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敬愛するうどんさんのブログ加賀藩前田公を読んで思い返し書いている。
一定程度の資本蓄積があっての、生活環境の痕跡,繁栄で文化・伝統は培われよう。
自分を育んでくれた、住んでる地域を含めご先祖さまにありがたいと敬う気持ちの矜持のことだ。
品格のある国家論に繋がる大事なところ。
環境は人をもつくる。
16日夜8時から9時放映の新日曜美術館。
火宅の人の娘らしく檀ふみの黒縮緬の着物姿は妖艶さで実にいい。
狩野探幽の右腕であった、久隅守景(くすみもりかげ)の描いた国宝「納涼図」上野美術館蔵を解説していた。
墨絵の屏風は瓢箪の屋根の小屋の下でくつろぐ男に子供二人。
日本画史上初めての家庭を描いたもので意味深らしいプロローグ。
この頃絵師は師匠のものまねのみを書いた。
お手本書の通り書くのを粉本主義と言う。
そうしないと破門させられた。
この絵には狩野派の面影はない。
絵に描かれた息子は放蕩がたたり、1675年25歳で佐渡に流され、その地で40歳で果てた狩野絆(月ヘンに半)幽。
幼名彦十郎。佐渡に日蓮の流され住んでた実相寺に多くの作品を残した。
閉話休題佐渡のことである。
多くの貴族が流された遠流(おんる)の地
承久3年(1221年):承久の乱、順徳上皇が佐渡に流される。
文永8年(1271年):日蓮が佐渡に流される。
弘2年/正慶元年(1332年):日野資朝が佐渡で処刑される
永享6年(1434年):世阿弥
せきやんが宿泊した頃の佐渡は大枠、両津と相川町二つの街からなっていた。
実は、10村であったが、現在は佐渡市市のみ人口は69,546人
地勢は三分で、北西が大佐渡山地、南東が小佐渡丘陵(小佐渡山地)で、このふたつの間に国中平野が広がる
山が海に迫る景勝地で、山地とともに佐渡弥彦米山国定公園、相川の佐渡金山へはスカイラインで走り、驚いたものであった。
2,26事件や進歩的指導者北一輝(1883-1937)の生家にはいけなかった。愛読した国家改造論は今でも新鮮である。
弟の北?吉(1885-1961)もそうであった。
荒海や、佐渡に横たう 天の川
自然は人を生み出す。
元外務大臣 有田八郎(外交官・政治家、1884-1965)レスリングを良くした人の記憶がある。
丹下左膳シリーズなど、林不忘・牧逸馬・谷譲次という筆名を持つ,長谷川海太郎(小説家、1900-1935)もおなじ。
相撲好きゆえまた年齢が近いゆえ 小結大錦充周、現 山科親方(、1953-)猛者探しもダメであった
焼き物には一癖ある、ゆえ、無名異焼はたずねることができた。
盆栽鉢としては趣はない朱紫泥焼の手法
、高温で焼き締めるために非常に固く、叩くと金属音のような音を出すのが特徴
なお、無名異焼は朱泥そのもの、佐渡以外にも朱泥の本場常滑デモ焼かれている。
のちの、2003年に重要無形文化財の指定を受け
藤窯一(美術家、1941-)は無名異焼で五代 伊藤赤水として、人間国宝 に指定された。
話を戻そう。さて、久隅守景の「納涼図」のもう一人の人。妻でなく娘の視点で見る。
、娘の雪は、清原雪信で描いた井原西鶴に用いられた人。
学生時代から追い求めた久隅ゆえ解説する榊原悟群馬大教授の愛情あふれる久隅守景論であった。
50歳にして加賀藩の庇護を受けたゆえ、そこの美術館に作品が残っている。
四季耕作図は原画の中国風とオリジナル風の二つが現存する。
晩年は京都で茶人・藤村康軒とすごした記録が、扶桑画人伝に伝えられている。
上加茂神社に伝わる、白黒の馬を走らす占いの行事
小泉、ブッシュも観覧した
宮崎には宮崎神宮に流鏑馬として似た行事が伝わっている。
上加茂競馬図に描かれた庶民の隅々の姿は久隅守景の悟りの境地。
他方人物画の人見四郎には捨て去られた狩野派や家族の涼秋が漂っている。
家族は離れ離れに幸せはない。人生の寂寥感を感じる。
この時期、瑞穂の国は夏祭り。
怨霊を祓い、安寧繁栄をお祈りする。
一族が合い揃い、先祖を偲ぶ民族の歴史の日。
落語のなかにひっそり残る言葉の「薮入り」
その昔、商家の奉公人は年に2度、正月と盆の16日に暇をもらい、実家に帰るのを許された。
愚息や娘も宮崎にいるのか知れぬ。
17日朝、ジョイフルにいるとナント命の恩人に出会った。
私なりの人生観で挨拶もせず、必死に避けていたのにこれである。
お盆は卑劣な隠れた生き方さえ許さない。
佐渡の思い出が蘇ってきたわけだ。
上杉領から関が原ののち、慶長6年(1601年)佐渡が徳川領となるり、佐渡金山が発見される
北前船の中継基地となり、その船の行くところは繁盛した。
遠くは、富山・高岡市の伏木
今年で創立132周年の伏木小学校は宝生流・能「高砂」教育の伝統が今に伝わるわけだ。
地方都市には珍しき、富山の地の能楽堂には野村万作の会さえ定期的に公演されている文化あふれる都市。。
沖縄の離島から甲子園に始めて参加するようなもので、春のセンバツで偶然に選ばれたのが力となり、突然化けたようなもの。
その国を評価するモノサシは民族性などでなくメルクマールは文化度合いで言いのやも知れぬ。
ジダンや相撲の出場停止者にみるブチギレ状態を見る限り、培われたサムライ精神がいかほどのものであったのか先哲のすばらしさに思いをはせる。
ぼろは着てても心は錦。
武士道とは死ぬことを見つけたり。
一つ一つのことに精一杯取り組み責任を取る!に置き換えれば現代版サムライ。
それにしても、人生何が起こるかわからない。

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