経済運営・・2(続き)
2005年9月29日前回の続き
森永貞一郎の父貞右衛門は町会議員・商工会長などを務め、1922(大正11)年西諸貯蓄銀行(現西諸信用金庫)を創立。後に日向興行銀行(現宮崎銀行)第3代頭取に就任。日本基督教団小林教会を設立した人でもある。
貞一郎(1910〜1986) は父の背中をを見て育ってるわけである。、
1931(昭和6)年東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省、太平洋戦争中から本省課長、参事官などを務め、1957(昭和32)年大蔵事務次官を務めた。
、1974(昭和49)年、第23代日本銀行総裁就任。
1979(昭和54)年に退任し、以後皇室参与となり日向の人では秋月種樹いらいであろう天皇へのご進講などを務める
1986(昭和61)年5月30日逝去、去年76歳。
官僚のトップの要職にあっても、少しも高ぶることがなく、政治家に追従することもない。人徳温容の人として慕われた
「私はガサツな人間」と自己批評する。都会風紳士に特有のキザな感じはなく、声は太いが服装、態度とも飾り気がなく、端正な容貌ながら茫洋の風姿。髪の手入れは苦手な様子。背広にはたえずタバコの灰がまつわりついている。
主計局長時代、野党各党から災害緊急対策予算を編成せよ、と迫られて「財源がない」と突っぱねた。さんざん押し問答を繰り返したあげく、
「無理なことを言いすぎる国会も少しは反省すべきだ。」
との森永発言がたたって議場は紛糾、「退場!」を命じられた
シンは強い。
「私は元来短気だが、怒らないように気をつけている。」
という。しかし、実際はかなりの照れ屋でパイプも照れ隠し小道具の一つで小林の記念館で見ることができる。
総裁として、第一次石油ショック後の長期不況、第二次石油ショックに伴う物価の急騰、国際収支及び円相場の激変等の様々な難局に、通貨当局者としての不屈の信念をもって、極めて適切な金融政策を行い、通貨価値の維持、安定に尽力した。
「森永貞一郎おもい出集」抜粋)
極めつけの逸話を宮沢喜一元総理が書いている。
あなたの一生のうちで一番の恩人は誰ですか」と聞かれたら、私はちゅうちょなくまず森永貞一郎さんの名前をあげると思います。(中略)森永さんに1年間お仕えして私は沼津税務署長に赴任することになりましたが、森永さんにお別れのご挨拶をした時、私は涙がとまらなかったことを今でも忘れません。ある大蔵省の後輩が、森永さんを評した言葉によれば、「まったく不思議な方で、仕事ができるといったこととは違うんです。政治的パワーとか人脈といった点でも、実はこれといったものがあったわけではありません。それなのに、みんなあの方の魔術にかかってしまうんです」と言っていますが、これは森永さんというお方をよく表現していると思います。
小泉後継と違い有望なる人に託した。
「前川レポート」「新前川レポート」で名を成した
前川春雄は森永貞一朗の次の後任で 第24代日本銀行総裁
80年第二次オイル・ショックのインフレを金融引き締めで克服。
86年国際電信電話(現KDDI)会長。を努め1989年9月22日逝去。
森永以降の総裁を列挙すれば仕事振りがより理解できよう。
第23代 森永貞一郎 1974年12月17日 宮崎県 大蔵事務次官、 東京証券取引所理事長
第24代 前川春雄 1979年 東京都 日本銀行
第25代 澄田智 1984年 群馬県 大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁
第26代 三重野康 1989年 大分県 日本銀行
第27代 松下康雄 1994年 兵庫県 大蔵事務次官、太陽神戸銀行頭取、さくら銀行会長
第28代 速水優 1998年 兵庫県 日本銀行理事、日商岩井会長、経済同友会代表幹事
第29代 福井俊彦 2003年 大阪府 日本銀行副総裁、富士総研理事長、経済同友会副代表幹事
さて長々とお付き合いをいただいてるがもう少し人物を見ていただいての小泉=竹中の財政無策振りを浮き彫りにしたい。
一昨日訃報が明らかにされた。森永貞一朗が総裁を努めた1974〜1979につくや就任していた日銀理事1070〜1974を辞退した人のことである。
経済界のご意見番・経済評論家で元日本銀行理事の吉野俊彦そのひとだ。
1938年に日本銀行に入行。調査畑を歩み、日銀法制定に携わったほか、70〜74年に日銀理事を務めた。戦後、物価急上昇を伴う経済成長を批判し、一貫して安定成長を唱えた論客として知られる。「高度成長論」を唱える旧大蔵省出身の経済評論家・下村治氏との論争も有名。74年からは旧山一証券経済研究所理事長を務めた。
このひとは石原慎太郎や西武・堤のように二束のわらじ
をはきこなした。
勧業銀行マンとして音楽活動と両立させた小椋佳のようなものだ。
吉野俊彦は日銀時代から森鴎外の研究家としても知られ、「森鴎外私論」など多数の著書もある。
そのきっかけがいい。新聞からである。
「左遷なりとは軍医一同に申居り…実に危急存亡の秋(とき)なり」。森鴎外は左遷され、母親にぐちだらけの手紙を書いた
吉野俊彦はむしろそこに引かれた。
左遷の背景には、職務中に小説を書いている、という誹謗中傷があったといわれる。日本銀行で調査畑を歩みながら金融、経済関係の著作を次々に世に出していた吉野さんも同じような境遇にあったからだ。
駄文を連ねる私も身にしみている。
「せきやんは太陽光発電の仕事を真剣に取り組んでいなく日記を書いている」
ブログを書き連ねられる方々にもおありのはずだ。
吉野俊彦の 軍医と作家のはざまでゆれる鴎外への共感はいつしかライフワークになった。
さらに愛弟子の一人、永井荷風が晩年、ズダ袋を提げてトボトボ歩く姿を、千葉県市川市の自宅近くで見かけてもいた。その森鴎外を基礎とする溢れる知識は
永井荷風と河上肇―放蕩と反逆のクロニクル 日本放送出版協会 )にもうかがい知れる。
吉野さんはしばしば何もしないでいることへの恐怖を「虚無」と表現した。そこから脱出するには、書きまくるしかない。
入院後も執筆意欲はおとろえなかった。七月二十日付の静岡新聞では、デフレに対する姿勢を明示せよ、と最後まで筆をおろさなかった。
8/12九十歳の生涯を終えたたが、公にしなかった。遺言で宮内省や陸軍の栄典を受けないことを宣言した鴎外の気概に倣ったものだ。と評論され先ほどのTVガッテン!である。
池田勇人元首相のブレーンだった下村治と「高度成長か安定成長か」の論争を展開した。
高度成長期には一貫して安定成長論を主張し続けたき骨の人で日銀を代表するエコノミストとして活躍。
文芸春秋を通じて日本の国防を論争した経済学者に
・森嶋通夫がいる。
国防には「ハードウェアによる国防(軍事力)」と「ソフトウェアによる国防(外交力)」がある。
ハードウェアによる国防の強化は、国を誤った方向に導いた例が多く、日本は防衛力を高めるとしてもソフトウェアによる国防(外交力)を高めるべきだ、とロンドンの地から主張を述べた。
軍事力よりも外交力の重要性を訴えてるのであった。
かって大内兵衛=向坂逸郎の社会主義の投稿者であり、民社党のバックボーンの関嘉彦との論争であった。
関は防衛費増強を含めた防衛力の強化・9条改憲を対米追従でない形で唱えた。
小泉=竹中にないもので痛烈な皮肉に聞こえてくる。
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森永貞一郎の父貞右衛門は町会議員・商工会長などを務め、1922(大正11)年西諸貯蓄銀行(現西諸信用金庫)を創立。後に日向興行銀行(現宮崎銀行)第3代頭取に就任。日本基督教団小林教会を設立した人でもある。
貞一郎(1910〜1986) は父の背中をを見て育ってるわけである。、
1931(昭和6)年東京大学法学部を卒業後、大蔵省に入省、太平洋戦争中から本省課長、参事官などを務め、1957(昭和32)年大蔵事務次官を務めた。
、1974(昭和49)年、第23代日本銀行総裁就任。
1979(昭和54)年に退任し、以後皇室参与となり日向の人では秋月種樹いらいであろう天皇へのご進講などを務める
1986(昭和61)年5月30日逝去、去年76歳。
官僚のトップの要職にあっても、少しも高ぶることがなく、政治家に追従することもない。人徳温容の人として慕われた
「私はガサツな人間」と自己批評する。都会風紳士に特有のキザな感じはなく、声は太いが服装、態度とも飾り気がなく、端正な容貌ながら茫洋の風姿。髪の手入れは苦手な様子。背広にはたえずタバコの灰がまつわりついている。
主計局長時代、野党各党から災害緊急対策予算を編成せよ、と迫られて「財源がない」と突っぱねた。さんざん押し問答を繰り返したあげく、
「無理なことを言いすぎる国会も少しは反省すべきだ。」
との森永発言がたたって議場は紛糾、「退場!」を命じられた
シンは強い。
「私は元来短気だが、怒らないように気をつけている。」
という。しかし、実際はかなりの照れ屋でパイプも照れ隠し小道具の一つで小林の記念館で見ることができる。
総裁として、第一次石油ショック後の長期不況、第二次石油ショックに伴う物価の急騰、国際収支及び円相場の激変等の様々な難局に、通貨当局者としての不屈の信念をもって、極めて適切な金融政策を行い、通貨価値の維持、安定に尽力した。
「森永貞一郎おもい出集」抜粋)
極めつけの逸話を宮沢喜一元総理が書いている。
あなたの一生のうちで一番の恩人は誰ですか」と聞かれたら、私はちゅうちょなくまず森永貞一郎さんの名前をあげると思います。(中略)森永さんに1年間お仕えして私は沼津税務署長に赴任することになりましたが、森永さんにお別れのご挨拶をした時、私は涙がとまらなかったことを今でも忘れません。ある大蔵省の後輩が、森永さんを評した言葉によれば、「まったく不思議な方で、仕事ができるといったこととは違うんです。政治的パワーとか人脈といった点でも、実はこれといったものがあったわけではありません。それなのに、みんなあの方の魔術にかかってしまうんです」と言っていますが、これは森永さんというお方をよく表現していると思います。
小泉後継と違い有望なる人に託した。
「前川レポート」「新前川レポート」で名を成した
前川春雄は森永貞一朗の次の後任で 第24代日本銀行総裁
80年第二次オイル・ショックのインフレを金融引き締めで克服。
86年国際電信電話(現KDDI)会長。を努め1989年9月22日逝去。
森永以降の総裁を列挙すれば仕事振りがより理解できよう。
第23代 森永貞一郎 1974年12月17日 宮崎県 大蔵事務次官、 東京証券取引所理事長
第24代 前川春雄 1979年 東京都 日本銀行
第25代 澄田智 1984年 群馬県 大蔵事務次官、日本輸出入銀行総裁
第26代 三重野康 1989年 大分県 日本銀行
第27代 松下康雄 1994年 兵庫県 大蔵事務次官、太陽神戸銀行頭取、さくら銀行会長
第28代 速水優 1998年 兵庫県 日本銀行理事、日商岩井会長、経済同友会代表幹事
第29代 福井俊彦 2003年 大阪府 日本銀行副総裁、富士総研理事長、経済同友会副代表幹事
さて長々とお付き合いをいただいてるがもう少し人物を見ていただいての小泉=竹中の財政無策振りを浮き彫りにしたい。
一昨日訃報が明らかにされた。森永貞一朗が総裁を努めた1974〜1979につくや就任していた日銀理事1070〜1974を辞退した人のことである。
経済界のご意見番・経済評論家で元日本銀行理事の吉野俊彦そのひとだ。
1938年に日本銀行に入行。調査畑を歩み、日銀法制定に携わったほか、70〜74年に日銀理事を務めた。戦後、物価急上昇を伴う経済成長を批判し、一貫して安定成長を唱えた論客として知られる。「高度成長論」を唱える旧大蔵省出身の経済評論家・下村治氏との論争も有名。74年からは旧山一証券経済研究所理事長を務めた。
このひとは石原慎太郎や西武・堤のように二束のわらじ
をはきこなした。
勧業銀行マンとして音楽活動と両立させた小椋佳のようなものだ。
吉野俊彦は日銀時代から森鴎外の研究家としても知られ、「森鴎外私論」など多数の著書もある。
そのきっかけがいい。新聞からである。
「左遷なりとは軍医一同に申居り…実に危急存亡の秋(とき)なり」。森鴎外は左遷され、母親にぐちだらけの手紙を書いた
吉野俊彦はむしろそこに引かれた。
左遷の背景には、職務中に小説を書いている、という誹謗中傷があったといわれる。日本銀行で調査畑を歩みながら金融、経済関係の著作を次々に世に出していた吉野さんも同じような境遇にあったからだ。
駄文を連ねる私も身にしみている。
「せきやんは太陽光発電の仕事を真剣に取り組んでいなく日記を書いている」
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吉野俊彦の 軍医と作家のはざまでゆれる鴎外への共感はいつしかライフワークになった。
さらに愛弟子の一人、永井荷風が晩年、ズダ袋を提げてトボトボ歩く姿を、千葉県市川市の自宅近くで見かけてもいた。その森鴎外を基礎とする溢れる知識は
永井荷風と河上肇―放蕩と反逆のクロニクル 日本放送出版協会 )にもうかがい知れる。
吉野さんはしばしば何もしないでいることへの恐怖を「虚無」と表現した。そこから脱出するには、書きまくるしかない。
入院後も執筆意欲はおとろえなかった。七月二十日付の静岡新聞では、デフレに対する姿勢を明示せよ、と最後まで筆をおろさなかった。
8/12九十歳の生涯を終えたたが、公にしなかった。遺言で宮内省や陸軍の栄典を受けないことを宣言した鴎外の気概に倣ったものだ。と評論され先ほどのTVガッテン!である。
池田勇人元首相のブレーンだった下村治と「高度成長か安定成長か」の論争を展開した。
高度成長期には一貫して安定成長論を主張し続けたき骨の人で日銀を代表するエコノミストとして活躍。
文芸春秋を通じて日本の国防を論争した経済学者に
・森嶋通夫がいる。
国防には「ハードウェアによる国防(軍事力)」と「ソフトウェアによる国防(外交力)」がある。
ハードウェアによる国防の強化は、国を誤った方向に導いた例が多く、日本は防衛力を高めるとしてもソフトウェアによる国防(外交力)を高めるべきだ、とロンドンの地から主張を述べた。
軍事力よりも外交力の重要性を訴えてるのであった。
かって大内兵衛=向坂逸郎の社会主義の投稿者であり、民社党のバックボーンの関嘉彦との論争であった。
関は防衛費増強を含めた防衛力の強化・9条改憲を対米追従でない形で唱えた。
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秋のにおい
2005年9月29日名古屋博は大盛況のうちに終了したが、私共は70年万博世代。35年の年月を経てる団塊の世代である。
会場を結んだ大動脈のリニアは早速ガラ空の状態。
跡地が当初の新タウン計画から自然保護の森林公園になった故であろう。
大阪千里が丘ニュータウン近郊は阪大があり、丘は新興街があった。象徴するシンボルタワーは岡本太郎作である。
異色のマスコミを利用した芸術家であった。
いまだ「芸術派バクハツだ!」のテレビからの声さえ聞こえてくる。
その母は作家岡本かの子である。中年にさしかかるころから太りはじめた。
「我ながら心憎くも肉つきぬまたも病の来ずやねたみて」。
肥えた体を病気がねたましく思い、害意を抱いて訪れる。それが心配だという。
石油文明を謳歌した飽食の時代を「肉つきぬ」で人の不安を代弁していることは現代人に限った悩みではないようである。
、「夏痩もねがひの中のひとつなり」
江戸期の俳句で如真の作という。
夏痩せの願いむなしく山海の味覚が待ち受ける秋を迎えて、秋の到来で戦々恐々の方もおられるに違いない
昔から、俗に「夜に食べると太る」という。
、その仕組みが分子レベルで解明できそうだ、という日本大学の研究チームの記事が載っていた。
昼夜の生活リズムを刻む「体内時計」が関係しているらしい
体内時計を調節する細胞内のあるたんぱく質が夜間に増え、脂肪を蓄積するよう指図するのだという。
「春は二重(ふたえ)に巻いた帯 三重(みえ)に巻いても余る秋…」とは団塊の世代のスター美空ひばりの名曲「みだれ髪」(星野哲郎作詞、船村徹作曲)の一節。
秋は人間を謳歌する時期で試される時期でもある。
今日の試してガッテンは豆乳。
豆腐になる寸前の絞り汁の状態を言う。
大豆をすりつぶし「おから」を除去した絞り汁が「豆乳」である。
幼きころは我が家で作っていた。
よって オープニングクイズの豆乳から豆腐を作る際に、「にがり」と同様に「固める」目的で使われてきたものとは、次のうちどれか?には豆腐つくりを手伝う幼いころを思い出していた。
もちろん正解。
石こう/にかわ/砂鉄/天然ゴム
フーッとチョットした臭みの元である。
石こうは、硫酸カルシウムという物質であり、食品添加物として認められている。
豆腐製造に使われる石こうは「すまし粉」と呼ばれ、食用を目的として精製されたもの。
番組では大げさにブ石膏製のブロンズから削り取っていた。
さて豆乳は、いま大ブーム。イソフラボン、オリゴ糖、大豆たんぱく質など栄養成分の宝庫!で女性からは大人気。風呂上りで二つを比較試飲すると男はいまだ牛乳が圧倒的であった。
そこで ダイエット効果、コレステロールの低下、骨粗しょう症予防、がん予防などさまざまな健康効果を検証した。
女性ホルモンの働きをしてくれるといわれるイソフラボンに
新事実が判明した。
お客さんである。
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会場を結んだ大動脈のリニアは早速ガラ空の状態。
跡地が当初の新タウン計画から自然保護の森林公園になった故であろう。
大阪千里が丘ニュータウン近郊は阪大があり、丘は新興街があった。象徴するシンボルタワーは岡本太郎作である。
異色のマスコミを利用した芸術家であった。
いまだ「芸術派バクハツだ!」のテレビからの声さえ聞こえてくる。
その母は作家岡本かの子である。中年にさしかかるころから太りはじめた。
「我ながら心憎くも肉つきぬまたも病の来ずやねたみて」。
肥えた体を病気がねたましく思い、害意を抱いて訪れる。それが心配だという。
石油文明を謳歌した飽食の時代を「肉つきぬ」で人の不安を代弁していることは現代人に限った悩みではないようである。
、「夏痩もねがひの中のひとつなり」
江戸期の俳句で如真の作という。
夏痩せの願いむなしく山海の味覚が待ち受ける秋を迎えて、秋の到来で戦々恐々の方もおられるに違いない
昔から、俗に「夜に食べると太る」という。
、その仕組みが分子レベルで解明できそうだ、という日本大学の研究チームの記事が載っていた。
昼夜の生活リズムを刻む「体内時計」が関係しているらしい
体内時計を調節する細胞内のあるたんぱく質が夜間に増え、脂肪を蓄積するよう指図するのだという。
「春は二重(ふたえ)に巻いた帯 三重(みえ)に巻いても余る秋…」とは団塊の世代のスター美空ひばりの名曲「みだれ髪」(星野哲郎作詞、船村徹作曲)の一節。
秋は人間を謳歌する時期で試される時期でもある。
今日の試してガッテンは豆乳。
豆腐になる寸前の絞り汁の状態を言う。
大豆をすりつぶし「おから」を除去した絞り汁が「豆乳」である。
幼きころは我が家で作っていた。
よって オープニングクイズの豆乳から豆腐を作る際に、「にがり」と同様に「固める」目的で使われてきたものとは、次のうちどれか?には豆腐つくりを手伝う幼いころを思い出していた。
もちろん正解。
石こう/にかわ/砂鉄/天然ゴム
フーッとチョットした臭みの元である。
石こうは、硫酸カルシウムという物質であり、食品添加物として認められている。
豆腐製造に使われる石こうは「すまし粉」と呼ばれ、食用を目的として精製されたもの。
番組では大げさにブ石膏製のブロンズから削り取っていた。
さて豆乳は、いま大ブーム。イソフラボン、オリゴ糖、大豆たんぱく質など栄養成分の宝庫!で女性からは大人気。風呂上りで二つを比較試飲すると男はいまだ牛乳が圧倒的であった。
そこで ダイエット効果、コレステロールの低下、骨粗しょう症予防、がん予防などさまざまな健康効果を検証した。
女性ホルモンの働きをしてくれるといわれるイソフラボンに
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