マスメデアと出版の自由
2004年3月19日佐土原で九州電力との連係契約を終え、11時に高岡の連係契約に、時間を気にしながら走る。
昨日の西の事務所から依頼の新築現場の太陽光配線図は、手付かず、で明日に持ち越し。どうなる事やら。
スタッフ不足は隠しきれるものではない。
福岡の明日の照明器具の取付、液晶テレビの手配をしてるが、スタッフ不足の仕事指し止めの状況も隠しきれるものではない。
文芸春秋週刊誌の出版差し止めの記事は田中真紀子の長女の離婚記事であったようだ。
ある司法修習生の意見から引用させてもらうことを許されたい。
この手の手法が知識人たる世論を形成している薄っぺらなものだからである。
昨夜の筑紫哲也氏の意見に似通っているからだ。
起こりうる真実を見定めず、表現の自由なる大儀を振りかざした、政治的問題ばかりを優先させ個々で起こることを見逃し、喝破し
、正当化するのが許せないからである。
偽善者とはこの人たちにある言葉の称号であろう。
議論が、かみ合わないことを覚悟のうえでの意見である。
真実に目をそむけるな。
針のあなひとつの疑問に注視せよ!
司法に意見するにはそのくらいの覚悟もて!
・・・この事件、論文の問題に出たらいいのになー。・・・
その程度の感覚でこの問題に意見を述べる不埒な態度は直ちに法曹界に身をゆだねる夢を絶て!
・・・・
事前差止めによって表現の自由が阻害される危険性
事前抑制の一形態であるから、厳格かつ明確な用件の元においてのみ許容される
前差止め要求の要件が満たされている場合であっても、原則として口頭弁論を経なくてはならないとしている。
今回は確か口頭弁論を経ていない。
田中真紀子氏の長女が離婚した、という記事1つで出版を差止めると
いうのはちょっと腑に落ちない。
確かにプライバシー権にかかる内容だけれども、表現の自由を超えるほどのものだったのだろうか?
差止めが出版前日だったのでほとんどは店に出荷した後で、かなりの部数が売れてしまっていたらしいけど、だったらこの差止めは意味が
なかったような。。。
今なんてコンビニですぐ並んじゃうから、前日差止めされてすぐ回収って難しいと思う。
差止めって出荷した後でも回収しなきゃいけないのだろうか?
だったら回収するためのお金とか、売れてなかった分の損失とか、その上制裁金まで認められたらすごい額になりそうだなー。
・・・・・・・
・・・・・・・
司法制度の改革が叫ばれ、陪審制度の導入も言われている。
裁判の公平さや、透明性、さらにあってはならない冤罪が発生しているからである。
この方に代表される世論は政治家の表現の自由報道の抑制と一般事案を取り違えている。
確かに為政者は言論を統制する。
歴史を紐解けば、目を覆いたくなる膨大な出来事に出くわす。
イラクの真実を隠しで虚構を作り上げ、戦争に走ったアメリカに現実の見本がある。
然るに現状のマスコミのあり方はどうだ。
マスコミの過剰報道はワイド・ショウ化した視聴率、読者率、争いにしか過ぎない。
否!とは断じて言わせない。目をふせているといえ!
マスコミの中でも活字たるものの持つ恐ろしさは、知ったもんじゃない。
新聞記事1面は少なくとも双方からの取材にもとずき、書かれているとの認識が常識であろう。
では考えてもみたまえ!
もしそうでなかったことから起こる悲劇を!
社会的存在の全否定!一過離散、一族、郎党皆に渡る迫害、強迫観念から来る自虐観念、人間、社会不信の人生観の諦観。
読者の誰が眼光紙背に徹して新聞を読んでることか私は信じない。
その検証、帰納なしに一方的に、
記事が出ることは、絶対無いと言い切れるのか!
そして裁判官、弁護士、検察官が作られた世論、新聞を元に真実を探ろうともせず、
人権無視にすすむことを誰が考えようとするものか。
その薄っぺらな頭でいいからほんの少しでも想像してみたまえ!
異常な環境の中で作られる書類の何処に真実があると言うのか!
事実は小説よりも奇なりどころの話ではない。
公器たる新聞の恐ろしさが、わかっていないからである。
冤罪なるものがどうして作られるのか、から研究してほしいものだ。
人権は、この世に存する何よりも、全重力よりも重いものである。
天に向かって唾を吐いてみたまえ。
人生は二度繰り返すことが出来ないのである。
えぇツ!如何にも知ったかぶりしての意見だと・・・・・
かって英国に亡命中のマルクスは、資本論を表す時、イソップ童話で、書かざる得なかった。
今の私にも良くわかる。
あれほど忌み嫌った戦犯者、昭和天皇の玉音の敗戦の弁を
静かに聞く。
・・・耐えがたきを絶え、しのびがたきを忍び・・・・
矢尽き、刀折れ・・・・・
衣川のほとりに立つ弁慶の阿修羅のごとき、仁王様の如きである。
ジャン・バルジャンは小説の話。
どんな、ギリシャ悲劇も、悲劇のかけらさえ感じない。
悲劇を体験した奴は、雄弁に語ろう。
マスコミよ!正常化せよ!
それでも、現実を生き、再審に夢をつなぎ、キリストの十字架より
しんどい、ゴルタゴの丘を毎日歩き、生きネバならぬ。
自由よ!高鳴れ!!
マスメデアの人々よ!真実のみ語れ。
出鱈目記事を書くではない。
取材にもとずく記事のみをかけ。
至極当たり前?
馬鹿を言う出ない。
此処に生き証人がいる。
昨日の西の事務所から依頼の新築現場の太陽光配線図は、手付かず、で明日に持ち越し。どうなる事やら。
スタッフ不足は隠しきれるものではない。
福岡の明日の照明器具の取付、液晶テレビの手配をしてるが、スタッフ不足の仕事指し止めの状況も隠しきれるものではない。
文芸春秋週刊誌の出版差し止めの記事は田中真紀子の長女の離婚記事であったようだ。
ある司法修習生の意見から引用させてもらうことを許されたい。
この手の手法が知識人たる世論を形成している薄っぺらなものだからである。
昨夜の筑紫哲也氏の意見に似通っているからだ。
起こりうる真実を見定めず、表現の自由なる大儀を振りかざした、政治的問題ばかりを優先させ個々で起こることを見逃し、喝破し
、正当化するのが許せないからである。
偽善者とはこの人たちにある言葉の称号であろう。
議論が、かみ合わないことを覚悟のうえでの意見である。
真実に目をそむけるな。
針のあなひとつの疑問に注視せよ!
司法に意見するにはそのくらいの覚悟もて!
・・・この事件、論文の問題に出たらいいのになー。・・・
その程度の感覚でこの問題に意見を述べる不埒な態度は直ちに法曹界に身をゆだねる夢を絶て!
・・・・
事前差止めによって表現の自由が阻害される危険性
事前抑制の一形態であるから、厳格かつ明確な用件の元においてのみ許容される
前差止め要求の要件が満たされている場合であっても、原則として口頭弁論を経なくてはならないとしている。
今回は確か口頭弁論を経ていない。
田中真紀子氏の長女が離婚した、という記事1つで出版を差止めると
いうのはちょっと腑に落ちない。
確かにプライバシー権にかかる内容だけれども、表現の自由を超えるほどのものだったのだろうか?
差止めが出版前日だったのでほとんどは店に出荷した後で、かなりの部数が売れてしまっていたらしいけど、だったらこの差止めは意味が
なかったような。。。
今なんてコンビニですぐ並んじゃうから、前日差止めされてすぐ回収って難しいと思う。
差止めって出荷した後でも回収しなきゃいけないのだろうか?
だったら回収するためのお金とか、売れてなかった分の損失とか、その上制裁金まで認められたらすごい額になりそうだなー。
・・・・・・・
・・・・・・・
司法制度の改革が叫ばれ、陪審制度の導入も言われている。
裁判の公平さや、透明性、さらにあってはならない冤罪が発生しているからである。
この方に代表される世論は政治家の表現の自由報道の抑制と一般事案を取り違えている。
確かに為政者は言論を統制する。
歴史を紐解けば、目を覆いたくなる膨大な出来事に出くわす。
イラクの真実を隠しで虚構を作り上げ、戦争に走ったアメリカに現実の見本がある。
然るに現状のマスコミのあり方はどうだ。
マスコミの過剰報道はワイド・ショウ化した視聴率、読者率、争いにしか過ぎない。
否!とは断じて言わせない。目をふせているといえ!
マスコミの中でも活字たるものの持つ恐ろしさは、知ったもんじゃない。
新聞記事1面は少なくとも双方からの取材にもとずき、書かれているとの認識が常識であろう。
では考えてもみたまえ!
もしそうでなかったことから起こる悲劇を!
社会的存在の全否定!一過離散、一族、郎党皆に渡る迫害、強迫観念から来る自虐観念、人間、社会不信の人生観の諦観。
読者の誰が眼光紙背に徹して新聞を読んでることか私は信じない。
その検証、帰納なしに一方的に、
記事が出ることは、絶対無いと言い切れるのか!
そして裁判官、弁護士、検察官が作られた世論、新聞を元に真実を探ろうともせず、
人権無視にすすむことを誰が考えようとするものか。
その薄っぺらな頭でいいからほんの少しでも想像してみたまえ!
異常な環境の中で作られる書類の何処に真実があると言うのか!
事実は小説よりも奇なりどころの話ではない。
公器たる新聞の恐ろしさが、わかっていないからである。
冤罪なるものがどうして作られるのか、から研究してほしいものだ。
人権は、この世に存する何よりも、全重力よりも重いものである。
天に向かって唾を吐いてみたまえ。
人生は二度繰り返すことが出来ないのである。
えぇツ!如何にも知ったかぶりしての意見だと・・・・・
かって英国に亡命中のマルクスは、資本論を表す時、イソップ童話で、書かざる得なかった。
今の私にも良くわかる。
あれほど忌み嫌った戦犯者、昭和天皇の玉音の敗戦の弁を
静かに聞く。
・・・耐えがたきを絶え、しのびがたきを忍び・・・・
矢尽き、刀折れ・・・・・
衣川のほとりに立つ弁慶の阿修羅のごとき、仁王様の如きである。
ジャン・バルジャンは小説の話。
どんな、ギリシャ悲劇も、悲劇のかけらさえ感じない。
悲劇を体験した奴は、雄弁に語ろう。
マスコミよ!正常化せよ!
それでも、現実を生き、再審に夢をつなぎ、キリストの十字架より
しんどい、ゴルタゴの丘を毎日歩き、生きネバならぬ。
自由よ!高鳴れ!!
マスメデアの人々よ!真実のみ語れ。
出鱈目記事を書くではない。
取材にもとずく記事のみをかけ。
至極当たり前?
馬鹿を言う出ない。
此処に生き証人がいる。