お盆
2005年8月15日何故にこのようなことしかできないのか。アピール力に弱い。
お盆の供養には丁度良いのかもしれないがこの国には外交がなくこの国は政治をしらない。
政治はパフォマンスであり、プロタガンダが必要である。
6者協議のときなり小泉訪朝時に持ち出すべきであった。
私はこの碑については何度も主張してきた。今頃なんのインパクトもないこの時期からして稚戯に等しい。
何故この時期か。郵政解散に際しての外交的目立つことに利用したとしか思えない。それなら拉致を解決することそのものが先であろう。
<北関大捷碑>(ほくかんたいしょうひ)が靖国神社から北朝鮮へ返されと言う
1世紀ぶりの返還である。まっさか小泉総理が15日靖国参拝を狙ってるのではなかろうな。
北関大捷碑は 6世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島北部に進軍した加藤清正の軍勢を地元の義勇軍が撃退した様子が漢文でつづられ、咸鏡北道(現在の北朝鮮)に建立された。
高さ約2メートル、幅約65センチ。
日露戦争(1904〜05年)で旧日本軍が持ち帰り、現在は靖国神社にある。
先月朝鮮の李王家の末裔李玖(イグ)が73歳で死去したが死を持って返還の道筋をつけた。
柿沼洗心(73)=日韓仏教福祉協会会長は李玖氏の日本側の身元引受人の僧侶
、石碑はもともと朝鮮半島北部の咸鏡北道にあった
よって、まず韓国政府に引き渡して韓国内で一定期間展示した後、北朝鮮に返還されるという。
李玖氏は李王朝最後の皇太子だった李垠(イウン)と梨本宮家から嫁いだ方子さんの二男。
終戦時は日本におり、韓国に帰国しようとしたが、当時の李承晩(イスンマン)政権に反対され、いったん米国に留学。63年に韓国への帰国を果たした。
その後、韓国で経営していた会社が倒産したため、79年に活路を求めて再び来日。それから17年後の96年、韓国に「永住帰国」した。
石碑の返還は永住帰国にあたって「祖国のために何かできることを」と柿沼さんの助言を受け、李玖氏が靖国神社側に陳情した。
「どちらに返還するか南北で調整がつき、韓国政府から要請があれば返還に応じる」との返答
南北で協議をするよう韓国政府や政財界に要望したが、交渉はなかなか進まなかった。
「祖国の英雄たちをたたえる石碑は貴重な文化財だっただけに調整に時間がかかったようだ」と柿沼談。
一衣帯水の国とは拉致や核、竹島問題などで、ここ数年は一触即発的状態。
トップのお坊ちゃんのみが能天気にディズニー・ランドに遊びに来るぐらいである。
6月23日の韓国と北朝鮮の南北閣僚級会談で返還に向けた協力が合意文書に盛り込まれ石碑は「建立の地に戻す」ことで落ち着いた
「今後は靖国神社での所定の手続きを経たうえで返還の日が決まる」(外務省)といい、9月末か10月に返還される見通しだ。
この朗報が耳に届いた直後、李玖氏は7月16日、滞在していた日本のホテルで心臓まひを起こして急死した。不可解なる死については先日触れている通り。
柿沼さんは「歴史にほんろうされた李玖氏が『祖国へのお土産に』と取り組んだ事業だった。いい供養になります」と話している。
昨夜のNHKの靖国に上坂冬子と議論を深めてた姜尚中(カン・サンジュン)東京大教授(政治学)の話
日朝の国交のない状態で歴史的な文化財が戦後60年の節目に韓国を通して北朝鮮に返還されるのは画期的だ。
拉致問題や靖国参拝問題などで政治的には閉塞状態だが、こうした文化財の交流で糸をつないでいくことが重要だ。
お盆にふさわしい言葉である。
「盆と正月」という言葉が聞かれるほど、日本人にとってお盆は大切な行事。 最近は藪入りという言葉も死語となっている。
江戸の時代、お正月とお盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と言う。
当時は、仕事を見習うために、職人・商人ともに、十三・四歳頃から師匠や商家を選んで丁稚奉公にでた。
丁稚たちは例年、正月の薮入りに主人から衣類万端与えられ、小遣いをもらって親許へ帰った。薮入りの噺そのもの。
この時期はまた、他家に嫁いだ女が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家の先祖の繋がりを確認する大切な行事であった。なんか嫁に行ったら盗られた感があり寂しいものだが、この時期は華やいだ雰囲気が家中に満ち溢れていたものだ。
太陽光発電のアパデン宮崎の職人さんも休めてなんとなく落ち着いた雰囲気。
口直しに落語を聴く。
薮入りは円楽師がいい。
ブログ順位参戦中。
どうにも成績がいまいちです。
今日もワン・クリック
ありがとう!
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お盆の供養には丁度良いのかもしれないがこの国には外交がなくこの国は政治をしらない。
政治はパフォマンスであり、プロタガンダが必要である。
6者協議のときなり小泉訪朝時に持ち出すべきであった。
私はこの碑については何度も主張してきた。今頃なんのインパクトもないこの時期からして稚戯に等しい。
何故この時期か。郵政解散に際しての外交的目立つことに利用したとしか思えない。それなら拉致を解決することそのものが先であろう。
<北関大捷碑>(ほくかんたいしょうひ)が靖国神社から北朝鮮へ返されと言う
1世紀ぶりの返還である。まっさか小泉総理が15日靖国参拝を狙ってるのではなかろうな。
北関大捷碑は 6世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵で朝鮮半島北部に進軍した加藤清正の軍勢を地元の義勇軍が撃退した様子が漢文でつづられ、咸鏡北道(現在の北朝鮮)に建立された。
高さ約2メートル、幅約65センチ。
日露戦争(1904〜05年)で旧日本軍が持ち帰り、現在は靖国神社にある。
先月朝鮮の李王家の末裔李玖(イグ)が73歳で死去したが死を持って返還の道筋をつけた。
柿沼洗心(73)=日韓仏教福祉協会会長は李玖氏の日本側の身元引受人の僧侶
、石碑はもともと朝鮮半島北部の咸鏡北道にあった
よって、まず韓国政府に引き渡して韓国内で一定期間展示した後、北朝鮮に返還されるという。
李玖氏は李王朝最後の皇太子だった李垠(イウン)と梨本宮家から嫁いだ方子さんの二男。
終戦時は日本におり、韓国に帰国しようとしたが、当時の李承晩(イスンマン)政権に反対され、いったん米国に留学。63年に韓国への帰国を果たした。
その後、韓国で経営していた会社が倒産したため、79年に活路を求めて再び来日。それから17年後の96年、韓国に「永住帰国」した。
石碑の返還は永住帰国にあたって「祖国のために何かできることを」と柿沼さんの助言を受け、李玖氏が靖国神社側に陳情した。
「どちらに返還するか南北で調整がつき、韓国政府から要請があれば返還に応じる」との返答
南北で協議をするよう韓国政府や政財界に要望したが、交渉はなかなか進まなかった。
「祖国の英雄たちをたたえる石碑は貴重な文化財だっただけに調整に時間がかかったようだ」と柿沼談。
一衣帯水の国とは拉致や核、竹島問題などで、ここ数年は一触即発的状態。
トップのお坊ちゃんのみが能天気にディズニー・ランドに遊びに来るぐらいである。
6月23日の韓国と北朝鮮の南北閣僚級会談で返還に向けた協力が合意文書に盛り込まれ石碑は「建立の地に戻す」ことで落ち着いた
「今後は靖国神社での所定の手続きを経たうえで返還の日が決まる」(外務省)といい、9月末か10月に返還される見通しだ。
この朗報が耳に届いた直後、李玖氏は7月16日、滞在していた日本のホテルで心臓まひを起こして急死した。不可解なる死については先日触れている通り。
柿沼さんは「歴史にほんろうされた李玖氏が『祖国へのお土産に』と取り組んだ事業だった。いい供養になります」と話している。
昨夜のNHKの靖国に上坂冬子と議論を深めてた姜尚中(カン・サンジュン)東京大教授(政治学)の話
日朝の国交のない状態で歴史的な文化財が戦後60年の節目に韓国を通して北朝鮮に返還されるのは画期的だ。
拉致問題や靖国参拝問題などで政治的には閉塞状態だが、こうした文化財の交流で糸をつないでいくことが重要だ。
お盆にふさわしい言葉である。
「盆と正月」という言葉が聞かれるほど、日本人にとってお盆は大切な行事。 最近は藪入りという言葉も死語となっている。
江戸の時代、お正月とお盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と言う。
当時は、仕事を見習うために、職人・商人ともに、十三・四歳頃から師匠や商家を選んで丁稚奉公にでた。
丁稚たちは例年、正月の薮入りに主人から衣類万端与えられ、小遣いをもらって親許へ帰った。薮入りの噺そのもの。
この時期はまた、他家に嫁いだ女が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家の先祖の繋がりを確認する大切な行事であった。なんか嫁に行ったら盗られた感があり寂しいものだが、この時期は華やいだ雰囲気が家中に満ち溢れていたものだ。
太陽光発電のアパデン宮崎の職人さんも休めてなんとなく落ち着いた雰囲気。
口直しに落語を聴く。
薮入りは円楽師がいい。
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