日米開戦3

2008年12月10日 お仕事
日中戦争の泥沼化や英米との関係行き詰まりなどを打開するため、日本は1941年、対英米オランダとの開戦を決定。
日米交渉を続ける一方で戦争準備を進めた。
12月8日、日本の機動部隊は、ハワイ真珠湾に集結していた米太平洋艦隊を、航空機や特殊潜航艇などで奇襲攻撃。
米軍側に大損害を与え、太平洋戦争が始まった。
米国への最後通牒が遅れたため、米国はその後、この合言葉で国民を鼓舞した。あの「9/11」のように。
「リメンバー・パールハーバー」

山本五十六が対米戦争に科学的数字を持って反対したのは知られていること。
山本五十六には「秋丸機関」のまとめた中間報告があった故だ。

もっともベネジェクトの「菊と刀」のように民族性の日常まで詳しくはなくとも時代背景から素晴らしき科学的態度。
ではこの分析は誰がしたのか。

海軍は開戦に消極的、陸軍は積極的というのが戦史研究での大雑把な分析だ。
真珠湾攻撃を立案した山本五十六連合艦隊司令長官は海軍の代表的存在である。

 日米開戦に際し、決死の覚悟を書き記した山本長官の肉筆の文書「述志」が見つかり、隣県大分で展示中である。
米国との戦争に最後まで反対したことで知られ真珠湾攻撃も長期戦は日本に不利だから短期決戦で講和に持ち込もうという意図があった。
 
大東亜戦争に突入する2年前の昭和14年、日米開戦前に軍部からの特命を受けて当時の新進気鋭の経済学者を集めた「秋丸機関」と呼ばれた旧陸軍省の研究班が存在した。

この機関は戦争遂行能力を経済面で測定する為作られたものだが、英米の経済力の調査結果、到底勝ち目がないとの結論が出た。
山本五十六はこの資料を駆使して対米戦反対の論陣を張ったが当時の情勢から、調査結果は闇に葬られ、太平洋戦争へと突入していく

「秋丸機関」とはナンであったのか。
何故に国民の間に広く知られていないのか。
以下触れる当事者の事情と日本の為政者の隠蔽工作の思惑が重なり伏せられてきた。
 
書き残していた「秋丸機関の顛末」は経済謀略戦にたずさわった当事者が残した唯一の証言である。 
責任者は宮崎県えびの市出身の陸軍主計中佐・秋丸次朗ゆえに「秋丸機関」という。

英米班、主査の有沢広巳主査の有沢広巳
伊独班、主査の武村忠雄慶応大教授
ソ連班、主査の宮川実立教大教授
日本班、主査の中山伊知郎東京商大教

英米班の中間報告の暫定報告は9月下旬に出来上がった。
日本が約50㌫の国民消費の切り下げに対し、アメリカは15-20㌫の切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350億ドルの実質戦費を賄うことが出来、それは日本の7.5倍に当たること、そしてそれをもってアメリカの戦争経済の構造にはさしたる欠陥は見られないし、英米間の輸送の問題についても、アメリカの造船能力はUボートによる商船の撃沈トン数をはるかに上回るだけの増加が充分可能である…と言った内容のものであった。
それを数字を入れて図表の形で説明できるように表した。
秋丸中佐は我々の説明を聞いて、たいへん良く出来たと喜んでくれた。有沢広巳の述懐にある。

約1年半の調査で導き出された結論は「日米の経済力は日本を1とするならば米国は20。戦争が長引くと日本の経済力は下がり、米国は逆に上がる」。
秋丸は開戦約5カ月前に陸軍参謀本部と陸軍省幹部に報告した。その席には杉山参謀総長以下、陸軍省の各局課長が列席東条英機陸相もいた。
無論シビリアン=民間人は出席できなかった。

秋丸中佐は多少得意になって、報告会議に臨んだが、杉山元帥が最後に講評を行った時、中佐は愕然と色を失った。
 元帥は、本報告の調査および推論の方法はおおむね完璧で間然するところがない。
しかしその結論は国策に反する。
したがって、本報告の騰写本は全部直ちにこれを焼却せよ、と述べたという。

有沢広巳東大教授の述懐がある。
   ・・・・・
 会議から帰ってきた中佐は悄然としていた。
そして班員に渡してあった謄写本を全部回収して焼棄した。
報告に使った数字も今でははっきりさせることが出来ない。
陸軍首脳部では既にルビコン河を渡る決意を決めていた。
決意が出来ているところに、河を渡ることの危険を論証する報告書などは、それこそ百害あって一利もないというのだろう。
謄写本を全部焼却せよという厳命はそういう意味だったのだろう。

 これで秋丸機関としての経済調査班の活動はいっぺんに支離滅裂となった。
僕はまもなく秋丸中佐に呼ばれて、至急に僕を辞めさせなければならなくなった旨を聞かされた。東條大将の厳命だといって赤松大佐がきたので、もう自分としてはいかんとも致し方ないという。
僕は中佐にたいへん迷惑を掛けてまで残っていたいなどという気持ちは初めからないからその場ですぐ辞めた。

 経済調査班はその後2、3ヶ月は存続していたが、そのうち廃止になった。もう太平洋戦争が始まって、秋丸中佐も第一線の経理部隊長としてハルマヘラあたりに飛ばされたという話だった。
 秋丸さんは現在、九州の郷里の町の町長をしている。
上京の折には、今もその当時の連中と一緒になって会食するが、それに僕も出席することにしている。
  ・・・・・・
昭和32(1957)年、毎日新聞社発行の「エコノミスト」に 有澤 広巳著「支離滅裂の秋丸機関」

平成3(1991)年の8月15日、NHK教育テレビのETV特集「新発見 秋丸機関報告書」が放映された。
これで秋丸機関の存在とほぼ全貌が明らかになった。
それまで主計大佐の旧軍人であることは知られていたが、軍部の中枢にあり大東亜戦争の開戦にかかわる秘密機関に参画し、戦争は負けると予測していた事とその事実を黙して語らなかったことに多くの人が驚き、賞賛した。
  
 しかし、一部のマスコミでは「戦争を阻止しようとした反戦軍人」「敗戦を予測しながら開戦を阻止出来なかった」などと言う見方もあった。それは、本人の本意とするところではなかったと思う。
軍政機務に携わる者として忠実に任務を果たしたといえる。
調査研究は、当時、新進気鋭の学者を動員し、正確に世界情勢を把握しようとした。
参画を渋る有沢教授に「陸軍に迎合するようなことはしなくて良い」と言って口説いたことにも現れている。
結果は、経済力で英米に太刀打ちできないと言う結論を導き出している。
そのことが正しかったのは歴史が証明している。

 秋丸機関を創設した時より2年を経過し、戦局は逼迫していた。
軍部は冷静に調査結果をに受け入れる余裕を失っていた。
むしろこうした事が当時の時局に合わないとの判断だった。
だが開戦後も「2年間は持久戦に耐ええる」と本人は「経済戦の本命はこれからだ」と意気込んでいる。
敵側の経済生活を破壊や妨害して武力戦の遂行に打撃を与える謀略戦を描いていたと思われる。
それも、急激な戦況不利で発揮するに至らなかった。
これらは好戦的であったというよりも軍人としての任務に忠実だったと言えよう。

「もっと要領よく立ち回って、御用学者でも集めればよかったのに」と意地悪な質問に答える。
「いや、日本には戦争経済という概念がなかった。学問的に確立する必要があった。そのためには新進気鋭の学者を起用したのだ」と生まじめに答えた秋丸。

 秋丸機関の実態が明らかになった時「あの報告書が受け入れられていれば日本は変わったのに」と多くの人が言った。
本人はそれを言ったところで言い訳になるだけだと軍人としてのプライドがなさせたゆえ黙する。

NHK教育番組、パーソナル現代史「有沢広巳・戦後経済史を語る」1月8日の中で、開戦前に関与した秋丸機関について放映されたのをきっかけに、家族の者すら初めて事の真相を知ったとご子息の西日本新聞幹部の方が驚き自宅での研究が始まった。

秋丸陸軍主計中佐が亡くなる直前、東大経済学部図書館からその報告書の一部が発見された。
調査に加わった有沢広巳東大経済部教授が密かに保存していたのだ。
ご子息の手で秋丸機関に関係する資料は東大経済学部図書館に100点あまり寄贈されている。
それでもまだ200冊あまりの秋丸の実家に書籍が残っている。
ほとんどが昭和10年前後に発行されたもの。
有沢広巳、高橋亀吉、向坂逸郎、美濃部達吉、金子堅太郎、田中耕太郎、東畑精一など著名な学者の著書もある。
書名には「統制経済学」「産業動員計画」「戦時国際法」「軍需工業論」「非常時統制論」「大東亜建設」「総力戦」などの文字が並ぶ。当時、日本が何を目指していたのか窺い知ることが出来る。

 開戦必至の考えが支配的だった時代。
高級幹部たちは「みんな居眠りしていた」(秋丸談)という。
戦争は調査書の予想した通りの展開になった。

日本はB29の空襲で焦土と化し、非戦闘員を含めて330万人が犠牲になった。
 太平洋の覇権をめぐる日本と米国を主力とする連合国との戦争方針については軍部でも意見が割れた。

秋丸次朗は昭和63年に「朗風自伝」を出版している。
京帝国大学経済学部の選科生として修了、関東軍交通監督部部員兼奉天航空廠員に補され、渡満。
満州航空会社の会計監督官として勤務。
翌年、関東軍参謀付に補され、新京に赴任、経済参謀として農業を担当、日本人開拓団の導入、定着に力を注いだ。
その後商工部門に変わった。
当時の参謀長は東條英機中将、満州国側の商工関係は岸信介、椎名悦次郎など大物揃い。
主な仕事は、満鉄改組に伴う満州重工業開発会社の設立であった。
日産コンツェルンの満州移駐のため鮎川義介、野口窒素社長後の宮崎延岡旭化成社長、また島津寿一など当時の日本財界の大物を相手に手腕を発揮する黄金時代の活躍で「関東軍に秋丸参謀あり」と日本内地の財界に知られていた。

 この頃、内地から財界人が来満すると必ず料亭に招待された。程度を越すと公務員のスキャンダルに陥りやすい。
そこで料亭では一切公務の話はしないとの条件で招待に応じることとした。
必ず、羽織袴を着用し、午後10時には辞去することで3年間の要職を大過なく果たしている。

1954(昭和29)年公職追放解除後、地元飯野町(いまのえびの市)助役を経て飯野町長に当選、2期務める。
町長時代東京出張した折、東京駅に岸信介が出迎えに来ており、一流料亭で歓迎会を開いてくれて、お付で行った町役場の職員がびっくりしたエピソードが残っている。

1986(昭和61)年町長を退いたあと社会福祉協議会の設立に参加、15年間務め、そのうち13年間は会長として社会福祉に尽くした。
1992(平成4)年8月23日
老衰のため死去、享年94

歳州の関東軍参謀付時代の15名ぐらいで写ってる写真が残っている。
左から2人目が秋丸次朗。3人目が国務院総務次長の岸信介。右端が満州重工開発総裁の鮎川義介とある。
この後陸軍省に呼び戻され秋丸機関を創設したとある。

 秋丸は南方戦線を転戦後、終戦を迎えた。
亡くなる前年、17年前の今ごろ本人に話を聞いた地元紙に答える。
「対米戦は結核患者にマラソンをさせるようなもの」。
冷静な分析が国策に反映されず未曾有の血が流れた。
「日米開戦の日」から67年目。
全国紙は社説にもコラムにも一切の記事がないという聖なる日の風化の「12・8」。
真珠湾攻撃の日である。

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