映画人

2004年3月28日
渡辺兼がアカデミーを逃がしたがブロードウェイを賑わし映画界が華やいだ。

寅さんの山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」もノミネートされていた。

その「たそがれ清兵衛」UMKで1時30分から4時10分心地いい映画を観た。

消え行く日本の数々のオマージュ、鎮魂歌。

雨上がる(?)につぐ時代劇。
山田洋二監督は寅さん後を何とか見いだされたようである。

クロサワをベースに木下恵介を彷彿させ、
東京物語の小津安二郎の匂いもする

池波正太郎の弟子たる藤沢修平の短編はわれ等の年代には共感で受け入れられる。

02年に映画化されたが、私は、原作、さらに映画化の記事を涙をこめて読んでいる。松本清張が20歳のときアカ狩りですごしたところである。

この映画には忘れ去られた日本人のいき方論がある。
けだかく清く美しきに生きるそのもののナレーションの岸恵子。」

貴乃花の妻の座は日向美人の河野慶子が射止めたが
宮沢りえは役者の肥やしに見事にしている。

おそらく結婚なしの原節子の道をたどるのであろうか。
真田広之は和田誠のマージャン放浪記にその才、将来を見たが小林稔侍さえ食っている。

貧しいながらも清貧に生きる武士の姿は
ほんのこないだまでの農民の生活の日本そのものである。

自給自足万事そうであった。もちろん髪も自分で刈った。
身分さの不条理、恥の文化と武士道たる日本人の生き方論。

三船敏郎、志村喬をはじめとするクロサワ組にやらせたらどうであったろうかと思いやむ。
ここにも宮崎が登場する。

♪命短し恋せよ乙女・・のメロデーの「生きる」は葬式の場面が導入部で随分と長い。
葬儀の場面はタブーの映画の世界の常識を変えた。志村喬が演じると抹香くささが無い。

志村喬(1905〜1982)は兵庫県朝来郡生野町で生まれ57年2月11日に没した。
多感な青春時代を宮崎の北方町の槇峰三菱鉱山で過ごした。

延岡中での下宿であったが休日は、親の元で過ごすべく30KMを下駄履きで歩いた。
・・・いい加減につらかった。・・・と随筆に書いたほどである。

ここでの経験は映画つくりに生かされていると思える。
歩くことほど考えるものはないからだ。

延岡〜土々呂まで私もよく歩いた。人生に,恋にと熟慮に丁度いい。
西田幾太郎ならずとも京都の哲学の道をあるく。

そのことがクロサワ映画になくてはならぬ存在感を与えた。
クロサワの初作は戦前42年(?)の姿三四郎である。

志村喬はススキの穂の風走る中の死闘を演じた。
白黒スチールが実にリァリティーがあった。

五ヶ瀬川をボート部で鍛えたことの随筆があるが
ここでの風景が生かされていると思える。

九州の覇者たらんと延岡にクリスチャンの理想郷をつくった大友宗麟。
ムシカなる地名が今も残る。

・・・白い穂のススキがなみうち(?)・・・と遠藤周作は書いた。
この地は北川で五ヶ瀬川とは少し違うが、同じ心境であったかもしれない。

この頃は、まだ「雨」はクロサワの映画のモチーフに使われていない。
「雨」がその後の羅生門、七人の侍の昇華となった。

志村の多雨の宮崎の思いではなかろうて。
初演で絵にならなかった雨はクラサワ以降映画のモチーフになり、世界に発信された。

雨に唄えばのジーン・ケリーの雨の中のタップは恋が成就した讃歌。
ドーバーの港町「シェルブールの雨傘」はすれ違いの恋人の切ない話。ミュージカル映画の極み付け。

嵐寛十郎主演「右門捕物帳」の名脇役はアパタの敬四郎。
単なる笑わせ役くばかりでなく独特の存在価値を示した。

アラカン、バンツマ後のスター市川歌右衛門や片岡知恵蔵。
その後の大川橋蔵、東千代助に

堺しゅん二(堺正章の父)が軽妙なやくを演じたようにである。

1941年「江戸最後の日」がビデオで観れる。
坂妻(バンツマ)こと坂東妻三郎(田村正和の父)の勝海舟役に

榎本和泉守、あの五稜郭に立てこもった榎本武揚を演じたのは志村喬。

警察官役の「酔いどれ天使」「野良犬」(24)で主演男優賞を得る。
羅生門(25)生きる(27)・・・影武者のときは病気をおしての出演。

「時代劇で侍を演じた初期に、ふっと思ったことがある。
    延中時代に、もっと剣道をやっておけばよかった。」

少なからずとも志村喬の映像に宮崎人を読み取れるゆえんは、ここにある。

ふるきを訪ねて新しきを知る。APAの運営を考えさせられる。

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