NHK大河ドラマ「義経」は緒方拳の演じた白黒放映の弁慶のころとは随分とテンポが違う。(加藤大介の金売り吉次の記憶の鮮明さ。)展開が速い。ところが前回の屋島今日の壇ノ浦と実に時間いっぱいに合戦絵巻が演じられた。
島国海運国日本を指し示し、林家三平高座復帰の「源平盛衰記」髣髴させる。
脳溢血をリハビリで克服してNHKホールで演じた、心配された口に障害がない。
今の長嶋茂雄に思い起こしてほしいほどの完全復帰であった。
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祇園精舎のかねのこゑ、しよ行無常の響あり。沙羅さうじゆの花の色、生者必盛のことはりをあらはす。
おごれるものも久しからず。たゞ春の夜の夢のごとし。
たけきものもつゐにはほろびぬ。ひとへに風の前の塵におなじ。
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すぐさま、三平も古典がやれるのです。のクスグリも忘れられない。
ところで入水する安徳天皇の唯一の正嫡のしるし三種の神器。
伝えられてきたのは古事記・日本書紀の神武以前からである。
不思議にも昨日から施工してる太陽光発電工事の他社に流れた西都市・都於郡の現場の事でもあり、いわく因縁でもある。
ニニギの尊と木花之佐久夜比賣の間に生まれる子供が
山幸彦・海幸彦「山幸彦が釣り針を無くしてしまった話」は、なにも修身の読本でなく小学校の国語とかで自然に覚えたお話である。
山幸彦の孫が神武天皇ということになり統一政府を作り日向を船出した初代天皇神武を受け継ぐ今日の天皇家である。
、海幸彦は地元で怨霊として残る隼人族。
実に痛快無比なお話である。
文化的優位性は必ずしも政治的優位性を物語るものではないことを言ってることでもある。
アパデン宮崎の隣保藩の大先輩の説である。
海幸の住んだ地が西都市都於郡、高屋山陵。
鎌倉頼朝より建久元年(1190年) 日向の地頭職に拝領した工藤祐径の子孫。
祐経の子 祐時から伊東氏と名乗った建武四年(1337年)伊東家五代目 貞祐は、足利尊氏に仕え功績を挙げ 都於郡の地を賜った、
本家を伊豆から日向に下り 都於郡に居城を築いた。
ここでなぜこの地都於郡なのかの疑問が残る。
古代、景行天皇の大和朝に従わぬ六年をかけた熊襲征伐に、日向国高屋(都於郡)が拠点に留まった。
このことは中央には知れ渡った事であるはず。
もうひとつが権威付け。皇族たる海幸彦の住家であったから景行天皇もこの地とした。
その後伊東氏も奉った。
伊東を大分に追いやった島津の狙いもここにあった。
皇族の島津領下への変更の下地つくりである。
海幸の身柄を都於郡本城近くの一乗寺へ移し、廃絶した。
天孫降臨にしろ、神武以前のそれぞれの地が二分してる要因の
全ては島津氏の日本支配への礎である。
高屋温泉から北東約一キロの鹿野田神社は、
「古事記」の山幸彦(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))を祭る。
 境内に、塩水がわく天然の井戸がある。
丸山邦夫宮司(74)は
「山幸彦が一緒になった海神の娘、豊玉姫が陸と海を行き来した『海つ道』がこの井戸」と言う。
「井戸に落ちた牛が『鬼の洗濯岩』で有名な青島近くの海に出てきた、という伝説もある」と話は尽きない。
 高屋温泉の湯船に体を沈める。手のひらにすくった透明な湯を口に含み、その塩辛きことに不思議を感ずる。
宮崎大学教育学部の金子弘二教授(岩石鉱物学)によると、
宮崎平野は海の底だった地層「宮崎層群」が隆起してできたという。
「この地層に約八百万年から三百万年前の太古の海水成分が“パッケージ”されている可能性が高い」と説明する。
ところではなしを三種の神器に戻すが
天照大神は稲・麦などを田畑に植えさせ、また蚕を飼わせて、万民の生活を支えた。
御弟のスサノオの尊は荒々しいが寛大に許し愛し、これを咎められない。
ところがついには天照大神の機屋を汚したので、大神はついに耐えかねて、天の岩屋に入り、岩戸を立ててその中に隠れられた。この世は真っ暗な日々がつづいた。
神々これを憂い、大神を出したてまつらんがため、岩戸の外にあつまり、
八坂の曲玉、ヤタノ鏡などを榊の枝にかけ、神楽まわれた。
とくにアメノウズメの命の舞いの様子がおかしかったので、神々の笑いの声は天地を動かすほどだった。
これは何事かと天照大神は、少し岩戸を開かれた。
ただちに榊をさし出すと、大神のおすがたがその枝にかけた鏡にうつった。
大神いよいよ不思議にお思いになって、少し戸からお出になられた。そこを、かたわらに隠れていたタヂカラオの尊お手を取りて出したてまつり、神々声をあげてよろこびあった。
東宝の日本誕生のビデオで見れるはず。
手力之尊は奄美大島出身の現役横綱初代朝潮太郎(胸毛ともみ上げが目立った栃若とも土俵を一緒にしたが全盛は少し前の鏡里、千代の山と同じころ)が演じた
スサノオは神々に追われて、出雲に下り、ヒノ川の川上でヤマタの大蛇を斬って、人々を救われた。この時大蛇の尾から一ふりの剣を得た、
これを天の叢雲(むらくも)の剣と言う。
スサノオの尊の御子オオクニヌシの命て、出雲地方を平らげたが、その他の地方には、悪者どもがなお多かった。
大神は御孫ニニギの尊をくだして、この国をおさめさせようと
まず使いをつかわしてオオクニヌシの命の平らげた地方をさし出させたところ、命はよろこんでその仰にお従いになった。
大神はニニギの尊に向かって告げる。
「この国は、わが子孫が王であるべき土地である。皇孫であるそなたが行っておさめよ。皇位の盛んなること、天地とともに終わりがないであろう」と。
万世一系の天皇をいただいて、いつの世までも動きなきわが国体の基は、実にここに定まったのである。
大神はまた
ヤサカニの曲玉・ヤタの鏡・天(あめ)のむらくもの剣をニニギの尊におさずけになった。これを三種の神器という。
尊はこれを奉じ、あまたの神々をしたがえて日向におくだりになった。
これより神器は御代々の天皇があいつたえて皇位のしるしとなっている。
大神が神器を尊におさずけになった時、
「この鏡を私と思って、つねにあがめたてまつれ」と
おおせになった。
それでこの御鏡をご神体として大神を祭っている伊勢の皇大神宮は、御代々の天皇及び国民の、深くうやまいたてまつる御宮なのである。
なお、安徳天皇は下関の赤間神宮へ平家一門のなかにある。
お墓参りの途中には三代怪談話の「耳なし芳一」のお話で有名な芳一堂があったものだ。
青春期をこの下関で過ごした。
何の因果か息子も山口大をでてこの地で教鞭をとってると信じている。太陽光発電がとりなす各地である。
いずれ江戸の地にも設置しよう。多くの薀蓄を引っさげて。

宮崎市内に選挙看板がひとっもない。
そんなばかな!
実は台風に備え、スットンで行く前に保管されているからなのです。
やっぱり台風銀座の県は備えが違います。
杉並は武蔵野が残ってた高台であったハズなのに。
家康いらいの海抜0メートル区域き東京は巨大ハリケーンのアメリカ流になると怖い。
ほんの刹那の石油文明に対して人類の神の自然のしっぺ返し。

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