七夕

2005年7月2日
ホタルを楽しみ目の前に追ってたが、その視線をもう少し上げると煌めく夏の星座が楽しめる。
織女星(織姫星)はこと座の1等星ベガ、牽牛星(彦星)がわし座の1等星アルタイル。
夏の大三角はベガとアルタイルにデネブを加えた1等星のトライアングル、
デネブは天の川の中に輝く、はくちょう座の尾っぽのところに位置している。
古代ギリシャの人々や、アラビアンの人々はそこに瞬く星星を見て多くの話を作り、星をつなぎ合わせ壮大なるスケ−ルの形にして星座として、描いた。
星座を知らずしてヨ−ロッパ神話は語れない。
常識、知識人の基礎的な素養である。
お恥ずかしいのは世界に誇る高学歴の日本人でさ〜て星座の知識はからっきしダメが標準。ご心配召されるな。
牽牛星(彦星)と織女星(織姫星)のお話は誰でも知っている。
2000年ほど前には七夕伝説の原型はできていたというからずいぶん古い話だ。
中国史は、殷、周、秦、漢、三国、晋 南北朝、隋、唐、五代 宋、元、明 ...と苦痛で覚えた
実は「もしもしかめよ」のメロディーで歌う覚え方があったそうだ。
「殷、周、秦、漢、三国、晋   南北朝、隋、唐、五代  宋、元、明、清、中華民国 中華人民共和国」
その二番目の周代に成立した中国最古の詩篇『詩経』が「織女」と「牽牛」の名が出てくる最初のもの。
唐の時代(1300年前)に牽牛星・織女星の伝説はやがて、機織りに励んだ織女にちなんで、「機織り」「針仕事」「歌舞音曲」「詩歌文字」といった技芸の上達を星に祈る「乞巧奠(きこうでん)」 の行事を生み出す。
奈良から平安時代に日本へ伝わった乞巧奠(七夕)は宮中の行事となる。
『古事記』には、水辺で神の衣を織り、天から神が降り立つのを待つ棚機女(たなばたつめ)という巫女の伝説が記されている。
もともと“しちせき”として伝わった「七夕」を“たなばた”と呼ぶのも棚機女からきているわけである。
江戸時代に、七夕の行事は民間にも広がり、笹竹に短冊をかざる現在のスタイルもこのころ定着した。
笹は祖先の霊が宿る依代(よりしろ)が起源との説。
空梅雨の今年でさえ7月7日にこれらを確認できるかどうかは保証の限りではない。
晴れでも、2つの星はまだ東の空のかなり低い位置にある。
本来の七夕は旧暦の今年は8月11日。
明治政府の欧化政策で瑞穂の国のカレンダーは旧暦の太陰暦から新暦の太陽暦と変わった。田舎の農家ではいまだ太陰暦を使っている。
太陰暦では、7月7日は必ず上弦の月となるので、その形から七夕の月を、織女と牽牛が乗る船に見立てる風流さがある。
七夕飾り 願いを込めた短冊を吊るした笹竹を見れば、ひと目で七夕飾りだ、とわかる
しかし、こうした習俗は、江戸時代から始まったもので、日本独特である。
藁で七夕馬をつくって屋根に上げて、豊作を祖霊に祈る風習が伝わっていたとこもある。
繁華街を彩る七夕飾りは、仙台の七夕をすべて模倣したもの。
ここの飾りは、商売繁盛、無病息災などさまざまな願いを込めた
「七つ道具」(紙衣、千羽鶴 、短冊 、投網、屑籠、巾着、吹き流し)といわれる小物をすべて盛り込むのが特長。
七夕まつりはほとんどが50年ほどの歴史しか持たない戦後生まれ。
明治以前から行われていたのは仙台と高岡、山口のみ
今ある七夕まつりは、戦災で破壊された中心市街地が本格的に復興してきた1950年半ばから
、商店街を中心として始まったものがほとんど。
宗教色が薄く、女性的なイメージの強い七夕は、平和と復興を基調にしたイベントにぴたりとはまったのである。
そうした理由から、日本中ほとんどの商店街で、何らかの七夕まつりをやっていた
七夕がすむとお盆でDNAを伝えし先祖さまたる、しょうろ様がご対峙なさる。鎮魂の季節の頂礼。
今朝のNHK深夜便の午前3時40分ころ、ボンヤリとしていたら、夢か現か♪♪不思議なメロヂィ〜が枕元に流れた。

沖に寄る浪 とんとろり空にゃのどかな あげ雲雀 
娘遍路は ひとり旅ここはどこやら 故郷恋し 
シャラリコ シャラリコ シャンシャラリ 
八十八ヶ所 鈴だより

親はないのか 母さんは問えばうつむく 菅の笠 
娘遍路は まだ二八 ひと目逢いたや 母恋し 
シャラリコ シャラリコ シャンシャラリ 
頬にちょっぴり なみだ汗

いつか日暮れた 磯の道 帰る白帆が 見えたとて 
娘遍路は ただひとり 帰命頂礼 父恋し 
シャラリコ シャラリコ シャンシャラリ 
赤い夕焼 見て歩く
作詞/星野哲郎/作曲下川博省
編曲/長津義司
愛ちゃんは太郎の嫁になるの鈴木三重子のむすめ巡礼の歌ではないか。私は常に本命よりマイナーを覚えているゆえか。この歌をそらで歌える。もちろんカラオケにないので無理して吹き込んでいただいて歌っている持ち歌。ニシタチ金星の3万曲のうちのひとつ。
どうにも怨霊のお祓いが必要のようである、
この歌には亡き母ツユ子の影が付きまとう。
なぜか背中で聞いた記憶があるのだ。
調べてみると日活で映画にもなっている。
誰がいつ教えてくれたのか。脳裏にあったのを引き出しただけ。
弘法大師が開いた四国八十八ヶ所のお寺を菅笠に同行○人と大書した白い法被姿の巡礼
お遍路さんが徒歩で順番に参拝していく。
現在はバスなどで何日もかけないで済ましてる時勢でもある。
土地の人はお遍路さんが来ると食べ物を喜捨(きしゃ)する。
もともと宿阿の業の病の方が弘法大師の慈悲にすがり行く当てのないたびを続けたもの。行き倒れ死するまで終わりなき旅でもあった。よって人情豊かな土地となって文化も栄える。浄瑠璃もそのひとつ。
阿波の人形浄瑠璃の一節
幼いとき生き別れた母を捜して、お鶴は巡礼となる。巡礼に喜捨しようとした女が、この娘は、もしや昔別れた我が子かも・・・と身の上をねほりはほり問い正す感動の場面。
「あい・・・、ととさんの名は阿波の十郎兵衛。かかさんの名はお弓と申します・・・。」
ここでお年よりのおばあさんたちは涙を流すのです。
リホーム詐欺のニュースを見たが実に情けない。
私どもはなぜ赤字で2600万にもなるやつらもあるのか。
勤労意欲にかけてくるお話で涙が出てくる。
短冊には何を書こうか。・・・・帰命頂礼 父恋し
鎮魂の祈り。

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