
「松がえ(枝)かざし(挿頭)にさしつれば/はるのゆきこそふりかゝれ」とあった。
平安末期の「梁塵秘抄口伝集」の中の詩句
、三島のメモでは原典の「梅」が「松」に変えてある

青春の胸に兆した何かが歳月を経て、晩年の作品に昇華したものか。
昇華と無縁、きょう考えたことを明日のブログに書き散らす身に、歳月の作用は興味が尽きない

三島は変わらぬ松の緑に「永遠」を、
地上につかの間の命をとどめる風花に「滅び」を重ねていたともいう。

後世に読み継がれていく作品が松の緑ならば、その創作過程は作家の死去とともに溶けていく風花だろう。
雪の結晶をほんの少し、心眼に映してくれたメモである。
俗謡にある。
「論はないぞえ惚(ほ)れたが負けよ、どんな無理でも言わしゃんせ」。

理屈じゃないのよ、惚れてしまったのだもの…
言われる色男はいい気分だろうが、しばし待たれよ。
女性から言われるよりも、同じせりふを自分の選んだ一生の仕事に対して言える男のほうが、もっと幸せかも知れない

3時間で一月を読み解くとかとのキャッチフレーズの雑誌がこの12月で26年間の幕を閉じる。
「ダカーポ」である。

創刊以来密かに読みつづけられた殿方の垂涎のコ^ナー。
「くらいまっくす」著者は永田守弘。

官能小説の山場を紹介するコラムの連載
この記事を書くのに読まれた官能小説は一万冊。

その奥義を明かす著書が集英社新書の一角に
「官能小説の奥義」として出版された。

ダカーポの最後を飾るにふさわしきタイムリーな企画出版。
その区分けから、いい得手、妙である。

純官能小説は直木賞クラスでも描くもの。
ただの官能小説はその道のプロの書き手のワザ。。
人が心のそこに持ってる淫心をかきたて燃え上がらせるための小説、
読者の性欲を刺激しオナニーをさせる小説であり、さらに隠微で淫らなイマジネーションを
イカに書き立てるかに腐心する。
そこに特有の表現が編み出されてきた。

忌避される言葉膨大な引用で分析、解説が奥義の本書。
必数の女性器の表現を五種に区分けする。
植物派、魚介派、動物派、陸地派、直接派の五派である
ただ植物派はいろんな花を例えに持ち出す花派と果実に例える果実派に細分化される。

腕の見せ所は花に例えるか貝に例えるか。
岩波新書にある江戸古川柳。
「赤貝は初手。」
解説?
殿方どの、許されたし。
このブログ、ご婦人からさえ勇気をいただいてのブログカウンターは回ってるのですぞ。
見たさま。にご記憶がござろうて。
卑猥なる言葉使いに、思わず唸る
書き方十か条は、知らぜらるに表現の奥義さ。
このくらいにして今評判の新刊書

桜場一樹の「私の男」
髪はボサボサ、よれよれの背広
結婚式に遅れ現われたる男。
面白そうだがさ〜て女心は神代の代より不可解。
書評氏はいつどう書くか。

書評解説は書き方次第。
その書評を震撼させたお話はアメリカのこと。

「オンザロード」という作品が
ニュヨークタイムズで何日後に書評が載るか。
調べてみると著書の新刊が出たのは1957年9月5日。
ナント書評が出たのは同じ日日であった。

その驚くべき秘密があった。
「ブルーフ」という校正刷りが業界に配られるゆえにできたこと。
ビートジェネレーション興味をそそる新語
「日はまた昇る」はロスト・ジェネレーションの聖書。

九州場所は千秋楽に千代大海の休場が無ければ白鳳と優勝決定戦が見られていたのに
何たる不覚の千代大海。大声援があればこその魁皇は結果9勝?

入場者は15日通してもサッカーたった一戦の鹿島、浦和戦の入場者に及ばないというから
野球も含め国技の座の交代かもしれない。

最終戦で勝った鹿島が優勝戦線のトップを走ってた浦和が最終戦に負けたので奇跡の逆転劇。
サッカーフアンでなくとも愛読してるブログのうどんさんに教えられなくともスポーツ紙面で酔った。
台湾で星野ジャパンのコールドゲームその後の4-3の接戦を制したどこではない。

ダルビッシュは韓国戦に出ず、台湾戦に温存。
来夏最終の競技となる北京出場は台湾戦を待たずに決まったようなもの。
ダルビッシュの一粒種を宿してる宮崎の人たる、さえこの伯母はホテル浜荘の若女将さん。
言葉の誘い水のせきやん仕事冥利。
「ねぇ〜世界に羽ばたいてくれといいですよねえ〜」

朝青龍がお詫びの会見をしてる頃の夕方宮崎駅で福岡に向かうおすもうさんにあった。
女でなくとも一面の鬢付け油になびく人の心わからずでない。
宮崎の出のお母さんとお姉さんがご一緒。
天性的に明るい母姉の環境。
「番付は?」
「序の口なの!」
「それないでしょう?髷が・・」
「あっ!幕下・・ドウデモイイノ元気だから」
陰湿なニュースの相撲界はここには無い。
幕下・獅子王関である。
フェースがいい。
強くなれ!
120kgはもうちょっとチャンコ番が足りない。

二人横綱で巡業が行われるようである。
大分県豊後大野と琴昇菊が錦を飾るお国入りの福岡・柳川。
国民詩人北原白秋の故郷で水の都柳川もスッカリ水不足で名物の川遊びも思うようにいかぬらしい。
名横綱・雲竜を生み、土俵入り雲竜型とその名を留める土地柄。

裁くは名行司・宮崎の人・式守伊之助(61)本名内田順一
37年立浪部屋に入門。夏場所から最高位・木村庄之助に就任が決まっている。
先日市内で行われた後援会
「迷ったらダメ、反射神経と集中力。」
名言!ただし、どの仕事も同じである。

謝罪会見から一夜明けた1日、横綱朝青龍(27=高砂)が、亡き恩人の元に足を運んだ。
千葉・松戸市の佐渡ケ嶽部屋を訪問し、8月14日に66歳で亡くなった元琴桜で先代佐渡ケ嶽親方の鎌谷紀雄の仏前に手を合わせた。これまでの言動、行動を反省し、品格を磨くことを宣言した横綱は、今日2日から始まる冬巡業でも別行動をせず、朝げいこにも参加すると約束した。  
、葬儀に参列できなかったことをわび、約4カ月遅れて線香を上げた。
約20分の滞在後、部屋を出ると報道陣に、故人への思いを口にした。

 朝青龍「強くなるきっかけをつくってくれた人です。番付が下のころから、佐渡ケ嶽部屋の土俵でけいこすると、強くなる気がしたし、けがもしなかった。それに自分の弟子以上にかわいがってくれた。この4カ月間、胸が痛くて、心残りで苦しかった。
日本に戻ったら巡業に行く前に、ここに来ると決めていた。来てよかった。気持ちがすっきりしました」。

 05年11月2日の歴代横綱が年1回集まる「横綱会」で左足が不自由だった鎌谷に、朝青龍がかがみ込んで靴を履かせたことがある。
「彼ほど優しく、責任感を持った横綱はいない」。
当時の鎌谷の感激ぶりを、あらためて佐渡ケ嶽親方から伝えられると「そうだったんですか…」としみじみと話したという。
 
 しかし、取材対応を終えた後、乗り込もうとする車の近くにいた1人のカメラマンに
「おら〜っ」と声を上げ、威嚇する場面もあったらしい。
隠そうしてものぞいてしまう横綱の品格を欠く粗暴な部分。
2日からの冬巡業3日間で、生まれ変わった姿がアピールできるだろうか。

佐渡ヶ部屋・琴桜は鳥取の生んだ32歳の遅咲き横綱。
夫人は女優岩下志麻似で、かの人よりより美人の宮崎での実業家・岩下家長女。
現親方の夫人は二人の愛娘。現親方・元関脇琴の若もいい顔であるので丁度いい。

関脇時代の1967年、日英合作映画『007は二度死ぬ』にて蔵前国技館で
当時の横綱佐田の山晋松と取組をする力士として琴櫻自身が登場している。

現役時代の琴櫻の、「バーン」というカチ上げの音に、取組をテレビで見ていた
プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントが、「あれは何なんだ」と目を白黒させて驚いたという

横綱土俵入りは短命のジンクスと言われる「不知火型」をあえて選んだ
当時「遅咲きの桜満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれ八百長疑惑を掛けられた為、
力士としての意地もあったと見られる。
な〜^に語られずの日向の出の夫人の内助の功。と何故書かぬ。
書かれぬ人へのオマージュ。

一ノ矢=高砂部屋が九州場所を限りに引退した。
情報過多時代ゆえなおさら誰も知らないであろう。
力士で現役最年長の46歳、序二段。

国立大学=琉球大理学部を出た異色の経歴をもつ人。
鹿児島県徳之島町の出身、、

最後の土俵を新聞は伝える。
「白髪交じりのマゲ姿に年齢を感じさせる」

最高位は三段目、大銀杏とも関取の呼び名とも縁のなかった土俵人生である。
「相撲の奥深さを感じたから続けられた」と振り返った。
報われるか否かは問わず、
「どんな無理でも言わしゃんせ」と相撲に惚れて惚れ抜いた人を語るとき、序二段も同部屋の横綱もない

今後は本名の松田哲博に戻り、部屋のマネジャーを務める。
土俵を恋慕する火が下積みの涙に消されることのなかった半生はそのまま、若い力士のいいお手本になるだろう
来年2月には元雑誌編集者の女性と挙式の予定という。
傍目には少々薄情とも映るかつての恋人・・・・
相撲の神様に幸せな家庭を見せつけて、ちょっとやきもちを焼かせてみるのもいい。
こうなりゃぁ〜館内に満員御礼がかからなかった九州場所であった相撲がやはり国技。
さもありなん!

新聞コラムを再掲する
サッカーの日本代表監督、イビチャ・オシム(66)がフランス・リーグでのプレーを最後にユニホームを脱いだのは1978年である。
生まれ故郷、旧ユーゴスラビアのサラエボに帰った

収入が数十分の一に減るのは覚悟で帰郷しなければならなかった理由を、木村元彦氏の著書「オシムの言葉」で語っている。
「フランスで育った子供が母国語を忘れかけていた。これは良くないと…」

愛するがゆえに帰った祖国には内乱と分裂の暴風が待ち受け、オシムは一家離散も経験している。

浮き沈みを知らないスポーツ選手はいないが、オシムのたどった人生の山坂はちょっとたとえようがない

攻めの人で知られる。
「攻撃」を作り上げる難しさに比べれば、相手の作り上げた攻撃を壊す「守備」はやさしいという。
戦術的なファウルでも、引いて守ることでも壊せる、と。

「でもね、作り上げることのほうがいい人生でしょう。そう思いませんか?」

刻みの深い人生観に裏打ちされた数々の言葉に魅了された方は多かろう。
脳梗塞で倒れたオシムは今、まだ意識の戻らぬまま闘病の床にある
日本人の夢という荷を、疲れた心身に背負ってくれた人である。
厳父のような風貌でまた、酸味と苦味のきいた言葉を聞かせてくれる人。
民族を超え日本人のサムライに通じる。
わが迷道に、その道なし。

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