ミスター・プロ野球

2006年9月25日
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それそぞれ背負ってるものがあるゆえ責任感をプレッシャーを受けている。
それも巨人軍のエース番号「18」を21年間も背負うと常道を逸する思考もできるようになろう。
きしくも、高校生のドラフトの日である。
早稲田進学を翻し、チームメイト清原和博の行くはずであった巨人軍に入団の苦いドラフト制度。
野球ファンならずとも社会問題となってる桑田 真澄(38)。大阪府八尾市生まれ(1968年4月1日〜)
プロ野球選手身長: 174cm、体重:80kg。現役期間は1986年 -
一度書いたブログさえ消滅したほどのアクシデントも起こった。
問題となってるHP・記事はこうである。

2006年9月23日

お別れ
友へ

今年は、たくさん話をするつもりだったけど、全くできなくて本当に申し訳ないね。
2月に、人生の師、藤田さんが他界され、直ぐに祖母ともお別れをしなければいけなくなった。
別れが多い1年かもしれないね。

このページも、2000年から続けてきたけれど、今年でお別れになると思うし、
何より、明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう。
21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している。
明日は、短いイニングだけど、友への感謝の気持ちを胸に投げたいと思う。

桑田真澄のたった一度の野球人生を、大切に、そして誠実に生きたい。

長い間、ありがとう

18
巨人軍ホームページの桑田の更新から見れる。

http://www.giants.jp/G/person/kuwata/person_02_36.html

今日24日の桑田投手は川崎市のジャイアンツ球場でのイースタン・リーグの湘南戦に先発7イニングを投げた。。
「6月から1軍で投げられるようスタンバイしてきたが、声が掛からなかったのでチームの戦力ではないと判断した。プロとして必要とされるところに行くのがベスト。海外でのプレーも含め、球団と話し合って決めたい」と心境を明かした。
 また、23日に球団公式ホームページに掲載したことには「(2軍戦も)残り少なく、日程上、今シーズン最後の登板となる。
これまで支えてきてくれたファンに伝えるのが義務だと思った」と説明した。
これに対し、巨人の清武英利球団代表
「大選手なので決断を尊重しなければいけないところもあるが、これからゆっくり話を聞くことになると思う。本人も燃え尽きたという気持ちもあるだろう」と述べた。
この清武英利球団代表は宮崎の人。
せきやんは友人を通じて父親、自宅と知っている。
宮崎人の言動、気質から発言を分析してどうにも修復はきかず、一抹の寂しさを感ずる。
あと27勝で200勝!20年現役200勝は入団のときの抱負。
そこにこだわるとこが、いい。
移籍先は最後の姿となった二軍の試合に駆けつけてきた、バンドの神様・中日川相のトコがいい。
PL学園の後輩立浪も福留もいる。
今季、原監督は「実力至上主義」を唱え仁志、二岡、清水を遠ざけた。
投手陣では若手の内海、西村そして、姜建銘を重用している。
桑田は4月13日の広島戦(東京ドーム)では、600日ぶりの白星を手にした。
その試合で右足首をねん挫し、同29日に2軍落ち。
そのご、声はかからなかった。
来季のチーム構想から自分が外れていることを敏感に感じ取っていたハズだ。
24日の会見
「200勝は目標。男は目標を立て、それに向かって努力する。それが男の美学。達成できないかもしれないが、それに向かってやっていきたい」
 ◇会見した桑田の一問一答の主な内容は次の通り。
 ――原監督とは話したのか。
 選手という立場であり、こちらからというのは失礼。原監督の野球観もあるし、自分の野球観を貫くことも大事。僕が原監督の野球観に沿えなかったのかな。今後については白紙なので、清武代表はじめ球団と相談して決めていきたい。
 ――巨人から来年もプレーしてくれと言われたら。
 それは喜んでやらせてもらう。しかし、3〜4カ月待って1軍から声が掛からなかったので、それはないでしょう。
 ――海外の球団も視野に入れているのか。
 それも含めて球団に相談したい。
 ――巨人での21年間で最も印象に残ったのは? 勝ち試合だけでなく、負け試合もベストを尽くしてきた。巨人の背番号「18」を汚さないように自らを鼓舞してやってきた。後悔はない。

 ▽楽天・野村監督
 引き際にはいろんな考え方がある。新庄のような(いい時に辞める)のは、長嶋型。
私はボロボロになるまでやり、12球団のどこからも声が掛からなくなったら、辞めようと決めていた。(現役を続行するなら)桑田は、野村型を選んだわけだな。(獲得に動くかどうかは)権限がないから、わからない。

 ▽中村順司・元PL学園高監督(現名古屋商科大監督) 38歳と言えば、自分が桑田らを指導していたころだった。200勝を目標にしていると思うし、若い選手の模範にもなれる。必要とされるチームで現役を続けてほしい。
 ◇メジャー挑戦の可能性は
 桑田がメジャー挑戦も視野に入れていることについて、米大リーグ・メッツの大慈彌功・環太平洋担当部長は「あくなき挑戦は素晴らしいこと。チャレンジ精神は失ってほしくない」とエールを送る一方、「現在の桑田投手と契約する球団が出てくるかどうかは分からない」と話した。
(毎日新聞) - 9月24日

高校時代から清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評がある。
打者として本塁打7本を記録しており、現役の投手では中日ドラゴンズの川上憲伸と並んで1位である

守備のうまさにも定評があり、幾度となくゴールデングラブ賞を獲得している。その守備はバントの名手川相昌弘をもってして「バントが一番決めにくい投手」と言わしめた。

野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い。高校球児の憧れの存在で、新人選手の目標とする選手に多くあげられる。現在ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長も務めている。

プロ入り前
1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。
水野雄仁を擁して3大会連続甲子園優勝を目指した「やまびこ打線」の池田高校(徳島)を準決勝で7対0と破り、
決勝では横浜商業を3対0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手の記録を立てた。
1984年の2年生での春夏の甲子園はいずれも接戦で敗れ準優勝。
1984年、3年生のときは春はベスト4、夏は決勝戦で帝京高校を下し優勝。
甲子園での通算勝利数は歴代2位で学制改革以後は1位。
打者としての才能にも優れ甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位(6本)である。
5回の大会のなかで桑田・清原のいたPL学園を完璧に抑えたのは、高校3年春の甲子園準決勝で対戦した渡辺智男(後に西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス)のいる伊野商業だけだった。
プロ入り後
1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初先発。
同年6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。
2年目の1987年に15勝6敗の成績を挙げ、2.17で最優秀防御率のタイトルに輝き、先発投手を賞する沢村賞に選ばれた。
藤田元司独特の先発理論から斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。
この年より1992年まで6年連続2桁勝利。
1994年はプロ野球史上初めて同率で並んだチームでの最終戦直接対決で優勝を決める試合となった10.8決戦で7回からリリーフ登板。3回を無失点に抑えて胴上げ投手となる。

1995年6月、対阪神タイガース戦において、湯舟敏郎選手の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘側副靱帯断裂の重傷を負い、手術のため渡米。
1995年残りシーズンと1996年を棒に振り、1997年にカムバックした。
カムバック時のマウンドに跪き、プレートに右肘をつけたシーンは有名でこの後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られる。
復帰した同年は10勝、翌1998年には最多勝争いに加わる16勝
その後、先発、中継ぎ、抑え、敗戦処理とジャイアンツでの起用方法も迷走を続けた。

2001年オフ、ともに巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一が引退。自身も引退を決意する。
2002年、独自の投球観を実践し復活。
4年ぶりの二桁勝利(12勝6敗)、15年ぶりの最優秀防御率(2.22)のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。
15年の期間を経ての主要同一タイトル獲得はプロ野球歴代1位の最長記録。

特に同年4月19日の阪神タイガース戦(甲子園球場)で井川慶と演じた投手戦は、名勝負の一つと言えるだろう。
試合は0-0のまま延長戦に入り、巨人が福井敬治のソロホームランで勝利した。
しかし、2003年以降は再び精彩を欠くようになり、2005年は登板がなかった1996年を除いて初めてシーズン0勝に終わってしまう。

年度別成績(2005年まで)
年度 試合数 勝数 敗数
1986年 15 2 1
1987年 28 15 6
1988年 27 10 11
1989年 30 17 9
1990年 23 14 7
1991年 28 16 8
1992年 29 10 14
1993年 26 8 15
1994年 28 14 11
1995年 9 3 3
1996年 怪我のため登板なし
1997年 26 10 7
1998年 27 16 5
1999年 32 8 9
2000年 30 5 8
2001年 16 4 5
2002年 23 12 6
2003年 14 5 3
2004年 16 3 5
2005年 12 0 7
通算 439 172 140

獲得タイトル・記録
最優秀選手:1回
1994年
沢村賞:1回
1987年
最優秀防御率:2回
1987年、2002年
最多奪三振:1回
1994年
ベストナイン:1回
1987年
ゴールデングラブ賞:8回
1987年、1988年、1991年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年

エピソード

実弟の桑田泉は兄と同じくPL野球部出身で青学で教員免許取得したが、現在はプロゴルファー。
パーフェクト リバティー教団を信仰し、ユニフォームの下にアミュレットがある。
経典を読むのを日課にしており、入団当初のバッシング時の心の支えにしていたという。
様々なトレーニング、2001年オフには甲野善紀の武術を取り入れた。
趣味はピアノ、ワイン、英会話。
ウォーレン・クロマティやビル・ガリクソンとの友情も有名で、
特にガリクソンは息子にクワタの名を付けたほど
クロマティは息子にオーの名前を付けている。
1999年と2000年にはジャイアンツの選手会長を務めた。

PL野球部の先輩で、大学時代に試合中に不慮の事故で首から下が不随になった清水哲の支援を、清原らとともに現在も続けている

打撃にまつわるエピソード
2005年終了時の通算安打数は192、うちホームランは7本。
通算打率は.217。2002年には代打として起用され、安打を放ったこともある。

KKコンビ
前述のように高校時代の同級生である清原和博と併せて「KKコンビ」と呼ばれる。
同級生の2人の選手が共に20年現役を続けたのは史上初である。
ドラフトでのトラブル以来、仲が悪くなってしまったといわれた清原和博との関係であるが、実際のところプロ入り後もしばしば連絡を取り合っており、険悪な関係ではない。
黙々と練習し、大の嫌煙家である桑田と、みんなでワイワイやるのが好きで、ヘビースモーカーである清原が2人で遊びに行くというのは考えにくい。
結局のところ、二人とも「あいつより先に辞めたくない」という意思が強く、「良きライバル」と表現するのが無難と言える。

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異郷の地で学問を修める苦労は、本人のみが知ること。「
克己の精神でいずれ、お国の為に役立つとの志・強い意志。
本人のみの知りえる精進しかないのであろう。
敬愛するメルヘンさんのブログを拝読させていただいている。
ホーム・シックを少し感じたので恩国のことを書いてささげることにした。・・・・ガンバ!・・

ユドヨノ・・(マレーシア、じゃなくてインドネシアの大統領)と
淀殿・・・・

一期一会・・・と
市毛良枝・・・は響きが似ている。
       メルヘンさん 元気ジャ〜〜ン

夏目漱石は1900年の10月末から2年余り、英語研究のためロンドンに滞在した。
漱石の留学2年間のロンドンで下宿を5回変えたたのは有名なお話。
4番目の下宿には学部は違う理学部だが、同じ東大の教授をしていた池田菊苗と同宿になる。
ツーティング(5 Stella Road)が、住所である。
昆布の中から旨味成分のグルタミン酸ソーダを抽出する技術
「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法」の特許を取得した、池田菊苗である。
正岡子規が野球のなずけ親のように味の素は漱石となっているのはこのあたりが出辞なのか。
幼き頃の、池田菊苗の疑問が研究のきっかけ。
「何故、昆布でダシを取ると美味しくなるの?」コンブの出汁とりからであった。
このヒトと別下宿に移り住んだ5番目で鬱病になる
正確には神経衰弱。 
「近年何となく気分勝れず甚だ鬱陶敷(うっとうしく)書見も碌々出来ず心外」 
妻・鏡子宛ての手紙。
1901年7月、クラップァムコモン・ザ・チェイス八十一番地(81 The Chase)にある5番目の下宿、地下鉄クラバム・コモン駅に近いザ・チェイス八十一番地
チェルシーからテムズ川を隔ててそう遠くないところ。
3階の部屋で、帰国までの約1年4ヶ月を過ごした。
ほとんどの時間部屋に閉じこもり、読書と思索に没頭。
外出は少なくなったが、池田菊苗と、チェルシーにあるカーライル博物館を訪れた。
入館者記録にK.Natsume、K.Ikedaの署名が今も見れ、漱石の「カーライル博物館」はこのときの訪問記。
最後の下宿の建物は、美しく手入れされて、今も残っている。
小説家、夏目漱石が住んでいたことを示すブループラーク(歴史的に有名な人物がすんでいた建造物を示すもの)も取り付けられた。日本人第一号。
この家の斜め向かいの建物には、「倫敦漱石記念館」があり、水曜と週末に漱石関連の展示を見ることができる。
帰国後、小泉八雲の後任として、東大で教鞭をとるが、授業の評判が悪く、神経衰弱になる。
このころから作品を雑誌に発表。
「文学論」を完成させたのち、帝大を辞し、朝日新聞社に入社。
新聞小説を連載し好評を博す。
持病の胃潰瘍が悪化し、修善寺に療養する。しかし、大量喀血し、危篤におちいる(修善寺の大患)その後、持ち直し、「こころ」「道草」などの作品を発表するが、
大正5年(1916年) 12月、「明暗?」執筆中に胃潰瘍のため他界する。享年49歳。
ロンドン留学中に他界した、正岡子規(俳人)や寺田寅彦(物理学者)との交流も見逃せない

近代日本は明治維新から始まった。
言語、医療、街造り、法律、絵画、音楽何でも貪欲に吸収、欧州は板倉全権に追従した留守居役・西郷隆盛を除く大久保利通を始とす明治草創期の群像。欧州各国は日本の基礎を作ったすべてvの人が目を輝かしたところ。
とりわけドイツはひときわ違った。唯一親切に対応してくれたのである。
アメリカ、イギリス、フランスどこでもコケにされ唯一拾ってくれたのがドイツであった。
ドイツを下敷きにして作ったゆえ明治憲法をワイマール憲法といわれるゆえんである。
せきやんも同じ道をたどったことがある。
石の文化に圧倒された初日。
ドイツ人が人懐しく話しかけてくる。
まったく判らぬドイツ語には閉口したが安心して居れる。
乱暴なるせきやん流欧州の区分け。
人種差別の街ロンドン。
個人主義の国ゆえ、赤信号でも平気のパリ。
律儀なドイツ。
車はパリの街路には駐車中で、ヘコミ車は平気,さびてさえいる程でワックス仕上げ塗装など皆無
ドイツは実にきれいな車で整然としている。
気質があっているのであろう。
小泉のようにオペラ三昧もよし、歴史的大2次大戦終了を早めた記念碑的エルベ川エルベの青年の不戦の誓い。
ドイツ農民戦争を機軸として働く側からの新経済学の発祥の地
黎明期の経済学者はここに学んだ。
東京大学経済学部で、最初に日本経済史講座を担当した土屋喬雄
『日本経済史が未開拓の領域で、重要ゆえ、専攻しなさい』と前教授・福田徳三にすすめられ、ドイツ留学中に日本経済史のドクター論文を書いた。
ドイツへ2年間留学し、帰国後は明治維新の経済史的研究に徹底した実証主義を用いた。
福田徳三、河上肇、渋沢敬三、向坂逸郎などの影響による。
蔵書西欧経済学の翻訳書-ウェイランド、 J・S・ミル、リスト
1927(昭和2)年に第一作『封建社会崩壊過程の研究』を上梓した。この本は、加賀藩や薩摩藩の財政史料から、江戸時代は既に封建社会の末期にあったことを指摘した。
つまり、江戸時代は純粋な封建社会ではなく、近代資本主義社会の萌芽が見られることを明らかにした。
これは、後に講座派との日本資本主義論争において、労農派の論客として活躍した、彼の歴史認識を示したものである。
 この本を世に送り出してすぐにドイツへ2年間留学し、帰国後は明治維新の経済史的研究にとりかかった。
西欧経済学の翻訳書-ウェイランド、 J・S・ミル、リストなどの著作を蔵書に見れる。
その後に宇野 弘蔵(1897年11月12日 - 1977年2月22日岡山県生まれ)向坂逸郎もドイツに学んだ。
宇野は1958年東京大学を定年退官
宇野学派は、大内力の「国家独占資本主義段階論」の宇野右派、降旗節雄・鎌倉孝夫の「現代帝国主義論」の宇野左派として継承されている。
医学会もそうだ。
江戸時代は西洋医学と言えば蘭学(オランダ医学)であった。
明治になってなぜドイツ医学になったのであろうか。
東大病院の東側、池之端門の近くの高台、看護寮のある木立の中に、相良知安の顕彰碑が立っている
明治新政府の中で新しい日本はドイツ医学を手本として学ぶ必要があると周囲の抵抗に負けずに主張した人物である。
一方、西郷隆盛が支援したイギリス人医師のウィリス
フランスで医学を学んだ高松凌雲などもいた時代である。
相良知安はオランダ医学で使われていたテキストのなかにドイツ語からの翻訳が多く含まれていること
解体新書もドイツのクルムスの著書をオランダ語に訳したものであることを理解していた。
新政府の樹立に貢献した西郷隆盛の推すウィルスの英国医学を導入すべく政府は一度決めた。
相良知安は当時、最も医学の進歩しているのはドイツであることを確信しドイツ医学を選びたいと考えた。
彼の強い主張と大隈重信の支援もあり、遂に周囲が折れた。
ドイツから医学教師を招くことになった。
最初の教師が外科のミューラーと内科のホフマン
。相良知安は天保7 年佐賀藩医の相良柳庵の子

。佐賀で蘭学を学んだ後、佐倉の順天堂の佐藤尚中のもとで
外科学を学んだ。

さらに長崎に国内留学し精得館でオランダ人医師ボールドインに学んだ。その後佐賀に戻り、藩主鍋島閑叟の侍医となり、明治維新後、閑叟に随い上京した。明治2 年医学校取調所御用掛を命じられた。この地位を生かして政府に岩佐純とともにドイツ医学の採用を提言したのである。

わが国の近代医学は大きく進歩し、その影響は現在でも続いている。現在でも医学生が第2 外国語としてドイツ語を選ぶことはそのあらわれである。
日本とドイツの交流は、今から約300年前、医学者エンゲルベルト・ケンペルの長崎出島のオランダ館における1690年から

1692年までの滞在が日独交流の出発点とされ、著書である「日本誌」は、ドイツ語圏で初めて日本を紹介された権威ある見聞録として歴史的交流の第一歩を示している
。その後、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが1823年から1830年、続いて1859年から1862年に日本に滞在し、彼の「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」の著書は、現在でも再版されるほど貴重な功績といえる。
このお項は 加我君孝東大教授の研究書による。

せきやんの社会改革の運動からたずねたいドイツは、キリスト、ユダヤ、イスラムの宗教者がエルサレムに詣でるようなもので
、歴史的進歩政党の決議の場所。
1)シュトゥットゥガルト決議の都市が見てみたい。

2)第二次大戦を終えて、両軍の青年兵士が集いし
反戦の誓いの「エルベの誓い」の・・・エルベ川のほとり。どの辺りであったんであろう。

3)ドイツには東西の壁があり、東ベルリンのやっかいさで、ウェルズ・ブルクに宿を取った。
そこで、見た映画もちろん日本語版の字幕なしの映画館にいりたい。
トイレで便器が高すぎ、ションベンができない町の小高いところのお城。名前は・・ナンだったか・・

4)今では世界一の太陽光発電の普及。
太陽の光の量は日本のほうがいいのだが、なぜか日本で作り、ドツで販売してる太陽光発電。。
普及したきっかけは極めて単純。
アーヘンに行けば判ることだ。

ドイツは揺籃期の日本の母。

医学の発展には海軍医学と陸軍医学の対立があった。
海軍医学は宮崎の人・高木兼寛

明治8―13年:高木兼寛・英国セントトーマス病院医学校(ロンドン大学)留学
 明治14年:成医会講習所→慈恵会医科大学:有志共立東京病院→東京慈恵会病院

陸軍は松本順の後任の森鴎外
脚気はウィルース説の陸軍、ビタミン不足の海軍に分かれて論争

 明治15年:有志共立東京病院創立→東京医学専門学校→東京慈恵会医科大学
・高木の思想:英国医学と貧者への医学「慈恵会」を創設・皇室の寄付・会長・有栖川宮
 帝国生命(朝日生命)創設に協力 海上自衛隊衛生部長:昭和天皇の侍従医・高木顕

海軍医学と高木兼寛
 「病気を診ずに患者を診よ」(患者の視点、貧者への慈悲)
 日本最初の看護学校(東京慈恵会医科大学)の創設→「看護婦と医者とのチーム診療」
  セント・トーマス病院付属看護婦養成所(フローレンス・ナイチンゲールの創設)
 ビタミンの父(世界八大ビタミン学者・南極大陸に「高木崎」)
予防医学(公衆衛生・環境医学・食の医学)の重視

脚気の副産物:海軍カレー
 海軍5等厨夫技能基準(明治17年)カレーライス、シチュウー、ビーフステーキ

.海軍医学(イギリス)医学と日本(ドイツ)医学の抗争→海軍医学の敗北
 ・海軍(薩摩・長州):実証性・臨床医学・予防医学・環境医学
食事・種痘・ツベルクリン・レントゲンなどの導入
 ・日本(幕府→政府・陸軍):病理学・細菌学・理論重視→研究重視
(1)海軍医学事始め:戊辰戦争・イギリス人ウイリス(イギリス公使館付医官)
(2)ウイリス東京大学病院長(シーボルト・ポンペ派反発)ウイリス左遷→鹿児島
 →開成医学校教頭→西南戦争(明治10年)→ウイリス強制帰国(英国)

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