KAZETATINU
2005年8月26日北郷・かの地に私は何度伺うのであろう。行く夏を惜しんでの感あり。
あちこちに出向くとき、あるときは重々しくそして楽しく、心の主ねくまま心根を楽しんでいる。
其の両方でない特別なる思いをいつも持って新鮮である。
かの地に残念ながら、特別なる知己はない。
今度の1月1日から合併して美郷町に変わることは決まっている。
その消え去る歴史の言葉がなさせる思いなのであろうか。
早朝7時前、将来を託せえる方と出かけた。
この地区の高官のお宅に9時集合が昨日の打ち合わせ。
太陽光発電の設計である。
現地には時間厳守で到着。
まだ暑き日差しだがやはり、九州山地の山間。風は夏の終わりを初めて感じさせるものであった。
ご馳走に呼ばれた。
120パーセントの食べごろの食感のスイカは懐かしき幼きころの大家族で食したスイカの味そのもの。
目いっぱい熟れてから収穫、大家族全員揃って食べるのがせきやんいわお家流の食し方。
たちまちたべかすの皮は人数ほどの量でその付近に満ち溢れた。
景気の良いときは二個のスイカが割られたので特別であった。
其のときの味は今食してる味。熟れすぎ。確実なる食べごろを過ぎた状態。
4,8KWとして、施工することとした。
もちまえの高所恐怖症もなく屋根の上は天下を取った気分。
そのままかえり、14時ころ都城に向かうのが予定。
ところが計画は大幅に変更、一路逆の延岡。
設計額○○○○万円の入札された開札日。
12時から15じ30分までひたすら待機。
地元の予測なきところで本体工が予測値より○○○万円も安き値段。
施工できうるのかの、協議を含めていたようである。
最後のメーカーまで交えての協議。ただひたすら待ち決定がもたらされる。
安かろう悪かろうではかなわぬからである。
ようやく、施工命令が出る。
10KWの太陽光発電の施工命令が含まれてるのである。
○○○坪の電気工事全般をも担当する重要なる役目の命令をもらう。
さ〜〜やるぞ〜
国会解散時の奇妙なる「バンザ〜イ」のキモチは是也も知れぬ。
19時過ぎまで資材屋さんで実に長き挨拶。
流石の私さえこの時間は長すぎた。
今年この過ごして来た日々で最良の日。そういえばハリウッド映画に同じ発音の名画があった。
北郷の現地調査の屋根で歌った
風たちぬ いざいきめやも
堀口大学と堀辰雄を混同してた。同じ愛する東京人からやも知れぬ間違い。フランスの共通項でもくくめる。
大学は(1892〜1981)
東京本郷生まれ。慶大文学部仏文卒ごそのまま仏文学ブオレーらを紹介し普及した。
辰夫は(1904〜1953 )
5月30日、死去(49歳)
東京麹町 のちに向島へ
・・・下町を書かない堀辰雄
「風たちぬは」映画では 山口百恵, 三浦友和, の好演が印象に残る。
百恵・友和が誕生した素因やも知れぬ。
純愛映画の一編で、山口百恵は、結核で身体を蝕まれていく薄幸の美少女を演じた。
愛し合うふたりを裂く要因として戦争があげられるあたり、
踊り子などといい“リメイク・コンビ”と揶揄された百恵、友和の映画ならではの保守性と陳腐とも言える内容だがその普遍性は時代変遷を貫く真実も含んでいるからである。
東大文学部での「驢馬」創刊に加わりながらもプロレタリア文学運動に傾斜してないのに侮蔑で読んだ作品群。反骨の青春期ゆえだ。
風たちぬは文庫本では旺文社版で美しき村と同じ中にあったと記憶する。三島の潮騒と同じころ読んだ。
「風たちぬ いざ いきめやも」
口ずさむのに丁度いい。
文法的には怪しいがこれがいい。
めやもの「め」は、推量の助動詞で「む」の自然形
「や」は、反語の「や」。「も」は助詞。
中学生の井上先生の情熱的国語の時間を想起する。
普通、「や」と「も」をくっつけて一つの終助詞。
「やも」である。、
、「ナニナニだろうか、いやナニナニでない」
風が立ったので、生きるだろうか、いや生きない、?
ヴァレリーの詩のオリジナルはどうなっているか、
Le vent se le`ve ! ……
il faut tenter de vivre !
PAUL VALE`RY
直訳すれば、
「風が立った!……我々は生きようと試みなければならない!」
「!」が2つもあって前向きで元気がいい。
しかし、堀辰雄が訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」をさらに現代語に訳すと、
「やも」が詠歎をこめた疑問や反語をあらわすためにこうだ。
「風が立ってしまった。さあ生きよう。でも生きようとするかなあ。 しないだろうなあ。」
ぜんぜん違ったニュアンスになってしまう。
これは堀辰雄の誤訳として知られているのだそうだ。
どうも確信犯的に小説『風立ちぬ』にふさわしい訳にしてしまったらしい。其のことが真実のようである。
実際『風立ちぬ』の冒頭に掲げられたヴァレリーの原詩からは、いつの間にか「!」が2つとも削られてしまっている。
仕事がうまくいってどうにも守銭奴では情けないので青春期のノスタルジーを重ね睡眠を返上してみた。
明日はあれ3時間後は高岡でのパネル・太陽光発電工事。
絶ええる限度を越している迫られ方。
裏技で60アンペアの増アン工事を朝TEL午後15時で完了さす。
ところが手すり工事の追加。どうしようもない。
工事は逃げていこう。どうしようもない。
情熱をぶっつけてブログ順位参戦中。
40番目を引き上げてください!
どうにも成績がいまいちです。
今日もワン・クリック
ありがとう!
http://blog.with2.net/link.php?62076
あちこちに出向くとき、あるときは重々しくそして楽しく、心の主ねくまま心根を楽しんでいる。
其の両方でない特別なる思いをいつも持って新鮮である。
かの地に残念ながら、特別なる知己はない。
今度の1月1日から合併して美郷町に変わることは決まっている。
その消え去る歴史の言葉がなさせる思いなのであろうか。
早朝7時前、将来を託せえる方と出かけた。
この地区の高官のお宅に9時集合が昨日の打ち合わせ。
太陽光発電の設計である。
現地には時間厳守で到着。
まだ暑き日差しだがやはり、九州山地の山間。風は夏の終わりを初めて感じさせるものであった。
ご馳走に呼ばれた。
120パーセントの食べごろの食感のスイカは懐かしき幼きころの大家族で食したスイカの味そのもの。
目いっぱい熟れてから収穫、大家族全員揃って食べるのがせきやんいわお家流の食し方。
たちまちたべかすの皮は人数ほどの量でその付近に満ち溢れた。
景気の良いときは二個のスイカが割られたので特別であった。
其のときの味は今食してる味。熟れすぎ。確実なる食べごろを過ぎた状態。
4,8KWとして、施工することとした。
もちまえの高所恐怖症もなく屋根の上は天下を取った気分。
そのままかえり、14時ころ都城に向かうのが予定。
ところが計画は大幅に変更、一路逆の延岡。
設計額○○○○万円の入札された開札日。
12時から15じ30分までひたすら待機。
地元の予測なきところで本体工が予測値より○○○万円も安き値段。
施工できうるのかの、協議を含めていたようである。
最後のメーカーまで交えての協議。ただひたすら待ち決定がもたらされる。
安かろう悪かろうではかなわぬからである。
ようやく、施工命令が出る。
10KWの太陽光発電の施工命令が含まれてるのである。
○○○坪の電気工事全般をも担当する重要なる役目の命令をもらう。
さ〜〜やるぞ〜
国会解散時の奇妙なる「バンザ〜イ」のキモチは是也も知れぬ。
19時過ぎまで資材屋さんで実に長き挨拶。
流石の私さえこの時間は長すぎた。
今年この過ごして来た日々で最良の日。そういえばハリウッド映画に同じ発音の名画があった。
北郷の現地調査の屋根で歌った
風たちぬ いざいきめやも
堀口大学と堀辰雄を混同してた。同じ愛する東京人からやも知れぬ間違い。フランスの共通項でもくくめる。
大学は(1892〜1981)
東京本郷生まれ。慶大文学部仏文卒ごそのまま仏文学ブオレーらを紹介し普及した。
辰夫は(1904〜1953 )
5月30日、死去(49歳)
東京麹町 のちに向島へ
・・・下町を書かない堀辰雄
「風たちぬは」映画では 山口百恵, 三浦友和, の好演が印象に残る。
百恵・友和が誕生した素因やも知れぬ。
純愛映画の一編で、山口百恵は、結核で身体を蝕まれていく薄幸の美少女を演じた。
愛し合うふたりを裂く要因として戦争があげられるあたり、
踊り子などといい“リメイク・コンビ”と揶揄された百恵、友和の映画ならではの保守性と陳腐とも言える内容だがその普遍性は時代変遷を貫く真実も含んでいるからである。
東大文学部での「驢馬」創刊に加わりながらもプロレタリア文学運動に傾斜してないのに侮蔑で読んだ作品群。反骨の青春期ゆえだ。
風たちぬは文庫本では旺文社版で美しき村と同じ中にあったと記憶する。三島の潮騒と同じころ読んだ。
「風たちぬ いざ いきめやも」
口ずさむのに丁度いい。
文法的には怪しいがこれがいい。
めやもの「め」は、推量の助動詞で「む」の自然形
「や」は、反語の「や」。「も」は助詞。
中学生の井上先生の情熱的国語の時間を想起する。
普通、「や」と「も」をくっつけて一つの終助詞。
「やも」である。、
、「ナニナニだろうか、いやナニナニでない」
風が立ったので、生きるだろうか、いや生きない、?
ヴァレリーの詩のオリジナルはどうなっているか、
Le vent se le`ve ! ……
il faut tenter de vivre !
PAUL VALE`RY
直訳すれば、
「風が立った!……我々は生きようと試みなければならない!」
「!」が2つもあって前向きで元気がいい。
しかし、堀辰雄が訳した「風立ちぬ、いざ生きめやも」をさらに現代語に訳すと、
「やも」が詠歎をこめた疑問や反語をあらわすためにこうだ。
「風が立ってしまった。さあ生きよう。でも生きようとするかなあ。 しないだろうなあ。」
ぜんぜん違ったニュアンスになってしまう。
これは堀辰雄の誤訳として知られているのだそうだ。
どうも確信犯的に小説『風立ちぬ』にふさわしい訳にしてしまったらしい。其のことが真実のようである。
実際『風立ちぬ』の冒頭に掲げられたヴァレリーの原詩からは、いつの間にか「!」が2つとも削られてしまっている。
仕事がうまくいってどうにも守銭奴では情けないので青春期のノスタルジーを重ね睡眠を返上してみた。
明日はあれ3時間後は高岡でのパネル・太陽光発電工事。
絶ええる限度を越している迫られ方。
裏技で60アンペアの増アン工事を朝TEL午後15時で完了さす。
ところが手すり工事の追加。どうしようもない。
工事は逃げていこう。どうしようもない。
情熱をぶっつけてブログ順位参戦中。
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