名月や池をめぐりて夜もすがら
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原のかなたに満月が昇る。
朝の、ドシャ降りが、うその様な実に見事なる大きなお月様。
満月の今夜は、観月とシャレこみ線香花火に爺は酔いしれる。
富士山には月見草が良く似合う。といった御仁がいたが、この情況が一番似合う風景である。
幼き頃は縁側に祭壇を作り薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、神酒を供えて月を眺めた。
名月をとってくれとはわが子かな。
引っ掛けのお話で名句もメッチャクチャ。
この日が来るのを待ちわびていた。なぜか?
唯一泥棒をしてよい日で、集落中内をドロボーしまくり、手持ちのフクロは重くてたまらない。
幼き仲間と暗闇の恐怖と戦い戦利品を求め、楽しき宵であった。
、豊作を祈る満月の田舎の奇習の楽しみである。全国的にはどうなんであろうか?
教えていただきたいもの。
カキコぜひともお願いしますネ!
初代天皇神武が船出したところは、綱引き大会が古くより伝わる。
名月や児立ち並ぶ堂の縁
ほつと月がある東京に来てゐる
古さとなき哀れなる大都会人はどうか。
ビルの谷間の名月はどうなるのか。
心配召されるな。
漂白の歌人・種田山頭火 が救いの句を残してくれている。
月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月
「月」が8回あり、「この月」が8月であることを示してもいる
瑞穂の国の民は本来、太陽暦ではない。
明治期に一挙に欧化し、太陰暦から、太陽暦とした。
田舎の農家では、今だ、農作業や、自然にかなった、太陰暦である。
太陰太陽暦(旧暦)の8月15日(十五夜)と9月13日(十三夜)の夜の月見を指す。
旧暦の8月15日を「中秋」と呼ぶため中秋の名月ともいう。
また、旧暦8月は、秋(7-9月)のちょうど中頃なので「仲秋」と呼ぶ、解説もあるがどうだろうか。
そのため仲秋の名月と表記する場合もある。グレゴリオ暦(新暦)での該当日は、8月15日 (旧暦)。
望月古来より旧暦8月(グレゴリオ暦(新暦)では9月ごろ)は観月に最も良い時節とされていた。
お月見の日本での歴史は古く縄文時代ごろからあるといわれ平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で観月の宴や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠んだり酒を飲んだりした、
、ムシもなく、ツキさえももなし、西洋人・・・・せきやん
昼にセミの声を聞き、夜にはコオロギの音が耳に入る。
夏を惜しんで泣く虫と、秋の訪れを喜ぶ虫の笑いが交錯する季節。賑(にぎ)やかでもあり、静かでもある不思議な「隙(すき)間(ま)」だ。
西洋人には虫の声は雑音にしか聞こえないようであるし、お月見の風習もない。
大体心のひだがないゲスな民族は西洋人である。イエス、ノーの国で中間たる空はない。
古きより、血の染まる肉食に凝り、凶暴な民族である。
ヨーロッパでは満月は人の心をかき乱し、狂わせるものであった
月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するという典型的な例があり
、とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったようだ
酒くらい 一衣帯水 おなじつき
中国、韓国では、月を愛でるという習慣が古くからある。
中国では、日本と同じ習慣があり、月餅を作ってお供えする。
日本に伝わって、月見団子に変ったという。
韓国でも、この時期、月見の習慣があり、チュソク(秋夕)といい、勤めも休みになり、郷里で親族と共に祝うお正月、お盆に次ぐお祭りになっている。ソンピョン(松餅)というお菓子をつくる。
ただ、十三夜は日本独自の風習であり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月または栗名月という。
十五夜と十三夜どちらか片方の月見しかしないのは「片月見」と言って嫌われた。
ことしほど、残暑ががきびしいと、満月をを背に夜風は人恋しく清々しい。
このころは、乾燥して月が鮮やかに見え丁度良い気温ゆえ名月鑑賞に絶好の時期だ。
食欲の秋とも言う。
食の豊かな文化の国は、料理における月見として、「月見うどん」、「月見そば」と呼ぶ。
ゆでた蕎麦・うどんを丼に入れ、場合によって群雲(むらくも)に見立てた海苔を敷いてから、生卵を割り入れて、汁と薬味を添えたものをこう読んで食する。
月見の風情をどんぶりの中に見立てたものである。
鍋焼きうどんや味噌煮込みうどんにも鶏卵を割り入れる場合が多い、火が通って黄身が見えにくくなるためか、月見とは呼ばれない。
読書のあき。
秋風に 波やこすらむ夜もすがら
あかしの浦の月のあさがほ
古くから今宵を惜しんでいる。
源 氏 物 語の須磨・明石の巻である。
≪源氏 須磨の巻 (源氏二十六〜二十七歳)
源氏は、後見を任されている東宮の地位も危ういと考え、京を離れる寂しさや紫の上への思いを
心にもったまま数人の友とともに須磨に行き、ひっそりと暮らす。
明石の入道は、源氏が須磨にいることを聞き
娘の明石の君を源氏に嫁がせたいと思い、成就する。
都では朱雀帝が源氏を呼び戻すことを考えていた。源氏は懐妊した明石の君を残して
二年数ヶ月ぶりに京に帰り権大納言に昇進
光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語
人生満月の如くである。
明石市の無量光寺は源氏の月見寺で、物語の中の源氏屋敷とも言われている。
山門は、彫刻の名人左甚五郎
無量光寺のすぐ横にあって、都から流された光源氏が、入道の娘”明石の君”と
知り合い、彼女の住む岡辺の館に通った恋いの細道と言われている。
二人の間に生まれた”明石の姫君は、東宮の后。
明石市朝顔光明寺は「光源氏月見の池」
、寺伝によると昔は、今の10倍もの大きさであったそうな。
いずれも、42年ぶりの男子ご誕生に沸く時期に相応しき熱き恋のお話。
つきは恋を語るに相応しい。
昼間にシャープ太陽光発電の工事を30度を越え蒸す中に実施故格別である今宵。
今日に限ってタバコもマッチを使って一服している。
もちろん、普段のジンベエでなく下駄に浴衣の着物である。
みなさ〜〜〜〜〜あぁん!
危うし!ベスト・テン
せきやん以外の9名はミナ大都市・福岡の人々。
一つぐらい、宮崎の田舎モン・ブログがあってイイジャン!
「プチッ!」!。
(^-^)お頼み申します。!(^-^)
↓ ↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076
↑ ↑ ↑
ワン・クリック!
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原のかなたに満月が昇る。
朝の、ドシャ降りが、うその様な実に見事なる大きなお月様。
満月の今夜は、観月とシャレこみ線香花火に爺は酔いしれる。
富士山には月見草が良く似合う。といった御仁がいたが、この情況が一番似合う風景である。
幼き頃は縁側に祭壇を作り薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、神酒を供えて月を眺めた。
名月をとってくれとはわが子かな。
引っ掛けのお話で名句もメッチャクチャ。
この日が来るのを待ちわびていた。なぜか?
唯一泥棒をしてよい日で、集落中内をドロボーしまくり、手持ちのフクロは重くてたまらない。
幼き仲間と暗闇の恐怖と戦い戦利品を求め、楽しき宵であった。
、豊作を祈る満月の田舎の奇習の楽しみである。全国的にはどうなんであろうか?
教えていただきたいもの。
カキコぜひともお願いしますネ!
初代天皇神武が船出したところは、綱引き大会が古くより伝わる。
名月や児立ち並ぶ堂の縁
ほつと月がある東京に来てゐる
古さとなき哀れなる大都会人はどうか。
ビルの谷間の名月はどうなるのか。
心配召されるな。
漂白の歌人・種田山頭火 が救いの句を残してくれている。
月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月
「月」が8回あり、「この月」が8月であることを示してもいる
瑞穂の国の民は本来、太陽暦ではない。
明治期に一挙に欧化し、太陰暦から、太陽暦とした。
田舎の農家では、今だ、農作業や、自然にかなった、太陰暦である。
太陰太陽暦(旧暦)の8月15日(十五夜)と9月13日(十三夜)の夜の月見を指す。
旧暦の8月15日を「中秋」と呼ぶため中秋の名月ともいう。
また、旧暦8月は、秋(7-9月)のちょうど中頃なので「仲秋」と呼ぶ、解説もあるがどうだろうか。
そのため仲秋の名月と表記する場合もある。グレゴリオ暦(新暦)での該当日は、8月15日 (旧暦)。
望月古来より旧暦8月(グレゴリオ暦(新暦)では9月ごろ)は観月に最も良い時節とされていた。
お月見の日本での歴史は古く縄文時代ごろからあるといわれ平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で観月の宴や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠んだり酒を飲んだりした、
、ムシもなく、ツキさえももなし、西洋人・・・・せきやん
昼にセミの声を聞き、夜にはコオロギの音が耳に入る。
夏を惜しんで泣く虫と、秋の訪れを喜ぶ虫の笑いが交錯する季節。賑(にぎ)やかでもあり、静かでもある不思議な「隙(すき)間(ま)」だ。
西洋人には虫の声は雑音にしか聞こえないようであるし、お月見の風習もない。
大体心のひだがないゲスな民族は西洋人である。イエス、ノーの国で中間たる空はない。
古きより、血の染まる肉食に凝り、凶暴な民族である。
ヨーロッパでは満月は人の心をかき乱し、狂わせるものであった
月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するという典型的な例があり
、とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったようだ
酒くらい 一衣帯水 おなじつき
中国、韓国では、月を愛でるという習慣が古くからある。
中国では、日本と同じ習慣があり、月餅を作ってお供えする。
日本に伝わって、月見団子に変ったという。
韓国でも、この時期、月見の習慣があり、チュソク(秋夕)といい、勤めも休みになり、郷里で親族と共に祝うお正月、お盆に次ぐお祭りになっている。ソンピョン(松餅)というお菓子をつくる。
ただ、十三夜は日本独自の風習であり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月または栗名月という。
十五夜と十三夜どちらか片方の月見しかしないのは「片月見」と言って嫌われた。
ことしほど、残暑ががきびしいと、満月をを背に夜風は人恋しく清々しい。
このころは、乾燥して月が鮮やかに見え丁度良い気温ゆえ名月鑑賞に絶好の時期だ。
食欲の秋とも言う。
食の豊かな文化の国は、料理における月見として、「月見うどん」、「月見そば」と呼ぶ。
ゆでた蕎麦・うどんを丼に入れ、場合によって群雲(むらくも)に見立てた海苔を敷いてから、生卵を割り入れて、汁と薬味を添えたものをこう読んで食する。
月見の風情をどんぶりの中に見立てたものである。
鍋焼きうどんや味噌煮込みうどんにも鶏卵を割り入れる場合が多い、火が通って黄身が見えにくくなるためか、月見とは呼ばれない。
読書のあき。
秋風に 波やこすらむ夜もすがら
あかしの浦の月のあさがほ
古くから今宵を惜しんでいる。
源 氏 物 語の須磨・明石の巻である。
≪源氏 須磨の巻 (源氏二十六〜二十七歳)
源氏は、後見を任されている東宮の地位も危ういと考え、京を離れる寂しさや紫の上への思いを
心にもったまま数人の友とともに須磨に行き、ひっそりと暮らす。
明石の入道は、源氏が須磨にいることを聞き
娘の明石の君を源氏に嫁がせたいと思い、成就する。
都では朱雀帝が源氏を呼び戻すことを考えていた。源氏は懐妊した明石の君を残して
二年数ヶ月ぶりに京に帰り権大納言に昇進
光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語
人生満月の如くである。
明石市の無量光寺は源氏の月見寺で、物語の中の源氏屋敷とも言われている。
山門は、彫刻の名人左甚五郎
無量光寺のすぐ横にあって、都から流された光源氏が、入道の娘”明石の君”と
知り合い、彼女の住む岡辺の館に通った恋いの細道と言われている。
二人の間に生まれた”明石の姫君は、東宮の后。
明石市朝顔光明寺は「光源氏月見の池」
、寺伝によると昔は、今の10倍もの大きさであったそうな。
いずれも、42年ぶりの男子ご誕生に沸く時期に相応しき熱き恋のお話。
つきは恋を語るに相応しい。
昼間にシャープ太陽光発電の工事を30度を越え蒸す中に実施故格別である今宵。
今日に限ってタバコもマッチを使って一服している。
もちろん、普段のジンベエでなく下駄に浴衣の着物である。
みなさ〜〜〜〜〜あぁん!
危うし!ベスト・テン
せきやん以外の9名はミナ大都市・福岡の人々。
一つぐらい、宮崎の田舎モン・ブログがあってイイジャン!
「プチッ!」!。
(^-^)お頼み申します。!(^-^)
↓ ↓ ↓ ↓
http://blog.with2.net/link.php?62076
↑ ↑ ↑
ワン・クリック!