中原中也生誕100年祭
2007年5月10日中原中也は1937年10月30歳で逝った。
日本言語は62億人の地球人のうち1億2千万人が使ってる言語で、特殊に分類される特異な文化の日本である。
難解な言語たる日本語も川端康成、大江健三郎と二人のノ−ベル文学賞で世界水準に達して大いに勇気をわけてくれた。
大江健三郎の師は仏文学者渡辺和夫(1901〜1975)である。
その大江は中学時には中也の詩をほとんど諳んじていた。
中也は生前、渡辺を訪ね署名した「ランボ−詩集」を手渡した。
丁度長男を亡くしていて落ち込んでいるときで、亡くなる直前のことでもあった。
帰郷
心置きなく泣かれよ。
年増婦の低い声もする。
あぁおまえは何をしてきたのだと
吹きまくる風が私に言う。
大江健三郎著「空の怪物アグイ」
頭にこぶのある子を持った音楽家の短編のお話。
大江はこの作品で中也の詩を引用した。
含羞(はじらい)
空は死児等の亡霊にみち、
まばたきぬ。
この著作を読んだ渡辺は電話で大江を呼び出す。
「子供が生まれてから、どうして生きてきたかいえ!」
師・渡辺から問い詰められる・・大江。
障害児「光」をもった大江の心境を察しての師弟愛。
このことにより、障害を持つ子と妻と三人で生きる決意が出来る。
「個人的な体験」の作品に取り組むと表明する。
ノ−ベル賞のひとつになった作品である。
長男をなくし非常に苦しみサイン入りの詩集をくれ、すぐに逝った中也。渡辺はこの詩集が出来る過程には助言もしていた。
そのことを渡辺は思い出したのだ。
・・・たからどういう了見でいるか話してもらおうと思った。
その時中也がくれたその詩集をそのとき大江に譲った
中也生誕100年祭の4/26中原中也記念館で息子・光と記念講演をした。
その渡辺からいただいた中也サイン入りのランボ−詩集を中也記念館に寄贈すると表明した
大江に去来したものは何か。
まだこん春と人は言う。
しかし私は辛いのだ。
春が来たってなんになろう
あの子が帰ってくるじゃない。
中也生誕100年祭が漏れ伝わってきたので記した。
山口で教壇に立ってる
一人息子からではない。
第2回中原中也賞は宮崎の人・高森文雄が受賞している。
高森文雄は成城高校から東大仏文科、1935(昭和10)年卒業。
郷土で教壇に立ったが、満州国に飛び、満州映画協会に入社、召集で北満の部隊に入隊。シベリア抑留満4年間と収容所で苦役。
教育長や町長を歴任。平成10年に逝った。
1931(昭和6)年、高校生であった高森は音楽評論家となった吉田秀和と2人で住んでいた。
あいにく留守だった吉田を訪ねてきた中原中也と出会う。
そのときの姿は、中也記念館にあり、全集の口絵などで有名なあの井出達。
真っ黒なソフト帽と黒い外套を着た中也は蒼白い顔に見開いた黒い瞳が妙に大きく感じられた。
高森は「難破船から匍い上がってきた船員!」という印象を受けたと述懐している。
記念館でその帽子等販売してます。
中也と出会い後はおちこちを旅したり深い交友を重ねた。
東大の仏文を選んだのも、1937(同12)年処女詩集『浚渫船』を刊行したのも、この中也との出会いがきっかけであった。
中也も3度宮崎・東郷町を訪れている。
中也の愛人の泰子は中也の友人の小林秀雄の元に去られる中也の傷心を癒すためでもあった。
そのとき製材所の詩を編んでいる。
せきやん日記の再掲
中原中也の詩の裏には<昭和12年10月22日30歳で夭逝した>短い人生に凝宿された波乱の人生のストーリーがある。
短い人生の中での交友関係は、小林秀雄、川上徹太郎、大岡昇平、高森文夫
壊れて・・・る・・みたい・・アップしません
日本言語は62億人の地球人のうち1億2千万人が使ってる言語で、特殊に分類される特異な文化の日本である。
難解な言語たる日本語も川端康成、大江健三郎と二人のノ−ベル文学賞で世界水準に達して大いに勇気をわけてくれた。
大江健三郎の師は仏文学者渡辺和夫(1901〜1975)である。
その大江は中学時には中也の詩をほとんど諳んじていた。
中也は生前、渡辺を訪ね署名した「ランボ−詩集」を手渡した。
丁度長男を亡くしていて落ち込んでいるときで、亡くなる直前のことでもあった。
帰郷
心置きなく泣かれよ。
年増婦の低い声もする。
あぁおまえは何をしてきたのだと
吹きまくる風が私に言う。
大江健三郎著「空の怪物アグイ」
頭にこぶのある子を持った音楽家の短編のお話。
大江はこの作品で中也の詩を引用した。
含羞(はじらい)
空は死児等の亡霊にみち、
まばたきぬ。
この著作を読んだ渡辺は電話で大江を呼び出す。
「子供が生まれてから、どうして生きてきたかいえ!」
師・渡辺から問い詰められる・・大江。
障害児「光」をもった大江の心境を察しての師弟愛。
このことにより、障害を持つ子と妻と三人で生きる決意が出来る。
「個人的な体験」の作品に取り組むと表明する。
ノ−ベル賞のひとつになった作品である。
長男をなくし非常に苦しみサイン入りの詩集をくれ、すぐに逝った中也。渡辺はこの詩集が出来る過程には助言もしていた。
そのことを渡辺は思い出したのだ。
・・・たからどういう了見でいるか話してもらおうと思った。
その時中也がくれたその詩集をそのとき大江に譲った
中也生誕100年祭の4/26中原中也記念館で息子・光と記念講演をした。
その渡辺からいただいた中也サイン入りのランボ−詩集を中也記念館に寄贈すると表明した
大江に去来したものは何か。
まだこん春と人は言う。
しかし私は辛いのだ。
春が来たってなんになろう
あの子が帰ってくるじゃない。
中也生誕100年祭が漏れ伝わってきたので記した。
山口で教壇に立ってる
一人息子からではない。
第2回中原中也賞は宮崎の人・高森文雄が受賞している。
高森文雄は成城高校から東大仏文科、1935(昭和10)年卒業。
郷土で教壇に立ったが、満州国に飛び、満州映画協会に入社、召集で北満の部隊に入隊。シベリア抑留満4年間と収容所で苦役。
教育長や町長を歴任。平成10年に逝った。
1931(昭和6)年、高校生であった高森は音楽評論家となった吉田秀和と2人で住んでいた。
あいにく留守だった吉田を訪ねてきた中原中也と出会う。
そのときの姿は、中也記念館にあり、全集の口絵などで有名なあの井出達。
真っ黒なソフト帽と黒い外套を着た中也は蒼白い顔に見開いた黒い瞳が妙に大きく感じられた。
高森は「難破船から匍い上がってきた船員!」という印象を受けたと述懐している。
記念館でその帽子等販売してます。
中也と出会い後はおちこちを旅したり深い交友を重ねた。
東大の仏文を選んだのも、1937(同12)年処女詩集『浚渫船』を刊行したのも、この中也との出会いがきっかけであった。
中也も3度宮崎・東郷町を訪れている。
中也の愛人の泰子は中也の友人の小林秀雄の元に去られる中也の傷心を癒すためでもあった。
そのとき製材所の詩を編んでいる。
せきやん日記の再掲
中原中也の詩の裏には<昭和12年10月22日30歳で夭逝した>短い人生に凝宿された波乱の人生のストーリーがある。
短い人生の中での交友関係は、小林秀雄、川上徹太郎、大岡昇平、高森文夫
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