2004ダンロップフェニックストーナメント
2004年11月17日「ちょっといい話」は江戸っ子作家の戸板康二の人なりが出てる珠玉の隠れ噺で気品溢れた話しであった。文春社の文庫本であったと思う。
俳句もよくした下町人で折口信夫に師事しただけに本格派。『戸板康二俳句集』もある
1915年に生まれ93年に没した人生での活動は多岐にわたった。.演劇評論家,小説家..劇評のみならず演劇史,民俗学,推理小説,俳句,戯曲と多岐にわたり健筆を揮った
著書は『今日の歌舞伎』『忠臣蔵』『歌舞伎十八番』『團十郎切腹事件』『戸板康二劇評集』『戸板康二俳句集』としてよめる。
東宝であったか映画原作の「花のお江戸の無責任」(1964) 戸板康二の原案を「ひばり チエミ いづみ 三人よれば」で山本嘉次郎が脚本、監督したコメディ。
植木等 谷啓 ハナ肇 草笛光子 団令子らが出演した。この先哲から笑いのエッセンスを学んだ。
その「ちょっといい話」にあやかって、冬の到来を告げる九州一週駅伝、大相撲九州場所というのにこの暑さ、季節がわからない。
よって、ご当地のもう一つの冬を呼び込む風物詩、賞金 総額2億円優勝4000万円のダンロップの「チョットいい話」
2004ダンロップフェニックストーナメントは明日から開催されるが、17日(水)前夜祭が開催された。
今回は一昨年ツアー参加も8位と不本意な成績のタイガー・ウッズ選手の動向である。
15日専用機でスタッフ 32名で宮崎入り。医療、器具手入れ、トレナーコック等々フル装備の軍団。
タイガーチームは黒のスーツに左に金の刺繍でチームを現し、右下にタイガーの吼えた蹴るすがたが刺繍されて統一ユニホームが会場に一段と色どりをそえている。
そのことは試合前の緊迫と緊張ムードを一手に引き受けている。
身長175センチで雰囲気を醸し出すご婦人のエリンさん、
実はこられている。お忍びである。これナイショですぞ!
公式にはお目見えになってい無いはずなのだ。
ジャンボ尾崎チームは総勢40余名の専用のバスでお目見え。
前夜祭会場ではふたりの対応に大きな開きが出てる
バック・ミュージックはもちろん生演奏で日野てるまさ。世界に2ッとない4000万ものトランペットが奏でる豪華な会場
サインを求められたジャンボ
「直道から貰っといて、」
今日取れの宮崎牛も一口のみで、代わりをもて!の類のようである。
飲み物も一人洋酒のブランデー
練習日であった今日もチェックもいい加減
8位ぐらいがいいとこ。
一転人気と名をあげたのはウッズ。
会場にまよいこんだお嬢ちゃん
「あっ!タイガーだ!」
ウッズすかさず名前を聞くが日本語さえ解しない年ゆえ
ウッズは英語ゆえなお解らない。
スタッフが名前を聞き教えてやるとウッズ。
こともあろうに、キャップにサインをしてお嬢ちゃんに被せ渡した垂涎のビッグ。プレゼント
一斉に会場一杯の拍手。緊張は一変に和やかに。
会場警備の方も胸をなで下ろしたことであろう。
お咎め無しならいいのだが。
飲み物を聞かれ、焼酎!それも特定銘柄を指名!
何だ!と思います?左党のゴルフ・ファンの方?・百年の孤独?・
ち・が・い・ま・す・
なんと!・・こ・び・き・なんである。日向こびきは大衆の焼酎。よくぞウッズ。
和食は文化ではしをお使いになる。
食するは・・・昨日とれたてのサーモンを現地から直送。
チェック日の芝のうえでも落ちたところに100個ぐらい並べ、なぜココに落ちこれからの芝めの読み。
ナイス・パット!が生まれてくるのは、並みの練習・研究ではない。半端ではない。
イーグル・ラッシュの練習風景の中、タイガーは今ひとつである。
もちろんそれでも優勝候補の最右翼なのだから不思議だ。
今年のタイガーは2月に行われた「WGCアクセンチュアマッチプレー」で大会連覇を達成させるも、その後は優勝を逃すシーンが多々見られ、今季米ツアーのストローク戦では未勝利に終わった。
また、5年間守り続けていたワールドランキング1位の座も、ビジェイ・シンに奪われる事態に陥ってしまった。
そんな不調説が囁かれるタイガーだが、ハネムーンでリフレッシュ。
その後の、米ツアー最終戦「ザ・ツアー選手権」で優勝を逃し2位に終わるも、復調の兆しは見えつつある。
日本の地でタイガー完全復活となるか。
日本勢は、賞金王争いをする片山晋呉、谷口徹を筆頭に、期待のホープ谷原秀人、
2002年にこの大会を制している横尾要、
先週「三井住友VISA太平洋マスターズ」で2位に食い込んだ川原希など。
日本ツアーを代表する選手達が意地を見せることができるのか。
11月18日(木)から11月21日(日)までの4日間
この中から優勝者が出るか。
T.ウッズ、T.ビヨーン、崔京周、S.シンク、C.フランコ、A.チェイカ、R.アレンビー、A.バデリー、片山晋呉、谷口徹、谷原秀人、横尾要、川原希
主催: フェニックスリゾート 住友ゴム工業 毎日放送
MRTダンロップフェニックスアマチュアトーナメント
15日(月)指定練習日
16日(火)フェニックスチャレンジ・指定練習日
17日(水)プロアマチャリティトーナメント・前夜祭
18日(木)第1ラウンド
19日(金)第2ラウンド
20日(土)第3ラウンド
21日(日)第4ラウンド
開催場所: フェニックスカントリークラブ・・・APAも近くですヨ〜ン
〒880-0122 宮崎県宮崎市塩路浜山3083)
賞金: 総額2億円($1,818,182)優勝4000万円($363,636)$1=¥110
チケット販売中 15000円
賞金ランキング(11/15現在)
1 片山晋呉 \102,192,866
2 谷口 徹 \93,139,801
3 Y.E.ヤン \84,410,908
4 S.K.ホ \78,350,836
5 谷原秀人 \63,254,178
6 加瀬秀樹 \55,296,610
7 P.シーハン \53,700,125
8 B.ジョーンズ \52,357,000
9 藤田寛之 \49,822,100
10 平塚哲二 \47,259,724
大変重要なこと忘れてました。
似たような種目たる野球界からの出場枠は星野仙一であったが急遽
ナント!なんとの南都雄二さん!{ふる〜}
松坂大介に変更である。
それがプライベート30万円の部屋で呑み浸り。
おい!おい!年上女房なかすで無いよ!
これもオフレコで〜す。怪物!〜〜
太陽光界の怪物は我がAPAの職人集団である。
昨日戴いた綾の現場を今日一日でおわらさせた。
日向に向かうのを、高鍋の地でキャンセルさせられる。
急遽の専務の「俺も行くワ〜」で交代である。気楽な物だ。
西都市で3.7kw換算血の契約にいたる。
携帯関連の電気工事を取り組んでみたく、受注に向けての図面による現説を受ける。
カタログたては、販売促進グッズであるが、これが高い。
スリ・ダイヤのお偉いさんが、
「お祝いだ!」
のいきなお計らい。
こうでなくっちゃ!実にありがたい。
何も進まぬ中に敢然と一人取り組んでいる。
ウッズの戦いの前の慎重さ、機敏さ、華麗なるそしてきめこまやかな気の配り方に、学ぶ物が多い。
居酒屋「照ちゃん」は世界の情報発信基地として入手出来うる情報の宝庫である。
酒なるもひとつの世界は、明るく人間たる幅を問われる世界である。
歴史は夜、作られる。言いえて妙である。
俳句もよくした下町人で折口信夫に師事しただけに本格派。『戸板康二俳句集』もある
1915年に生まれ93年に没した人生での活動は多岐にわたった。.演劇評論家,小説家..劇評のみならず演劇史,民俗学,推理小説,俳句,戯曲と多岐にわたり健筆を揮った
著書は『今日の歌舞伎』『忠臣蔵』『歌舞伎十八番』『團十郎切腹事件』『戸板康二劇評集』『戸板康二俳句集』としてよめる。
東宝であったか映画原作の「花のお江戸の無責任」(1964) 戸板康二の原案を「ひばり チエミ いづみ 三人よれば」で山本嘉次郎が脚本、監督したコメディ。
植木等 谷啓 ハナ肇 草笛光子 団令子らが出演した。この先哲から笑いのエッセンスを学んだ。
その「ちょっといい話」にあやかって、冬の到来を告げる九州一週駅伝、大相撲九州場所というのにこの暑さ、季節がわからない。
よって、ご当地のもう一つの冬を呼び込む風物詩、賞金 総額2億円優勝4000万円のダンロップの「チョットいい話」
2004ダンロップフェニックストーナメントは明日から開催されるが、17日(水)前夜祭が開催された。
今回は一昨年ツアー参加も8位と不本意な成績のタイガー・ウッズ選手の動向である。
15日専用機でスタッフ 32名で宮崎入り。医療、器具手入れ、トレナーコック等々フル装備の軍団。
タイガーチームは黒のスーツに左に金の刺繍でチームを現し、右下にタイガーの吼えた蹴るすがたが刺繍されて統一ユニホームが会場に一段と色どりをそえている。
そのことは試合前の緊迫と緊張ムードを一手に引き受けている。
身長175センチで雰囲気を醸し出すご婦人のエリンさん、
実はこられている。お忍びである。これナイショですぞ!
公式にはお目見えになってい無いはずなのだ。
ジャンボ尾崎チームは総勢40余名の専用のバスでお目見え。
前夜祭会場ではふたりの対応に大きな開きが出てる
バック・ミュージックはもちろん生演奏で日野てるまさ。世界に2ッとない4000万ものトランペットが奏でる豪華な会場
サインを求められたジャンボ
「直道から貰っといて、」
今日取れの宮崎牛も一口のみで、代わりをもて!の類のようである。
飲み物も一人洋酒のブランデー
練習日であった今日もチェックもいい加減
8位ぐらいがいいとこ。
一転人気と名をあげたのはウッズ。
会場にまよいこんだお嬢ちゃん
「あっ!タイガーだ!」
ウッズすかさず名前を聞くが日本語さえ解しない年ゆえ
ウッズは英語ゆえなお解らない。
スタッフが名前を聞き教えてやるとウッズ。
こともあろうに、キャップにサインをしてお嬢ちゃんに被せ渡した垂涎のビッグ。プレゼント
一斉に会場一杯の拍手。緊張は一変に和やかに。
会場警備の方も胸をなで下ろしたことであろう。
お咎め無しならいいのだが。
飲み物を聞かれ、焼酎!それも特定銘柄を指名!
何だ!と思います?左党のゴルフ・ファンの方?・百年の孤独?・
ち・が・い・ま・す・
なんと!・・こ・び・き・なんである。日向こびきは大衆の焼酎。よくぞウッズ。
和食は文化ではしをお使いになる。
食するは・・・昨日とれたてのサーモンを現地から直送。
チェック日の芝のうえでも落ちたところに100個ぐらい並べ、なぜココに落ちこれからの芝めの読み。
ナイス・パット!が生まれてくるのは、並みの練習・研究ではない。半端ではない。
イーグル・ラッシュの練習風景の中、タイガーは今ひとつである。
もちろんそれでも優勝候補の最右翼なのだから不思議だ。
今年のタイガーは2月に行われた「WGCアクセンチュアマッチプレー」で大会連覇を達成させるも、その後は優勝を逃すシーンが多々見られ、今季米ツアーのストローク戦では未勝利に終わった。
また、5年間守り続けていたワールドランキング1位の座も、ビジェイ・シンに奪われる事態に陥ってしまった。
そんな不調説が囁かれるタイガーだが、ハネムーンでリフレッシュ。
その後の、米ツアー最終戦「ザ・ツアー選手権」で優勝を逃し2位に終わるも、復調の兆しは見えつつある。
日本の地でタイガー完全復活となるか。
日本勢は、賞金王争いをする片山晋呉、谷口徹を筆頭に、期待のホープ谷原秀人、
2002年にこの大会を制している横尾要、
先週「三井住友VISA太平洋マスターズ」で2位に食い込んだ川原希など。
日本ツアーを代表する選手達が意地を見せることができるのか。
11月18日(木)から11月21日(日)までの4日間
この中から優勝者が出るか。
T.ウッズ、T.ビヨーン、崔京周、S.シンク、C.フランコ、A.チェイカ、R.アレンビー、A.バデリー、片山晋呉、谷口徹、谷原秀人、横尾要、川原希
主催: フェニックスリゾート 住友ゴム工業 毎日放送
MRTダンロップフェニックスアマチュアトーナメント
15日(月)指定練習日
16日(火)フェニックスチャレンジ・指定練習日
17日(水)プロアマチャリティトーナメント・前夜祭
18日(木)第1ラウンド
19日(金)第2ラウンド
20日(土)第3ラウンド
21日(日)第4ラウンド
開催場所: フェニックスカントリークラブ・・・APAも近くですヨ〜ン
〒880-0122 宮崎県宮崎市塩路浜山3083)
賞金: 総額2億円($1,818,182)優勝4000万円($363,636)$1=¥110
チケット販売中 15000円
賞金ランキング(11/15現在)
1 片山晋呉 \102,192,866
2 谷口 徹 \93,139,801
3 Y.E.ヤン \84,410,908
4 S.K.ホ \78,350,836
5 谷原秀人 \63,254,178
6 加瀬秀樹 \55,296,610
7 P.シーハン \53,700,125
8 B.ジョーンズ \52,357,000
9 藤田寛之 \49,822,100
10 平塚哲二 \47,259,724
大変重要なこと忘れてました。
似たような種目たる野球界からの出場枠は星野仙一であったが急遽
ナント!なんとの南都雄二さん!{ふる〜}
松坂大介に変更である。
それがプライベート30万円の部屋で呑み浸り。
おい!おい!年上女房なかすで無いよ!
これもオフレコで〜す。怪物!〜〜
太陽光界の怪物は我がAPAの職人集団である。
昨日戴いた綾の現場を今日一日でおわらさせた。
日向に向かうのを、高鍋の地でキャンセルさせられる。
急遽の専務の「俺も行くワ〜」で交代である。気楽な物だ。
西都市で3.7kw換算血の契約にいたる。
携帯関連の電気工事を取り組んでみたく、受注に向けての図面による現説を受ける。
カタログたては、販売促進グッズであるが、これが高い。
スリ・ダイヤのお偉いさんが、
「お祝いだ!」
のいきなお計らい。
こうでなくっちゃ!実にありがたい。
何も進まぬ中に敢然と一人取り組んでいる。
ウッズの戦いの前の慎重さ、機敏さ、華麗なるそしてきめこまやかな気の配り方に、学ぶ物が多い。
居酒屋「照ちゃん」は世界の情報発信基地として入手出来うる情報の宝庫である。
酒なるもひとつの世界は、明るく人間たる幅を問われる世界である。
歴史は夜、作られる。言いえて妙である。
まだ・・・秋?
2004年11月16日仕事柄数多くの出会いがある。とりわけ時代のせいか、所謂、女傑に出会っているこの二日。
15日夕方は不動産業?の一人?社長の切れ者と2時間。同席者は専務と紹介した新たな仲間の女傑。
牧場をてにいれたい・・・それも際限の無い広さを言うのだ・・
13日九電工展示会の場に確かにTELを乱暴に戴いてはいたがあしらっていた。電話でする話ではないもん!
それが本間もんのようである。
○千穂牧場がバックとしての真実なら本物の仕事人であろう。
自治体としても一大誘致企業となろう。レジャー・ランド的牧場は時代にかなっている。
レジャーに自然飲食がカップ・リングする施設は望んでも無いもの。
こりゃしっかりしなきゃ〜
にさんに電話して見つけ出す。紹介できるまでにしよう。
一体私はどうなる物やら。脳天カラの専務で生きていきたい。
今日の夕方は先方からの記憶の無い携帯から始まる。
「IHクッキング・をつけて!」「私しってる?」
実に大らかな・・ナント!乱暴な!・・・電話であろう。
おでんや「てるちゃん」にすっ飛んでいくと、確かに記憶に無いが先方は知っているそぶり。
値切るにネギル。赤字での施行となるであろう。
「オバチャン・・いや!原価割れってあるか!」
仕方なく沖縄ナンバーの車を追って自宅の佐土原町に行くとナント!これが凄い家。ホーム・バーさえある。
なんと!日航のパイロットでもと104戦闘機のアクロバット隊だ。
それが電気配線についてはまるで白雉状態で台所はタコ足配線でコンセットは1箇所だけ。
よくも火事にならなかったわ〜
製氷機まである、もちろんオーブンや炊飯器やお湯沸かし・・あらゆる電化品・良くぞそんなもんが1箇所のコンセットで維持できたものだ。
九電本線も部屋数が11もあるのに2本で100Vしか使えない年代もの。じつにブッタマゲ!の連続。
しかし大物。まさに女傑。情に厚い。聞けば高鍋は筏ではないか。
知らぬ中ではなくなってしまった。
マルチの商品をいっぱい買わされている。布団なんぞわ何組あるんであろう。
二回の押入れいっぱいに未使用品。20組み以上。それが私共APAには5割以下でのIH製品の納入をせまる。ま〜いいわ〜。
人脈もあるようだし負けて勝て!商売は細くなが〜く。
ここいらに根をはろう。呑み仲間。に名を連ねよう。もう一つの人生として生きてみよう。それもまたよし!
泣く子とオバチャンには勝てぬ!
こんなことがあるのか・の朝・昼・晩の連続であった。
朝は○光社の幹部の方と新規開拓で太陽光発電での工事の説明。
宮崎制覇を目指すようである。実にやすい!価格である。
こんなことがあるのか。
歩いて正午の会場たる江平ジョイフルに向かってると4階建ての1階が38坪で6万円の家賃。改装費もいらず、九電工のソバ。
実に20万円と比較してしまう。タッチの差で何故にこんなことが起こりのか。神の悪戯。
昼ついに動かぬ山の専務に銀行に言ってもらう。3人がかり。疲れる。
先ほどジョイフルで日向の現場の契約をしたばかり。
専務と若代表は朝綾の現場を下見に行っていただいた後である。
あすから工事である。なんともすぐやるか・である。
ジョイフルでは、かってのゼネコンの幹部にあった。何年振りであろう。それがそれぞれ転進しておられる。新聞記事の方々である。
国交相「ゼネコンは供給過剰体質」・業界に再編促す
北側一雄国土交通相は16日の閣議後会見で、準大手ゼネコン(総合建設会社)の熊谷組と飛島建設が合併計画を白紙撤回したことについて
「民間の判断でコメントする立場にない」 と断った上で、
「業界全体でどう統合・再編されていくか見ていかなくてはいけない」と述べ、業界に再編を進めるよう促した。
国交相はゼネコン業界の経営環境に関して
「業界の厳しい状況は変わらない。過剰供給体質という認識を持っている」と指摘した。
ゼネコン業界では大手銀行の不良債権処理に併せて、2002年から2003年にかけて再編問題が進んだ。
しかし、景気回復とリストラを受けて、ある程度利益が出る体質になり、再編機運は後退してきた。国交相の発言はこうした現状を批判したものといえる。とある。
まだテレホン・カードさえあるこの方々。
私共APAには防水分野で助かる。
テレホンカードはいまや時代の遺物。
皇族たるプリンセスの恋を実らせたのも、婚約内定を友人に伝えたのもメールだったとの報道、これでは携帯・メールをやらねばならぬ。
夜APAは19才が3人で私を囲む。2月から準備してあるカメラ付携帯の講習を受ける
AU製でム〜ビ〜付の当時ならスグレモンであったらしい。A1303SA型。
これでメ〜ルができるようになるのであろうか。この私でさえも。
携帯電話世界のなかで他人の携帯が鳴り、その人が話を始めたらどう思うか。
「迷惑だ」が49%で半数を占め、「小声ならよい」が31%。「とくに気にしない」は14%。
年代別では「迷惑だ」が50代、60代で多く53%。「小声ならよい」は20代、30代で4割超。
インターネットについては4割が「使っている」
普及していることを「プラス」と思う人は8割近くに達した。
固定電話や手紙に代わって暮らしの中心に電子メールと携帯電話があることを嫌でも実感させられた。
携帯電話3社の中間決算、ドコモとボーダフォン減益 KDDIが唯一、経常増益。
20代では、ほとんどすべての人が携帯電話を使い、3割は「ない生活は考えられない」とまで感じている
ボストン美術館所蔵の「美しき日本の絵はがき展」(東京・逓信総合博物館)が開かれている。
1世紀前の日露戦争をきっかけに、欧米を包んだ絵はがきのブームが日本にも及ぶ。
夏目漱石ら留学生が収集に熱中し、藤島武二や杉浦非水といった画家やデザイナーも筆を競った。
世界に広がった絵はがきブームと、日本の絵はがきの芸術性に目を見張る。浮世絵やアールヌーボー調など、洗練されたデザインは小さな近代絵画史の趣がある。
おしゃれな図柄のはがきに近況を添えて旅先から家族や知人に送るという習慣は、メール万能の時代にどうなるのだろう。
「絵を見る人には、ある種の逸楽的感動を覚えてほしい。私の絵は、深い安らぎを与える『肘掛け椅子』でありたい」
東京・上野の国立西洋美術館の「マティス展」(12月12日まで)。
マチスのアトリエはパリ・セーヌ川べりのアパートにあった。アパートからの窓から川の方を見ると、観光船が行き交い、対岸にはノートルダム寺院が見えたことであろう。
肘掛け椅子のことばにつながる。
「ピカソ展」も開かれている(東京都現代美術館=江東区 12月12日まで)。マチスと共に20世紀美術を代表するピカソ
奔放で過激な形と色の祝祭に酔いそうである。と書いたヒトがある。テーマは「躰(からだ)とエロス」で、男女の激しいドラマが迫ってくる。
「あの人はハイカラで美しい絵を描くなかなか話せる人だよ」
とピカソが言い、
「気まぐれで何をしでかすかわからぬ、然しあれは物の判る人だよ」とマチスは言った(『旅人の眼』 洋画家・川島理一郎 龍星閣)
マチスが没して50年、ピカソが逝って31年。
両巨匠の豊かな果実を、秋の実りとしたいが新聞記事のみで東京は遠いヨ。
中也さん、SORAさんみてきてくださいません?
読書の秋の大和の国の最良の日々が刻々とと消えてゆく。
15日夕方は不動産業?の一人?社長の切れ者と2時間。同席者は専務と紹介した新たな仲間の女傑。
牧場をてにいれたい・・・それも際限の無い広さを言うのだ・・
13日九電工展示会の場に確かにTELを乱暴に戴いてはいたがあしらっていた。電話でする話ではないもん!
それが本間もんのようである。
○千穂牧場がバックとしての真実なら本物の仕事人であろう。
自治体としても一大誘致企業となろう。レジャー・ランド的牧場は時代にかなっている。
レジャーに自然飲食がカップ・リングする施設は望んでも無いもの。
こりゃしっかりしなきゃ〜
にさんに電話して見つけ出す。紹介できるまでにしよう。
一体私はどうなる物やら。脳天カラの専務で生きていきたい。
今日の夕方は先方からの記憶の無い携帯から始まる。
「IHクッキング・をつけて!」「私しってる?」
実に大らかな・・ナント!乱暴な!・・・電話であろう。
おでんや「てるちゃん」にすっ飛んでいくと、確かに記憶に無いが先方は知っているそぶり。
値切るにネギル。赤字での施行となるであろう。
「オバチャン・・いや!原価割れってあるか!」
仕方なく沖縄ナンバーの車を追って自宅の佐土原町に行くとナント!これが凄い家。ホーム・バーさえある。
なんと!日航のパイロットでもと104戦闘機のアクロバット隊だ。
それが電気配線についてはまるで白雉状態で台所はタコ足配線でコンセットは1箇所だけ。
よくも火事にならなかったわ〜
製氷機まである、もちろんオーブンや炊飯器やお湯沸かし・・あらゆる電化品・良くぞそんなもんが1箇所のコンセットで維持できたものだ。
九電本線も部屋数が11もあるのに2本で100Vしか使えない年代もの。じつにブッタマゲ!の連続。
しかし大物。まさに女傑。情に厚い。聞けば高鍋は筏ではないか。
知らぬ中ではなくなってしまった。
マルチの商品をいっぱい買わされている。布団なんぞわ何組あるんであろう。
二回の押入れいっぱいに未使用品。20組み以上。それが私共APAには5割以下でのIH製品の納入をせまる。ま〜いいわ〜。
人脈もあるようだし負けて勝て!商売は細くなが〜く。
ここいらに根をはろう。呑み仲間。に名を連ねよう。もう一つの人生として生きてみよう。それもまたよし!
泣く子とオバチャンには勝てぬ!
こんなことがあるのか・の朝・昼・晩の連続であった。
朝は○光社の幹部の方と新規開拓で太陽光発電での工事の説明。
宮崎制覇を目指すようである。実にやすい!価格である。
こんなことがあるのか。
歩いて正午の会場たる江平ジョイフルに向かってると4階建ての1階が38坪で6万円の家賃。改装費もいらず、九電工のソバ。
実に20万円と比較してしまう。タッチの差で何故にこんなことが起こりのか。神の悪戯。
昼ついに動かぬ山の専務に銀行に言ってもらう。3人がかり。疲れる。
先ほどジョイフルで日向の現場の契約をしたばかり。
専務と若代表は朝綾の現場を下見に行っていただいた後である。
あすから工事である。なんともすぐやるか・である。
ジョイフルでは、かってのゼネコンの幹部にあった。何年振りであろう。それがそれぞれ転進しておられる。新聞記事の方々である。
国交相「ゼネコンは供給過剰体質」・業界に再編促す
北側一雄国土交通相は16日の閣議後会見で、準大手ゼネコン(総合建設会社)の熊谷組と飛島建設が合併計画を白紙撤回したことについて
「民間の判断でコメントする立場にない」 と断った上で、
「業界全体でどう統合・再編されていくか見ていかなくてはいけない」と述べ、業界に再編を進めるよう促した。
国交相はゼネコン業界の経営環境に関して
「業界の厳しい状況は変わらない。過剰供給体質という認識を持っている」と指摘した。
ゼネコン業界では大手銀行の不良債権処理に併せて、2002年から2003年にかけて再編問題が進んだ。
しかし、景気回復とリストラを受けて、ある程度利益が出る体質になり、再編機運は後退してきた。国交相の発言はこうした現状を批判したものといえる。とある。
まだテレホン・カードさえあるこの方々。
私共APAには防水分野で助かる。
テレホンカードはいまや時代の遺物。
皇族たるプリンセスの恋を実らせたのも、婚約内定を友人に伝えたのもメールだったとの報道、これでは携帯・メールをやらねばならぬ。
夜APAは19才が3人で私を囲む。2月から準備してあるカメラ付携帯の講習を受ける
AU製でム〜ビ〜付の当時ならスグレモンであったらしい。A1303SA型。
これでメ〜ルができるようになるのであろうか。この私でさえも。
携帯電話世界のなかで他人の携帯が鳴り、その人が話を始めたらどう思うか。
「迷惑だ」が49%で半数を占め、「小声ならよい」が31%。「とくに気にしない」は14%。
年代別では「迷惑だ」が50代、60代で多く53%。「小声ならよい」は20代、30代で4割超。
インターネットについては4割が「使っている」
普及していることを「プラス」と思う人は8割近くに達した。
固定電話や手紙に代わって暮らしの中心に電子メールと携帯電話があることを嫌でも実感させられた。
携帯電話3社の中間決算、ドコモとボーダフォン減益 KDDIが唯一、経常増益。
20代では、ほとんどすべての人が携帯電話を使い、3割は「ない生活は考えられない」とまで感じている
ボストン美術館所蔵の「美しき日本の絵はがき展」(東京・逓信総合博物館)が開かれている。
1世紀前の日露戦争をきっかけに、欧米を包んだ絵はがきのブームが日本にも及ぶ。
夏目漱石ら留学生が収集に熱中し、藤島武二や杉浦非水といった画家やデザイナーも筆を競った。
世界に広がった絵はがきブームと、日本の絵はがきの芸術性に目を見張る。浮世絵やアールヌーボー調など、洗練されたデザインは小さな近代絵画史の趣がある。
おしゃれな図柄のはがきに近況を添えて旅先から家族や知人に送るという習慣は、メール万能の時代にどうなるのだろう。
「絵を見る人には、ある種の逸楽的感動を覚えてほしい。私の絵は、深い安らぎを与える『肘掛け椅子』でありたい」
東京・上野の国立西洋美術館の「マティス展」(12月12日まで)。
マチスのアトリエはパリ・セーヌ川べりのアパートにあった。アパートからの窓から川の方を見ると、観光船が行き交い、対岸にはノートルダム寺院が見えたことであろう。
肘掛け椅子のことばにつながる。
「ピカソ展」も開かれている(東京都現代美術館=江東区 12月12日まで)。マチスと共に20世紀美術を代表するピカソ
奔放で過激な形と色の祝祭に酔いそうである。と書いたヒトがある。テーマは「躰(からだ)とエロス」で、男女の激しいドラマが迫ってくる。
「あの人はハイカラで美しい絵を描くなかなか話せる人だよ」
とピカソが言い、
「気まぐれで何をしでかすかわからぬ、然しあれは物の判る人だよ」とマチスは言った(『旅人の眼』 洋画家・川島理一郎 龍星閣)
マチスが没して50年、ピカソが逝って31年。
両巨匠の豊かな果実を、秋の実りとしたいが新聞記事のみで東京は遠いヨ。
中也さん、SORAさんみてきてくださいません?
読書の秋の大和の国の最良の日々が刻々とと消えてゆく。
サイエンス
2004年11月15日車のドアで挟んだつめは完全に新しく生えかえった。50の大代を越えていても復活は可能のようである。
それらのツメであるがこれらが無いことを想像しても見てもらえまいか。実に困る。
ツメを煎じて飲ませろ!の格言ができる由来やも知れぬ。
そのツメにイオン化したゲルマニューム、チタン、白金を順序正しく注入してやるとツメが自然に輝く。
自然マニュキャをしたも同然の状態となる。
さらに保湿性も持ってくる。健康な人では1週間以上もその状態が続き、不健康なヒトとの差が出る。
イオン化で生活改善の組織がある。生活の総てをナノテクで変えていくのである。
実はココに書くと大変なことさえたくさん起きている。
この一週間の間にサイエンスに関する新聞記事が出廻っている。
磁石に吸い寄せられる液体「磁性イオン液体」を発見したと、東京大学大学院理学系研究科の浜口宏夫教授(物理化学)と博士課程2年の林賢さんが9日、発表した。
この液体に鉄を引き寄せる力はないが、研究が進めば「液体磁石」ができる可能性もあるという。
塩化鉄のイオンなどで作った「イオン液体」という物質の一つで、磁性の強さは、固体の鉄化合物と同程度。零下10度から300度程度まで安定して液体として存在する。
粉末磁石を油に溶かした「磁性流体」も磁性を持つ液体だが、固体と液体に分離してしまうなどの課題があった。磁性イオン液体は液体そのものが磁性を持つ。
揮発せず、凍りにくいのも特長。磁性流体の利用が研究されている人工臓器や造影剤などの用途には、比較的早く使えそうだ。
ただ、自ら磁石として働く液体を作るには、イオンの向きをそろえるなど、更に研究が必要だという。
「陽イオンと陰イオンのみからできている物質は、食塩のように室温では固体なのが普通。イオン液体がなぜ室温で液体なのかは謎だ。その構造が解明できれば、液体磁石の実現につながるはずだ」と浜口教授。
ニュートリノの質量を高精度で確認 東北大など
原子力発電所の原子炉から飛び出てくる素粒子ニュートリノの観測で、ニュートリノに質量があることを示す現象を「99・998%」の信頼度で確認し、世界で最も高精度のニュートリノ質量測定をしたと、鈴木厚人・東北大教授らの国際グループが9日、発表した。
ニュートリノは質量の違う3種類に分けることができ、鈴木さんたちは2番目のニュートリノの質量を10%以内の精度で測ることに成功。
これまでスーパーカミオカンデの研究で突き止められた最も重いニュートリノの質量の、6分の1であることも導き出した。
鈴木さんたちは、ノーベル賞受賞の舞台となった岐阜県飛騨市の「カミオカンデ」跡にニュートリノ観測装置カムランドを作り、02年から原発から飛来するニュートリノを観測している。
カムランドから180キロ圏内の新潟県柏崎市や福井県敦賀市には原発が複数あり、主に国内53基を対象に今年1月まで観測した。
長い距離を飛ぶ間にニュートリノの種類が変化する「振動現象」のために、電子ニュートリノは予測値365個より約3割少ない240個しか見つからず、明らかに減少していることを確認した。
「質量の有無については文句のない精度。今後は検出の精度を高めて、ニュートリノの質量を正確に決めたい」と鈴木さん
新たなたんぱく質発見 がん細胞の増殖防ぐ物質を破壊
がん細胞のように細胞が増え続けないよう、増殖を抑えている物質を壊すKPCというたんぱく質を九州大生体防御医学研究所の中山敬一教授(細胞生物学)らが発見した。
7日付の英科学誌ネイチャー・セルバイオロジー(電子版)に発表した。がん細胞のKPCの働きを抑える物質が見つかれば、新しい抗がん剤の開発も期待できそうだ。
細胞が増殖し続けるがんでは、増殖を抑えるp27というたんぱく質の働きが鈍くなることから、がんの仕組みを解明するためにp27が注目されている。
p27は、skp2という酵素によって分解されることは知られていたが、中山さんらはskp2がなくてもp27が壊れることをマウスの実験で見つけた。新たな物質を探し、KPCであることを突き止めた。
skp2は細胞が増殖の周期に入っている途中の段階で働くのに対し、KPCは細胞が休止から増殖に向かう早い段階で働くため、がん
治療を考える上では、より重要という。KPCを作らないよう操作した細胞では増殖が止まることも確かめた。
「KPCとp27の結合を止める薬でがんの進行を止めて、別の抗がん剤でがん細胞を殺す治療などができるようになる可能性がある」と中山さん
細胞の持つ「細菌分解機能」発見
病原体に細胞の中まで侵入されてしまうと、もう免疫システムでは防御できないが、細胞自身に病原体を捕獲・分解する仕組みがあることを、国立遺伝学研究所や大阪大のチームがヒトの細胞で突き止めた。
この「最後の砦」を感染症の予防・治療に利用する研究を進めるという。米科学誌「サイエンス」電子版に論文を6日発表した。
同研究所の吉森保教授らは、栄養が不足したとき、細胞が自身の細胞質の一部を分解して栄養にあてる「自食作用(オートファジー)」に着目した。
実験では、咽頭炎などを引き起こす細菌を、ヒトの上皮細胞などに感染させた。すると、感染から4時間後に、自食作用を担う「オートファゴソーム」という袋状の膜構造が細胞内に現れ、細胞内に侵入した細菌の8割を包み込み、分解した。
袋状構造は、通常の自食作用のときの10倍ほどの大きさだった。
一方、遺伝子操作でこの膜構造ができないようにした細胞では、細菌が増えて細胞外にまで広がった。
吉森教授は「新たな感染防御システムが確認できた。臨床医学への応用が期待できる」と話す。
精子のもとの細胞を体外増殖
米ペンシルベニア大獣医学部の久保田浩司助手らのチームが、マウスの精子のもととなる細胞を培養して増殖させる方法を発見し、米科学アカデミー紀要(電子版)に発表。
男性の不妊症の治療や各種難病の再生医療、絶滅の恐れのある動物の種の保存に役立つ可能性があるという。
男性不妊の中には、精子はできないが、もととなる精原幹細胞は存在している場合がある。しかしこの幹細胞は体外で培養できなかった。
精原幹細胞をマウスから取り出し、神経栄養因子の一種「GDNF」に2種類の物質を加えて培養すると、安定して増やせると分かったという。
これを不妊のオスの精巣に移植してメスと交配させたところ、赤ちゃんマウスが生まれた。幹細胞を提供したマウスの遺伝子を受け継いでいることも確認された。
「人間を含むほかの動物の精原幹細胞も、同様の培養方法で増殖させられる可能性があり、不妊治療や種の保存に役立てられる。一方、ほかのタイプの幹細胞づくりの研究にも役立つ」と 久保田助手。
ビタミン由来成分「鍵」 炎症性腸疾患のT細胞侵入解明
病原体や毒素に感染した細胞を攻撃する血管内のT細胞が炎症性の腸疾患を引き起こすことに関し、T細胞が腸組織に入り込むメカニズムを三菱化学生命科学研究所の岩田誠主任研究員らが突き止めた。
腸組織に入るT細胞の数を抑えることができれば、T細胞が原因とされ
るクローン病などの炎症性腸疾患(国内患者数は10万人程度)がなおせる。
科学は仕事。何を商品とし、扱おうか悩んでいる。
それらのツメであるがこれらが無いことを想像しても見てもらえまいか。実に困る。
ツメを煎じて飲ませろ!の格言ができる由来やも知れぬ。
そのツメにイオン化したゲルマニューム、チタン、白金を順序正しく注入してやるとツメが自然に輝く。
自然マニュキャをしたも同然の状態となる。
さらに保湿性も持ってくる。健康な人では1週間以上もその状態が続き、不健康なヒトとの差が出る。
イオン化で生活改善の組織がある。生活の総てをナノテクで変えていくのである。
実はココに書くと大変なことさえたくさん起きている。
この一週間の間にサイエンスに関する新聞記事が出廻っている。
磁石に吸い寄せられる液体「磁性イオン液体」を発見したと、東京大学大学院理学系研究科の浜口宏夫教授(物理化学)と博士課程2年の林賢さんが9日、発表した。
この液体に鉄を引き寄せる力はないが、研究が進めば「液体磁石」ができる可能性もあるという。
塩化鉄のイオンなどで作った「イオン液体」という物質の一つで、磁性の強さは、固体の鉄化合物と同程度。零下10度から300度程度まで安定して液体として存在する。
粉末磁石を油に溶かした「磁性流体」も磁性を持つ液体だが、固体と液体に分離してしまうなどの課題があった。磁性イオン液体は液体そのものが磁性を持つ。
揮発せず、凍りにくいのも特長。磁性流体の利用が研究されている人工臓器や造影剤などの用途には、比較的早く使えそうだ。
ただ、自ら磁石として働く液体を作るには、イオンの向きをそろえるなど、更に研究が必要だという。
「陽イオンと陰イオンのみからできている物質は、食塩のように室温では固体なのが普通。イオン液体がなぜ室温で液体なのかは謎だ。その構造が解明できれば、液体磁石の実現につながるはずだ」と浜口教授。
ニュートリノの質量を高精度で確認 東北大など
原子力発電所の原子炉から飛び出てくる素粒子ニュートリノの観測で、ニュートリノに質量があることを示す現象を「99・998%」の信頼度で確認し、世界で最も高精度のニュートリノ質量測定をしたと、鈴木厚人・東北大教授らの国際グループが9日、発表した。
ニュートリノは質量の違う3種類に分けることができ、鈴木さんたちは2番目のニュートリノの質量を10%以内の精度で測ることに成功。
これまでスーパーカミオカンデの研究で突き止められた最も重いニュートリノの質量の、6分の1であることも導き出した。
鈴木さんたちは、ノーベル賞受賞の舞台となった岐阜県飛騨市の「カミオカンデ」跡にニュートリノ観測装置カムランドを作り、02年から原発から飛来するニュートリノを観測している。
カムランドから180キロ圏内の新潟県柏崎市や福井県敦賀市には原発が複数あり、主に国内53基を対象に今年1月まで観測した。
長い距離を飛ぶ間にニュートリノの種類が変化する「振動現象」のために、電子ニュートリノは予測値365個より約3割少ない240個しか見つからず、明らかに減少していることを確認した。
「質量の有無については文句のない精度。今後は検出の精度を高めて、ニュートリノの質量を正確に決めたい」と鈴木さん
新たなたんぱく質発見 がん細胞の増殖防ぐ物質を破壊
がん細胞のように細胞が増え続けないよう、増殖を抑えている物質を壊すKPCというたんぱく質を九州大生体防御医学研究所の中山敬一教授(細胞生物学)らが発見した。
7日付の英科学誌ネイチャー・セルバイオロジー(電子版)に発表した。がん細胞のKPCの働きを抑える物質が見つかれば、新しい抗がん剤の開発も期待できそうだ。
細胞が増殖し続けるがんでは、増殖を抑えるp27というたんぱく質の働きが鈍くなることから、がんの仕組みを解明するためにp27が注目されている。
p27は、skp2という酵素によって分解されることは知られていたが、中山さんらはskp2がなくてもp27が壊れることをマウスの実験で見つけた。新たな物質を探し、KPCであることを突き止めた。
skp2は細胞が増殖の周期に入っている途中の段階で働くのに対し、KPCは細胞が休止から増殖に向かう早い段階で働くため、がん
治療を考える上では、より重要という。KPCを作らないよう操作した細胞では増殖が止まることも確かめた。
「KPCとp27の結合を止める薬でがんの進行を止めて、別の抗がん剤でがん細胞を殺す治療などができるようになる可能性がある」と中山さん
細胞の持つ「細菌分解機能」発見
病原体に細胞の中まで侵入されてしまうと、もう免疫システムでは防御できないが、細胞自身に病原体を捕獲・分解する仕組みがあることを、国立遺伝学研究所や大阪大のチームがヒトの細胞で突き止めた。
この「最後の砦」を感染症の予防・治療に利用する研究を進めるという。米科学誌「サイエンス」電子版に論文を6日発表した。
同研究所の吉森保教授らは、栄養が不足したとき、細胞が自身の細胞質の一部を分解して栄養にあてる「自食作用(オートファジー)」に着目した。
実験では、咽頭炎などを引き起こす細菌を、ヒトの上皮細胞などに感染させた。すると、感染から4時間後に、自食作用を担う「オートファゴソーム」という袋状の膜構造が細胞内に現れ、細胞内に侵入した細菌の8割を包み込み、分解した。
袋状構造は、通常の自食作用のときの10倍ほどの大きさだった。
一方、遺伝子操作でこの膜構造ができないようにした細胞では、細菌が増えて細胞外にまで広がった。
吉森教授は「新たな感染防御システムが確認できた。臨床医学への応用が期待できる」と話す。
精子のもとの細胞を体外増殖
米ペンシルベニア大獣医学部の久保田浩司助手らのチームが、マウスの精子のもととなる細胞を培養して増殖させる方法を発見し、米科学アカデミー紀要(電子版)に発表。
男性の不妊症の治療や各種難病の再生医療、絶滅の恐れのある動物の種の保存に役立つ可能性があるという。
男性不妊の中には、精子はできないが、もととなる精原幹細胞は存在している場合がある。しかしこの幹細胞は体外で培養できなかった。
精原幹細胞をマウスから取り出し、神経栄養因子の一種「GDNF」に2種類の物質を加えて培養すると、安定して増やせると分かったという。
これを不妊のオスの精巣に移植してメスと交配させたところ、赤ちゃんマウスが生まれた。幹細胞を提供したマウスの遺伝子を受け継いでいることも確認された。
「人間を含むほかの動物の精原幹細胞も、同様の培養方法で増殖させられる可能性があり、不妊治療や種の保存に役立てられる。一方、ほかのタイプの幹細胞づくりの研究にも役立つ」と 久保田助手。
ビタミン由来成分「鍵」 炎症性腸疾患のT細胞侵入解明
病原体や毒素に感染した細胞を攻撃する血管内のT細胞が炎症性の腸疾患を引き起こすことに関し、T細胞が腸組織に入り込むメカニズムを三菱化学生命科学研究所の岩田誠主任研究員らが突き止めた。
腸組織に入るT細胞の数を抑えることができれば、T細胞が原因とされ
るクローン病などの炎症性腸疾患(国内患者数は10万人程度)がなおせる。
科学は仕事。何を商品とし、扱おうか悩んでいる。
フローランテ
2004年11月14日地球温暖化防止活動推進センターなる組織があるようだ。
〜あなたはいま 〜だったかかなりセンセーショナルな副題がついている。
ここんとこ、うまくアップ・ロードしないが何故だろうか。消えるのである。実に恐怖・
フローランテはAPAの目と鼻の先にある。丁度シーガイヤの前になる。
温暖化に関する展示物は仕事の延長で見て廻ったが
コンサートを無料で聞くことも出来有りがたいものだ。
今の私には総てにわたりそのような環境状況に無い。
よってこころからありがとうと時間もなくソワソワしていた。
メールでお礼のみを考え実行するがこれが又動かない。メールを発送しないのである。
せめて誠意のみでここに記録しておこう。
藤あけみさま
コンサートお疲れ様でした
今ごろは93歳お母様のお誕生日での奄美でしょうか。
4444のキリバンをゲットしましたこともありお便りを書きました
お話にありましたシャイなものですからお声をかけることが出来ませんでした
ライブを無料で聞かしてもらいました
54歳?年さえ忘れましたから無一文でのやり直しを決めたのが昨日。
何かのご啓示だったのかもしれません。
45歳からのスタートのお話に大変勇気を戴きました
ホーム・ページで住所が解りましたのでいずれお会いできることでしょう
お楽しみにしております。
神の声たる美しさは宝物。貴方だけの物ではありません
あちこちにお届けください。
お体に気をつけられ、ご活躍を祈っております。
貴方様の作詞作曲は
え〜と記憶を手繰って書いてみましょうこうでしたかね?
ひとりひとりは
ちからはないが
みんなでよせあえば
おおきなちからになるさ
きみとぼくとのいきてるまち
ゆうひのきれいなまち
よびかければえがおがかえる
そんなまちを
みんなにんげんらしく
そんなおもいをみんなであたためあおう
アメージング・グレイスは丁度わたしの心情でしょう
聞いていて思わず涙ぐんでいました
あなたが語り聞かせてくれました。
確かに恐れていては願いはかなわなく、挑戦である。
だらしない父としてはこうでもある。
周りが育てた子供たち。元気でいてくれさえしたらそれでいい。
他に何を望もう。
皇室の慶事が発表されたが、わが子らはどうしているものやら。
秋野に咲きたる花を指折り かき数ゆれば七種の花。
萩が花 尾花 葛花 撫子の花
女郎花、藤袴 朝貌の花。
山上憶良 万葉集
いにしえの昔に詠まれたこの歌には桔梗の名はない。
朝貌が桔梗の花そのもの。
桔梗の花言葉 清純 そして変わらぬ愛。
いやはや年甲斐も無く、しんみりと致しましたです。はい!
重ねて有り難うございます。
〜あなたはいま 〜だったかかなりセンセーショナルな副題がついている。
ここんとこ、うまくアップ・ロードしないが何故だろうか。消えるのである。実に恐怖・
フローランテはAPAの目と鼻の先にある。丁度シーガイヤの前になる。
温暖化に関する展示物は仕事の延長で見て廻ったが
コンサートを無料で聞くことも出来有りがたいものだ。
今の私には総てにわたりそのような環境状況に無い。
よってこころからありがとうと時間もなくソワソワしていた。
メールでお礼のみを考え実行するがこれが又動かない。メールを発送しないのである。
せめて誠意のみでここに記録しておこう。
藤あけみさま
コンサートお疲れ様でした
今ごろは93歳お母様のお誕生日での奄美でしょうか。
4444のキリバンをゲットしましたこともありお便りを書きました
お話にありましたシャイなものですからお声をかけることが出来ませんでした
ライブを無料で聞かしてもらいました
54歳?年さえ忘れましたから無一文でのやり直しを決めたのが昨日。
何かのご啓示だったのかもしれません。
45歳からのスタートのお話に大変勇気を戴きました
ホーム・ページで住所が解りましたのでいずれお会いできることでしょう
お楽しみにしております。
神の声たる美しさは宝物。貴方だけの物ではありません
あちこちにお届けください。
お体に気をつけられ、ご活躍を祈っております。
貴方様の作詞作曲は
え〜と記憶を手繰って書いてみましょうこうでしたかね?
ひとりひとりは
ちからはないが
みんなでよせあえば
おおきなちからになるさ
きみとぼくとのいきてるまち
ゆうひのきれいなまち
よびかければえがおがかえる
そんなまちを
みんなにんげんらしく
そんなおもいをみんなであたためあおう
アメージング・グレイスは丁度わたしの心情でしょう
聞いていて思わず涙ぐんでいました
あなたが語り聞かせてくれました。
確かに恐れていては願いはかなわなく、挑戦である。
だらしない父としてはこうでもある。
周りが育てた子供たち。元気でいてくれさえしたらそれでいい。
他に何を望もう。
皇室の慶事が発表されたが、わが子らはどうしているものやら。
秋野に咲きたる花を指折り かき数ゆれば七種の花。
萩が花 尾花 葛花 撫子の花
女郎花、藤袴 朝貌の花。
山上憶良 万葉集
いにしえの昔に詠まれたこの歌には桔梗の名はない。
朝貌が桔梗の花そのもの。
桔梗の花言葉 清純 そして変わらぬ愛。
いやはや年甲斐も無く、しんみりと致しましたです。はい!
重ねて有り難うございます。
倭は国のまほろば
2004年11月13日ど〜もこのサ〜・バ〜調子が悪い。書き終えアップ・ロードするとき消えるのである。ここんとこ二度書きが続いている。同じもの書けるはずが無い。
新社屋での家移りを想定しての祝杯をあげる。
5人からの今日の場である。誰もの顔が輝いている。
人格、人権まで否定して利益のみで恐ろしきAPA。
支払いをためては企業ではない。
利用された後の人間は要らない。
物を粗末にするが如くヒトさえも粗末にする
社員が信じられなく苦痛なる出勤で辞めていく。これがいい会社なのか。新しき国の起こりである。
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し美し
伊吹山の神に破れた末に死に際に故郷を偲んで歌った時世としてるのは712年編纂の古事記、
720年の日本書紀ではヤマトタケルの父たる景行天皇の九州征伐中に詠んだとされている。
ヤマトの勢力が関東九州を収めていく4世紀。
卑弥呼の3世紀と雄略天皇たるワカタケルの5世紀のあいだにある世紀で中国の資料に欠ける時代で謎が多いとされる。
古事記表記は倭建命で日本書紀表記は日本武尊。なんか別人みたい。
1945年発行の1000円札を甲千円券と言う。
1945年8月17日に発行された。
実は4年前の12月26日に50万枚5億円分が日銀の倉庫に保管されていたので、できたわけである。
日銀券は31年の満州事件で13億円
日中戦争の37年に23億円
41年に59億円
軍需産業の際限ない資金需要。
軍事的英雄・武人に期待を寄せてヤマトタケルが肖像に選ばれた訳だ。
1887年には7人雄肖像が決められていた。
日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、菅原道真、坂上田村麻呂、和気清麻呂である。
どうやら戦勝の切り札として登場するはずであったとの読みが成立する。
発行翌年46年3月2日短命のうちに廃止さる
イメージ、高額すぎインフレヲ助長するからであった。
実にドラマチックな紙幣である。
まるで、ヤマト・タケルの人生そのもの。
ただし古銭市場では最高値である。美品26万円、未使用48万円。
九電工展示会。合間を見て、休日の市役所発行の書類をそれぞれ取り、
契約をする。賃料20万円。どうなるんであろう。
1890(明治二三)年10月30日、明治天皇は山県首相と芳川文相を宮中に呼んで、教育に関する勅語を下賜してその頒布を命じた。
五輪と五常を骨組みとする。教育勅語である。
五倫 儒教で、人として守るべき五つの道。
君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信をいう。
五常 儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。
仁・義・礼・智・信。
それまでの「尋常小学校」は太平洋戦争が始まる1941年度(昭和十六年)から「国民学校」と名を変えた。、
「皇国民の錬成」という目的の天皇制軍国主義の教育が徹底された。
生徒たちは〈少国民〉と呼ばれ、皇室の民としての自覚と責任をたたきこまれた。
「忠君愛国」に染まった文字通りの軍国少女で、「臣民は八紘一宇の旗の下に尽す」体質が染み付いていた
ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアン・
コウレイ・カイカ・スジン・スイニンという例の歴代天皇名を、誰もが諳んじたわけである。
とくに暗記物を不得手がる現代の若者たちの勉学には利用できるのではなかろうか。
お年寄りに聞いてみるがいい!誰でも総である。
立て板に水の暗唱がその場で証明され驚きのことであろう。
戦前の学校教育の凄さを感ずるにちがいない。
教育勅語にしても同じである。
チンオモーニ、ワガコーソコーソー、クニヲハジムルコト、コーエンニトクヲタツルコト云
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
単純なる反動教育!だけで声えたからかに叫ぶ薄っぺらな平和主義者ではオハズカシイ。明治の時代背景を考え上での教育勅語を考えねば手の込んだ反動教育を防ぐことは出来ない。先哲は言う。
いわゆる開明思想と保守思想の混乱からくる国民道徳の退廃を、伝統保守の立ち場で収拾しようとしたものであった。
こんにちの指針なき教育の現場とはいささか異にしていよう。
この動きはすでに、沖縄の廃藩置県時の1879(明治一二)年の「教学聖旨」の発布、
天皇が公教育方針に関与し始めたとされて以来のことであるが、絶対主義者の山県内閣の成立や、地方長官会議の徳育振興の建議書などによって一層促進された。
そこで天皇の側近であった儒者元田永孚と、帝国憲法起草者の一人でもあった時の法制局長官井上毅が中心になって、成案を得た。
漢字片仮名まじりの文語体で、総字数315、玄奘漢訳般若心経の276字に近い。
内容は、国民道徳ひいては国民教育の淵源は、天皇制の建国以来の忠孝にありとし、ついで14項の徳目を羅列して之を行うことによって天皇制を扶翼(ふよく)するのが、忠良な臣民であるとする。
最後に以上に述べたことは、古今中外に通ずる真理であると結んでいる。
一方でこの国民道徳の基をなすのは、日本固有のものだとの意を含ませて「国教」とも呼んだ。
思想史上、日本の国初にそんな思想があったわけではなく、極力その表現はさけているものの、五倫五常(ごりんごじょう)の類の儒教思想をかりてきたものである。
すなわち教育勅語はその根底に於て、儒教思想によって天皇制の強化をはかったものと考えられる。
後に伊藤第二・三次内閣の時、フランスのソルボンヌ大学の卒業生で自由主義者であった西園寺公望が文相になって、
「この勅語には文明国の通議となっている自由尊重については何も語られていないから、これを改訂補足する意味で、新勅語の制定」を願い出た。
天皇の内諾をえていたが、内閣の崩壊でだめになった、との逸話が本村毅の『明治天皇』に紹介されている。
とにかく、この儒教主義の教育勅語が、これから約半世紀にわたって、日本の教育ひいては国民の道徳観の上に君臨したのである。
ちなみに文部省によって、この勅語の廃止が通達されたのは終戦の翌年1946(昭和二一)年10月、
また衆参両院で、教育勅語を含む勅語類の失効確認・排除に関する決議案が可決されたのが1948(昭和二三)年六月で、教育勅語発布以来五八年後のことであった。
爾来56年、個の国は何処に行くのか。
わたしは何処に行くのか。
日記の皆さんもおられるのでさ〜あ、やりぬかねばならぬ。
樋口一葉、新渡戸稲造を今日まで一度も観たことも無い。
いずれ多くのご来訪をお願いするのみ。
2,14,26日と酉が3回もある、ゲンのいい月の出発。
商売繁盛ささもってこい!
時間、挨拶、綺麗にする会社の基本としたい。
社名?あれ?ド〜シヨ〜
新社屋での家移りを想定しての祝杯をあげる。
5人からの今日の場である。誰もの顔が輝いている。
人格、人権まで否定して利益のみで恐ろしきAPA。
支払いをためては企業ではない。
利用された後の人間は要らない。
物を粗末にするが如くヒトさえも粗末にする
社員が信じられなく苦痛なる出勤で辞めていく。これがいい会社なのか。新しき国の起こりである。
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し美し
伊吹山の神に破れた末に死に際に故郷を偲んで歌った時世としてるのは712年編纂の古事記、
720年の日本書紀ではヤマトタケルの父たる景行天皇の九州征伐中に詠んだとされている。
ヤマトの勢力が関東九州を収めていく4世紀。
卑弥呼の3世紀と雄略天皇たるワカタケルの5世紀のあいだにある世紀で中国の資料に欠ける時代で謎が多いとされる。
古事記表記は倭建命で日本書紀表記は日本武尊。なんか別人みたい。
1945年発行の1000円札を甲千円券と言う。
1945年8月17日に発行された。
実は4年前の12月26日に50万枚5億円分が日銀の倉庫に保管されていたので、できたわけである。
日銀券は31年の満州事件で13億円
日中戦争の37年に23億円
41年に59億円
軍需産業の際限ない資金需要。
軍事的英雄・武人に期待を寄せてヤマトタケルが肖像に選ばれた訳だ。
1887年には7人雄肖像が決められていた。
日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、菅原道真、坂上田村麻呂、和気清麻呂である。
どうやら戦勝の切り札として登場するはずであったとの読みが成立する。
発行翌年46年3月2日短命のうちに廃止さる
イメージ、高額すぎインフレヲ助長するからであった。
実にドラマチックな紙幣である。
まるで、ヤマト・タケルの人生そのもの。
ただし古銭市場では最高値である。美品26万円、未使用48万円。
九電工展示会。合間を見て、休日の市役所発行の書類をそれぞれ取り、
契約をする。賃料20万円。どうなるんであろう。
1890(明治二三)年10月30日、明治天皇は山県首相と芳川文相を宮中に呼んで、教育に関する勅語を下賜してその頒布を命じた。
五輪と五常を骨組みとする。教育勅語である。
五倫 儒教で、人として守るべき五つの道。
君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信をいう。
五常 儒教で、人の常に守るべき五つの道徳。
仁・義・礼・智・信。
それまでの「尋常小学校」は太平洋戦争が始まる1941年度(昭和十六年)から「国民学校」と名を変えた。、
「皇国民の錬成」という目的の天皇制軍国主義の教育が徹底された。
生徒たちは〈少国民〉と呼ばれ、皇室の民としての自覚と責任をたたきこまれた。
「忠君愛国」に染まった文字通りの軍国少女で、「臣民は八紘一宇の旗の下に尽す」体質が染み付いていた
ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアン・
コウレイ・カイカ・スジン・スイニンという例の歴代天皇名を、誰もが諳んじたわけである。
とくに暗記物を不得手がる現代の若者たちの勉学には利用できるのではなかろうか。
お年寄りに聞いてみるがいい!誰でも総である。
立て板に水の暗唱がその場で証明され驚きのことであろう。
戦前の学校教育の凄さを感ずるにちがいない。
教育勅語にしても同じである。
チンオモーニ、ワガコーソコーソー、クニヲハジムルコト、コーエンニトクヲタツルコト云
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己ヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
単純なる反動教育!だけで声えたからかに叫ぶ薄っぺらな平和主義者ではオハズカシイ。明治の時代背景を考え上での教育勅語を考えねば手の込んだ反動教育を防ぐことは出来ない。先哲は言う。
いわゆる開明思想と保守思想の混乱からくる国民道徳の退廃を、伝統保守の立ち場で収拾しようとしたものであった。
こんにちの指針なき教育の現場とはいささか異にしていよう。
この動きはすでに、沖縄の廃藩置県時の1879(明治一二)年の「教学聖旨」の発布、
天皇が公教育方針に関与し始めたとされて以来のことであるが、絶対主義者の山県内閣の成立や、地方長官会議の徳育振興の建議書などによって一層促進された。
そこで天皇の側近であった儒者元田永孚と、帝国憲法起草者の一人でもあった時の法制局長官井上毅が中心になって、成案を得た。
漢字片仮名まじりの文語体で、総字数315、玄奘漢訳般若心経の276字に近い。
内容は、国民道徳ひいては国民教育の淵源は、天皇制の建国以来の忠孝にありとし、ついで14項の徳目を羅列して之を行うことによって天皇制を扶翼(ふよく)するのが、忠良な臣民であるとする。
最後に以上に述べたことは、古今中外に通ずる真理であると結んでいる。
一方でこの国民道徳の基をなすのは、日本固有のものだとの意を含ませて「国教」とも呼んだ。
思想史上、日本の国初にそんな思想があったわけではなく、極力その表現はさけているものの、五倫五常(ごりんごじょう)の類の儒教思想をかりてきたものである。
すなわち教育勅語はその根底に於て、儒教思想によって天皇制の強化をはかったものと考えられる。
後に伊藤第二・三次内閣の時、フランスのソルボンヌ大学の卒業生で自由主義者であった西園寺公望が文相になって、
「この勅語には文明国の通議となっている自由尊重については何も語られていないから、これを改訂補足する意味で、新勅語の制定」を願い出た。
天皇の内諾をえていたが、内閣の崩壊でだめになった、との逸話が本村毅の『明治天皇』に紹介されている。
とにかく、この儒教主義の教育勅語が、これから約半世紀にわたって、日本の教育ひいては国民の道徳観の上に君臨したのである。
ちなみに文部省によって、この勅語の廃止が通達されたのは終戦の翌年1946(昭和二一)年10月、
また衆参両院で、教育勅語を含む勅語類の失効確認・排除に関する決議案が可決されたのが1948(昭和二三)年六月で、教育勅語発布以来五八年後のことであった。
爾来56年、個の国は何処に行くのか。
わたしは何処に行くのか。
日記の皆さんもおられるのでさ〜あ、やりぬかねばならぬ。
樋口一葉、新渡戸稲造を今日まで一度も観たことも無い。
いずれ多くのご来訪をお願いするのみ。
2,14,26日と酉が3回もある、ゲンのいい月の出発。
商売繁盛ささもってこい!
時間、挨拶、綺麗にする会社の基本としたい。
社名?あれ?ド〜シヨ〜
飫肥で改革を考える。
2004年11月12日飫肥街道を高まる気持ちを抑えて小玉発電所の開所式たる連携立会いの13.30分着をめざしで走る。
それ以前、アップ・ロードに失敗して書いていたのがすべて消えたので、読む楽しみのみで怒りをおさえていた。
長塚節の晩年の飫肥を詠んだゆかりを調べたのに消えてない!
二回も書く気力も無いし次回としよう。
どうしようもないこのサーバーホント!困ります。
そうか。日記の過去形は間に合わない時があるんだ〜。11.11を調べて掲げたが結果的には一日遅れになるんだ!。幸せ提供は早め、はやめの方がより効果があるようだ。
yukio さんスタイルがいいのかもしれない。今日は何処をお勉強しよう〜かなァ〜ってェ感じである。
ついに家賃20万円で契約書を交わしてスタートを切ることにした。
拍手!はくしゅ・・北原白秋・・
おめでとうサン!・おとうサン・・・サンさん電気のサンデン!さん!
太陽光発電の営業会社・・社名??どうしよう・・え〜〜エ〜〜サンデン・・・でなく・・APA電・・アパデン
何でもいいジャン!APAだって誰も知らない中から、大きくした。芸人やお相撲さんと同じである。
それが、今では九電指定を戴き。県下九電工のすべての太陽光発電を施行してるし、三菱電機パネルは総て施行してる。
セキスイ・ハウス、コロナ、延岡の年間60件の施行実績の方の施行を受け持つ大きな物となった。
これでいい。これにあった業者としてのAPAに、ならねばならぬのに太陽光発電の販売の仕方を知らぬバカ社長には畑の中の小屋からの脱却方針は無い。
イヤリングしたお嬢様方がコンナトコへ務めるか!バカッタレ!
営業の基本は女性!この方々の力なくして夜も昼も空けぬは日ノ本・日本の習いではないか。
どう営業部隊に組み入れていくのか。問題は明白になる。
この小屋の中からの営業ではダメ!である。
資金を明確にして経営しなければいけません!
藩政経営に貢献したオビスギの自然似合わせた豊な生活。
野中金右衛門その人に辿り着くことになる。
県道日南高岡線沿いにある野中金右衛門の記念碑。
大戸野地区に飫肥杉峠展望台が設置された。
約千haの飫肥杉の人工林を一望できることから展望台を設置されたもの。
天正15年、伊東祐兵報思公飫肥に居城するや其の財政的窮之を救い,藩政の充実を図るため藩の地理的条件を加味して,実施された林業政策が飫肥杉を誕生させた。
藩領を無償で植林を希望する者に貸し与え植林を奨励し,杉の生長後は「二部一山」制という,
五官五民制度(伐採時の収入を半々にする制度)により財政収入を計った。
太陽光販売の営業手数料そのものである。
幾多の変遷を経て二官八民制度が作られ,杉方・野中金右衛門等の情熱と努力により,林業政策を成功させ13代270年間の藩政を潤した飫肥杉のすばらしき林相
温暖温潤の気候と肥沃な土地との好条件に恵まれているとはいえ,部分林業制度によるたゆまざる造林の努力がなければ恐らく相見ゆることができなかったと思われる。
飫肥の街をめぐる男鈴山(783m)・小松山(989m)・乱杭野(612m)、いずれも千m未満だが形の良い山。
飫肥杉というのは江戸時代に改良された杉材で、油分が多く特に木造船用に重宝されたもの。
江戸時代の藩財政を支え、つい近年まで地域経済の柱であった。
造船用材としての需要がほとんどなくなり建築用材としても他の国内林業地域と同様に不況にあえいでいる。
広葉樹林(照葉樹林)をつぶし、最近は花粉病の現況とも言われる杉の美林はこれからどうなるのか。
この自然環境ゆえの宮崎人が企業を追求しないわけに温和で競争心を欠くととなる。
東は太平洋に面し、三方を山に囲まれ、名のとおりの、日向国で、日に向かい日を受ける明るい県である。
黒潮はそのはるか東南沖を流れ、日南海岸には亜熱帯樹が茂って、“光の国”太陽光発電の国と呼ぶにふさわしい。
その県民気質から生産が低く、経済的には後進県である。
江戸時代分割統治された日向の諸藩は貧困であり、農民もまた窮乏して、一揆が多かったことは有名てある。
いまでも県民性に積極性が欠ける気風や粘り強い根性が薄く、弱気でがめつさがないという気質がある。
これは反面、質朴、善良、正直で忍耐力があり、人に警戒されないよさを生んだが、残念なことに文化が低く、経済はむろんのことすべての分野において後進的であることをまぬがれない。
社長以外は総て地元であるAPAそのものである。
社長一人に畏怖してものを言わず考えない。経営の危機なんか、ひとごと。
自分で改善案を考えるどころかやろうとしない。
私がやらぬで誰がやる。
誰一人意見を言わず愚痴ばかり。
肩を張って社長と争うようなことには微塵も無く、温和で誠実な心の持ち主の集まり。のAPAである。
宮崎県人が経営者としてより、従順な使用人として好まれるのもこの点からだろう。
しかし、美点は往々にして欠点になる。
激しい情熱に乏しく、のんびりムードで、弱気、温和で競争心が少ないということは、他人の下積みになり、立ち遅れる危険をもっている。
分裂質やてんかん質が少なく、躁欝質が非常に多いことは、成功者や偉人を生まない原因になっている。
この県の保守性は、古い文化財や習俗を守ってはきたが、同時に開発を遅らせてしまったのである。
日本一の長寿村は神奈川県二宮だが、ここはその次ぐらいの長命な県である。
宮崎県と鹿児島県で本家争いをしている高千穂伝説。とにかくここは、天孫降臨神話を現実の史実と信じて生きている人々の住むところなのである。
延岡で栄えた日向第一の豪商小田家の経営を、披瀝されてる日記があった。
小田家は延岡の牧野家や内藤家と結んで、今日でいう合名会社を最初に設立した。
その功績を認められて士分にとりたてられ、延岡郊外の須恕江村を知行地として与えられると、農民に助力米を与えて開墾につとめ、農地改良や植林を積極的に行なって、貧しい村をりっぱに立ち直らせた。
こんな合理性や近代性が、一見保守的でのんびりムードの県民性の中にひそんていることを、けっして見逃してはならない。
公害の危険が非常に高い内海沿岸ばかりを工業化し、宮崎県のように外洋に面しているところに工業が発達しないのはふしぎである。
宮崎は古事記、日本書紀の記紀の神話の国
人材を輩出した飫肥の振徳堂の、丘の上に田ノ上八幡神社がある。
田ノ上八幡神社は豊玉姫と応神天皇を祀lている。
豊玉姫は彦火火出見命(山幸彦)の妻となった姫で、神武天皇の祖母にあたる。
この神社には、股の間をくぐると無病息災で過ごせるという言い伝えの「弥五郎人形」が伝わっている
他に鹿児島県大隅町の岩川八幡神社と北諸県郡山之口町の円野神社にあるり兄弟であるという。720年隼人の乱の伝えともいう。
神社へと向かう参道の石段の途中、右手に大きなクスノキがある。
市の天然記念物で、樹高30メートル、樹齢は推定で450年ほどという堂々とした巨樹である。
初代藩主祐兵が植樹したクスノキで城名に使われている。
APAの改革をココあたりから始めたい。
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拍手!はくしゅ・・北原白秋・・
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それが、今では九電指定を戴き。県下九電工のすべての太陽光発電を施行してるし、三菱電機パネルは総て施行してる。
セキスイ・ハウス、コロナ、延岡の年間60件の施行実績の方の施行を受け持つ大きな物となった。
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大戸野地区に飫肥杉峠展望台が設置された。
約千haの飫肥杉の人工林を一望できることから展望台を設置されたもの。
天正15年、伊東祐兵報思公飫肥に居城するや其の財政的窮之を救い,藩政の充実を図るため藩の地理的条件を加味して,実施された林業政策が飫肥杉を誕生させた。
藩領を無償で植林を希望する者に貸し与え植林を奨励し,杉の生長後は「二部一山」制という,
五官五民制度(伐採時の収入を半々にする制度)により財政収入を計った。
太陽光販売の営業手数料そのものである。
幾多の変遷を経て二官八民制度が作られ,杉方・野中金右衛門等の情熱と努力により,林業政策を成功させ13代270年間の藩政を潤した飫肥杉のすばらしき林相
温暖温潤の気候と肥沃な土地との好条件に恵まれているとはいえ,部分林業制度によるたゆまざる造林の努力がなければ恐らく相見ゆることができなかったと思われる。
飫肥の街をめぐる男鈴山(783m)・小松山(989m)・乱杭野(612m)、いずれも千m未満だが形の良い山。
飫肥杉というのは江戸時代に改良された杉材で、油分が多く特に木造船用に重宝されたもの。
江戸時代の藩財政を支え、つい近年まで地域経済の柱であった。
造船用材としての需要がほとんどなくなり建築用材としても他の国内林業地域と同様に不況にあえいでいる。
広葉樹林(照葉樹林)をつぶし、最近は花粉病の現況とも言われる杉の美林はこれからどうなるのか。
この自然環境ゆえの宮崎人が企業を追求しないわけに温和で競争心を欠くととなる。
東は太平洋に面し、三方を山に囲まれ、名のとおりの、日向国で、日に向かい日を受ける明るい県である。
黒潮はそのはるか東南沖を流れ、日南海岸には亜熱帯樹が茂って、“光の国”太陽光発電の国と呼ぶにふさわしい。
その県民気質から生産が低く、経済的には後進県である。
江戸時代分割統治された日向の諸藩は貧困であり、農民もまた窮乏して、一揆が多かったことは有名てある。
いまでも県民性に積極性が欠ける気風や粘り強い根性が薄く、弱気でがめつさがないという気質がある。
これは反面、質朴、善良、正直で忍耐力があり、人に警戒されないよさを生んだが、残念なことに文化が低く、経済はむろんのことすべての分野において後進的であることをまぬがれない。
社長以外は総て地元であるAPAそのものである。
社長一人に畏怖してものを言わず考えない。経営の危機なんか、ひとごと。
自分で改善案を考えるどころかやろうとしない。
私がやらぬで誰がやる。
誰一人意見を言わず愚痴ばかり。
肩を張って社長と争うようなことには微塵も無く、温和で誠実な心の持ち主の集まり。のAPAである。
宮崎県人が経営者としてより、従順な使用人として好まれるのもこの点からだろう。
しかし、美点は往々にして欠点になる。
激しい情熱に乏しく、のんびりムードで、弱気、温和で競争心が少ないということは、他人の下積みになり、立ち遅れる危険をもっている。
分裂質やてんかん質が少なく、躁欝質が非常に多いことは、成功者や偉人を生まない原因になっている。
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宮崎県と鹿児島県で本家争いをしている高千穂伝説。とにかくここは、天孫降臨神話を現実の史実と信じて生きている人々の住むところなのである。
延岡で栄えた日向第一の豪商小田家の経営を、披瀝されてる日記があった。
小田家は延岡の牧野家や内藤家と結んで、今日でいう合名会社を最初に設立した。
その功績を認められて士分にとりたてられ、延岡郊外の須恕江村を知行地として与えられると、農民に助力米を与えて開墾につとめ、農地改良や植林を積極的に行なって、貧しい村をりっぱに立ち直らせた。
こんな合理性や近代性が、一見保守的でのんびりムードの県民性の中にひそんていることを、けっして見逃してはならない。
公害の危険が非常に高い内海沿岸ばかりを工業化し、宮崎県のように外洋に面しているところに工業が発達しないのはふしぎである。
宮崎は古事記、日本書紀の記紀の神話の国
人材を輩出した飫肥の振徳堂の、丘の上に田ノ上八幡神社がある。
田ノ上八幡神社は豊玉姫と応神天皇を祀lている。
豊玉姫は彦火火出見命(山幸彦)の妻となった姫で、神武天皇の祖母にあたる。
この神社には、股の間をくぐると無病息災で過ごせるという言い伝えの「弥五郎人形」が伝わっている
他に鹿児島県大隅町の岩川八幡神社と北諸県郡山之口町の円野神社にあるり兄弟であるという。720年隼人の乱の伝えともいう。
神社へと向かう参道の石段の途中、右手に大きなクスノキがある。
市の天然記念物で、樹高30メートル、樹齢は推定で450年ほどという堂々とした巨樹である。
初代藩主祐兵が植樹したクスノキで城名に使われている。
APAの改革をココあたりから始めたい。
クーデター前夜
2004年11月11日11月11日になると言うのに稲光り、落雷のシーガイヤはバケツをひっくりかえしたような大雨の10時過ぎ。
昨日の10時過ぎもおなじであった。今日の延岡の中西邸のエコキュートを霧島町の日豊運輸に取りにいった。
矢の先交差点はトラックなのに冠水で動けない状況。弓削、児玉と私は大喜び。
「ウナギ、鯰!」と魚の泳いでる情況を呈してる。真夏の状態!これでいいの!7日は立冬であったのにである。
大雨のなか7時に延岡に向かった。8時30分頃には青空。
9時過ぎ延岡から帰ってきた。
中○さん川○さんが早朝乱入状態。専務に向かって吼える私。
東京からの200万の入金を140万円預かり、専務立会いで渡す。
同じジョイフルではお客さんと日向のお医者さん宅の明日の打ち合わせ。掛け持ちである。
専務が家屋を借ろうとしない。大先輩、図面書きと仲間を呼び出し
状況の説明と展望を語る。
20万円の家賃は厳しいがやるしかない。
夜グループ他社の情報。
若者の定着が悪い!改善が必要である。
造反有利!は中国文化大革命!
時期は熟している。
深夜2時過ぎ20度をこす状態の室温。異常!ちょういじょう
歳時記なんかあったもんじゃ!ない!
夏ジャン!
11月11日はオジサン族にはイレブンPMの日
歳時記からの転写
世界平和記念日
第一次世界大戦の終戦記念日。アメリカでは在郷軍人デーで式典に軍帽をかぶって出席し、イギリスではポピー・デーといって教会で礼拝をする。
ピーナッツの日
全国落花生協会がもっとピーナッツを多く消費してもらおうと1985年(昭和60年)に制定した。ピーナッツの新豆が出回る時期であり、落
花生の中に2粒の豆が入っているので11が重なる日に決定。
靴下の日
1993年(平成5年)に日本靴下協会が、一年に一度だけペアとペアが重なる日ということで制定。
鮭の日
新潟県村上市が鮭のまちをPRするために制定。「鮭」の字のつくりが「十」「一」を重ねたカタチであることから。
電池の日
日本乾電池工業会が電池に対する知識と理解を深め、正しく使ってもらうことを目的に1987年(昭和62年)に制定した日。電池の正極+と
負極−を合わせて十一月十一日を記念日とした。
配線器具の日
日本配線器具工業会が1999(平成11)年11月11日に制定。 コンセントの差込口の形状を「1111」に見立て、また、「秋の火災予防週間」の
期間中であることから。安心・安全・快適な暮らしの為に分電盤や配線器具を定期的にチェックしてもらう為に制定された。
もやしの日
「1111」がもやしを4本並べたように見えることから。
煙突の日
「1111」が煙突が4本立っているように見えることから。
きりたんぽの日
秋田県鹿角市の「かづのきりたんぽ倶楽部」が制定。 きりたんぽを囲炉裏に立てて焼いている様子が「1111」に見えることから。
磁気の日
磁気治療器「ピップエレキバン」のピップフジモトが1992(平成4)年に制定。 磁石のN極(+)とS極(-)を「十一」にみたてて。
おりがみの日
日本折紙協会が制定。 世界平和記念日であることと、1を4つ組み合わせると折紙の形・正方形になることから。
ジュエリーデー
1909年(明治42年)の今日、宝石の国際重量単位として「カラット」が採用されたのを記念して宝石業者、宝石商などが制定した日。
ポッキー&プリッツの日
食品メーカーの江崎グリコが1999(平成11)年に制定。 同社の製品ポッキーやプリッツを6つ並べると111111に見えることから。
サッカーの日
サッカーは11対11人で対戦するスポーツで有ることから、日付をこれに見立てたもの。スポーツ用品会社エスポートミズノ制定。
めんの日
数字の1が並ぶ日付が、細く長い麺を連想させるとして、1999年に全国製麺協同組合連合会が制定。
いやはや凄いものですね。
サッカーにめんの日・・喜んでるの誰だ?
雨
雨がふっている
いろいろなものをぬらしてゆくらしい
こうしてうつむいてたっていると
雨というものがめのまえへあらわれて
おまえはそう悪るいものではないといってくれそうなきがしてくる
八木重吉
秋の日
陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形の 筏は とほる
野原は 向ふで 伏せって いるが
連れだつ 友の お道化た 調子も
不思議に 空気に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
中原中也
忍耐の勇気、
寛容の勇気、
労働勤勉の勇気、
是れ皆平和的の勇気である、
他物の妨害に遭うて 怒て直ちに之れをさし または之れに 噛み附く者は蝮である、狂犬である
「悪に敵するなかれ」とは言論を以て、
道理に訴えて悪たるを 示すことを禁じたのではない、
悪の身に臨む時に 親切且つ静なる言葉を以て 悪の悪たるゆえんを述ぶるのは 悪事ではない 義務である
悪を迎え 降参しないことである
悪を遇するに 智恵を以てすることである。
「鳩の如く柔和にして蛇の如くかしこくあれ」
内村鑑三
あなたがたを迫害する者の上に祝福を願いなさい。
祝福を願うのであって、のろいを求めてはなりません。
自分は賢い者だとうぬぼれてはなりません。
(ロ−マ書12−17)
あなたがたの力の及ぶ限り、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する皆さん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
(ロ−マ書12−18)
主は言われる。
「復讐は わたしのすること、
わたしが仕返しをする」
(ロ−マ書12−19)
「敵が飢えているなら 食べさせよ、
渇いているなら飲ませよ。
そのようにすることで、
あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」
悪に負けてはいけません。
むしろ善をもって 悪に勝ちなさい。
(ロ−マ書12−20)
私の生涯の実験であります、
私は或る人達の 激烈なる攻撃に遭いました、
其時友人の勧告に従いまして、
私は我慢して 無抵抗主義をとりました結果、
私は大に心に平和を得、
攻撃により、
差したる損害を被る事無く、
それと同時に多くの新しい友人の起こり来りて
私を助け呉るのを実験しました。
内村鑑三
私は其時に争闘のいかに愚にして、
いかに醜きものであるか浸々と実験しました、
私は確かに信じて疑いません、
私がもし其時に 怨に報い、
暴を以て暴に応じましたならば、
多少の愉快を感じましたらふが、
私の事業は全く廃れ、
今の私は最も憐れな者であたらふと思います。
平和は戦争に由りて来らざるべし、
平和は平和より来る、
内村鑑三
平和はいかなる平和であれ、
紙の上の平和であれ、
戦略上の平和であれ、
平和は実に貴いものであります
内村鑑三
たかぶりは滅亡に先だち 誇る心はたふれに先だつ
(しん言16−18)
謙遜(へりくだ)る者は起る
内村鑑三
エホバは又罪すべき者をば 必ず赦すことを為さず
(エジプト34−7)
愛を以て汝の敵に勝ち 恩恵を以てふんぬ怒を癒し、
野に春色の臨みしと 同時に世に 温情の春を来らしめよ。
内村鑑三
どの言葉もピタリ!造反!悪いことはするもんじゃァ〜ない!…
昨日の10時過ぎもおなじであった。今日の延岡の中西邸のエコキュートを霧島町の日豊運輸に取りにいった。
矢の先交差点はトラックなのに冠水で動けない状況。弓削、児玉と私は大喜び。
「ウナギ、鯰!」と魚の泳いでる情況を呈してる。真夏の状態!これでいいの!7日は立冬であったのにである。
大雨のなか7時に延岡に向かった。8時30分頃には青空。
9時過ぎ延岡から帰ってきた。
中○さん川○さんが早朝乱入状態。専務に向かって吼える私。
東京からの200万の入金を140万円預かり、専務立会いで渡す。
同じジョイフルではお客さんと日向のお医者さん宅の明日の打ち合わせ。掛け持ちである。
専務が家屋を借ろうとしない。大先輩、図面書きと仲間を呼び出し
状況の説明と展望を語る。
20万円の家賃は厳しいがやるしかない。
夜グループ他社の情報。
若者の定着が悪い!改善が必要である。
造反有利!は中国文化大革命!
時期は熟している。
深夜2時過ぎ20度をこす状態の室温。異常!ちょういじょう
歳時記なんかあったもんじゃ!ない!
夏ジャン!
11月11日はオジサン族にはイレブンPMの日
歳時記からの転写
世界平和記念日
第一次世界大戦の終戦記念日。アメリカでは在郷軍人デーで式典に軍帽をかぶって出席し、イギリスではポピー・デーといって教会で礼拝をする。
ピーナッツの日
全国落花生協会がもっとピーナッツを多く消費してもらおうと1985年(昭和60年)に制定した。ピーナッツの新豆が出回る時期であり、落
花生の中に2粒の豆が入っているので11が重なる日に決定。
靴下の日
1993年(平成5年)に日本靴下協会が、一年に一度だけペアとペアが重なる日ということで制定。
鮭の日
新潟県村上市が鮭のまちをPRするために制定。「鮭」の字のつくりが「十」「一」を重ねたカタチであることから。
電池の日
日本乾電池工業会が電池に対する知識と理解を深め、正しく使ってもらうことを目的に1987年(昭和62年)に制定した日。電池の正極+と
負極−を合わせて十一月十一日を記念日とした。
配線器具の日
日本配線器具工業会が1999(平成11)年11月11日に制定。 コンセントの差込口の形状を「1111」に見立て、また、「秋の火災予防週間」の
期間中であることから。安心・安全・快適な暮らしの為に分電盤や配線器具を定期的にチェックしてもらう為に制定された。
もやしの日
「1111」がもやしを4本並べたように見えることから。
煙突の日
「1111」が煙突が4本立っているように見えることから。
きりたんぽの日
秋田県鹿角市の「かづのきりたんぽ倶楽部」が制定。 きりたんぽを囲炉裏に立てて焼いている様子が「1111」に見えることから。
磁気の日
磁気治療器「ピップエレキバン」のピップフジモトが1992(平成4)年に制定。 磁石のN極(+)とS極(-)を「十一」にみたてて。
おりがみの日
日本折紙協会が制定。 世界平和記念日であることと、1を4つ組み合わせると折紙の形・正方形になることから。
ジュエリーデー
1909年(明治42年)の今日、宝石の国際重量単位として「カラット」が採用されたのを記念して宝石業者、宝石商などが制定した日。
ポッキー&プリッツの日
食品メーカーの江崎グリコが1999(平成11)年に制定。 同社の製品ポッキーやプリッツを6つ並べると111111に見えることから。
サッカーの日
サッカーは11対11人で対戦するスポーツで有ることから、日付をこれに見立てたもの。スポーツ用品会社エスポートミズノ制定。
めんの日
数字の1が並ぶ日付が、細く長い麺を連想させるとして、1999年に全国製麺協同組合連合会が制定。
いやはや凄いものですね。
サッカーにめんの日・・喜んでるの誰だ?
雨
雨がふっている
いろいろなものをぬらしてゆくらしい
こうしてうつむいてたっていると
雨というものがめのまえへあらわれて
おまえはそう悪るいものではないといってくれそうなきがしてくる
八木重吉
秋の日
陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形の 筏は とほる
野原は 向ふで 伏せって いるが
連れだつ 友の お道化た 調子も
不思議に 空気に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで
中原中也
忍耐の勇気、
寛容の勇気、
労働勤勉の勇気、
是れ皆平和的の勇気である、
他物の妨害に遭うて 怒て直ちに之れをさし または之れに 噛み附く者は蝮である、狂犬である
「悪に敵するなかれ」とは言論を以て、
道理に訴えて悪たるを 示すことを禁じたのではない、
悪の身に臨む時に 親切且つ静なる言葉を以て 悪の悪たるゆえんを述ぶるのは 悪事ではない 義務である
悪を迎え 降参しないことである
悪を遇するに 智恵を以てすることである。
「鳩の如く柔和にして蛇の如くかしこくあれ」
内村鑑三
あなたがたを迫害する者の上に祝福を願いなさい。
祝福を願うのであって、のろいを求めてはなりません。
自分は賢い者だとうぬぼれてはなりません。
(ロ−マ書12−17)
あなたがたの力の及ぶ限り、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する皆さん、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
(ロ−マ書12−18)
主は言われる。
「復讐は わたしのすること、
わたしが仕返しをする」
(ロ−マ書12−19)
「敵が飢えているなら 食べさせよ、
渇いているなら飲ませよ。
そのようにすることで、
あなたは敵の頭に燃える炭火を積むからである」
悪に負けてはいけません。
むしろ善をもって 悪に勝ちなさい。
(ロ−マ書12−20)
私の生涯の実験であります、
私は或る人達の 激烈なる攻撃に遭いました、
其時友人の勧告に従いまして、
私は我慢して 無抵抗主義をとりました結果、
私は大に心に平和を得、
攻撃により、
差したる損害を被る事無く、
それと同時に多くの新しい友人の起こり来りて
私を助け呉るのを実験しました。
内村鑑三
私は其時に争闘のいかに愚にして、
いかに醜きものであるか浸々と実験しました、
私は確かに信じて疑いません、
私がもし其時に 怨に報い、
暴を以て暴に応じましたならば、
多少の愉快を感じましたらふが、
私の事業は全く廃れ、
今の私は最も憐れな者であたらふと思います。
平和は戦争に由りて来らざるべし、
平和は平和より来る、
内村鑑三
平和はいかなる平和であれ、
紙の上の平和であれ、
戦略上の平和であれ、
平和は実に貴いものであります
内村鑑三
たかぶりは滅亡に先だち 誇る心はたふれに先だつ
(しん言16−18)
謙遜(へりくだ)る者は起る
内村鑑三
エホバは又罪すべき者をば 必ず赦すことを為さず
(エジプト34−7)
愛を以て汝の敵に勝ち 恩恵を以てふんぬ怒を癒し、
野に春色の臨みしと 同時に世に 温情の春を来らしめよ。
内村鑑三
どの言葉もピタリ!造反!悪いことはするもんじゃァ〜ない!…
紅葉狩り
2004年11月10日国家百年の大計は教育に限る。人材の育成である。
あの不思議の国のインドが不満を解消し存続するのもIT技術者供給国で世界NO1であるゆえであろう。
ガンジスに死体が流れ行くのと礼拝の禊を朝夕にしてるのが共存する光景、飲料水としての泗水として使うことが同居できるのであろう。
あの肝要さでの運営なら何もかも上手くいくであろう。
わが専務の茫洋さに似通っている。育ちである。しっかりとした生き抜く哲学である。
本人と話しても何処で勉強・修行したのかおくびにも出さないが、ナチュラルのようで、どうも天分のようである。
暮らしから身についた人柄人の良さは修行して身につくものではない。環境・育ちが意識を生き様を決定付けるようでヘーゲル哲学の存在が意識を決定付ける学術的見本がここに存在してる。是非APAまでご覧になりにきて頂きたい。
柳田国男が遠野物語を書き、言葉の断層を富山に求めた如く存在してるのである。
明治以来営々と気づきあげた国民・民族の財産を太平洋戦争で一夜の内に打ち砕かれた国家運営の薄っぺらな指導者を作り出す教育ではない物をである。
統一国家と万機公論に決すべしたる国家目標。
総ての組織運営に適用されるべき規範であろう。実に明治の骨組みは万事理にかなっている。
音楽教育一つとってもそうである。
鳥取県から排出してる童謡の作曲家の綺羅星の如きである。
岡野貞一は鳥取市古市の出。明治11年〜昭和16年代表作ふるさと、朧月夜、春がきた、桃太郎
田村虎蔵は岩美郡岩美町、明治6年〜昭和18年 金太郎、花咲じじい、一寸法師、浦島太郎
永井幸次は鳥取市西町、明治7年〜昭和40年 夕焼け、かみなり
宮崎市・蓮ヶ池史跡公園にしばしの休息。高岡、日南と支払の請求で電話も充電切れの状態で大先輩と逃亡状況。新聞は次のように書いた。
♪秋の夕日に〜照る山もみ〜じ、の歌が少し早きの感のいろはもみじ。
「紅葉」と呼ぶのは、広葉樹の葉が秋に赤や黄色に変色する現象を広くいうわけだ。万葉集では「黄葉」と書いた。
古典文学の植物に詳しい歌人、中根三枝子さんは
「万葉集のころまではハギなど黄色く色づくものが注目され、その後赤い葉の美しさが称賛されるという好みの変化があり、『紅葉』になったようだ。
漢詩でも初唐(618〜712)ごろまで黄葉が一般的で、その後紅葉になっており、漢詩の影響もあったと思う」
と話す。
紅葉する代表的な植物がモミジであることから、紅葉と書いてモミジとも読む。
ちなみにモミジとカエデは植物学上は同じもの。カエデは漢字では「楓」と書くが、実は“誤訳”だ。
中国の「楓(ふう)」は黄色や赤に変色するが、カエデ科ではなくマンサク科。
モミジは、左右対称に小枝が出るものが多いが、フウでは左右互い違いに小枝が出る。
高貴な木として漢詩に頻繁に登場する「楓」を、日本のカエデに当てはめたと見られている。
春の桜、秋の紅葉は対として歌われることが多い。
中根さんによると、百人一首では桜(花)と紅葉はきっちり6首ずつ。
桜は「咲く花」3首と「散る花」3首、
紅葉は「山の紅葉」3首と「川の紅葉」3首。
山と川の紅葉は、千年も前から日本人の心象風景だったのだ。
「紅葉」は、長野県出身の高野が帰省の折、今は廃線となった信越線の熊ノ平駅近くで見た景色がきっかけになって誕生した。
1番は山の紅葉を、2番は川の流れに浮く紅葉を歌う見事な曲。実はこの歌には、和歌の伝統がしっかりと息づいている。
ひとえに高野辰之の勉学のたわもの。
1911(明治44)年につくられた文部省唱歌「紅葉」。
作詞は長野の人高野辰之、作曲は鳥取の人。岡野貞一。
「うさぎ追いし〜」で始まる「故郷」、
「菜の花畠に〜」で始まる「朧月夜」などをつくった名コンビである。
チターの奏でる名曲、はアントン・カラス。
以前NHKでこの曲ができるまでを、放映したことがある。
アントン・カラスがリード監督のロンドンの家に住み込み、49年9月の初公開までの、作曲に苦悩する内容であった。
現在の世界一のチターの演奏者の河野保人は
宮崎の都農町出身であり、全世界を飛び歩いている。
演奏を聞いたことがあるが、32本の弦が神の宿る手にかかると聖曲であった。
秋は月を見て酒に尽きるとは酔人の心情
酒の肴は竜田揚げにこれまた尽きる。
川の紅葉の代表歌といえば
「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」在原業平
「さまざまな不思議があったという神々の時代でさえ聞いたことがない。竜田川が、紅葉の紅でくくり染め(絞り染め)上げられるとは」
というこのダイナミックな歌は、実際の景色ではなく、びょうぶ絵を見て歌ったものだ。
「古今集」によると、光源氏のモデルとも言われる業平の“元恋人”、二条(にじょう)の后(藤原高子(ふじわらのこうし))の前でつくられた。
若いころの2人の恋は事実とも、そうでないとも言われるが、高子が業平の歌を愛し、業平がそれに応えたことだけは間違いない。
片栗粉(かたくりこ)としょうゆなどを絡めて魚や肉を揚げたものを「竜田揚げ」と呼ぶのはこの歌による。
「火が通ると片栗粉は白くなる。赤い色のところに、点々と白いものが見える。紅葉の流れる龍田川の景を思わせる揚げ方につけた名称である」と書く。「たべもの語源辞典」(東京堂出版)
癒やし効果?の紅葉かり。怒りと不条理で逃げ歩いていると収まってきた。宮崎の先祖方の横穴群は、よりロマンを添える。
京都の紅葉を撮り続け、昨年写真集「京都紅葉名所」(光村推古書院)を出した写真家、水野克比古
「京都の紅葉は、高雄(たかお)・神護寺(じんごじ)の金堂前の石段から」との噺だ。JR京都駅からバスで約50分。ひんやりとした秋の
空気の中に降り立ち、山道を10分ほど歩く。あった。
緑から黄色へ、黄色から赤へ……。モミジは、一本一本、一枝一枝、そして一葉一葉色合いが微妙に変化している。美しい。そして、見飽きることがない。
なぜだろう。桜を見ているとその美しさに浮き立つような、どことなく落ち着かないはらはらした気持ちになるのに、紅葉は逆だ。
しんと静かな気持ちになる。
夕日を見ると、一日活動してきた荒々しい気持ちが落ち着き、人は和む。紅葉もそういうところがある。
桜が冬の眠りから覚めて咲くなら、モミジは眠りの冬に赴いていく。でもただ色あせていくのではなくて最後を自ら飾る。最後に輝く。
そのドラマチックさにひかれる。年をとると、やはり自然に自分の人生を重ね合わせるようになる。死ぬことは恐ろしいが、受け入れていかないといけない。
限りある命だから、今を大事にして生きたい。紅葉はそう教えてくれる
ひとつ散り又ひとつ散り紅葉かな 山口青邨
癒やし系ブームの中、京都の紅葉もまさにブームである。東福寺に観光客がどっとやって来るようになったのは90年以降。11月の休日には1日で約3万人が訪れることもあると言う。
四季を愛でる感じる楽しさは我らにしかない。大事なことである。
指針亡き大和の人間の確立の不毛な義務教育費の負担の騒動である。
義務教育費国庫負担金制度をめぐる対立が、激しくなってきた。全国知事会など地方6団体が、約3兆2000億円の補助金削減案の中に中学校の教職員給与(8504億円)分を組み入れた、
削りやすいものを削ったという印象は否めない。段階的に進めるにしても、中学校分だけの削減も理屈に合わない。中教審の関与など手続き面でも不備がある。
あの不思議の国のインドが不満を解消し存続するのもIT技術者供給国で世界NO1であるゆえであろう。
ガンジスに死体が流れ行くのと礼拝の禊を朝夕にしてるのが共存する光景、飲料水としての泗水として使うことが同居できるのであろう。
あの肝要さでの運営なら何もかも上手くいくであろう。
わが専務の茫洋さに似通っている。育ちである。しっかりとした生き抜く哲学である。
本人と話しても何処で勉強・修行したのかおくびにも出さないが、ナチュラルのようで、どうも天分のようである。
暮らしから身についた人柄人の良さは修行して身につくものではない。環境・育ちが意識を生き様を決定付けるようでヘーゲル哲学の存在が意識を決定付ける学術的見本がここに存在してる。是非APAまでご覧になりにきて頂きたい。
柳田国男が遠野物語を書き、言葉の断層を富山に求めた如く存在してるのである。
明治以来営々と気づきあげた国民・民族の財産を太平洋戦争で一夜の内に打ち砕かれた国家運営の薄っぺらな指導者を作り出す教育ではない物をである。
統一国家と万機公論に決すべしたる国家目標。
総ての組織運営に適用されるべき規範であろう。実に明治の骨組みは万事理にかなっている。
音楽教育一つとってもそうである。
鳥取県から排出してる童謡の作曲家の綺羅星の如きである。
岡野貞一は鳥取市古市の出。明治11年〜昭和16年代表作ふるさと、朧月夜、春がきた、桃太郎
田村虎蔵は岩美郡岩美町、明治6年〜昭和18年 金太郎、花咲じじい、一寸法師、浦島太郎
永井幸次は鳥取市西町、明治7年〜昭和40年 夕焼け、かみなり
宮崎市・蓮ヶ池史跡公園にしばしの休息。高岡、日南と支払の請求で電話も充電切れの状態で大先輩と逃亡状況。新聞は次のように書いた。
♪秋の夕日に〜照る山もみ〜じ、の歌が少し早きの感のいろはもみじ。
「紅葉」と呼ぶのは、広葉樹の葉が秋に赤や黄色に変色する現象を広くいうわけだ。万葉集では「黄葉」と書いた。
古典文学の植物に詳しい歌人、中根三枝子さんは
「万葉集のころまではハギなど黄色く色づくものが注目され、その後赤い葉の美しさが称賛されるという好みの変化があり、『紅葉』になったようだ。
漢詩でも初唐(618〜712)ごろまで黄葉が一般的で、その後紅葉になっており、漢詩の影響もあったと思う」
と話す。
紅葉する代表的な植物がモミジであることから、紅葉と書いてモミジとも読む。
ちなみにモミジとカエデは植物学上は同じもの。カエデは漢字では「楓」と書くが、実は“誤訳”だ。
中国の「楓(ふう)」は黄色や赤に変色するが、カエデ科ではなくマンサク科。
モミジは、左右対称に小枝が出るものが多いが、フウでは左右互い違いに小枝が出る。
高貴な木として漢詩に頻繁に登場する「楓」を、日本のカエデに当てはめたと見られている。
春の桜、秋の紅葉は対として歌われることが多い。
中根さんによると、百人一首では桜(花)と紅葉はきっちり6首ずつ。
桜は「咲く花」3首と「散る花」3首、
紅葉は「山の紅葉」3首と「川の紅葉」3首。
山と川の紅葉は、千年も前から日本人の心象風景だったのだ。
「紅葉」は、長野県出身の高野が帰省の折、今は廃線となった信越線の熊ノ平駅近くで見た景色がきっかけになって誕生した。
1番は山の紅葉を、2番は川の流れに浮く紅葉を歌う見事な曲。実はこの歌には、和歌の伝統がしっかりと息づいている。
ひとえに高野辰之の勉学のたわもの。
1911(明治44)年につくられた文部省唱歌「紅葉」。
作詞は長野の人高野辰之、作曲は鳥取の人。岡野貞一。
「うさぎ追いし〜」で始まる「故郷」、
「菜の花畠に〜」で始まる「朧月夜」などをつくった名コンビである。
チターの奏でる名曲、はアントン・カラス。
以前NHKでこの曲ができるまでを、放映したことがある。
アントン・カラスがリード監督のロンドンの家に住み込み、49年9月の初公開までの、作曲に苦悩する内容であった。
現在の世界一のチターの演奏者の河野保人は
宮崎の都農町出身であり、全世界を飛び歩いている。
演奏を聞いたことがあるが、32本の弦が神の宿る手にかかると聖曲であった。
秋は月を見て酒に尽きるとは酔人の心情
酒の肴は竜田揚げにこれまた尽きる。
川の紅葉の代表歌といえば
「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」在原業平
「さまざまな不思議があったという神々の時代でさえ聞いたことがない。竜田川が、紅葉の紅でくくり染め(絞り染め)上げられるとは」
というこのダイナミックな歌は、実際の景色ではなく、びょうぶ絵を見て歌ったものだ。
「古今集」によると、光源氏のモデルとも言われる業平の“元恋人”、二条(にじょう)の后(藤原高子(ふじわらのこうし))の前でつくられた。
若いころの2人の恋は事実とも、そうでないとも言われるが、高子が業平の歌を愛し、業平がそれに応えたことだけは間違いない。
片栗粉(かたくりこ)としょうゆなどを絡めて魚や肉を揚げたものを「竜田揚げ」と呼ぶのはこの歌による。
「火が通ると片栗粉は白くなる。赤い色のところに、点々と白いものが見える。紅葉の流れる龍田川の景を思わせる揚げ方につけた名称である」と書く。「たべもの語源辞典」(東京堂出版)
癒やし効果?の紅葉かり。怒りと不条理で逃げ歩いていると収まってきた。宮崎の先祖方の横穴群は、よりロマンを添える。
京都の紅葉を撮り続け、昨年写真集「京都紅葉名所」(光村推古書院)を出した写真家、水野克比古
「京都の紅葉は、高雄(たかお)・神護寺(じんごじ)の金堂前の石段から」との噺だ。JR京都駅からバスで約50分。ひんやりとした秋の
空気の中に降り立ち、山道を10分ほど歩く。あった。
緑から黄色へ、黄色から赤へ……。モミジは、一本一本、一枝一枝、そして一葉一葉色合いが微妙に変化している。美しい。そして、見飽きることがない。
なぜだろう。桜を見ているとその美しさに浮き立つような、どことなく落ち着かないはらはらした気持ちになるのに、紅葉は逆だ。
しんと静かな気持ちになる。
夕日を見ると、一日活動してきた荒々しい気持ちが落ち着き、人は和む。紅葉もそういうところがある。
桜が冬の眠りから覚めて咲くなら、モミジは眠りの冬に赴いていく。でもただ色あせていくのではなくて最後を自ら飾る。最後に輝く。
そのドラマチックさにひかれる。年をとると、やはり自然に自分の人生を重ね合わせるようになる。死ぬことは恐ろしいが、受け入れていかないといけない。
限りある命だから、今を大事にして生きたい。紅葉はそう教えてくれる
ひとつ散り又ひとつ散り紅葉かな 山口青邨
癒やし系ブームの中、京都の紅葉もまさにブームである。東福寺に観光客がどっとやって来るようになったのは90年以降。11月の休日には1日で約3万人が訪れることもあると言う。
四季を愛でる感じる楽しさは我らにしかない。大事なことである。
指針亡き大和の人間の確立の不毛な義務教育費の負担の騒動である。
義務教育費国庫負担金制度をめぐる対立が、激しくなってきた。全国知事会など地方6団体が、約3兆2000億円の補助金削減案の中に中学校の教職員給与(8504億円)分を組み入れた、
削りやすいものを削ったという印象は否めない。段階的に進めるにしても、中学校分だけの削減も理屈に合わない。中教審の関与など手続き面でも不備がある。
大原社会問題研究所 ?
2004年11月9日宮崎に社会科学系の大学の誘致をと自治研のテーマにしたことがあった。地方自治問題研究所なる労働組合の運営するカムフラージュ機関である。
そのことが、宮大移転、市立大学設立に及んでにわかに現実味を帯びてきた。
宮大工学部跡地利用はJAとのとてつもない交換で処理され、船塚の教育学部跡地利用を巡ってである。
ときあたかも、世界中を席巻するジャパン・マネーの暴走でマンハッタン中のビルを買い占める現象はヘップ・バーンの「テファニーイで昼食を」のあのビルさえ日本人の手に落ちた。
歴史的建造物の無い、日浅き国のアメリカン魂に反日の火をつけた。
経済学行動書言うところの資本の本性たる刃を剥いた。
・・収奪者が収奪される・・状況があった。最後の鐘がなる。
金漬付けの社会から哲学を持って生きる民族の演出が必要であった。
出来た物は周辺を入れた市立の文系ではあるが、科学系とは縁遠い代物。
教育学部ゆえ野球場やソフト場の運動施設をかねそなえており、広大な広さを誇っていた。
町内子供会を率いる私は我が物顔で設立運営後も夢中で子供らと遊んだ。
無断利用を叫ぶ係員には地元が協力して広大な施設が出来たいきさつを話し聞かせ天下ごめんで使用していたから乱暴な物である。
学園都市構想の中での集中化を承知で陳べるが、何のために清武一極に移転したのかも不明である。
今日の独立法人なる金を稼げとの命題は大学のみには無かった。
国力の旺盛な時期にはそのようなものは議論にもならず、赤字などは歯牙にもかけない豊満な財政。
大原社会問題研究所は,今から85年前の1919(大正8)年2月9日に設立された。
自然科学研究の分野では,すでに
伝染病研究所(1892年創立)
大原農業研究所(1914年創立)
北里研究所(1915年創立)
理化学研究所(1916年創立)などが存在していたが,社会科学系の研究所としては日本最初の企てであった。
大原とあるのは,岡山県倉敷の大原美術館と同じで,創立者が倉敷紡績株式会社社長の大原孫三郎であったことによる。
彼は私財を投じて研究所をつくり,20年近くこれを独力で維持したのである。さらにいえば,大原の援助が打ち切られた後も,
研究所は,もともとは孫三郎が購入あるいは建築した大阪天王寺の土地建物などを処分した金を基金とし,その利子で運営されたのであるから,大原社会問題研究所は,法政大学と合併するまでの30年間は,大原家の財政的支持によって存続したといえよう。
孫三郎は1880(明治13)年,岡山県倉敷の富豪・大原孝四郎の次男として生まれた。宮崎の人たる岡山孤児院の創立者・石井十次の影響でキリスト教徒となり,石井の死後はその遺志をついで岡山孤児院の院長に就任するなど社会事業に力をつくした。
換言すれば宮崎日向の高鍋の人たる石井十次との出会いが無ければ
日本における空想的社会主義者大原孫三郎は無かったろう
オーエン、フゥリエ、サンシモンの世界に名だたる人々に比しても決して劣らぬ社会改革に尽くした大原孫三郎。
給料20円の頃に1年間で10000万円もの金を吉原遊郭に散財するぐらいの人であったゆえ、心配さる人生を歩んでたやも知れぬ。
まさに人生は出会いである。
特に 注目すべきは,大原孫三郎が,その時々に取り組んでいる問題について,実際的な解決策を考え実行しただけでなく,そうした問題につ
いて,より根本的,理論的な研究の重要性を認識していたことである。たとえば,大地主である大原家の当主として,彼は小作俵米品評会
を開いて産米の品質向上を企て,また技術員を雇って小作人に対する農業技術の指導に当たらせただけでなく,1914(大正3)年には農業研究所を設立している。
同じことは社会事業に関しても見られ,大原社会問題研究所の創立より2年以上も前に社会事業研究に着手している。1916(大正5)年11月29日設立の石井記念愛染園のなかに置かれた救済事業研究室がそれである。大原は開園式で,この救済事業研究室について
「将来或る時期に於て一層之を拡張し,愛染園の事業より独立せしめ,以て斯業の進歩発達に資する所あらんとするの希望を有するも,
今は具体的に之を発表するを得ず。尚ほ速に之を実現し得るやう各位の援助を望む」
と挨拶している。この救済事業研究室こそ大原社会問題研究所の前身といってよい。
ところで孫三郎は,岡山孤児院院長としての経験から,しだいに社会事業に限界を感じるようになっていった
。貧乏をなくすには社会問題を科学的に研究してその解決策を明らかにする必要があると考えるにいたったのである。
その背景には,小学校の同級生であった山川均の間接的な影響,河上肇『貧乏物語』の直接的な影響があったと思われる。
大原研究所の創立には,大阪府の嘱託で社会事業家として著名な小河滋次郎,京都帝国大学教授の河田嗣郎,同講師米田庄太郎らが参画
徳富蘇峰や河上肇も助言するところがあった。しかし,実際に研究所の性格を決定する上で重要な役割を果たしたのは東京帝国大学教授・高野岩三郎である。
高野は日本の社会統計学の草分けで,社会政策学会の創立会員であり,また東大経済学部を法学部から独立させた主役であった。
研究所創立の年,彼はILO第1回総会の労働代表となることを政府から依頼された
。また彼自身が友愛会の評議員であったこともあり,高野は自分が
ILOの労働代表となることに積極的な意味があると考え,就任を受諾した。
しかし労働組合側は,高野を高く評価しながらも,労働代表は労働組合の互選によるべきであるとして政府による代表選任に絶対反対の態度を崩さなかった。
やむなく高野は労働代表就任を断わると同時に,その責任をとって東大教授も辞職した。これ以後,高野岩三郎は大原社会問題研究所の経営に専念することとなり,1920年3月には所長に就任したのである。
高野所長のもとで研究所は,櫛田民蔵,暉峻義等,森戸辰男,高田慎吾,権田保之助,大林宗嗣,細川嘉六,久留間鮫造,戸田貞三らを
研究員に,大内兵衞,北沢新次郎,長谷川如是閑らを研究嘱託に迎えた。新設の研究所が大阪の地に,これだけの人材を集めることが出来たのは,高野の学問的指導者としての魅力,大原孫三郎の財力によることはもちろんであるが,1920年に起きた〈森戸事件〉の影響を見逃すことは出来ない。
〈森戸事件〉とは,同年1月,東大助教授・森戸辰男が新設の経済学部
の機関誌『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したのであるが,
これが新聞紙法第42条にいう〈朝憲紊乱〉にあたるとして,筆者ばかりか編集名義人の大内兵衞まで起訴され,有罪となった事件である。
このため森戸・大内両助教授は東大を追われ、櫛田講師,権田・細川両助手は事件に対する教授会の態度に抗議して大学を去り,あいついで大原社会問題研究所に集うことになる。
京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
石井十次に山内多門、大原社会問題研究所はこの宮崎の人々が大きく貢献した。
時代を読み、立ち向かう姿は、参考とせねばならぬ。
科学的な態度、一番求められてる物である。
そのことが、宮大移転、市立大学設立に及んでにわかに現実味を帯びてきた。
宮大工学部跡地利用はJAとのとてつもない交換で処理され、船塚の教育学部跡地利用を巡ってである。
ときあたかも、世界中を席巻するジャパン・マネーの暴走でマンハッタン中のビルを買い占める現象はヘップ・バーンの「テファニーイで昼食を」のあのビルさえ日本人の手に落ちた。
歴史的建造物の無い、日浅き国のアメリカン魂に反日の火をつけた。
経済学行動書言うところの資本の本性たる刃を剥いた。
・・収奪者が収奪される・・状況があった。最後の鐘がなる。
金漬付けの社会から哲学を持って生きる民族の演出が必要であった。
出来た物は周辺を入れた市立の文系ではあるが、科学系とは縁遠い代物。
教育学部ゆえ野球場やソフト場の運動施設をかねそなえており、広大な広さを誇っていた。
町内子供会を率いる私は我が物顔で設立運営後も夢中で子供らと遊んだ。
無断利用を叫ぶ係員には地元が協力して広大な施設が出来たいきさつを話し聞かせ天下ごめんで使用していたから乱暴な物である。
学園都市構想の中での集中化を承知で陳べるが、何のために清武一極に移転したのかも不明である。
今日の独立法人なる金を稼げとの命題は大学のみには無かった。
国力の旺盛な時期にはそのようなものは議論にもならず、赤字などは歯牙にもかけない豊満な財政。
大原社会問題研究所は,今から85年前の1919(大正8)年2月9日に設立された。
自然科学研究の分野では,すでに
伝染病研究所(1892年創立)
大原農業研究所(1914年創立)
北里研究所(1915年創立)
理化学研究所(1916年創立)などが存在していたが,社会科学系の研究所としては日本最初の企てであった。
大原とあるのは,岡山県倉敷の大原美術館と同じで,創立者が倉敷紡績株式会社社長の大原孫三郎であったことによる。
彼は私財を投じて研究所をつくり,20年近くこれを独力で維持したのである。さらにいえば,大原の援助が打ち切られた後も,
研究所は,もともとは孫三郎が購入あるいは建築した大阪天王寺の土地建物などを処分した金を基金とし,その利子で運営されたのであるから,大原社会問題研究所は,法政大学と合併するまでの30年間は,大原家の財政的支持によって存続したといえよう。
孫三郎は1880(明治13)年,岡山県倉敷の富豪・大原孝四郎の次男として生まれた。宮崎の人たる岡山孤児院の創立者・石井十次の影響でキリスト教徒となり,石井の死後はその遺志をついで岡山孤児院の院長に就任するなど社会事業に力をつくした。
換言すれば宮崎日向の高鍋の人たる石井十次との出会いが無ければ
日本における空想的社会主義者大原孫三郎は無かったろう
オーエン、フゥリエ、サンシモンの世界に名だたる人々に比しても決して劣らぬ社会改革に尽くした大原孫三郎。
給料20円の頃に1年間で10000万円もの金を吉原遊郭に散財するぐらいの人であったゆえ、心配さる人生を歩んでたやも知れぬ。
まさに人生は出会いである。
特に 注目すべきは,大原孫三郎が,その時々に取り組んでいる問題について,実際的な解決策を考え実行しただけでなく,そうした問題につ
いて,より根本的,理論的な研究の重要性を認識していたことである。たとえば,大地主である大原家の当主として,彼は小作俵米品評会
を開いて産米の品質向上を企て,また技術員を雇って小作人に対する農業技術の指導に当たらせただけでなく,1914(大正3)年には農業研究所を設立している。
同じことは社会事業に関しても見られ,大原社会問題研究所の創立より2年以上も前に社会事業研究に着手している。1916(大正5)年11月29日設立の石井記念愛染園のなかに置かれた救済事業研究室がそれである。大原は開園式で,この救済事業研究室について
「将来或る時期に於て一層之を拡張し,愛染園の事業より独立せしめ,以て斯業の進歩発達に資する所あらんとするの希望を有するも,
今は具体的に之を発表するを得ず。尚ほ速に之を実現し得るやう各位の援助を望む」
と挨拶している。この救済事業研究室こそ大原社会問題研究所の前身といってよい。
ところで孫三郎は,岡山孤児院院長としての経験から,しだいに社会事業に限界を感じるようになっていった
。貧乏をなくすには社会問題を科学的に研究してその解決策を明らかにする必要があると考えるにいたったのである。
その背景には,小学校の同級生であった山川均の間接的な影響,河上肇『貧乏物語』の直接的な影響があったと思われる。
大原研究所の創立には,大阪府の嘱託で社会事業家として著名な小河滋次郎,京都帝国大学教授の河田嗣郎,同講師米田庄太郎らが参画
徳富蘇峰や河上肇も助言するところがあった。しかし,実際に研究所の性格を決定する上で重要な役割を果たしたのは東京帝国大学教授・高野岩三郎である。
高野は日本の社会統計学の草分けで,社会政策学会の創立会員であり,また東大経済学部を法学部から独立させた主役であった。
研究所創立の年,彼はILO第1回総会の労働代表となることを政府から依頼された
。また彼自身が友愛会の評議員であったこともあり,高野は自分が
ILOの労働代表となることに積極的な意味があると考え,就任を受諾した。
しかし労働組合側は,高野を高く評価しながらも,労働代表は労働組合の互選によるべきであるとして政府による代表選任に絶対反対の態度を崩さなかった。
やむなく高野は労働代表就任を断わると同時に,その責任をとって東大教授も辞職した。これ以後,高野岩三郎は大原社会問題研究所の経営に専念することとなり,1920年3月には所長に就任したのである。
高野所長のもとで研究所は,櫛田民蔵,暉峻義等,森戸辰男,高田慎吾,権田保之助,大林宗嗣,細川嘉六,久留間鮫造,戸田貞三らを
研究員に,大内兵衞,北沢新次郎,長谷川如是閑らを研究嘱託に迎えた。新設の研究所が大阪の地に,これだけの人材を集めることが出来たのは,高野の学問的指導者としての魅力,大原孫三郎の財力によることはもちろんであるが,1920年に起きた〈森戸事件〉の影響を見逃すことは出来ない。
〈森戸事件〉とは,同年1月,東大助教授・森戸辰男が新設の経済学部
の機関誌『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したのであるが,
これが新聞紙法第42条にいう〈朝憲紊乱〉にあたるとして,筆者ばかりか編集名義人の大内兵衞まで起訴され,有罪となった事件である。
このため森戸・大内両助教授は東大を追われ、櫛田講師,権田・細川両助手は事件に対する教授会の態度に抗議して大学を去り,あいついで大原社会問題研究所に集うことになる。
京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
石井十次に山内多門、大原社会問題研究所はこの宮崎の人々が大きく貢献した。
時代を読み、立ち向かう姿は、参考とせねばならぬ。
科学的な態度、一番求められてる物である。
大原社会問題研究所
2004年11月8日文芸春秋は表紙から・読める・実に楽しい雑誌である。月刊誌にしては取り上げるのが実に早い。
ヤクルト吉田号泣とか山田洋次の藤沢周平が11月号にはかかれている。
宮城谷昌光の深すぎる知識から繰り出される文章の三国志は圧倒される。
面白き過ぎ読むのがもったいないのはトヨタの連載29回目である。
そして私の東大論は立花隆で69回を迎えてる。昭和14年の軍艦総長の平賀譲の東大経済学部教授の追放で軍靴が高鳴っていく状況に突入している。
さ〜あ筆致は権力の総権化たる一国の総理田中角栄を辞任に追い込んだ以上に冴えてきてる。
実は私がテーマとして暖めていたものでもあり、楽しくて仕方ない。
そこに登場してくる人々は今の閉塞してる状況で歴史は繰り返されてることに気づくことでしょう。
舞出長五郎教授や山田盛太郎教授等々の昨日名前を挙げた人々の著書は書架に並んだものだ。岩波より出版されてるのは簡単に入手できた。
問題は労農派の人々の著作物で雑誌太陽などであり集め様が無い。
燦然と経済学、政治学に輝く日本資本主義論争である。
岩波の経済学全集「講座」として纏められた経過があるので講座派。
土屋喬雄、猪俣津南夫なども巻き込み雑誌、労農に集った山川均、向坂逸郎、大内兵衛を中心の人々を労農派という。
それらをひっくるめて通史がさまざまに出ている。
わたしもその一角を占めようとしていた頃があったが現実に流されてしまった。
よってトップから首を切られた次には筆を折られたゆえに昨日より一挙に吹き上げてきた物があり、興奮して書いてる状態です。
心配していただいた皆様に何の挨拶もナシにである。
それもカモフラージュでした。
でも覚悟は決まりました。
まったくの無一文からの挑戦!
さ〜て昨日からの続きで偏狭なる郷土愛から斜視で見る郷土人とのかかわりである。
竹内教授の著書からである。
昭和三年四月十七日、東京帝国大学の評議会において、「新人会」の解散が決定され、その後、京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく
。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
大正教養主義を滅ぼしたは、マルクス主義の台頭なのだが、そのマルクス主義が弾圧という外因によって沈滞そのことは大原社会問題研究所にも官憲が入り大阪の閉鎖が考え始められた。
都城の画家井上多門の東京邸への移転である。
もう一度教養主義が甦る。その二度目の<昭和教養主義>の中心人物が河合栄治郎なのである。
この<昭和教養主義>は軍国主義の高まりによる右からの攻撃により弱体化するのだが、軍国主義と右派は、敗戦という外因によって衰退
する。だが、そこにもう一度甦るは昭和教養主義>の流れでもよかったのだが、実際に甦ったのは<マルクス主義的教養主義>とでもいうものであり、それは全共闘運動によって終焉することになる。
昭和十年代とこの頃を考えてみると、マルクス主義は明治時代からすでに日本に紹介されてはいたものの、大正半ばまでは、民間のものであり、大学があつかう学問だと思われていなかった。
新人会の設立が大正七年、森戸事件が大正九年、帝国大学の学生や教授がマルクス主義を研究したり、運動するようになることによって
、それはアカデミックな問題になっていった。これらは大正教養主義の延長としてでてきたのだが、個人の内面倫理という人格主義から、
社会改革という行動への飛躍があり、当然、大正教養主義をのりこえるものとなった。
「新人会」の解散の議題とともに評議会においては、大森義太郎助教授の進退問題も議題になったが、大森は先手をうって辞表を提出する。
それが可能であったのは、当時ジャーナリズムの勃興があり、それによって筆だけで食べていける見通しがたったからであった。
東京帝国大学経済学部は大正八年、法科から独立したばかりの若い学部であった。
昭和11年河合栄治郎は経済学部長になる。昭和11年といえば、弾圧により社会主義運動は停滞していた。
昭和のはじめにはマルクス主義に対立する反動教授とみなされていた河合は、昭和十年代には、衰退したマルクス陣営にかわって軍部を批判する戦闘的自由主義者であるとされるようになっていく。
そして昭和教養主義のイデオローグとなってゆく。
河合がジャーナリズムの寵児ともなっていくとともに、その足をひっぱる動きもさかんとなり、東大経済学部は派閥争いの嵐の渦中にはいっていく。
その派閥争いのドタバタなのであるが割愛。なにしろ、マルクス派と右派が結託したりするのだから滅茶苦茶である。
社会党村山が自民党と連立し、滅んだが如きある。
二転三転、一度沈んだ河合はまた浮かび上がる。この間、大森義太郎はマルクス主義の言論を発表する場を失って困窮し、いわゆる人民戦線事件で検挙され、ほどなく病死する。
帝国大学内部の派閥争いでふたたび浮かび上がった河合は、今度は外部からの攻撃にさらされるようになる。
「原理日本」といった雑誌を発行する蓑田胸喜といった右からの攻撃である。蓑田胸喜は、、日本版ジョゼフ・マッカーシーなのである。
攻撃されたほうはたまったものではない。
日本版ジョゼフ・マッカーシーによる東京帝国大学教授弾劾の主な槍玉にあがっていた田中耕太郎、末弘厳太郎といった法学部教授をまもるための生贄として、
歴史の新しい経済学部の河合栄治郎が法学部の陰謀にまんまとのせられて?東大から追放される。
平賀粛学事件である。この間、これに抗議して辞職すべきかどうか、教授たちは右往左往する。昭和16年2月河合は53歳で急死する。
敗戦とともに大学人事はまた一変するが、今度は左派が多数派となる。河合門下は左派からの攻撃をうけるようになる。
そしてめぐりめぐって、昭和四十年代に、今度はその左派が、全共闘運動の攻撃をうけることになる。
昭和十四年におきた「原理日本社」とつうじる右翼学生たちによる津田左右吉つるしあげ事件の現場にいた丸山真男がその場で感じたものは、
後年、昭和四十三年十二月二十三日に、全共闘による自分の研究室の封鎖において感じたものと、ほとんど同じものであったのではないかと推測している。
そして、大内兵衛が安田講堂封鎖解除後に「世界」に書いた
「東大を滅ぼしてはならない」も引用している。
「これでいい、これでいい、これで入学試験もやれる、これで東大も滅びないと思った。・・・お菓子の一箱でももってどなたさまもご苦労でしたといってお礼に行きたいような気がした・。」
なんともいいようがない文章である。大内兵衛このとき八十歳。
最後に、大学神話<大学が社会にとって重要な機能をはたす制度であるという信頼>が昭和十年代に一度、失われようとしていた理由を考察している。
1)日本が昭和十年代にとにかく世界においついたと感じたことである。外国の業績を紹介するだけでは機能がはたせなくなった。学問の背後にある西洋の後光が減衰した。
2)ジャーナリズムの発達である。そのため、知を大学にもとめなくなった。
3)左翼を中心とした、大学の実態暴露である。
しかし、大学は自ら倒れるのではなく、学徒動員といった外的要因によって強制的に死滅させられていった。
大学制度・自治は守られた。荒くれた時代。
APAには今押し寄せている。
ヤクルト吉田号泣とか山田洋次の藤沢周平が11月号にはかかれている。
宮城谷昌光の深すぎる知識から繰り出される文章の三国志は圧倒される。
面白き過ぎ読むのがもったいないのはトヨタの連載29回目である。
そして私の東大論は立花隆で69回を迎えてる。昭和14年の軍艦総長の平賀譲の東大経済学部教授の追放で軍靴が高鳴っていく状況に突入している。
さ〜あ筆致は権力の総権化たる一国の総理田中角栄を辞任に追い込んだ以上に冴えてきてる。
実は私がテーマとして暖めていたものでもあり、楽しくて仕方ない。
そこに登場してくる人々は今の閉塞してる状況で歴史は繰り返されてることに気づくことでしょう。
舞出長五郎教授や山田盛太郎教授等々の昨日名前を挙げた人々の著書は書架に並んだものだ。岩波より出版されてるのは簡単に入手できた。
問題は労農派の人々の著作物で雑誌太陽などであり集め様が無い。
燦然と経済学、政治学に輝く日本資本主義論争である。
岩波の経済学全集「講座」として纏められた経過があるので講座派。
土屋喬雄、猪俣津南夫なども巻き込み雑誌、労農に集った山川均、向坂逸郎、大内兵衛を中心の人々を労農派という。
それらをひっくるめて通史がさまざまに出ている。
わたしもその一角を占めようとしていた頃があったが現実に流されてしまった。
よってトップから首を切られた次には筆を折られたゆえに昨日より一挙に吹き上げてきた物があり、興奮して書いてる状態です。
心配していただいた皆様に何の挨拶もナシにである。
それもカモフラージュでした。
でも覚悟は決まりました。
まったくの無一文からの挑戦!
さ〜て昨日からの続きで偏狭なる郷土愛から斜視で見る郷土人とのかかわりである。
竹内教授の著書からである。
昭和三年四月十七日、東京帝国大学の評議会において、「新人会」の解散が決定され、その後、京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく
。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
大正教養主義を滅ぼしたは、マルクス主義の台頭なのだが、そのマルクス主義が弾圧という外因によって沈滞そのことは大原社会問題研究所にも官憲が入り大阪の閉鎖が考え始められた。
都城の画家井上多門の東京邸への移転である。
もう一度教養主義が甦る。その二度目の<昭和教養主義>の中心人物が河合栄治郎なのである。
この<昭和教養主義>は軍国主義の高まりによる右からの攻撃により弱体化するのだが、軍国主義と右派は、敗戦という外因によって衰退
する。だが、そこにもう一度甦るは昭和教養主義>の流れでもよかったのだが、実際に甦ったのは<マルクス主義的教養主義>とでもいうものであり、それは全共闘運動によって終焉することになる。
昭和十年代とこの頃を考えてみると、マルクス主義は明治時代からすでに日本に紹介されてはいたものの、大正半ばまでは、民間のものであり、大学があつかう学問だと思われていなかった。
新人会の設立が大正七年、森戸事件が大正九年、帝国大学の学生や教授がマルクス主義を研究したり、運動するようになることによって
、それはアカデミックな問題になっていった。これらは大正教養主義の延長としてでてきたのだが、個人の内面倫理という人格主義から、
社会改革という行動への飛躍があり、当然、大正教養主義をのりこえるものとなった。
「新人会」の解散の議題とともに評議会においては、大森義太郎助教授の進退問題も議題になったが、大森は先手をうって辞表を提出する。
それが可能であったのは、当時ジャーナリズムの勃興があり、それによって筆だけで食べていける見通しがたったからであった。
東京帝国大学経済学部は大正八年、法科から独立したばかりの若い学部であった。
昭和11年河合栄治郎は経済学部長になる。昭和11年といえば、弾圧により社会主義運動は停滞していた。
昭和のはじめにはマルクス主義に対立する反動教授とみなされていた河合は、昭和十年代には、衰退したマルクス陣営にかわって軍部を批判する戦闘的自由主義者であるとされるようになっていく。
そして昭和教養主義のイデオローグとなってゆく。
河合がジャーナリズムの寵児ともなっていくとともに、その足をひっぱる動きもさかんとなり、東大経済学部は派閥争いの嵐の渦中にはいっていく。
その派閥争いのドタバタなのであるが割愛。なにしろ、マルクス派と右派が結託したりするのだから滅茶苦茶である。
社会党村山が自民党と連立し、滅んだが如きある。
二転三転、一度沈んだ河合はまた浮かび上がる。この間、大森義太郎はマルクス主義の言論を発表する場を失って困窮し、いわゆる人民戦線事件で検挙され、ほどなく病死する。
帝国大学内部の派閥争いでふたたび浮かび上がった河合は、今度は外部からの攻撃にさらされるようになる。
「原理日本」といった雑誌を発行する蓑田胸喜といった右からの攻撃である。蓑田胸喜は、、日本版ジョゼフ・マッカーシーなのである。
攻撃されたほうはたまったものではない。
日本版ジョゼフ・マッカーシーによる東京帝国大学教授弾劾の主な槍玉にあがっていた田中耕太郎、末弘厳太郎といった法学部教授をまもるための生贄として、
歴史の新しい経済学部の河合栄治郎が法学部の陰謀にまんまとのせられて?東大から追放される。
平賀粛学事件である。この間、これに抗議して辞職すべきかどうか、教授たちは右往左往する。昭和16年2月河合は53歳で急死する。
敗戦とともに大学人事はまた一変するが、今度は左派が多数派となる。河合門下は左派からの攻撃をうけるようになる。
そしてめぐりめぐって、昭和四十年代に、今度はその左派が、全共闘運動の攻撃をうけることになる。
昭和十四年におきた「原理日本社」とつうじる右翼学生たちによる津田左右吉つるしあげ事件の現場にいた丸山真男がその場で感じたものは、
後年、昭和四十三年十二月二十三日に、全共闘による自分の研究室の封鎖において感じたものと、ほとんど同じものであったのではないかと推測している。
そして、大内兵衛が安田講堂封鎖解除後に「世界」に書いた
「東大を滅ぼしてはならない」も引用している。
「これでいい、これでいい、これで入学試験もやれる、これで東大も滅びないと思った。・・・お菓子の一箱でももってどなたさまもご苦労でしたといってお礼に行きたいような気がした・。」
なんともいいようがない文章である。大内兵衛このとき八十歳。
最後に、大学神話<大学が社会にとって重要な機能をはたす制度であるという信頼>が昭和十年代に一度、失われようとしていた理由を考察している。
1)日本が昭和十年代にとにかく世界においついたと感じたことである。外国の業績を紹介するだけでは機能がはたせなくなった。学問の背後にある西洋の後光が減衰した。
2)ジャーナリズムの発達である。そのため、知を大学にもとめなくなった。
3)左翼を中心とした、大学の実態暴露である。
しかし、大学は自ら倒れるのではなく、学徒動員といった外的要因によって強制的に死滅させられていった。
大学制度・自治は守られた。荒くれた時代。
APAには今押し寄せている。
経済学部の起こり
2004年11月7日読書の秋の言葉に代表される大和の国の最良の日々が刻々と消えてゆく。
そんな中シーガイア松泉宮に遊んだ。併設の図書館は新札で時のヒトたる一葉の著書とか復刻でない原本で凄くいい本がタダで見れる。
尤もあんなチンケナ風呂に1.500円は高かろう。またもや同じ過ちの愚をやっている。
元気湯を見てみろ!アレが庶民!
露天風呂のお湯は溜めてあるだけ。大浴場が聞いて呆れる。お湯はふんだんに使わなきゃ〜
昼間ゆえか私一人の貸切り。ホント贅〜沢を尽くさせていただいた。
松林に桜咲くのか植林してあったが〜。
歴史書、経済学書多いに楽しめた。10年も続く不景気の状態に持ち前の血に火が着いた感である。
自立独歩の時がきてる様である。
地球環境破壊は計画経済の必要性を示している。
政治体制としての社会主義は滅んだが経済体制の優位性は微動だに揺ぎ無い。
資本論は一巻の剰余価値から読み始めるから難しい。
三巻から始めるべし。本来は実に楽しい書物である。1巻から読もうとするから多くのヒトは取り組まない。
剰余価値なんて文字読みたく無いでしょう。それも数学なんだもの。革命の書と思し召しがまるっきり違うんだから。
私は高校生の一年の時取り組みノイローゼ鬱病になった。
あの時の失敗は学業に取り組む魅力を失ってしまった。己の知識・能力の過信に対する自信の無さでの呆然たる状態。
石坂洋二郎や石原慎太郎、川端康成、黒岩重吾、梶山李之、
富山のヒトたるサラリーマンものの源氏鶏太ナントの背伸び。早く社会人で稼ぎたかったゆえ。
三島由紀夫、高見順、柴田翔、高橋和巳となってくると妖しき物となってくる最後の安保世代である。
経済学書の基本たる資本論は挫折した。
源氏物語が桐壺から読み始めると挫折するのと同じである
桐壺源氏と揶揄されるのが関の山。
我が国における経済学は1919年大正8年に東大における法学部から経済学部が独立から始まった。
身の丈一尺一寸五分の高野岩三郎教授の努力である。兄、房太郎は米国での日本労働運動の曙、黎明期を支えた。労働運動の闘士はみな彼の徒である。
長崎の仕立物屋に生まれ貧困であるにもかかわらず東大を卒業できたのは本人の利発さだけでなく兄の学費の仕送りの恩恵があればこそであった。
私といえば大内兵衛、向坂逸郎を師とあがめて宇野弘蔵も含め勝手に著書に行動に触れた。初めに名前ありきである。
もちろん山川均が科学的考えを行動に持ち込んだ先駆をなし中心であることは理解していた。
堺利彦の名に隠れてるが資本論の理解力、応用のことは特筆できることである。
東大教授、大森義太郎が早世したために負担は増したことであろう。櫛田民蔵が支えた。
このように観てくると解体新書を訳す杉田玄白、前野良沢の如きの感を呈している。
大原社会問題研究所は東大経済学部創立と同時に設立された。受難の進歩的学者の駆け込み寺たる鎌倉の縁きり寺の役割をを果たした。
法政大学に収斂された大原社会問題研究所は大阪から東京に引っ越す時解散の危機にあったが宮崎人が救った。
山内多聞は日向人たる都城がうんだ当代一の画伯で郷土の偉人
東京事務所引越し先は山内多門が住んでいたところであった。
このたび都城美術館の館長に服部克久についていただいた。昭和11年11月1日11時、東京都生まれ。近江敏郎であったか7年7月7日生まれの如しである。こいつぁ縁起がいいヤァ〜
日本作編曲家協会会長、日本作曲家協会理事、東京音楽祭会長などを歴任、日本の音楽の発展に尽力ぃただいた。
父君良一は12年に 30歳 にしてジャズ・コーラス「山寺の和尚さん」を作曲デビュー、戦後の国民的歌謡、青い山脈、ブギのリズムと明るいリズムで旋風を起こした。のちのピンキー・キラズの恋の季節のいずみ卓に似通っている底抜けの明るさ。
NHK国民歌謡「日本よい国」が初放送
岩切章太郎との交流もあってか宮崎になじみが深い。
西条八十 作曲 服部良一というこどもの国の歌がある。
フエニックス・ハネム〜ンはNHKのど自慢で全国一の先生はボランテ仲間。もちろんNHKアコーデオンは岩満が務めるのが習い。
小島恒久九大教授の日本資本主義政治史は金融恐慌〜軍縮〜金解禁〜大恐慌〜高橋財政までの流れを、経済史の観点から分析し、民衆や政治がいかに侵略の道に進んでいったかを分かりやすく示す書。
当時の民衆や資本の状況を知るためには、この視点が大いに有効。無理な成長路線→経済失政+国際環境→国内経済破壊と貧困の進展→国民の好戦意識の醸成→軍の跋扈+明治憲法の欠陥→15年戦争という
単純な図式がよく理解できる通史。
赤松要/有沢広巳/猪木正道/猪俣津南雄/上杉慎吉/上田貞次郎//浮田和民/宇沢弘文/宇野弘蔵//大内兵衛/大熊信行/大河内一男/大塚金之助/大塚久雄/大森義太郎/大山郁夫/小野塚喜平次/河合栄治郎/河上肇/河田嗣郎/神戸正雄/櫛田民蔵/小泉信三/高坂正尭//小宮隆太郎/坂本義和/向坂逸郎/杉亨二/隅谷三喜男/関寛治/高田保馬/高野岩三郎/高橋誠一郎/高橋正雄/辻清明/土屋喬雄/都留重人/東畑精一/永井陽之助/長洲一二/中山伊知郎/南原繁/蜷川虎三/橋爪明男/羽仁五郎/林健太郎/土方成美/日高六郎/福田徳三/藤原弘達/本庄栄治郎/ 舞出長五郎/丸山真男/濃部亮吉/森嶋通夫/森戸辰男/安井琢磨/矢内原忠雄/矢作栄蔵/矢部貞治/山崎覚次郎/山田盛太郎/吉野作造/蝋山政道/脇村義太郎/
北一輝や大川周明、西周も含め杉山茂丸、頭山満の右翼にも興味を持った。
89歳になる中国経済学者朱紹文になると大川内一男や大塚久雄、隅谷三喜男と79年時の親しんだ人々も出て実に楽しい。
竹内洋「大学という病 東大紛擾と教授群像」 [中公叢書 2001年10月10日初版]
東大紛擾といっても、主として昭和十四年の東京帝国大学経済学部のいわゆる平賀粛学問題をめぐる紛擾をあつかったものである。しか
し、昭和四十三年の東大全共闘による丸山真男研究室封鎖などもでてくる。昭和十年代と昭和四十年代におきたことにある種の共通点があ
るのではないか、あるいはそれは同じことのくりかえしなのではないか、という視点が背後にある。
主役は河合栄治郎、狂言まわしが大森義太郎。
昭和三年四月十七日、東京帝国大学の評議会において、「新人会」の解散が決定され、その後、
京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
竹内の見取り図によれば、大正教養主義を滅ぼしたは、マルクス主義の台頭なのだが、そのマルクス主義が弾圧という外因によって沈滞
そのことは大原社会問題研究所にも官憲が入り大阪の閉鎖が考え始められた。
そうしたあと、もう一度教養主義が甦る。その二度目の<昭和教養主義>の中心人物が河合栄治郎なのである。
この<昭和教養主義>は軍国主義の高まりによる右からの攻撃により弱体化するのだが、軍国主義と右派は、敗戦という外因によって衰退
する。だが、そこにもう一度甦るは昭和教養主義>の流れでもよかったのだが、実際に甦ったのは<マルクス主義的教養主義>?とでもい
うものであり、それは全共闘運動によって終焉することになる。
こういう見取り図であれば、昭和十年代と四十年代にある種の平行関係をみることは可能であろう。
本書によれば、マルクス主義は明治時代からすでに日本に紹介されては…
そんな中シーガイア松泉宮に遊んだ。併設の図書館は新札で時のヒトたる一葉の著書とか復刻でない原本で凄くいい本がタダで見れる。
尤もあんなチンケナ風呂に1.500円は高かろう。またもや同じ過ちの愚をやっている。
元気湯を見てみろ!アレが庶民!
露天風呂のお湯は溜めてあるだけ。大浴場が聞いて呆れる。お湯はふんだんに使わなきゃ〜
昼間ゆえか私一人の貸切り。ホント贅〜沢を尽くさせていただいた。
松林に桜咲くのか植林してあったが〜。
歴史書、経済学書多いに楽しめた。10年も続く不景気の状態に持ち前の血に火が着いた感である。
自立独歩の時がきてる様である。
地球環境破壊は計画経済の必要性を示している。
政治体制としての社会主義は滅んだが経済体制の優位性は微動だに揺ぎ無い。
資本論は一巻の剰余価値から読み始めるから難しい。
三巻から始めるべし。本来は実に楽しい書物である。1巻から読もうとするから多くのヒトは取り組まない。
剰余価値なんて文字読みたく無いでしょう。それも数学なんだもの。革命の書と思し召しがまるっきり違うんだから。
私は高校生の一年の時取り組みノイローゼ鬱病になった。
あの時の失敗は学業に取り組む魅力を失ってしまった。己の知識・能力の過信に対する自信の無さでの呆然たる状態。
石坂洋二郎や石原慎太郎、川端康成、黒岩重吾、梶山李之、
富山のヒトたるサラリーマンものの源氏鶏太ナントの背伸び。早く社会人で稼ぎたかったゆえ。
三島由紀夫、高見順、柴田翔、高橋和巳となってくると妖しき物となってくる最後の安保世代である。
経済学書の基本たる資本論は挫折した。
源氏物語が桐壺から読み始めると挫折するのと同じである
桐壺源氏と揶揄されるのが関の山。
我が国における経済学は1919年大正8年に東大における法学部から経済学部が独立から始まった。
身の丈一尺一寸五分の高野岩三郎教授の努力である。兄、房太郎は米国での日本労働運動の曙、黎明期を支えた。労働運動の闘士はみな彼の徒である。
長崎の仕立物屋に生まれ貧困であるにもかかわらず東大を卒業できたのは本人の利発さだけでなく兄の学費の仕送りの恩恵があればこそであった。
私といえば大内兵衛、向坂逸郎を師とあがめて宇野弘蔵も含め勝手に著書に行動に触れた。初めに名前ありきである。
もちろん山川均が科学的考えを行動に持ち込んだ先駆をなし中心であることは理解していた。
堺利彦の名に隠れてるが資本論の理解力、応用のことは特筆できることである。
東大教授、大森義太郎が早世したために負担は増したことであろう。櫛田民蔵が支えた。
このように観てくると解体新書を訳す杉田玄白、前野良沢の如きの感を呈している。
大原社会問題研究所は東大経済学部創立と同時に設立された。受難の進歩的学者の駆け込み寺たる鎌倉の縁きり寺の役割をを果たした。
法政大学に収斂された大原社会問題研究所は大阪から東京に引っ越す時解散の危機にあったが宮崎人が救った。
山内多聞は日向人たる都城がうんだ当代一の画伯で郷土の偉人
東京事務所引越し先は山内多門が住んでいたところであった。
このたび都城美術館の館長に服部克久についていただいた。昭和11年11月1日11時、東京都生まれ。近江敏郎であったか7年7月7日生まれの如しである。こいつぁ縁起がいいヤァ〜
日本作編曲家協会会長、日本作曲家協会理事、東京音楽祭会長などを歴任、日本の音楽の発展に尽力ぃただいた。
父君良一は12年に 30歳 にしてジャズ・コーラス「山寺の和尚さん」を作曲デビュー、戦後の国民的歌謡、青い山脈、ブギのリズムと明るいリズムで旋風を起こした。のちのピンキー・キラズの恋の季節のいずみ卓に似通っている底抜けの明るさ。
NHK国民歌謡「日本よい国」が初放送
岩切章太郎との交流もあってか宮崎になじみが深い。
西条八十 作曲 服部良一というこどもの国の歌がある。
フエニックス・ハネム〜ンはNHKのど自慢で全国一の先生はボランテ仲間。もちろんNHKアコーデオンは岩満が務めるのが習い。
小島恒久九大教授の日本資本主義政治史は金融恐慌〜軍縮〜金解禁〜大恐慌〜高橋財政までの流れを、経済史の観点から分析し、民衆や政治がいかに侵略の道に進んでいったかを分かりやすく示す書。
当時の民衆や資本の状況を知るためには、この視点が大いに有効。無理な成長路線→経済失政+国際環境→国内経済破壊と貧困の進展→国民の好戦意識の醸成→軍の跋扈+明治憲法の欠陥→15年戦争という
単純な図式がよく理解できる通史。
赤松要/有沢広巳/猪木正道/猪俣津南雄/上杉慎吉/上田貞次郎//浮田和民/宇沢弘文/宇野弘蔵//大内兵衛/大熊信行/大河内一男/大塚金之助/大塚久雄/大森義太郎/大山郁夫/小野塚喜平次/河合栄治郎/河上肇/河田嗣郎/神戸正雄/櫛田民蔵/小泉信三/高坂正尭//小宮隆太郎/坂本義和/向坂逸郎/杉亨二/隅谷三喜男/関寛治/高田保馬/高野岩三郎/高橋誠一郎/高橋正雄/辻清明/土屋喬雄/都留重人/東畑精一/永井陽之助/長洲一二/中山伊知郎/南原繁/蜷川虎三/橋爪明男/羽仁五郎/林健太郎/土方成美/日高六郎/福田徳三/藤原弘達/本庄栄治郎/ 舞出長五郎/丸山真男/濃部亮吉/森嶋通夫/森戸辰男/安井琢磨/矢内原忠雄/矢作栄蔵/矢部貞治/山崎覚次郎/山田盛太郎/吉野作造/蝋山政道/脇村義太郎/
北一輝や大川周明、西周も含め杉山茂丸、頭山満の右翼にも興味を持った。
89歳になる中国経済学者朱紹文になると大川内一男や大塚久雄、隅谷三喜男と79年時の親しんだ人々も出て実に楽しい。
竹内洋「大学という病 東大紛擾と教授群像」 [中公叢書 2001年10月10日初版]
東大紛擾といっても、主として昭和十四年の東京帝国大学経済学部のいわゆる平賀粛学問題をめぐる紛擾をあつかったものである。しか
し、昭和四十三年の東大全共闘による丸山真男研究室封鎖などもでてくる。昭和十年代と昭和四十年代におきたことにある種の共通点があ
るのではないか、あるいはそれは同じことのくりかえしなのではないか、という視点が背後にある。
主役は河合栄治郎、狂言まわしが大森義太郎。
昭和三年四月十七日、東京帝国大学の評議会において、「新人会」の解散が決定され、その後、
京大河上肇、東大大森義太郎、九大向坂逸郎らが大学から追われていく。その一ケ月前の三月十五日共産党に対する全国的な弾圧がおこな
われ、その検挙者のなかに学生がきわめて多かったことに対応するものであった。
竹内の見取り図によれば、大正教養主義を滅ぼしたは、マルクス主義の台頭なのだが、そのマルクス主義が弾圧という外因によって沈滞
そのことは大原社会問題研究所にも官憲が入り大阪の閉鎖が考え始められた。
そうしたあと、もう一度教養主義が甦る。その二度目の<昭和教養主義>の中心人物が河合栄治郎なのである。
この<昭和教養主義>は軍国主義の高まりによる右からの攻撃により弱体化するのだが、軍国主義と右派は、敗戦という外因によって衰退
する。だが、そこにもう一度甦るは昭和教養主義>の流れでもよかったのだが、実際に甦ったのは<マルクス主義的教養主義>?とでもい
うものであり、それは全共闘運動によって終焉することになる。
こういう見取り図であれば、昭和十年代と四十年代にある種の平行関係をみることは可能であろう。
本書によれば、マルクス主義は明治時代からすでに日本に紹介されては…
封殺!
2004年11月6日急遽フランスでの治療が決まったアラファトの病状であるが、どうも盛られたらしい。
医師団が議長の病気を回復不可能なものではないと見ていることや、急激な病状悪化の原因を依然、解明できていないことも明らかにした。
歴史には似たような事がある。幕末の孝明天皇が急変で亡くなった時の急変毒殺暗殺を示す側近の証言もある。
その後の倒幕派の台頭からして計画者は妖怪岩倉か大久保説も史実の裏に潜んでいる。
決まっていた征韓論を退け西郷を追い落としていく後の過程の手法ともよく似通っている。
ときあたかも戦時下の最大事件ゾルゲ処刑されて60年「星フルが如く」の尾崎秀実の著書は青春期の私を揺るがした。、
白井久也・日露歴史研究センター代表やロシア・ノーボスチ通信社東京支局のアンドレイ・フェシュン記者らはゆかりの地を訪問した。
尾崎秀実元朝日新聞記者の眠る府中市の多磨霊園の墓に参った後、港区内のゾルゲの旧居跡などを訪ね歩いた。
6日の「現代の情報戦とゾルゲ事件」の講演会ではゾルゲと尾崎の処刑記録が発見されたことが報告された。
尾崎が午前9時33分から、ゾルゲは同10時20分から絞首刑が執行されたとの秘密文書が開示されたとのこと。
ゾルゲ事件を巡ってはまだ謎が多い。袴田里見・伊藤律・野坂参三らの帰国時を期待したが伏せられたままである。
ゾルゲはドイツの新聞特派員として33年に来日し、41年秋、治安維持法違反で逮捕され、3年後、ロシア革命記念日の11月7日に東京拘置所で処刑された。
スパイの功績?は日本軍が対ソ戦を回避し、南進するという情報を打電したとされている。
読売の記事でアメリカの裁判官の人選の問題が書かれていた。ブッシュの任命者ばかりではないか。
軍事国家アメリカの裁判制度はジェンキンス氏裁判での意外な結末であった。
ジェンキンスさん 禁固三十日の判決を5日受け、収監された。軍事裁判の行方を予測する日本国内の反応は、猶予刑と不名誉除隊、即日釈放だったはずだ。
軍備国家は、日本人が考える以上に軍律違反を厳しく処罰する。
これとて 有罪を認める代わりに三十日を超える刑にしないとの司法取引があったればこそだ。本来なら禁固十五年前後の犯罪である。
その司法取引が成立したのも、日本人の北朝鮮拉致被害者らを救済しようとする世論の後押しがあったから、である。
戦後五十年余を徴兵制度のない、憲法上は非軍事国家を標榜してきた故の、判断の甘さといえる。
、「ベトナム戦線に送られるうわさを聞き、怖くなった。北朝鮮経由でロシアの米大使館に亡命するつもりだった」
とジェンキンスさんは脱走を語っている。
司法取引という特殊な状況であり、当初報道された共産主義信奉という思想的確信犯行を否定した。今後も「真実」が明るみに出る機会はないだろう。
思想・信条、宗教などの自由を保障する民主国家ですら、戦時の日常は規制される。イラク戦の作戦行動下の軍隊においてはなおさらだ。
憲法改正、再軍備、徴兵制復活を真剣に考察する材料にすべきだ。
「一度拒否したら北朝鮮の男たちに殴られた。あの国ではノーと言ってはいけないことを学んだ」と証言している。
分がないと知れば居直り、恫喝に転じる。やくざまがいの無頼な外交姿勢は、国内統治をそのまま反映していたわけだ。
似たような事を経験した私である。APAにおける私の受けた社長からの暴力事件の異常さがわかろうというものだ。
ジェンキンスさんは、「脱走教唆」と「米軍に対する背任奨励」の訴追を免れた。しかし彼は、北朝鮮製作の反米映画に出演。在韓米軍
に向けたラジオ放送で、同様の宣伝をしている証拠も提示された。
“生き延びるため”の方便だったのであろうが、金政権の中に組み込まれていた事実関係は否定できない。
知り得た内部情報は、うわさ話やまた聞きなどを含めると、日本人拉致事件のほかにも多岐にわたると思われる。
ジェンキンスさんがこの後負うはずの“義務”は、知り得た北朝鮮情報の完全提供となろう。
トリカブトに象徴される毒殺物。サリンはもってのほか論外だ。
聖心ウルスラ学園短期大学 の 川瀬千恵子教授なり、河野千香子 先生にお伺いしたい物である。
食べ合わせとの講義からして毒物についても解説して貰えるやも知れない。
陳べておられることからは次のようなことである。
昔からよく言われる”食べ合わせ”に「うなぎと梅干し」「天ぶらと西瓜」「かにと氷水」等があります。
このような”食べ合わせ”をしるした古書は、室町時代の
「躾方之事」とか江戸時代の貝原益軒著
「養生訓」とか、江戸時代後期の高井伴寛著
「食事養生解」など色々あります。
日本の食禁思想。さしあいともいう。
室町末期の『躾方之事』(しつけかたのこと)に42の組み合わせの例が記されている。
食べ合わせは古代中国の“陰陽五行説”からでたもので、陰と陽の組み合わせの相性で決める。
1.ウナギと梅干
2.タニシとそば
3. 赤飯とフグ
4.牛肉とほうれん草
温冷説
ラテンアメリカに広がる、すべての食べものは、体温を基準にして温と冷に分けられていて、
バランスよく摂取する必要があるとされる説。熱いと冷たいの2分法は、病気や薬草、薬にまで当てはめられ
人間はあまり熱すぎたり、冷たすぎたりすると、病気になり、ときに死に至ると信じられている.
熱い
牛肉、山羊、鶏、うさぎ、りす、鹿、トルティーヤ、パン、卵、とうがらし、チョコレート、蜂蜜、ピーナツ、桃、りんご、砂糖、ワイン
中性
トルティーヤ、スクワッシュ、ジャガイモ、こめ、パン
冷たい
豚肉、魚、おんどり、七面鳥、ラード、ジャガイモ、こめ、ミルク、チーズ、レモン、たまねぎ、豆、トマト、スクワッシュ、にんじん、
ビール、ソーダ水
資料)滝口直子、秋野晃司編『食と健康の文化人類学』
出産のタブー
出産前の女性の食事制限
・ 秋ナスは嫁に食わすな
・ 2股大根を食べると双子が生まれる
・ ウサギ肉を食べると、3つ口の子供が生まれる
⇒全く根拠なし
死のタブー
服忌・・・人の死を不浄と考えるもの
・ 食器の上で2人一緒に同じ料理を挟むな(2人箸)
・ 飯に箸を1本立てるな(立て箸)
⇒故人を忍びながら、死を恐れる気持ちの表われ
それらの内容は、ほとんど食べ合わせしてはならないというものでした。
食品の性質を考えて食すれば問題ありません。
食品の組合わせは、いいかえればプラス効果の食べ合わせといえるわけです。
1. プラス効果め食べ合わせ
?栄養の効用を高める”食べ合わせ
?栄養素の吸収を高める食べ合わせ
?解毒、除毒を高める食べ合わせ
?味、色をよくする食べ合わせ
2. マイナス効果の食べ合わせ
?カルシウムとリン酸塩
?砂糖と脂肪
?鉄とタンニン
?食物繊維とカルシウム
?加工食品の食べ合わせ
<食べ合わせの効果を高める調理実習>
1.吹き寄せごはん
2.手まり麩の吸い物
3.鶏肉の治部煮
4.柿入りごま酢和え
医食同源が忘れ去られ様としてる多忙すぎ私だが、専務といると楽。
ジョイフル、ダイエーキャンプ と息き抜き。
つかの間の追っかけさんをやってみた。快適!
軍事法廷も、垣間見えた北朝鮮の実態も、不快であ…
医師団が議長の病気を回復不可能なものではないと見ていることや、急激な病状悪化の原因を依然、解明できていないことも明らかにした。
歴史には似たような事がある。幕末の孝明天皇が急変で亡くなった時の急変毒殺暗殺を示す側近の証言もある。
その後の倒幕派の台頭からして計画者は妖怪岩倉か大久保説も史実の裏に潜んでいる。
決まっていた征韓論を退け西郷を追い落としていく後の過程の手法ともよく似通っている。
ときあたかも戦時下の最大事件ゾルゲ処刑されて60年「星フルが如く」の尾崎秀実の著書は青春期の私を揺るがした。、
白井久也・日露歴史研究センター代表やロシア・ノーボスチ通信社東京支局のアンドレイ・フェシュン記者らはゆかりの地を訪問した。
尾崎秀実元朝日新聞記者の眠る府中市の多磨霊園の墓に参った後、港区内のゾルゲの旧居跡などを訪ね歩いた。
6日の「現代の情報戦とゾルゲ事件」の講演会ではゾルゲと尾崎の処刑記録が発見されたことが報告された。
尾崎が午前9時33分から、ゾルゲは同10時20分から絞首刑が執行されたとの秘密文書が開示されたとのこと。
ゾルゲ事件を巡ってはまだ謎が多い。袴田里見・伊藤律・野坂参三らの帰国時を期待したが伏せられたままである。
ゾルゲはドイツの新聞特派員として33年に来日し、41年秋、治安維持法違反で逮捕され、3年後、ロシア革命記念日の11月7日に東京拘置所で処刑された。
スパイの功績?は日本軍が対ソ戦を回避し、南進するという情報を打電したとされている。
読売の記事でアメリカの裁判官の人選の問題が書かれていた。ブッシュの任命者ばかりではないか。
軍事国家アメリカの裁判制度はジェンキンス氏裁判での意外な結末であった。
ジェンキンスさん 禁固三十日の判決を5日受け、収監された。軍事裁判の行方を予測する日本国内の反応は、猶予刑と不名誉除隊、即日釈放だったはずだ。
軍備国家は、日本人が考える以上に軍律違反を厳しく処罰する。
これとて 有罪を認める代わりに三十日を超える刑にしないとの司法取引があったればこそだ。本来なら禁固十五年前後の犯罪である。
その司法取引が成立したのも、日本人の北朝鮮拉致被害者らを救済しようとする世論の後押しがあったから、である。
戦後五十年余を徴兵制度のない、憲法上は非軍事国家を標榜してきた故の、判断の甘さといえる。
、「ベトナム戦線に送られるうわさを聞き、怖くなった。北朝鮮経由でロシアの米大使館に亡命するつもりだった」
とジェンキンスさんは脱走を語っている。
司法取引という特殊な状況であり、当初報道された共産主義信奉という思想的確信犯行を否定した。今後も「真実」が明るみに出る機会はないだろう。
思想・信条、宗教などの自由を保障する民主国家ですら、戦時の日常は規制される。イラク戦の作戦行動下の軍隊においてはなおさらだ。
憲法改正、再軍備、徴兵制復活を真剣に考察する材料にすべきだ。
「一度拒否したら北朝鮮の男たちに殴られた。あの国ではノーと言ってはいけないことを学んだ」と証言している。
分がないと知れば居直り、恫喝に転じる。やくざまがいの無頼な外交姿勢は、国内統治をそのまま反映していたわけだ。
似たような事を経験した私である。APAにおける私の受けた社長からの暴力事件の異常さがわかろうというものだ。
ジェンキンスさんは、「脱走教唆」と「米軍に対する背任奨励」の訴追を免れた。しかし彼は、北朝鮮製作の反米映画に出演。在韓米軍
に向けたラジオ放送で、同様の宣伝をしている証拠も提示された。
“生き延びるため”の方便だったのであろうが、金政権の中に組み込まれていた事実関係は否定できない。
知り得た内部情報は、うわさ話やまた聞きなどを含めると、日本人拉致事件のほかにも多岐にわたると思われる。
ジェンキンスさんがこの後負うはずの“義務”は、知り得た北朝鮮情報の完全提供となろう。
トリカブトに象徴される毒殺物。サリンはもってのほか論外だ。
聖心ウルスラ学園短期大学 の 川瀬千恵子教授なり、河野千香子 先生にお伺いしたい物である。
食べ合わせとの講義からして毒物についても解説して貰えるやも知れない。
陳べておられることからは次のようなことである。
昔からよく言われる”食べ合わせ”に「うなぎと梅干し」「天ぶらと西瓜」「かにと氷水」等があります。
このような”食べ合わせ”をしるした古書は、室町時代の
「躾方之事」とか江戸時代の貝原益軒著
「養生訓」とか、江戸時代後期の高井伴寛著
「食事養生解」など色々あります。
日本の食禁思想。さしあいともいう。
室町末期の『躾方之事』(しつけかたのこと)に42の組み合わせの例が記されている。
食べ合わせは古代中国の“陰陽五行説”からでたもので、陰と陽の組み合わせの相性で決める。
1.ウナギと梅干
2.タニシとそば
3. 赤飯とフグ
4.牛肉とほうれん草
温冷説
ラテンアメリカに広がる、すべての食べものは、体温を基準にして温と冷に分けられていて、
バランスよく摂取する必要があるとされる説。熱いと冷たいの2分法は、病気や薬草、薬にまで当てはめられ
人間はあまり熱すぎたり、冷たすぎたりすると、病気になり、ときに死に至ると信じられている.
熱い
牛肉、山羊、鶏、うさぎ、りす、鹿、トルティーヤ、パン、卵、とうがらし、チョコレート、蜂蜜、ピーナツ、桃、りんご、砂糖、ワイン
中性
トルティーヤ、スクワッシュ、ジャガイモ、こめ、パン
冷たい
豚肉、魚、おんどり、七面鳥、ラード、ジャガイモ、こめ、ミルク、チーズ、レモン、たまねぎ、豆、トマト、スクワッシュ、にんじん、
ビール、ソーダ水
資料)滝口直子、秋野晃司編『食と健康の文化人類学』
出産のタブー
出産前の女性の食事制限
・ 秋ナスは嫁に食わすな
・ 2股大根を食べると双子が生まれる
・ ウサギ肉を食べると、3つ口の子供が生まれる
⇒全く根拠なし
死のタブー
服忌・・・人の死を不浄と考えるもの
・ 食器の上で2人一緒に同じ料理を挟むな(2人箸)
・ 飯に箸を1本立てるな(立て箸)
⇒故人を忍びながら、死を恐れる気持ちの表われ
それらの内容は、ほとんど食べ合わせしてはならないというものでした。
食品の性質を考えて食すれば問題ありません。
食品の組合わせは、いいかえればプラス効果の食べ合わせといえるわけです。
1. プラス効果め食べ合わせ
?栄養の効用を高める”食べ合わせ
?栄養素の吸収を高める食べ合わせ
?解毒、除毒を高める食べ合わせ
?味、色をよくする食べ合わせ
2. マイナス効果の食べ合わせ
?カルシウムとリン酸塩
?砂糖と脂肪
?鉄とタンニン
?食物繊維とカルシウム
?加工食品の食べ合わせ
<食べ合わせの効果を高める調理実習>
1.吹き寄せごはん
2.手まり麩の吸い物
3.鶏肉の治部煮
4.柿入りごま酢和え
医食同源が忘れ去られ様としてる多忙すぎ私だが、専務といると楽。
ジョイフル、ダイエーキャンプ と息き抜き。
つかの間の追っかけさんをやってみた。快適!
軍事法廷も、垣間見えた北朝鮮の実態も、不快であ…
日本・米・は環境を守る
2004年11月5日太陽光発電の設置を薦めるためにNEFなるかっての通産省の機関の財団法人がある。
事務所は赤坂の紀尾井町ビルで公務員でもなく民間人でもない厄介な役人がいる。
本年3月にはこの地まで出向くハメになった苦い経験である。
赤坂見付け駅で下車して弁慶橋を渡り、目印である前にに高くそびえる赤坂プリンスホテルを右に廻って、大久保利通の殉教の地清水公園でしばし感嘆して目的地に着いたものだ。
弁慶橋のたもとには貸ボート屋があり、弁慶橋は 棟梁で知られた弁慶小左衛門が築いたことに由来。明治22年に創架。
赤坂プリンスホテルの名称は旧・北白川宮邸、日韓併合で朝鮮を滅した日本は李王家をこの地に住まわし日本の宮様とした。
朝鮮李朝の東京邸跡地に由来してる、呪われた地ではないか。江戸時代は紀伊徳川家中屋敷であった。
戦後西武のピストル堤が戦後買収した。
昭和5年(1930)建築の宮内庁内匠寮設計による木造地上2階、一部地下1階寄棟造りで昭和初期の洋式建築の旧館も現存しブライダルとか芸能
人のパーテーとして使用されている。とはHPよりの情報である。
戦後、丹下健三設計による超高層40階建てのクリスタル・パレス(略称赤プリ)別館、五色が建ち、ホテルニューオータニとともに赤坂見附交差点からの眺めに偉容を誇っている。
私みたいな田舎ものでもシーガイヤを毎日見てるので40Fは5階低いではないか、とのへんな自信がある。
赤坂見附とは江戸城三十六見附の一つ。見附とは濠の門をさし、見張所という意味。明治5年(1872)に撤廃された赤坂御門の跡である。
枡形の石垣石の刻印に福岡藩黒田家の赤坂見附跡とある。
日枝神社は文明10(1478)年太田道灌が江戸築城にあたり、守護神として川越山王社から勧請した。
その後、徳川家康の江戸入城に際して城内の紅葉山に国家鎮護の基としてこれを祀った。
毎年6月15日の祭礼は天下祭と称されて神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭りとされた。
二つの神社の神輿だけが、将軍の高覧を受け、半蔵門から江戸城に入ることを許されたので、「天下祭り」と呼ばれた。
境内には、国歌に登場するさざれ石が置かれている。
この石の親戚筋が高千穂の天岩戸神社にも保管されている。
日枝神社は二・二六事件のあったところだ。昭和11(1936)年の二・二六事件当時、料亭「幸楽」とともに本部として皇道派反乱軍部隊が一時占拠したことで知られる。
談志師匠にして五代目小さんが参加したから負けた戦いである。
知らず知らずに反乱軍にいた五代目小さん。この反乱部隊はその後も受難が続いた。
反乱軍は雪の中、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃した。松本清張らの研究によって、一部皇居内近衛軍との連携によって皇居侵入の可能性も指摘されている。近衛軍が動かず、現実のものとはならなかった。
岡田啓介首相は難を逃れて命が助かったものの、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らは殺害され、命を落とした。
昭和天皇の怒りを受けて、クーデタは鎮圧されたが、戒厳令の中、閣僚の人選について軍の意見を入れた広田弘毅内閣が成立し城山三郎は『落日燃ゆ』の中で広田を弁護しているが軍部を政権に近づけてしまった内閣である。
山王ホテルは戦後になって、米軍に接収され、米軍宿舎として使用された。
溜池跡江戸時代から明治時代中頃までは、赤坂見附から山王坂下までが池であった。
神田上水や玉川上水などが完成する以前は、江戸の人々の飲み水として溜池の水が、江戸城内濠の千鳥が淵、牛が淵とともに利用されていた。
明治初年でも、幅の最も広いところで約2丁(220m)もあり、明治5(1872)年まで日枝神社下から対岸の赤坂田町4丁目まで、渡し舟が通っていたという。
3代将軍徳川家光は子供の頃、溜池で水泳を楽しんだと伝えられる。溜池は現在の清水谷公園あたりに水源をもとめる天然の遊水池だったので、明治43(1910)年の大洪水で溜池一帯が大被害を受けた。
溜池の交差点から約50mほど赤坂見附寄りのところに、溜池跡の碑を見ることができる。永田町千代田区皇居の南、内濠(桜田濠)を隔てた地域。町名は永田伝十郎らの武家屋敷があったことに由来する
何故にココまでも引っ張るのか。
落語ファンにして江戸学は楽しい
昨日の11月四日、世界イネ研究会議が東京で開かれた。(会場は赤坂プリンスホテル)なのである。
この世界イネ研究会議は、〇四年が国連の定めた「国際コメ年」にあたっており、それにもとづいて世界各国が「食糧安全保障の確保と貧困撲滅」のために、コメが果す役割の重要性を再認識すべく設定されたものだ。
なぜコメが重要なのか、それは世界の半数以上の人びとの主食であることと、栄養価においてムギやトウモロコシなどをはるかにしのぐ穀物であるからだ。
マレーシアのカリマンタン(ボルネオ)島のキナバル山(4101メートル)を中心に東に二五度が「葦牙(あしかび)の国」日本であり、西に二五度が「葦の生える沼沢地」カルカッタで、この地帯は生物学では「アジア・グリーンベルト」と緑が多いのである。
その緑を代表する植物が温暖湿潤の地に生える葦であるが、葦はムギやトウモロコシなどと同じく、イネ(禾本(かほん))科に属している。
つまり東は日本から西はインド(カルカッタ)までの葦の生える「泥の風土」において、人びとはその葦をふくむイネ科の穀物類から最終的にコメを選び出したのである。
そして、そこに世界最大の人口を養い、定住させることになったのである。その意味では、コメが「泥の文明」を成り立たせている、ともいえるわけだ。
日本民俗学の柳田国男は、日本とは何か、と問うて、その構成要素を「島国」と「コメづくり」と答えた。これに、「定住」、という要素を付け加えればいい。
コメづくりは一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして一つの国の内部に富を蓄積し、増大させるのである。
近代欧米の文明は、牧畜を基幹産業とすることによって、その発展のために新しい土地(テリトリー)を獲得し、「外に進出する」こと
を必然としてきた。欧米の文明は「外に進出する力」をその本質とするのである。
しかし、地球はいまや「外に進出する」土地の余裕がない。環境はますます悪化し、人口は増え続けている。現在、世界の人口は六十億人を数え、50年には百億人に達すると予想される。
としたら、それぞれの民族が先祖伝来の土地に「定住」して生きてゆくために、一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして
一つの国の内部に富を蓄積し増大してゆくコメづくりの「内に蓄積する力」を、いまこそ再認識することが必要だ。
コメづくりを産業と考えれば、アメリカのカリフォルニア州のように、大した利益があがらないとなればコメづくりをやめイチゴづくりに変え、
いざとなればディズニーランドに土地を売り払って別の土地に移住してゆく。そこには「暮らし」にもとづく文化(民族の生きるかたち)は生まれない。
コメづくりを「暮らし」とするためには、土地の人びとによる共同の水路づくりや草取りや土地改良、そうして品種改良や品質管理が必要とされる。つまり、「共同体」が形成されなければならない。
もはや通用せぬ欧米文明、地球環境救うコメづくりの意義を参加予定者1千名はかみしめてほしいものだ
事務所は赤坂の紀尾井町ビルで公務員でもなく民間人でもない厄介な役人がいる。
本年3月にはこの地まで出向くハメになった苦い経験である。
赤坂見付け駅で下車して弁慶橋を渡り、目印である前にに高くそびえる赤坂プリンスホテルを右に廻って、大久保利通の殉教の地清水公園でしばし感嘆して目的地に着いたものだ。
弁慶橋のたもとには貸ボート屋があり、弁慶橋は 棟梁で知られた弁慶小左衛門が築いたことに由来。明治22年に創架。
赤坂プリンスホテルの名称は旧・北白川宮邸、日韓併合で朝鮮を滅した日本は李王家をこの地に住まわし日本の宮様とした。
朝鮮李朝の東京邸跡地に由来してる、呪われた地ではないか。江戸時代は紀伊徳川家中屋敷であった。
戦後西武のピストル堤が戦後買収した。
昭和5年(1930)建築の宮内庁内匠寮設計による木造地上2階、一部地下1階寄棟造りで昭和初期の洋式建築の旧館も現存しブライダルとか芸能
人のパーテーとして使用されている。とはHPよりの情報である。
戦後、丹下健三設計による超高層40階建てのクリスタル・パレス(略称赤プリ)別館、五色が建ち、ホテルニューオータニとともに赤坂見附交差点からの眺めに偉容を誇っている。
私みたいな田舎ものでもシーガイヤを毎日見てるので40Fは5階低いではないか、とのへんな自信がある。
赤坂見附とは江戸城三十六見附の一つ。見附とは濠の門をさし、見張所という意味。明治5年(1872)に撤廃された赤坂御門の跡である。
枡形の石垣石の刻印に福岡藩黒田家の赤坂見附跡とある。
日枝神社は文明10(1478)年太田道灌が江戸築城にあたり、守護神として川越山王社から勧請した。
その後、徳川家康の江戸入城に際して城内の紅葉山に国家鎮護の基としてこれを祀った。
毎年6月15日の祭礼は天下祭と称されて神田明神の祭礼とともに江戸の二大祭りとされた。
二つの神社の神輿だけが、将軍の高覧を受け、半蔵門から江戸城に入ることを許されたので、「天下祭り」と呼ばれた。
境内には、国歌に登場するさざれ石が置かれている。
この石の親戚筋が高千穂の天岩戸神社にも保管されている。
日枝神社は二・二六事件のあったところだ。昭和11(1936)年の二・二六事件当時、料亭「幸楽」とともに本部として皇道派反乱軍部隊が一時占拠したことで知られる。
談志師匠にして五代目小さんが参加したから負けた戦いである。
知らず知らずに反乱軍にいた五代目小さん。この反乱部隊はその後も受難が続いた。
反乱軍は雪の中、約1400名の兵を率いて首相官邸・警視庁などを襲撃した。松本清張らの研究によって、一部皇居内近衛軍との連携によって皇居侵入の可能性も指摘されている。近衛軍が動かず、現実のものとはならなかった。
岡田啓介首相は難を逃れて命が助かったものの、高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らは殺害され、命を落とした。
昭和天皇の怒りを受けて、クーデタは鎮圧されたが、戒厳令の中、閣僚の人選について軍の意見を入れた広田弘毅内閣が成立し城山三郎は『落日燃ゆ』の中で広田を弁護しているが軍部を政権に近づけてしまった内閣である。
山王ホテルは戦後になって、米軍に接収され、米軍宿舎として使用された。
溜池跡江戸時代から明治時代中頃までは、赤坂見附から山王坂下までが池であった。
神田上水や玉川上水などが完成する以前は、江戸の人々の飲み水として溜池の水が、江戸城内濠の千鳥が淵、牛が淵とともに利用されていた。
明治初年でも、幅の最も広いところで約2丁(220m)もあり、明治5(1872)年まで日枝神社下から対岸の赤坂田町4丁目まで、渡し舟が通っていたという。
3代将軍徳川家光は子供の頃、溜池で水泳を楽しんだと伝えられる。溜池は現在の清水谷公園あたりに水源をもとめる天然の遊水池だったので、明治43(1910)年の大洪水で溜池一帯が大被害を受けた。
溜池の交差点から約50mほど赤坂見附寄りのところに、溜池跡の碑を見ることができる。永田町千代田区皇居の南、内濠(桜田濠)を隔てた地域。町名は永田伝十郎らの武家屋敷があったことに由来する
何故にココまでも引っ張るのか。
落語ファンにして江戸学は楽しい
昨日の11月四日、世界イネ研究会議が東京で開かれた。(会場は赤坂プリンスホテル)なのである。
この世界イネ研究会議は、〇四年が国連の定めた「国際コメ年」にあたっており、それにもとづいて世界各国が「食糧安全保障の確保と貧困撲滅」のために、コメが果す役割の重要性を再認識すべく設定されたものだ。
なぜコメが重要なのか、それは世界の半数以上の人びとの主食であることと、栄養価においてムギやトウモロコシなどをはるかにしのぐ穀物であるからだ。
マレーシアのカリマンタン(ボルネオ)島のキナバル山(4101メートル)を中心に東に二五度が「葦牙(あしかび)の国」日本であり、西に二五度が「葦の生える沼沢地」カルカッタで、この地帯は生物学では「アジア・グリーンベルト」と緑が多いのである。
その緑を代表する植物が温暖湿潤の地に生える葦であるが、葦はムギやトウモロコシなどと同じく、イネ(禾本(かほん))科に属している。
つまり東は日本から西はインド(カルカッタ)までの葦の生える「泥の風土」において、人びとはその葦をふくむイネ科の穀物類から最終的にコメを選び出したのである。
そして、そこに世界最大の人口を養い、定住させることになったのである。その意味では、コメが「泥の文明」を成り立たせている、ともいえるわけだ。
日本民俗学の柳田国男は、日本とは何か、と問うて、その構成要素を「島国」と「コメづくり」と答えた。これに、「定住」、という要素を付け加えればいい。
コメづくりは一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして一つの国の内部に富を蓄積し、増大させるのである。
近代欧米の文明は、牧畜を基幹産業とすることによって、その発展のために新しい土地(テリトリー)を獲得し、「外に進出する」こと
を必然としてきた。欧米の文明は「外に進出する力」をその本質とするのである。
しかし、地球はいまや「外に進出する」土地の余裕がない。環境はますます悪化し、人口は増え続けている。現在、世界の人口は六十億人を数え、50年には百億人に達すると予想される。
としたら、それぞれの民族が先祖伝来の土地に「定住」して生きてゆくために、一粒のコメ、一枚の田、一つの共同体=ムラ、そうして
一つの国の内部に富を蓄積し増大してゆくコメづくりの「内に蓄積する力」を、いまこそ再認識することが必要だ。
コメづくりを産業と考えれば、アメリカのカリフォルニア州のように、大した利益があがらないとなればコメづくりをやめイチゴづくりに変え、
いざとなればディズニーランドに土地を売り払って別の土地に移住してゆく。そこには「暮らし」にもとづく文化(民族の生きるかたち)は生まれない。
コメづくりを「暮らし」とするためには、土地の人びとによる共同の水路づくりや草取りや土地改良、そうして品種改良や品質管理が必要とされる。つまり、「共同体」が形成されなければならない。
もはや通用せぬ欧米文明、地球環境救うコメづくりの意義を参加予定者1千名はかみしめてほしいものだ
癌・・・
2004年11月4日ガン宣告はテレビ時代を告げる生き方を問うた逸見政孝のショックな「私はガンです!」宣言を嚆矢とする。
何時も仕事をしている大先輩の弟さんが肝臓ガンとのこと。
家系を継がれ母親さんを看られる長男坊代理ゆえ大先輩は立場上とくに辛い。
「患部の場所ゆえ、覚悟が必要ですぞ!」
私の言葉は冷たい現実を照射する。誰かが役目を果たす必要があるからである。
ただ、「ガンと闘うな!とのご本の紹介も忘れぬアドバイスで早速買って読破されたそうでホッとしてる。
もちろんベルポの会のガン秘薬やハ〜モニ〜水もご紹介する。羊水ならよくなるやも知れぬ。
壊疽であろう。専務の敬愛する吉○社長さんがご病気で足の切断で嘆き悲しんでおられる。
私は罵声を浴びせる。
「切断でよかった!」
怪訝な顔つきは怒りにかわっている。
「いのち永らえたではないかぁ〜。」
わたしの論理である。
驚愕した落ち込んだ姿が変わる。
「貴方は当事者や家族でない。どう励ますかの役割のはず。同じレベルで嘆き悲しんでたのではポジションを果たしてない。」
「病気は自分で治癒できる。酵素とか治癒の力をどう本人から引き出させるかが周りのものの務め。闘ってるのは本人」
人間の業たる落語を追及する談志師匠からの教え。馬琴師の噺でもある。
新聞を読むと訃報記事ばかりである。
DNA構造解明でノーベル賞、のクリック博士死去 88歳07/30 の953年,WatsonとClickF・ DNAの二重らせん構造の発見に寄与したノーベル賞受賞学者のBurnetとMedawarモーリス・ウィルキンス博士が5日、ロンドン市内の病院で死去した。87歳。
ディスクジョッキーの渡辺実さん死去 は10月30日、食道がんである、53歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日、お別れの会を開く。喪主は妻一代さん。自宅は公表していない。
ビデオジョッキーの草分けの1人。テレビ朝日「MTVミュージックテレビジョン」の初代ジョッキーを務め、放送作家、演出家としても活躍した。 (11/02 )
ノーベル賞の有力候補、前神戸大学長の西塚泰美さん死去
-
がんや免疫などにかかわる細胞内の情報伝達の仕組みを解明し、ノーベル賞の候補にも名が挙がっていた前神戸大学長、西塚泰美(にしづか・やすとみ)さんが4日午前1時28分、くも膜下出血のため、神戸市中央区の病院で死去、72歳。
、葬儀は7日午前11時30分から兵庫県芦屋市平田町3の6の自宅で近親者のみで行う。喪主は妻祥子(さちこ)さん。
3日昼すぎ、神戸市中央区の神戸国際会議場で開かれていた県立病院学会の昼食時に倒れ、意識不明に陥った。
兵庫県芦屋市生まれ。京都大医学部卒。62年に京大医学部医化学教室の助手、64年に同助教授になった後、米ロックフェラー大学に
留学した。69年、神戸大医学部教授に就任。77年、細胞表面に届いたホルモンなどの情報を内部に伝える物質「たんぱく質リン酸化酵素C」(PKC)を発見した。
PKCがカルシウムイオンと連動して働く仕組みも解明し、世界的に注目を浴びた。その後、細胞の成長やがん化、免疫、血圧の調整などの幅広い生命現象にPKCがかかわっていることがわかっている。
95年2月から01年2月まで神戸大学長。兵庫県立成人病センター総長なども務めていた。86年の朝日賞と日本学士院賞、88年の文化勲章をはじめ、米ラスカー賞(89年)、京都賞(92年)、イスラエルのウルフ賞(95年)など権威ある賞を次々に受けた。
一連の論文のうちの一つは80年代に出された世界中の論文の中で一番多く引用された。このため90年代から、ノーベル医学生理学賞の有力候補の一人に挙げられてきた。 (11/04 )
西華産業元常務の鈴川正久さん死去 ロシア友好に貢献
かってノモンハンに興味があった頃の注目してた方である。
鈴川 正久さん(すずかわ・まさひさ=元西華産業常務)が1日、膀胱(ぼうこう)がんで死去、89歳。葬儀は3日午後1時から兵庫
県西宮市高畑町2の25のエテルノ西宮で。喪主は長男洋平さん。自宅は公表していない。
元シベリア抑留者で、ノモンハン事件で戦死した日本兵やシベリア抑留に関するロシア側の資料を収集し、遺族に届ける活動を展開。日
ロ間の少年スポーツ交流などに尽力し、95年にロシア政府から日本人初の友好勲章を受章した。(11/02 18:49)
社会に巣くうガンは努力でかなり改善できよう。
もちろん完治までには行かないだろう。
所詮資本主義社会の限界点である。
常に金儲けがないと生きては行けぬゆえである。
やはり失業、家族も含めた総ての崩壊ではやり切れぬ。
程度、手加減をもっての改善である。
平和な環境は大風呂敷過ぎて理解できぬが身近な点検で理解できよう。
地球環境の破壊ガソリンの採掘30年、これからのエネルギーは・・
思想レベルの強要が行き着く先の社会はないがあるのか。
働いてる環境のレベルで七転八倒するしかないようである。
あちことにガン因子が蔓延している。
愛煙家が3割を割ったとのこと。
24本入りの3箱の私が挑戦し始めて今日でナン日目になろうか。
禁断症状どころではない。
これならガン因子を誘発しての愛煙家の方がいい。
フグは食いたし、命はほしし。
秋の味覚を味わわぬまま季節が通り過ぎてはいまいか。
美しき日本の四季を楽しまぬ手はない。
いのちを考えることは腹にこたえるようである。
食うは考えるのガンなのか。何をおいて食しよう
APAのガンは私が取り除くしかない。
経理状態が尋常ではない。
法人組織である以上恥かしきことがないようにしなければならぬ。
構成員全員の責任であるはずだ。
付け焼刃的解決法では綻びは又出てくる。
どだいパネル業者たるAPAが本家本元の○ガスからパネルが引けずして会社の呈をなしていない。
支払の商慣習を果たさずして、何が企業ぞ!
親会社をナメてはいけない。
商社ルートは私の了解無くして、パネルは引けないはず。
直ちに抗議した。もちろん大企業たる担当さんにもである。
「私はせきやんさんの人柄でつきあってきました。APAではありません今回の異常さは知っての処置でした。」
この清さやよし!社会は根っからは腐ってはいない。
腐ってるのはAPAの傲慢さだけである。
たった一人の横暴を許しているからである。
これははっきり言う。犯罪である。
それも重なってるゆえ悪質である。
地位利用罪も加算されるであろう。
危険は承知の上である。来るならこい!
私流の喧嘩である。
ワッパの喧嘩は、とうの昔に捨て去っている。
暴力では解決できぬ。ブッシュから教えてもらった。
この喧嘩は何が何でも勝たねばならぬ。
ガンに病んだ瀕死の地球。
地球環境を守り抜くと言う太陽光発電の命題を実現する為である。
何時も仕事をしている大先輩の弟さんが肝臓ガンとのこと。
家系を継がれ母親さんを看られる長男坊代理ゆえ大先輩は立場上とくに辛い。
「患部の場所ゆえ、覚悟が必要ですぞ!」
私の言葉は冷たい現実を照射する。誰かが役目を果たす必要があるからである。
ただ、「ガンと闘うな!とのご本の紹介も忘れぬアドバイスで早速買って読破されたそうでホッとしてる。
もちろんベルポの会のガン秘薬やハ〜モニ〜水もご紹介する。羊水ならよくなるやも知れぬ。
壊疽であろう。専務の敬愛する吉○社長さんがご病気で足の切断で嘆き悲しんでおられる。
私は罵声を浴びせる。
「切断でよかった!」
怪訝な顔つきは怒りにかわっている。
「いのち永らえたではないかぁ〜。」
わたしの論理である。
驚愕した落ち込んだ姿が変わる。
「貴方は当事者や家族でない。どう励ますかの役割のはず。同じレベルで嘆き悲しんでたのではポジションを果たしてない。」
「病気は自分で治癒できる。酵素とか治癒の力をどう本人から引き出させるかが周りのものの務め。闘ってるのは本人」
人間の業たる落語を追及する談志師匠からの教え。馬琴師の噺でもある。
新聞を読むと訃報記事ばかりである。
DNA構造解明でノーベル賞、のクリック博士死去 88歳07/30 の953年,WatsonとClickF・ DNAの二重らせん構造の発見に寄与したノーベル賞受賞学者のBurnetとMedawarモーリス・ウィルキンス博士が5日、ロンドン市内の病院で死去した。87歳。
ディスクジョッキーの渡辺実さん死去 は10月30日、食道がんである、53歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日、お別れの会を開く。喪主は妻一代さん。自宅は公表していない。
ビデオジョッキーの草分けの1人。テレビ朝日「MTVミュージックテレビジョン」の初代ジョッキーを務め、放送作家、演出家としても活躍した。 (11/02 )
ノーベル賞の有力候補、前神戸大学長の西塚泰美さん死去
-
がんや免疫などにかかわる細胞内の情報伝達の仕組みを解明し、ノーベル賞の候補にも名が挙がっていた前神戸大学長、西塚泰美(にしづか・やすとみ)さんが4日午前1時28分、くも膜下出血のため、神戸市中央区の病院で死去、72歳。
、葬儀は7日午前11時30分から兵庫県芦屋市平田町3の6の自宅で近親者のみで行う。喪主は妻祥子(さちこ)さん。
3日昼すぎ、神戸市中央区の神戸国際会議場で開かれていた県立病院学会の昼食時に倒れ、意識不明に陥った。
兵庫県芦屋市生まれ。京都大医学部卒。62年に京大医学部医化学教室の助手、64年に同助教授になった後、米ロックフェラー大学に
留学した。69年、神戸大医学部教授に就任。77年、細胞表面に届いたホルモンなどの情報を内部に伝える物質「たんぱく質リン酸化酵素C」(PKC)を発見した。
PKCがカルシウムイオンと連動して働く仕組みも解明し、世界的に注目を浴びた。その後、細胞の成長やがん化、免疫、血圧の調整などの幅広い生命現象にPKCがかかわっていることがわかっている。
95年2月から01年2月まで神戸大学長。兵庫県立成人病センター総長なども務めていた。86年の朝日賞と日本学士院賞、88年の文化勲章をはじめ、米ラスカー賞(89年)、京都賞(92年)、イスラエルのウルフ賞(95年)など権威ある賞を次々に受けた。
一連の論文のうちの一つは80年代に出された世界中の論文の中で一番多く引用された。このため90年代から、ノーベル医学生理学賞の有力候補の一人に挙げられてきた。 (11/04 )
西華産業元常務の鈴川正久さん死去 ロシア友好に貢献
かってノモンハンに興味があった頃の注目してた方である。
鈴川 正久さん(すずかわ・まさひさ=元西華産業常務)が1日、膀胱(ぼうこう)がんで死去、89歳。葬儀は3日午後1時から兵庫
県西宮市高畑町2の25のエテルノ西宮で。喪主は長男洋平さん。自宅は公表していない。
元シベリア抑留者で、ノモンハン事件で戦死した日本兵やシベリア抑留に関するロシア側の資料を収集し、遺族に届ける活動を展開。日
ロ間の少年スポーツ交流などに尽力し、95年にロシア政府から日本人初の友好勲章を受章した。(11/02 18:49)
社会に巣くうガンは努力でかなり改善できよう。
もちろん完治までには行かないだろう。
所詮資本主義社会の限界点である。
常に金儲けがないと生きては行けぬゆえである。
やはり失業、家族も含めた総ての崩壊ではやり切れぬ。
程度、手加減をもっての改善である。
平和な環境は大風呂敷過ぎて理解できぬが身近な点検で理解できよう。
地球環境の破壊ガソリンの採掘30年、これからのエネルギーは・・
思想レベルの強要が行き着く先の社会はないがあるのか。
働いてる環境のレベルで七転八倒するしかないようである。
あちことにガン因子が蔓延している。
愛煙家が3割を割ったとのこと。
24本入りの3箱の私が挑戦し始めて今日でナン日目になろうか。
禁断症状どころではない。
これならガン因子を誘発しての愛煙家の方がいい。
フグは食いたし、命はほしし。
秋の味覚を味わわぬまま季節が通り過ぎてはいまいか。
美しき日本の四季を楽しまぬ手はない。
いのちを考えることは腹にこたえるようである。
食うは考えるのガンなのか。何をおいて食しよう
APAのガンは私が取り除くしかない。
経理状態が尋常ではない。
法人組織である以上恥かしきことがないようにしなければならぬ。
構成員全員の責任であるはずだ。
付け焼刃的解決法では綻びは又出てくる。
どだいパネル業者たるAPAが本家本元の○ガスからパネルが引けずして会社の呈をなしていない。
支払の商慣習を果たさずして、何が企業ぞ!
親会社をナメてはいけない。
商社ルートは私の了解無くして、パネルは引けないはず。
直ちに抗議した。もちろん大企業たる担当さんにもである。
「私はせきやんさんの人柄でつきあってきました。APAではありません今回の異常さは知っての処置でした。」
この清さやよし!社会は根っからは腐ってはいない。
腐ってるのはAPAの傲慢さだけである。
たった一人の横暴を許しているからである。
これははっきり言う。犯罪である。
それも重なってるゆえ悪質である。
地位利用罪も加算されるであろう。
危険は承知の上である。来るならこい!
私流の喧嘩である。
ワッパの喧嘩は、とうの昔に捨て去っている。
暴力では解決できぬ。ブッシュから教えてもらった。
この喧嘩は何が何でも勝たねばならぬ。
ガンに病んだ瀕死の地球。
地球環境を守り抜くと言う太陽光発電の命題を実現する為である。
モンゴル?
2004年11月3日続きを書きいただく前にモンゴルであるが、この民族の祖のハーン・フビライの墓地がどうやら見つかりそうだとのニュースは先日せきやんのときに報道を再掲した。
DNAは日本人に確実に受け継がれている。
自分のケツをみればその残滓があろう。
冗談ジョウダン。
子供の時のことである。青いあざは丁度青森のヒトのホッペがま〜るく赤いのと似て青〜い丸の汎があるはずである。
このモーコ汎こそ同じ子孫である。
モンゴル・アジア系特有の同じ民族の証である。
不思議なことに消え行った南米の地にもほんの一部の子供のみ、このモーコ汎が出る民族がある。
20数年前に私の二人の幼子たちは、唯二人でこの地を旅した。
よくもそのような冒険をさせたものである。
オムツをしてのゲルの暮らし、大草原の思い出
自らのルーツを幼き頃に体験させたわけだが、二人の子供たち、彼らには消え行く草原、消えてしまった湖のことを知っているのか。
引率は知事にも立候補した外山県議。
無償の行為この大きなヒトこそ真の政治家である。
自然と共存する暮らしのココには地球環境の変化が生活の破壊と
して、スグに及ぼしてくる。
異文化に苦しんでる横綱朝青龍を中心とするモンゴル勢。
郷里の国の環境の激変を先進国の被害として訴えたらよかろうに。
地元の人の話から、湖が干上がったと言ってるが、これほどとは思わなかった。
「これじゃあ、湖だかなんだか、わからないよ。ただの荒地じゃないか!」
不満を露わにしたカメラマンの叫び声が、ヘリの騒音を突き破り、鼓膜が破れそうにテレビは唸っている。
あんなに巨大で、白波を立てていた青き湖が、忽然消失するとは! 自分の目が信じられず、呆然となった。とレポーター」
しかたなしに、大地に降り立ち、地元のNPOが出してくれたロシア製ジープで湖跡に向かう。
あの幻想的な、乾いたサンゴ礁はどこに? 4年間続いた旱魃と、オンギ川上流域の金鉱山開発で、オラーン湖とその周辺の生命線はばっさり断ち切られ、今は、いのちの気配すらない荒野と化している。
朝鮮半島、日本はもちろん、ジェット気流に乗り北米大陸まで飛んで行く黄砂は、南だけでなく、北の草原をも飲み込もうとしている。
草の波間に点在していた白いゲルも今はない。家畜の群がいたことすら夢だったというのか。今はただ、廃墟と化した家畜小屋が残るのみ。
人間に見捨てられた大地は、その哀しみを吐き出すように、北へ北へと、乾いた涙の粒を飛び散らす。今ある集落も、やがては無情の砂に埋め尽くされ、死に絶えるだろう。
市場経済制に移行してから、カシミア産業や金鉱山開発が利潤の高い産業として、もてはやされるようになった。
その一方で、カシミアを取るために急増したヤギが、草地を根絶やしにしたが、雪害と旱魃の大打撃によって、それも淘汰された。
都市部の裕福なモンゴル人が、外国人と組んで始めた鉱山開発により、遊牧民や野生動物の生命線だった河川が日干しになった。
人間の懐を豊かにするために、自分たちの生活の場である自然環境をズタズタにしてしまうとは、なんと愚かなことだろう。
経済発展の名の下、怒れる大地を絶望のドン底に突き落とし、結果、大地の嘆きは、ゴビ砂漠に細々と暮らす人々をも地獄に引きずり込む。
テレビ番組の数秒のシーンでは、あの美しかった草原が永遠に失われたことの恐怖は伝えられない。
7年前の美しさを知らないものに、この荒れ果てた大地が告げるショックを理解しろといっても無理だ。
ただ、砂漠化で大変という事実をなぞるだけだろう。テレビ取材の限界がここにある。映像は現象の表層しか描けない。
大地にへばりつき生き延びようとあえぐわずかな遊牧民は、いずれ、生まれ故郷を捨てざるを得ない。その日は、目の前に迫っている。
無力な私たちに、なすすべはないのか。NPO活動を支援するといっても、この大地の絶望の深さに私たちはどれだけ堪えられるだろう。
かろうじて抑えた涙で私の両眼は熱くなった。でも、泣くわけにはゆかぬ。この凄まじい現実を日常として、それでも逃げずに生きる村長や遊牧民たちの切実さの前で、都会に暮らす無力で薄っぺらな私が涙を流すわけにはゆかぬ。弱虫の恥を晒すだけだ。
人間のささやかな意地が、自然の嘆きに敵うわけがない。それが現実というものだろう。
大地の声にならない慟哭が、張り裂けそうな心と共鳴し、私を揺さぶるざわめきが静まるまで諦めてはいけない。それは、運命。
絶望以外のなにものでもないけれど、それでも、私は現実を見つめ、大地の声を受け止め、誰かに伝え、押し寄せる砂と干上がる川に立ち向かう人々と共に生きてゆこう。
それが、モンゴルの大地にもどってきたものの使命。弱虫の私に課せられた使命の重さに、全てを投げ出したくなるけれど、地球に生きる自分の、逃れられない運命だとも思うのだ。
真摯な、迫力あるタッチ。これ以上のものは書けないドキュメント性
伝えるためにいんようさせていただいた。お許し願いたい。
このような番組が少づつは放映しだしたが時間帯が悪い。
申し訳ないとも思わないデレクター楽しかろう宮仕え。反抗しろ!
出来うる限りの力を持って!私を反面教師として。
沈み行く水の都ベニス。消えてしまったモンゴル草原の命の湖。
地球船の危険信号はあちこち発信させられている。
殆どの原因をCO2に起因させることができる。CO2なるこの大気が地球を包んでいるからである。温暖化現象に収斂させえるデーターがある。
エネルギー消費のあり方を考える時がきている。
DNAは日本人に確実に受け継がれている。
自分のケツをみればその残滓があろう。
冗談ジョウダン。
子供の時のことである。青いあざは丁度青森のヒトのホッペがま〜るく赤いのと似て青〜い丸の汎があるはずである。
このモーコ汎こそ同じ子孫である。
モンゴル・アジア系特有の同じ民族の証である。
不思議なことに消え行った南米の地にもほんの一部の子供のみ、このモーコ汎が出る民族がある。
20数年前に私の二人の幼子たちは、唯二人でこの地を旅した。
よくもそのような冒険をさせたものである。
オムツをしてのゲルの暮らし、大草原の思い出
自らのルーツを幼き頃に体験させたわけだが、二人の子供たち、彼らには消え行く草原、消えてしまった湖のことを知っているのか。
引率は知事にも立候補した外山県議。
無償の行為この大きなヒトこそ真の政治家である。
自然と共存する暮らしのココには地球環境の変化が生活の破壊と
して、スグに及ぼしてくる。
異文化に苦しんでる横綱朝青龍を中心とするモンゴル勢。
郷里の国の環境の激変を先進国の被害として訴えたらよかろうに。
地元の人の話から、湖が干上がったと言ってるが、これほどとは思わなかった。
「これじゃあ、湖だかなんだか、わからないよ。ただの荒地じゃないか!」
不満を露わにしたカメラマンの叫び声が、ヘリの騒音を突き破り、鼓膜が破れそうにテレビは唸っている。
あんなに巨大で、白波を立てていた青き湖が、忽然消失するとは! 自分の目が信じられず、呆然となった。とレポーター」
しかたなしに、大地に降り立ち、地元のNPOが出してくれたロシア製ジープで湖跡に向かう。
あの幻想的な、乾いたサンゴ礁はどこに? 4年間続いた旱魃と、オンギ川上流域の金鉱山開発で、オラーン湖とその周辺の生命線はばっさり断ち切られ、今は、いのちの気配すらない荒野と化している。
朝鮮半島、日本はもちろん、ジェット気流に乗り北米大陸まで飛んで行く黄砂は、南だけでなく、北の草原をも飲み込もうとしている。
草の波間に点在していた白いゲルも今はない。家畜の群がいたことすら夢だったというのか。今はただ、廃墟と化した家畜小屋が残るのみ。
人間に見捨てられた大地は、その哀しみを吐き出すように、北へ北へと、乾いた涙の粒を飛び散らす。今ある集落も、やがては無情の砂に埋め尽くされ、死に絶えるだろう。
市場経済制に移行してから、カシミア産業や金鉱山開発が利潤の高い産業として、もてはやされるようになった。
その一方で、カシミアを取るために急増したヤギが、草地を根絶やしにしたが、雪害と旱魃の大打撃によって、それも淘汰された。
都市部の裕福なモンゴル人が、外国人と組んで始めた鉱山開発により、遊牧民や野生動物の生命線だった河川が日干しになった。
人間の懐を豊かにするために、自分たちの生活の場である自然環境をズタズタにしてしまうとは、なんと愚かなことだろう。
経済発展の名の下、怒れる大地を絶望のドン底に突き落とし、結果、大地の嘆きは、ゴビ砂漠に細々と暮らす人々をも地獄に引きずり込む。
テレビ番組の数秒のシーンでは、あの美しかった草原が永遠に失われたことの恐怖は伝えられない。
7年前の美しさを知らないものに、この荒れ果てた大地が告げるショックを理解しろといっても無理だ。
ただ、砂漠化で大変という事実をなぞるだけだろう。テレビ取材の限界がここにある。映像は現象の表層しか描けない。
大地にへばりつき生き延びようとあえぐわずかな遊牧民は、いずれ、生まれ故郷を捨てざるを得ない。その日は、目の前に迫っている。
無力な私たちに、なすすべはないのか。NPO活動を支援するといっても、この大地の絶望の深さに私たちはどれだけ堪えられるだろう。
かろうじて抑えた涙で私の両眼は熱くなった。でも、泣くわけにはゆかぬ。この凄まじい現実を日常として、それでも逃げずに生きる村長や遊牧民たちの切実さの前で、都会に暮らす無力で薄っぺらな私が涙を流すわけにはゆかぬ。弱虫の恥を晒すだけだ。
人間のささやかな意地が、自然の嘆きに敵うわけがない。それが現実というものだろう。
大地の声にならない慟哭が、張り裂けそうな心と共鳴し、私を揺さぶるざわめきが静まるまで諦めてはいけない。それは、運命。
絶望以外のなにものでもないけれど、それでも、私は現実を見つめ、大地の声を受け止め、誰かに伝え、押し寄せる砂と干上がる川に立ち向かう人々と共に生きてゆこう。
それが、モンゴルの大地にもどってきたものの使命。弱虫の私に課せられた使命の重さに、全てを投げ出したくなるけれど、地球に生きる自分の、逃れられない運命だとも思うのだ。
真摯な、迫力あるタッチ。これ以上のものは書けないドキュメント性
伝えるためにいんようさせていただいた。お許し願いたい。
このような番組が少づつは放映しだしたが時間帯が悪い。
申し訳ないとも思わないデレクター楽しかろう宮仕え。反抗しろ!
出来うる限りの力を持って!私を反面教師として。
沈み行く水の都ベニス。消えてしまったモンゴル草原の命の湖。
地球船の危険信号はあちこち発信させられている。
殆どの原因をCO2に起因させることができる。CO2なるこの大気が地球を包んでいるからである。温暖化現象に収斂させえるデーターがある。
エネルギー消費のあり方を考える時がきている。
ベニス モンゴル1
2004年11月2日生命の源は海。そこより生まれ、久遠の年月を経て進化を遂げた
我らヒト。そのヒトなる生命体を生かすも殺すも水環境次第である。
地球環境の激変は浜辺から都市を消し去り、山地から湖海を消している。
イタリア、モンゴルからの二日間の報道をとりあげてみたい。
文化の日の新聞がAP 電として水の都が「水没」と報じた。
イタリア・ベネチアの 31日、の水没したサンマルコ広場を歩く観光客写真記事である。
137センチという記録的な潮位を記録し、町は混乱。商店も水浸しにと記事にある。=AP
ベニスは、1987年、水の都として、その潟とともに世界遺産に登録。
何を持って文化の日といわんや!地球環境の変化一つに対応出来ずして。
歴史を紐解くとベネチアは、北イタリアのベネト州の州都で、アドリア海の最も奥まった所にある潟(ラグーナ Laguna)の上に形成された水の都である。
ちなみにベネチア(ベネツィア)はイタリア語であり、英語ではベニス Veniceという。
紳士淑女の方々くれぐれも巻き舌での発音にご注意あれ!
ベニス、ベネチア幼き頃の混同は、いずれも正解であった。
人口30万6000人。この潟は、堤防のように延びるリド Lido 島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されている。
ベネチアはこのような生きた潟のデリケートな自然環境のうえに誕生し、水辺の困難な条件を克服しながら独特の都市を築き上げた。
潟の中には、ほかにもトルチェロ島、ブラノ島、ムラノ島など多くの島が散在する
今なお町の中には車はいっさい侵入せず、町中は完全に歩行者に開放されている。
何系統かのヴァポレットVaporettoと呼ばれる水上バスが市民の足として利用され、ゴンドラやモーターボートも日常生活にとって欠かせない。
イタリア・ベネチアといえばキャサリン・ヘップバーンの『SUMMERTIME』である。
英(U.K.)題では「Summer Madness(夏の狂気)」といった
日本では『旅情・(SUMMERTIME)』である
。ネーミングは言葉の天才国のお家芸。
アレッサンドロ・チコニーニの作曲による、おおらかなメロディの「サマータイム・イン・ヴェニス」。邦題「ベニスの夏の日」
この曲がテーマ曲になった映画「旅情」は、素晴らしい映画だった。
また、流れる「サマー・タイム・イン・ベニス」を聞いていると、ゴンドラに乗って揺られているような気分になって来来るから名曲は不思議だ。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」とお茶目な20世紀映画総ての作品の語り部の淀川長治
映画の申し子にしてすばらしき演技の女優のNO1は・・・
豊満な肉体のグレタ・ガルボ
美貌のエリザベス・テイラー
妖艶のマレーネ・ディートリッヒ
理知的なヴィヴィアン・リーでもない。
ヘップバーンであろう。
それも1933の若草物語 のときでは決してなく50歳を過ぎた
1955『旅情 (SUMMERTIME)』の時であるから驚きだ。
淀川長治著『ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100――好きで好きでたまらない名作名優』/1998/講談社+α文庫より。)
それにしてもうまい女優だとベタほめである。
映画評論の草分け。神様。
明治42年に生を受け映画付けの生活で昭和10年にはヘラルド社ですでに活躍中。
98年11月11日の父と同じ日の89歳で逝った
「笑って。笑って。泣いてはいけません。どうか私に、笑ってください」
奇跡、心ときめく出来事を失った時間を取り戻すためにベニスにやってきたジェーン。
愛に溺れそうになるけれど、運河にくちなしの花を流してジェーンは気づく。
このままでは、レナート本当に別れなくなってしまう・・・。
なんと言ってもラストのキャサリン・ヘップバーンが、とても素敵。
列車の窓から体を乗り出し大きく手を振り、
レナートのみならず、思い出のベニスに別れを告げるキャサリン・ヘップバーンの、決意を秘めた女の顔たち、きれいに伸びた指先。
、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の映画の聖が絶賛するほどまさにピッタリの役。
実に美しきキャサリン・ヘップバーンは熟年の50歳近いのにこの魅力。、旬を過ぎても美しさを表す女性のあり方。参考ですゾ!
キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー主演女優賞を「勝利の朝」、「招かれざる客」、「冬のライオン」、「黄昏」で、史上最多の4回受賞している。
そのほかにも「「若草物語」、「フィラデルフィア物語」、「愛の調べ」、「去年の夏突然に」など数多くの作品に出演している。
共演のロッサノ・ブラッツィは、イタリア人俳優。
ミュージカル映画「南太平洋」をみた。
「若草物語」、「裸足の伯爵夫人」、「恋愛専科」、「美しき青きドナウ」にも出演している。
監督のデビッド・リーンは、「アラビアのロレンス」、「戦場にかける橋」で、アカデミー監督賞を2度も受賞。
、「ドクトル・ジバゴ」、「ライアンの娘」、「インドへの道」
「逢びき」、「大いなる遺産」、などの名作を監督している。
「ドクトル・ジバゴ」は、その政治的意図、思想的背景を除いてみれば、映像、音楽特に誰でも大好きになれる作品。
「旅情」
(SUMMERTIME)
1955年 100分
(日本公開1955年)
監 督 デビッド・リーン
音 楽 アレッサンドロ・チコニーニ
出演者 キャサリン・ヘップバーン
ロッサノ・ブラッツィ
イザ・ミランダ
ダーレン・マクギャバン
こんな凄いホーム・ページがあり勝手にリンクしてしまいました。ゴメンナサイ!
http://www1.harenet.ne.jp/~sato2000/movie/monthly/2001-01/2001-01.html
テレビ朝日系列「素敵な宇宙船地球号」環境問題を扱うテレビ番組で制作はドキュメンタリー・ジャパン。
モンゴルは遠い国かもしれないが、地球のみんなと繋がっている。
そのことが、番組を通じて視聴者に伝得たいと製作者。
再度ココで取り上げベニスとの比較で地球環境を探ってみたい。
南ゴビのマンダルオボーソムの7年前は、ちょうど草原と沙漠の境といわれ、
直径45km、ゴビ地方最大のオラーン湖があった場所だ。
オラーン湖は直径45km、水深平均4m。モンゴルで十指に入る湖だった
「だった!」そう報道してる。何を持って文化の日といわんや!
秋風が吹くさわやかなゴビの大地は、エンジ色や黄金色、赤や緑のさまざまな植物に覆われ、まるで海水のないサンゴ礁のように美しく、誰もが「ゴビってすごいなぁ」と感動すると地球の歩き方にも書いてある。どこまでも続く地平線の旅を満喫したいものだ。
それにしても、これほど生命感のない荒地になっているとは思わなかった。報道マンの最初の言葉。
ゴビ地方唯一の河川を救うために2001年にできた地元遊牧民によるNPO団体「オンギ川住民運動」そこでの活動。
マンダルオボーは、オンギ川の終着点だった処。まさに、ゴビ砂漠の北限。
ヘリコプターは、湖跡を目指す。ところが、行けども行けども、湖らしきものが見当たらない。
かつて、毎分1600リットルもの水がオンギ川から注ぎ込み、ゴビの鏡と称えられたオラーン湖だが、今や影も形もなく、ただ、ひび割れた薄茶色の荒地だけが眼下に広がるのみ。
我らヒト。そのヒトなる生命体を生かすも殺すも水環境次第である。
地球環境の激変は浜辺から都市を消し去り、山地から湖海を消している。
イタリア、モンゴルからの二日間の報道をとりあげてみたい。
文化の日の新聞がAP 電として水の都が「水没」と報じた。
イタリア・ベネチアの 31日、の水没したサンマルコ広場を歩く観光客写真記事である。
137センチという記録的な潮位を記録し、町は混乱。商店も水浸しにと記事にある。=AP
ベニスは、1987年、水の都として、その潟とともに世界遺産に登録。
何を持って文化の日といわんや!地球環境の変化一つに対応出来ずして。
歴史を紐解くとベネチアは、北イタリアのベネト州の州都で、アドリア海の最も奥まった所にある潟(ラグーナ Laguna)の上に形成された水の都である。
ちなみにベネチア(ベネツィア)はイタリア語であり、英語ではベニス Veniceという。
紳士淑女の方々くれぐれも巻き舌での発音にご注意あれ!
ベニス、ベネチア幼き頃の混同は、いずれも正解であった。
人口30万6000人。この潟は、堤防のように延びるリド Lido 島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されている。
ベネチアはこのような生きた潟のデリケートな自然環境のうえに誕生し、水辺の困難な条件を克服しながら独特の都市を築き上げた。
潟の中には、ほかにもトルチェロ島、ブラノ島、ムラノ島など多くの島が散在する
今なお町の中には車はいっさい侵入せず、町中は完全に歩行者に開放されている。
何系統かのヴァポレットVaporettoと呼ばれる水上バスが市民の足として利用され、ゴンドラやモーターボートも日常生活にとって欠かせない。
イタリア・ベネチアといえばキャサリン・ヘップバーンの『SUMMERTIME』である。
英(U.K.)題では「Summer Madness(夏の狂気)」といった
日本では『旅情・(SUMMERTIME)』である
。ネーミングは言葉の天才国のお家芸。
アレッサンドロ・チコニーニの作曲による、おおらかなメロディの「サマータイム・イン・ヴェニス」。邦題「ベニスの夏の日」
この曲がテーマ曲になった映画「旅情」は、素晴らしい映画だった。
また、流れる「サマー・タイム・イン・ベニス」を聞いていると、ゴンドラに乗って揺られているような気分になって来来るから名曲は不思議だ。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」とお茶目な20世紀映画総ての作品の語り部の淀川長治
映画の申し子にしてすばらしき演技の女優のNO1は・・・
豊満な肉体のグレタ・ガルボ
美貌のエリザベス・テイラー
妖艶のマレーネ・ディートリッヒ
理知的なヴィヴィアン・リーでもない。
ヘップバーンであろう。
それも1933の若草物語 のときでは決してなく50歳を過ぎた
1955『旅情 (SUMMERTIME)』の時であるから驚きだ。
淀川長治著『ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100――好きで好きでたまらない名作名優』/1998/講談社+α文庫より。)
それにしてもうまい女優だとベタほめである。
映画評論の草分け。神様。
明治42年に生を受け映画付けの生活で昭和10年にはヘラルド社ですでに活躍中。
98年11月11日の父と同じ日の89歳で逝った
「笑って。笑って。泣いてはいけません。どうか私に、笑ってください」
奇跡、心ときめく出来事を失った時間を取り戻すためにベニスにやってきたジェーン。
愛に溺れそうになるけれど、運河にくちなしの花を流してジェーンは気づく。
このままでは、レナート本当に別れなくなってしまう・・・。
なんと言ってもラストのキャサリン・ヘップバーンが、とても素敵。
列車の窓から体を乗り出し大きく手を振り、
レナートのみならず、思い出のベニスに別れを告げるキャサリン・ヘップバーンの、決意を秘めた女の顔たち、きれいに伸びた指先。
、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の映画の聖が絶賛するほどまさにピッタリの役。
実に美しきキャサリン・ヘップバーンは熟年の50歳近いのにこの魅力。、旬を過ぎても美しさを表す女性のあり方。参考ですゾ!
キャサリン・ヘップバーンは、アカデミー主演女優賞を「勝利の朝」、「招かれざる客」、「冬のライオン」、「黄昏」で、史上最多の4回受賞している。
そのほかにも「「若草物語」、「フィラデルフィア物語」、「愛の調べ」、「去年の夏突然に」など数多くの作品に出演している。
共演のロッサノ・ブラッツィは、イタリア人俳優。
ミュージカル映画「南太平洋」をみた。
「若草物語」、「裸足の伯爵夫人」、「恋愛専科」、「美しき青きドナウ」にも出演している。
監督のデビッド・リーンは、「アラビアのロレンス」、「戦場にかける橋」で、アカデミー監督賞を2度も受賞。
、「ドクトル・ジバゴ」、「ライアンの娘」、「インドへの道」
「逢びき」、「大いなる遺産」、などの名作を監督している。
「ドクトル・ジバゴ」は、その政治的意図、思想的背景を除いてみれば、映像、音楽特に誰でも大好きになれる作品。
「旅情」
(SUMMERTIME)
1955年 100分
(日本公開1955年)
監 督 デビッド・リーン
音 楽 アレッサンドロ・チコニーニ
出演者 キャサリン・ヘップバーン
ロッサノ・ブラッツィ
イザ・ミランダ
ダーレン・マクギャバン
こんな凄いホーム・ページがあり勝手にリンクしてしまいました。ゴメンナサイ!
http://www1.harenet.ne.jp/~sato2000/movie/monthly/2001-01/2001-01.html
テレビ朝日系列「素敵な宇宙船地球号」環境問題を扱うテレビ番組で制作はドキュメンタリー・ジャパン。
モンゴルは遠い国かもしれないが、地球のみんなと繋がっている。
そのことが、番組を通じて視聴者に伝得たいと製作者。
再度ココで取り上げベニスとの比較で地球環境を探ってみたい。
南ゴビのマンダルオボーソムの7年前は、ちょうど草原と沙漠の境といわれ、
直径45km、ゴビ地方最大のオラーン湖があった場所だ。
オラーン湖は直径45km、水深平均4m。モンゴルで十指に入る湖だった
「だった!」そう報道してる。何を持って文化の日といわんや!
秋風が吹くさわやかなゴビの大地は、エンジ色や黄金色、赤や緑のさまざまな植物に覆われ、まるで海水のないサンゴ礁のように美しく、誰もが「ゴビってすごいなぁ」と感動すると地球の歩き方にも書いてある。どこまでも続く地平線の旅を満喫したいものだ。
それにしても、これほど生命感のない荒地になっているとは思わなかった。報道マンの最初の言葉。
ゴビ地方唯一の河川を救うために2001年にできた地元遊牧民によるNPO団体「オンギ川住民運動」そこでの活動。
マンダルオボーは、オンギ川の終着点だった処。まさに、ゴビ砂漠の北限。
ヘリコプターは、湖跡を目指す。ところが、行けども行けども、湖らしきものが見当たらない。
かつて、毎分1600リットルもの水がオンギ川から注ぎ込み、ゴビの鏡と称えられたオラーン湖だが、今や影も形もなく、ただ、ひび割れた薄茶色の荒地だけが眼下に広がるのみ。
昔の名前で出ています
2004年11月1日残念ながら依る年並みで脳細胞の破壊は新潟地震どころではない直下型。
持ち前の頑固さと言う精進する姿勢の欠落の為人生半分かも知れませんでした。
50の手習いよろしく、キーボードに触ってみたら何とかなることに遅まきながらも気づいた化石人。
必死でこの20年を取り返すべく精進中です。
死に行った国武まさとし先輩や落合さんいろんな方々の忠告をなつかしき思い出。
パソの凄さは知っていましたが、社会革命の行動の時間との調整がつかづ、その使い方も応用できなかった為であります。
神戸での凄さで覚醒、目が覚めました。
しかしながら、今でもメール一つ操作できない携帯電話です。
よってパソ・メールもそうであります。誠にもっておはづかしい・・どころかご迷惑をかけてます!スミマセン!
まったくのパソコン音痴で多方面のご迷惑をかけていることでしょう。
とあるメールの方からのご助言で自信が出てきました。
もちろん高校生の中也さん、うどん先生、壊されたパソのため他の方々の励ましは直接には受け取れない環境でした。
おそらくこまやかな気配りのドクタさんもそうだったのでしょう。
マルクスの解く資本論の序の「イソップ童話で書かざる得ない」と官憲との闘いを陳べた凄い部分を思い出します。
・・・
お許しください。面目ありません。
ジャズメンは物事をひっくり返して共通認識、共感とした反逆の歴史をいまだ持ちつづけてる部分があるようです。
これではまるで放送業界みたいですね。
受難の徳川時代のキリスト教の心情みたいでしょう遠藤周作のテーマでした
ご指導のお陰で薩摩弁で「きやんせ」としました。「せきやん」の「せ」をひっくり返しました。
来てください!という標準語です。バレバレ・・笑い!
悪を追求して正義の道にかえらせます。真実の愛社精神を貫きます。
さ〜あ!後・・何回・・首桐を宣言されるのか・・・
ご愛読ください。・・・
せきやん・・改め・・・きやんせ・・愚痴日記
何人かが仕事を戴いてくるポジションにありながら、実際に仕事を持ってくるのは私一人。その総てで1ヶ月が廻っている。
営業の充実を何度となく声たからかに叫んでも解っていない。会社とは仕事の受注である!これ絶対の真実!
ところが社長が理解できてない。
畑の中のボロ小屋に誰が採用を求めやってこようぞ!
本当に楽な経営者である。
40数名がただの家賃の会社で働いてる。
わがAPAはのコンテナは土地利用では農業振興区域の中で、農振法違反、違法建築物であった。
それを私から聞くと「私の土地である、何が違反か!」程度の低き常識の法治国家にあるまじき発言
当然、何度となく農業委員会等から警告のハガキ等は着ていた。理解してなかっただけである。
宅地区域内に引越し解決。そのごも経営の有りかたの杜撰さの改善を求めた。
遅々として進まぬ中での日常業務、努力は報われ大きく成長した。今や宮崎上位1〜2を争う設置数であろう。
ところが社長と先日社内慰安旅行で意見の違い。
9月初めと18日〜20日と二度に分かれて社内旅行があったが仕事の受注でいけない私。
9月18日朝6時30分過ぎ宮崎空港発に乗る為社長は会社にきた。徹夜の私のところでの出来事
ファイルしてある銀行の預金口座の写しが少し、皺状況である。そのことを私に問うた。
どうにも先入観で私がシワ状況にしたと思い込んでたフシがある。
「誰がこうしたのですか」
「私ではありません!」
「たいした状況でもないし気になるならコピーして取り替えればいいでしょう!」
「これは大事な書類でしょう。」と昨夜お客さんより戴いてきた国への出す書類を出した。
?実印がついてある書式と
?印鑑証明書
ところが机に置いた二枚を、あろうことか両手でグシャッ〜と絞り丸めておいた社長。
「何をするんですか!」「やっと戴いてきたそれも公文書デスヨ!」「それがどうした!」
「何で会社は飯を食ってるとお思いか!このお客さんから戴いてる書類からですぞ!この大事な物をどうしてくれるんですか」
「これが何が大事だ!」ポイ!と右手で取って交差させ北側の壁に投げ捨てる狂気の沙汰。
「なにをする!」「こばかにすな!
ト〜ンをあげ激昂する私。挑発にのってしまっている。
私の頭に手をかけ・騙しを剥ぎ取ってしまった。そのとき以来破けているが買う金さえない。
「コリャ!何をスルカァ〜ワリャ〜」思わず立ち上がり怒りの言葉を投げつける。
舌戦はココまで。第一ラウンドの終了である。これからはコージさんの格闘技通信。
左手がわたしのノドに衣服ごと握りしめこぶし状のまま北側の壁に押し付けれれる。ナント!
この私は無抵抗状況左手でのどを押し付けたまま右手で「コノヤロ〜ゥ!と頬を2〜3回往復である
屈辱の限りだがグット噛み締めた。このひ弱な私は男の風上に置けない態度かもしれない。喧嘩はテゲしてきたがとてもそんな雰囲気ではない。
なんか一方的に急に始まってどうにもサメめている。
喧嘩やっちゃるか!と私が興奮の状態にならないのだ。舌戦のみ
喧嘩モードとゼッセンモードとの違いで進まぬ状況。
「会社の中でこんなことがあっとじゃな〜!」ばかったれ!」
私もひるんではいない。さらに
「だれん手だしヨットか後で悔やむななァ〜!」
9月18日、21日の日記を読んでほしい。
おさえて、抑えて記録した苦しさ。
暴力事件の記録である。
そのご9月21日の首切りを譲らぬ社長のワンマン横暴ぶり、をしのいだ。
早キジも鳴かねば撃たれまい.出る釘は打たれる。
どうにもこの総てをなげうって取り組んでる私のやり方なのに、
「け嫌う。」
人間の幅、厚みがない。
誉められわこそすれ恨まれる覚えはない。
ただ周りに巣くう行動せず、ただただ傍観者でしか会社経営を見てないふていのやから。。
このように、まったく金を稼ごうともしない、金玉握りが横行しだしたら公務員組織より悪い状況。
まずは稼がねば。この当たり前が理解できてない
会社の危険信号を発してるのと同じで、組織の危機である。
平家ににあらずんば人にあらず、ともいわれ栄華を極めた平家の没落はなぜか。
功労者たる義経が兄源頼朝の取り巻きたちとりわけ梶原景時の讒言により、衣川で命を落とすことにもなる。
合戦続きで司令官たる鎌倉との連絡不足からの結末。
所詮、正当な評価を下すことが出来ぬのは世の常。
ソニー、HONNDA、松下、トヨタ世界に名だたる企業は
名白楽の存在があり、成しえたもの。
一人では歴史は作られぬ。
ましてやワンマン経営の行く末は何処も結末は同じ。
決の穴小さきでは、程度のものしか出来ぬ。
所詮、目糞鼻糞を笑う程度のもの。
「辞めろ!辞表をだせ!」
では聞こう!APAを守ってるのは誰だ!
「私か!あなたか!」
社会的評価が出てきた以上そう簡単にはいかない。
大事さを説明したのに、自らの手で公文書を握りつぶす愚かさ。
公文書の大事ささえわからぬものに、経営者としての資格があろうか。
地球を守る観点からの企業・事業であらねばならぬ。
誠心誠意のお客様と国家に対する謙虚な姿勢が必要である。
しかしながら、APAも武士はくわねど・・・言うわけにはまいらない。
多くの若き有能な社員が揃っている。
その未来に対する責任もあろう。
企業の存続は社会に対する責任でもある。
社長名であろうとそう簡単には譲れない。
APAのこれら…
持ち前の頑固さと言う精進する姿勢の欠落の為人生半分かも知れませんでした。
50の手習いよろしく、キーボードに触ってみたら何とかなることに遅まきながらも気づいた化石人。
必死でこの20年を取り返すべく精進中です。
死に行った国武まさとし先輩や落合さんいろんな方々の忠告をなつかしき思い出。
パソの凄さは知っていましたが、社会革命の行動の時間との調整がつかづ、その使い方も応用できなかった為であります。
神戸での凄さで覚醒、目が覚めました。
しかしながら、今でもメール一つ操作できない携帯電話です。
よってパソ・メールもそうであります。誠にもっておはづかしい・・どころかご迷惑をかけてます!スミマセン!
まったくのパソコン音痴で多方面のご迷惑をかけていることでしょう。
とあるメールの方からのご助言で自信が出てきました。
もちろん高校生の中也さん、うどん先生、壊されたパソのため他の方々の励ましは直接には受け取れない環境でした。
おそらくこまやかな気配りのドクタさんもそうだったのでしょう。
マルクスの解く資本論の序の「イソップ童話で書かざる得ない」と官憲との闘いを陳べた凄い部分を思い出します。
・・・
お許しください。面目ありません。
ジャズメンは物事をひっくり返して共通認識、共感とした反逆の歴史をいまだ持ちつづけてる部分があるようです。
これではまるで放送業界みたいですね。
受難の徳川時代のキリスト教の心情みたいでしょう遠藤周作のテーマでした
ご指導のお陰で薩摩弁で「きやんせ」としました。「せきやん」の「せ」をひっくり返しました。
来てください!という標準語です。バレバレ・・笑い!
悪を追求して正義の道にかえらせます。真実の愛社精神を貫きます。
さ〜あ!後・・何回・・首桐を宣言されるのか・・・
ご愛読ください。・・・
せきやん・・改め・・・きやんせ・・愚痴日記
何人かが仕事を戴いてくるポジションにありながら、実際に仕事を持ってくるのは私一人。その総てで1ヶ月が廻っている。
営業の充実を何度となく声たからかに叫んでも解っていない。会社とは仕事の受注である!これ絶対の真実!
ところが社長が理解できてない。
畑の中のボロ小屋に誰が採用を求めやってこようぞ!
本当に楽な経営者である。
40数名がただの家賃の会社で働いてる。
わがAPAはのコンテナは土地利用では農業振興区域の中で、農振法違反、違法建築物であった。
それを私から聞くと「私の土地である、何が違反か!」程度の低き常識の法治国家にあるまじき発言
当然、何度となく農業委員会等から警告のハガキ等は着ていた。理解してなかっただけである。
宅地区域内に引越し解決。そのごも経営の有りかたの杜撰さの改善を求めた。
遅々として進まぬ中での日常業務、努力は報われ大きく成長した。今や宮崎上位1〜2を争う設置数であろう。
ところが社長と先日社内慰安旅行で意見の違い。
9月初めと18日〜20日と二度に分かれて社内旅行があったが仕事の受注でいけない私。
9月18日朝6時30分過ぎ宮崎空港発に乗る為社長は会社にきた。徹夜の私のところでの出来事
ファイルしてある銀行の預金口座の写しが少し、皺状況である。そのことを私に問うた。
どうにも先入観で私がシワ状況にしたと思い込んでたフシがある。
「誰がこうしたのですか」
「私ではありません!」
「たいした状況でもないし気になるならコピーして取り替えればいいでしょう!」
「これは大事な書類でしょう。」と昨夜お客さんより戴いてきた国への出す書類を出した。
?実印がついてある書式と
?印鑑証明書
ところが机に置いた二枚を、あろうことか両手でグシャッ〜と絞り丸めておいた社長。
「何をするんですか!」「やっと戴いてきたそれも公文書デスヨ!」「それがどうした!」
「何で会社は飯を食ってるとお思いか!このお客さんから戴いてる書類からですぞ!この大事な物をどうしてくれるんですか」
「これが何が大事だ!」ポイ!と右手で取って交差させ北側の壁に投げ捨てる狂気の沙汰。
「なにをする!」「こばかにすな!
ト〜ンをあげ激昂する私。挑発にのってしまっている。
私の頭に手をかけ・騙しを剥ぎ取ってしまった。そのとき以来破けているが買う金さえない。
「コリャ!何をスルカァ〜ワリャ〜」思わず立ち上がり怒りの言葉を投げつける。
舌戦はココまで。第一ラウンドの終了である。これからはコージさんの格闘技通信。
左手がわたしのノドに衣服ごと握りしめこぶし状のまま北側の壁に押し付けれれる。ナント!
この私は無抵抗状況左手でのどを押し付けたまま右手で「コノヤロ〜ゥ!と頬を2〜3回往復である
屈辱の限りだがグット噛み締めた。このひ弱な私は男の風上に置けない態度かもしれない。喧嘩はテゲしてきたがとてもそんな雰囲気ではない。
なんか一方的に急に始まってどうにもサメめている。
喧嘩やっちゃるか!と私が興奮の状態にならないのだ。舌戦のみ
喧嘩モードとゼッセンモードとの違いで進まぬ状況。
「会社の中でこんなことがあっとじゃな〜!」ばかったれ!」
私もひるんではいない。さらに
「だれん手だしヨットか後で悔やむななァ〜!」
9月18日、21日の日記を読んでほしい。
おさえて、抑えて記録した苦しさ。
暴力事件の記録である。
そのご9月21日の首切りを譲らぬ社長のワンマン横暴ぶり、をしのいだ。
早キジも鳴かねば撃たれまい.出る釘は打たれる。
どうにもこの総てをなげうって取り組んでる私のやり方なのに、
「け嫌う。」
人間の幅、厚みがない。
誉められわこそすれ恨まれる覚えはない。
ただ周りに巣くう行動せず、ただただ傍観者でしか会社経営を見てないふていのやから。。
このように、まったく金を稼ごうともしない、金玉握りが横行しだしたら公務員組織より悪い状況。
まずは稼がねば。この当たり前が理解できてない
会社の危険信号を発してるのと同じで、組織の危機である。
平家ににあらずんば人にあらず、ともいわれ栄華を極めた平家の没落はなぜか。
功労者たる義経が兄源頼朝の取り巻きたちとりわけ梶原景時の讒言により、衣川で命を落とすことにもなる。
合戦続きで司令官たる鎌倉との連絡不足からの結末。
所詮、正当な評価を下すことが出来ぬのは世の常。
ソニー、HONNDA、松下、トヨタ世界に名だたる企業は
名白楽の存在があり、成しえたもの。
一人では歴史は作られぬ。
ましてやワンマン経営の行く末は何処も結末は同じ。
決の穴小さきでは、程度のものしか出来ぬ。
所詮、目糞鼻糞を笑う程度のもの。
「辞めろ!辞表をだせ!」
では聞こう!APAを守ってるのは誰だ!
「私か!あなたか!」
社会的評価が出てきた以上そう簡単にはいかない。
大事さを説明したのに、自らの手で公文書を握りつぶす愚かさ。
公文書の大事ささえわからぬものに、経営者としての資格があろうか。
地球を守る観点からの企業・事業であらねばならぬ。
誠心誠意のお客様と国家に対する謙虚な姿勢が必要である。
しかしながら、APAも武士はくわねど・・・言うわけにはまいらない。
多くの若き有能な社員が揃っている。
その未来に対する責任もあろう。
企業の存続は社会に対する責任でもある。
社長名であろうとそう簡単には譲れない。
APAのこれら…
11月1日の日記
2004年11月1日ご愛読いただいたこの日記は私の人格・意志とはまったく関係なき恣意が働き、閉鎖やむなきに至りました。
どうにも辛きは宮仕え、いやはや、オハズカシイ次第。
皆様方には自分に与えられし仕事を神に誓ってやりぬくこと。
日々自己研鑽に務められ末永き民族の発展にご尽力をお互い致しましょう
かって発行禁止を受けた堺利彦率いる言論紙は朱記を最終号としました。
キナ臭い軍靴を受けてのことで似たようなことでしょう。
よって最終号です。
誓って私の怠惰な日常が原因でありません。
返すがえすも悔いが残るのは10万ヒットが出来ず、残念至極!
いずれどこかでの再会を誓いましてお別れの挨拶と致します。
皆様のご多幸とご幸せを末永くお祈りいたしております。
サイチェン!
グッドゥ・ラックッ!!
どうにも辛きは宮仕え、いやはや、オハズカシイ次第。
皆様方には自分に与えられし仕事を神に誓ってやりぬくこと。
日々自己研鑽に務められ末永き民族の発展にご尽力をお互い致しましょう
かって発行禁止を受けた堺利彦率いる言論紙は朱記を最終号としました。
キナ臭い軍靴を受けてのことで似たようなことでしょう。
よって最終号です。
誓って私の怠惰な日常が原因でありません。
返すがえすも悔いが残るのは10万ヒットが出来ず、残念至極!
いずれどこかでの再会を誓いましてお別れの挨拶と致します。
皆様のご多幸とご幸せを末永くお祈りいたしております。
サイチェン!
グッドゥ・ラックッ!!
平和の原点
2004年10月31日どうにも日記が故障状態でアクセスが上手くいかず、非常手段で、他の人を伝い、辿り着いた。
裏をかいて、「してやったり!」としたり顔。
なんとも気持ちよく書いている。ほんとは怒ってます!
ブッシュの選挙がもうスグである。
この男には「してやったり!」と言わしめるわけにはいかない。
1946年6月6日ドイツの猛将軍パットンさえ欺き、連合軍のノルマンディー上陸の Dディーから60年になる。
英、米、露、独、仏の首脳が現地に揃った日にもふれた。
仏シラクのみが当時を複雑に知っているのみ。
若き独逸国の指導者シュレイダーのうな垂れる写真が印象的。
首脳の姿勢に微かな戦慄がみえ、あらためて犠牲の大きさを肝に銘じたことであろう。
10万人を超えるイラクの死者。攻撃できる戦闘機の一機も持たず、成すがママにバクダットは陥落した。
もちろん大量殺戮兵器たる核兵器は初めから存在しなかった。
世界の世論を動かすにはフセインの残虐性のみを揚げるのみで事足りた。
イランのホメイニ革命ではあれほど肝いりで支援した同じ国・同じ指導者のイラクをである。もちろん指導者はフセイン。
オイルまみれのブッシュにしては9.11さえどうにも仕組まれてる匂いがすることも私の日記で触れてきた。
この時期にイラクが報道されている。選挙前だ。何かあるたびに政治的に利用されよう。
私共は連合軍の一員として、連合軍兵隊を送ってることを片時も忘れてはならぬ。
我が国は戦争をしている最中なのである。!!
情報が錯綜してる首ナシ死体が示してることでそれは証明されている。
新潟地震もあり、この国特有での情報操作がなされてるに過ぎない。
教育者に総てを求めるのは酷であるが次世代にかけるしか平和の歴史は守れない。太陽光発電にしたって・・そうだ!。
私の日記愛読者の中に自由闊達、純真無垢の先生がおられる。
山口の息子の仕事振りを写したく不純な動機で無断で最初は読み始めてみた
東に西にトリニータを無心で追う姿勢がいい。聖職の気負いなく、身近にして生活に根ざした平和の象徴たる日常である。もちろん日教組員である。
最近お悩みが多いようだが28日のことで主幹制度だけでない教育現場の厳しさががわかってきた
東京都教育委員たる元名人米長邦雄は28日の園遊会で天皇発言をさせ、波紋を呼んでいる
新聞を総合すると概ね次のようなやり取りのようだ
「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます」
「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」
「はい、もちろんでございます」
今、日本の教育現場では君が代日の丸は強制されているようだ。
都教委は式典での国旗掲揚と君が代斉唱を徹底するよう通達を出し、これに従わなかった教職員238人が地方公務員法に基づき戒告などの懲戒処分にした。
宮崎の代表たる中山文科相のコメント
「強制ということではなく、喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりするありさまが好ましいということをお述べになったのではないかと考えている」
処分していることについて
「思想、良心は内心にとどまる限りは絶対保障されなければならない」
「外部的行為に現れた場合、一定の制約を受け、校長が教職員に対して本来行うべき職務を命ずるのは、思想、良心の自由を侵すものにはならない」
宮内庁のコメント
「国旗掲揚や国歌斉唱は、強制でなく、自発的に喜んで行うのが好ましいあり方、という意味だと思う」
「国旗・国歌法が そもそも成立当時の政府見解が、強制しようとする趣旨でない」
「(天皇発言は)具体的な行政施策の是非を論じたものではない。都が行っていることの是非は抜きにして、皆が喜んで国歌斉唱などをやるというのが好ましいということ。やらない人についてどうするかは施策の話になる」
都教委・教育情報課のコメント
「米長氏は一個人として招待されたもので、教育委員会を代表して意見を述べたものではないので委員会として特にコメントはしない。」
天皇陛下は国家国旗の強制が少し行き過ぎていると考えているのではと解釈するのが、それこそ「会話」から自然だと思える。
ところが、発言が天皇の発言として問題がないか、が一番最初に議論されなくてはいけないことらしい。
「自然に」を強制する矛盾はオチャノコサイサイ。
うどんさん先生を苦しめないでほしい。都教育委員さん。
明るくなきゃァ島国根性は克服できずグローバル化なる経済政策の担い手は育たないってば〜
小豆島の坪井栄の「24の瞳」を彷彿するが如き環境である。
時代の背景が違うだけである。
その当時珍しき自転車で分教所に通う大石先生が如きである。
トリニータを追っかける先生の如き屈託のない明るさである。
分教場は小豆島の南端、深い入江に突き出た田浦岬の突端にあった。
44年頃に廃校になったようである。
延岡市の須美江港から沖に浮かぶ島野浦小の瑞道の向こうの分校の位置によく似ている。
ちなみに私の母校たる都於郡山田分校は今だ授業を続けてるがそんなところもあるのでより身近である。
「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた」。
新聞配達で買った旺文社文庫で読んだ。感動を共有してほしくミッチャンにあげたはずだが、よく覚えてはいない。
記憶は視覚が一番いい。木下恵介監督、高峰秀子主演の映画化で知ってるが学校映画であったのであろう。みな泣いた。
それがどうにも記憶の混濁である。この頃いい映画を見過ぎた。
学校を全員で休み三財の岩崎の映画館まで歩いていった。
一学年250名ぐらい在校しており、距離10KM以上もあった。
この頃の橋は木製の材料で橋が壊れていて素足で浅瀬を渡っての行軍さえあった。
『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938)、『路傍の石』(田坂具隆監督、1938)、『次郎物語』(原作下村湖人 清水宏監督 1955 )
『にあんちゃん』、(今村昌平監督)
戦前と戦後と制作年月さえ確かでないほど。
山城新吾の白馬童子や風小僧のほうが楽しく、民主化に逆行する硬派の軍国少年であった。
白黒の最後の画面を鮮烈に記憶している。淀川定治や高野悦子の記憶何処ではない。
"おなご"先生と十二人の教え子の心のふれあいが描かれ、貧しい暮しや戦争の悲惨さ。
詩情ゆたかなこんな場面も時代の流れで暗転する。貧しさゆえに女の子は奉公に、男の子たちは兵隊にとられる。
大石先生もまた、夫の戦死、娘の死と荒っぽい時代の波に翻ろうされることになる。
戦後の既に先生を止めてたが、慰安会が開かれる。
出席したのは戦傷で失明した岡田磯吉ら五人。五人いた男の子のうち3人は戦死、女の子も一人は亡くなり、一人の消息はわからない。
戦争をはさんだ二十年、二十四の瞳は十の瞳になってしまった。
壺井栄1899−1967 は岬から五キロほど離れた港町・坂手の樽職人の五女、十人の兄弟姉妹と、両親がひきとった二人の孤児の中で育ったとある。
私も7人の兄弟祖父母に、デカンなる食い扶持を求める青年方も含め随分と似通った環境で育った。
小説は佐多稲子のすすめでかかれ、十二人を分教場の子供たちに置き換え、妹シンが代用教員をしていた岬の学校が舞台になった
昭和26年、家庭雑誌に連載、昭和29年映画化されたもの。
郷土の先輩たる黒木監督が覚醒させてくれた。
泊で夕方降りてきた工事部隊。APAの天孫降臨。稼ぎ頭
裏をかいて、「してやったり!」としたり顔。
なんとも気持ちよく書いている。ほんとは怒ってます!
ブッシュの選挙がもうスグである。
この男には「してやったり!」と言わしめるわけにはいかない。
1946年6月6日ドイツの猛将軍パットンさえ欺き、連合軍のノルマンディー上陸の Dディーから60年になる。
英、米、露、独、仏の首脳が現地に揃った日にもふれた。
仏シラクのみが当時を複雑に知っているのみ。
若き独逸国の指導者シュレイダーのうな垂れる写真が印象的。
首脳の姿勢に微かな戦慄がみえ、あらためて犠牲の大きさを肝に銘じたことであろう。
10万人を超えるイラクの死者。攻撃できる戦闘機の一機も持たず、成すがママにバクダットは陥落した。
もちろん大量殺戮兵器たる核兵器は初めから存在しなかった。
世界の世論を動かすにはフセインの残虐性のみを揚げるのみで事足りた。
イランのホメイニ革命ではあれほど肝いりで支援した同じ国・同じ指導者のイラクをである。もちろん指導者はフセイン。
オイルまみれのブッシュにしては9.11さえどうにも仕組まれてる匂いがすることも私の日記で触れてきた。
この時期にイラクが報道されている。選挙前だ。何かあるたびに政治的に利用されよう。
私共は連合軍の一員として、連合軍兵隊を送ってることを片時も忘れてはならぬ。
我が国は戦争をしている最中なのである。!!
情報が錯綜してる首ナシ死体が示してることでそれは証明されている。
新潟地震もあり、この国特有での情報操作がなされてるに過ぎない。
教育者に総てを求めるのは酷であるが次世代にかけるしか平和の歴史は守れない。太陽光発電にしたって・・そうだ!。
私の日記愛読者の中に自由闊達、純真無垢の先生がおられる。
山口の息子の仕事振りを写したく不純な動機で無断で最初は読み始めてみた
東に西にトリニータを無心で追う姿勢がいい。聖職の気負いなく、身近にして生活に根ざした平和の象徴たる日常である。もちろん日教組員である。
最近お悩みが多いようだが28日のことで主幹制度だけでない教育現場の厳しさががわかってきた
東京都教育委員たる元名人米長邦雄は28日の園遊会で天皇発言をさせ、波紋を呼んでいる
新聞を総合すると概ね次のようなやり取りのようだ
「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのが私の仕事でございます」
「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」
「はい、もちろんでございます」
今、日本の教育現場では君が代日の丸は強制されているようだ。
都教委は式典での国旗掲揚と君が代斉唱を徹底するよう通達を出し、これに従わなかった教職員238人が地方公務員法に基づき戒告などの懲戒処分にした。
宮崎の代表たる中山文科相のコメント
「強制ということではなく、喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりするありさまが好ましいということをお述べになったのではないかと考えている」
処分していることについて
「思想、良心は内心にとどまる限りは絶対保障されなければならない」
「外部的行為に現れた場合、一定の制約を受け、校長が教職員に対して本来行うべき職務を命ずるのは、思想、良心の自由を侵すものにはならない」
宮内庁のコメント
「国旗掲揚や国歌斉唱は、強制でなく、自発的に喜んで行うのが好ましいあり方、という意味だと思う」
「国旗・国歌法が そもそも成立当時の政府見解が、強制しようとする趣旨でない」
「(天皇発言は)具体的な行政施策の是非を論じたものではない。都が行っていることの是非は抜きにして、皆が喜んで国歌斉唱などをやるというのが好ましいということ。やらない人についてどうするかは施策の話になる」
都教委・教育情報課のコメント
「米長氏は一個人として招待されたもので、教育委員会を代表して意見を述べたものではないので委員会として特にコメントはしない。」
天皇陛下は国家国旗の強制が少し行き過ぎていると考えているのではと解釈するのが、それこそ「会話」から自然だと思える。
ところが、発言が天皇の発言として問題がないか、が一番最初に議論されなくてはいけないことらしい。
「自然に」を強制する矛盾はオチャノコサイサイ。
うどんさん先生を苦しめないでほしい。都教育委員さん。
明るくなきゃァ島国根性は克服できずグローバル化なる経済政策の担い手は育たないってば〜
小豆島の坪井栄の「24の瞳」を彷彿するが如き環境である。
時代の背景が違うだけである。
その当時珍しき自転車で分教所に通う大石先生が如きである。
トリニータを追っかける先生の如き屈託のない明るさである。
分教場は小豆島の南端、深い入江に突き出た田浦岬の突端にあった。
44年頃に廃校になったようである。
延岡市の須美江港から沖に浮かぶ島野浦小の瑞道の向こうの分校の位置によく似ている。
ちなみに私の母校たる都於郡山田分校は今だ授業を続けてるがそんなところもあるのでより身近である。
「昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女先生が赴任してきた」。
新聞配達で買った旺文社文庫で読んだ。感動を共有してほしくミッチャンにあげたはずだが、よく覚えてはいない。
記憶は視覚が一番いい。木下恵介監督、高峰秀子主演の映画化で知ってるが学校映画であったのであろう。みな泣いた。
それがどうにも記憶の混濁である。この頃いい映画を見過ぎた。
学校を全員で休み三財の岩崎の映画館まで歩いていった。
一学年250名ぐらい在校しており、距離10KM以上もあった。
この頃の橋は木製の材料で橋が壊れていて素足で浅瀬を渡っての行軍さえあった。
『綴方教室』(山本嘉次郎監督、1938)、『路傍の石』(田坂具隆監督、1938)、『次郎物語』(原作下村湖人 清水宏監督 1955 )
『にあんちゃん』、(今村昌平監督)
戦前と戦後と制作年月さえ確かでないほど。
山城新吾の白馬童子や風小僧のほうが楽しく、民主化に逆行する硬派の軍国少年であった。
白黒の最後の画面を鮮烈に記憶している。淀川定治や高野悦子の記憶何処ではない。
"おなご"先生と十二人の教え子の心のふれあいが描かれ、貧しい暮しや戦争の悲惨さ。
詩情ゆたかなこんな場面も時代の流れで暗転する。貧しさゆえに女の子は奉公に、男の子たちは兵隊にとられる。
大石先生もまた、夫の戦死、娘の死と荒っぽい時代の波に翻ろうされることになる。
戦後の既に先生を止めてたが、慰安会が開かれる。
出席したのは戦傷で失明した岡田磯吉ら五人。五人いた男の子のうち3人は戦死、女の子も一人は亡くなり、一人の消息はわからない。
戦争をはさんだ二十年、二十四の瞳は十の瞳になってしまった。
壺井栄1899−1967 は岬から五キロほど離れた港町・坂手の樽職人の五女、十人の兄弟姉妹と、両親がひきとった二人の孤児の中で育ったとある。
私も7人の兄弟祖父母に、デカンなる食い扶持を求める青年方も含め随分と似通った環境で育った。
小説は佐多稲子のすすめでかかれ、十二人を分教場の子供たちに置き換え、妹シンが代用教員をしていた岬の学校が舞台になった
昭和26年、家庭雑誌に連載、昭和29年映画化されたもの。
郷土の先輩たる黒木監督が覚醒させてくれた。
泊で夕方降りてきた工事部隊。APAの天孫降臨。稼ぎ頭
平和の使徒の宮崎人
2004年10月30日宮崎の片田舎では封切りに併せた舞台挨拶などとは無縁である。
その珍しき出来事があると言うのでホールに足を運んだ。
「父と暮らせば」は岩波ホールで7・31〜12・17で上映中であり、封切りと言うには少し具合いが悪いいが宮崎ゆえ仕方ないか。
太陽光発電の仕事をしていると不思議によく出くわす。
今朝の新聞では文化功労者の中に映画普及・国際交流の高野悦子氏(75)小説・戯曲の井上ひさし氏(69)をみつけ、曰く、因縁を感じ取ってるのだが考えすぎなのか。
実はこうなのである。先ほど舞台挨拶をした黒木和雄監督は1930年生まれの、宮崎県えびの市出身。
?1988.08.13TOMORROW 明日
?2002.12.14美しい夏キリシマ キリシマ1945
? 2004.07.31 父と暮せば と
三部作は監督の平和のオマージュ。
父と暮せば で全面協力したコマツ座は83年1月「樋口一葉」で旗揚げした井上ひさしの作品のみを演じる劇団。
HP担当の井上都の通信に書いてある。
明日から発行サル新札の方が第一作とはコリャまた出来すぎ。
岩波の映画は日曜日夜のNHK12チャンネルの世界名画劇場で私の映画鑑賞の世界の殆どをしめている。
その支配人は発足の日より高野悦子が務めている。黎明期の映画人、川喜多かしこご夫妻のご尽力のたまものであろう。
1968年2月9日 岩波ホール・ホール開き(232席)には大内兵衛氏、野上彌生子氏の祝辞、山本安英氏による朗読、近藤乾三氏の舞囃子で幕
を開ける。とあるが、
70年安保時の社会党の活発な議論は向坂逸郎・大内兵衛の社会主義協会を抜いては語れない。
私も大内兵衛宅の稲村ガ崎には訪ねたことがある。鞍馬天狗の大仏次郎宅やその頃の私の限界での資本の走具たる川端康成邸もあり鎌倉文化人をなしていた。
社会的作品を問い続けた野上彌生子、舞台人の神様・山本安英、能楽の宝生流の人間国宝の 近藤乾三といずれも故人だがそうそうたる名の中にキラリと光る人選を感ずる。文化人たる姿勢である。なんかフランスの文化の根底たるレジスタンスの臭いさえ感じる。その息やよし!
まさに文化人、国際人である。やってるぞ日本人も!で世界に誇れる文化のあり方である。
井上ひさしは遅筆、遅れる入稿で編集者泣かせだが選ばれたことに一番驚いてるのではなかろうか。
辞退・拒否を関係者は心配したことであろう。そのてんなら演劇の蜷川幸雄氏(69)小説の平岩弓枝氏(72はともかく映画の山田洋次氏(73)もそうであったろう。
寅さん後、新境地を藤沢周平 の時代劇で活を見いだしたようだ。
新作は隠し剣・・何とかであったが同じ日に封切りである。
第2次大戦後59年。戦争はなくなるどころか、父ブッシュの恨みばらしで世界中を不穏なムードに高める再選まで2日のオイルまみれのブッシュ。
そうした中で「戦争レクイエム三部作」完結編である。
井上ひさしの同名戯曲を「父と暮せば」として映画化した。自分ひとりが生き延びたことに苦悩しながら暮らす娘(宮沢りえ)が、原爆で死んだ父(原田芳雄)の幽霊に励まされつつ、生きる希望を取り戻していく4日間の物語。
埴谷雄高は僅か4日を『死霊』に生涯賭け書きつづけ、
全編が滅んだ日本に対するオマージュのようなものであった。
皆滅んだ日本への愛惜を描いていたとの命題に従えば、埴谷雄高の『死霊』と同じ時期に坂口安吾は『堕落論』で太宰は『斜陽』だ。
高橋和巳も書き始め、三島由紀夫も含め論壇では直に近代の超克が始まる。
みな戦争に負けて悔しく、皆滅んだ日本への愛惜に基づいた行動ではないのか。
吉田満は『戦艦大和ノ最後』小島信夫は『小銃』を書いた。高井有一の『白い河』にも愛惜と憧憬は残っている。
日本がアメリカに負けたのは恥ずべきことだし、悔しく情けないことだ、という単純な認識を戦後はできなかったし、今もできないでいる。
だからこそこの国は肉体を持てないで、霊だけが見えない姿で空中を浮遊している。
イラクでは死亡は誰なのか。本人や否やではなく、では誰なのかと第三者にはならぬ不可思議さ。
生命体であったのには変わらないハズだ同じ日本人なんだろうヨ!。
まるで落語のらくだや黄金飴の人間の業を越えてるブラックの世界。
米軍さん!まっさか「違うの出しちゃった〜ヤバ〜!」
じゃナインてば!いっぱいあるの?首のない人たち?
他者の目で見る戦争、反戦映画の反響も面白いハズだ。
「父と暮らせば」は北京の日本映画祭では、王府井そばの新世紀影院など2会場で、計4回上映された。
「じつは、極端ないい方なのですが、中国の会場からは(上映後)ブーイングが起こるんじゃないかと思ったんです。
客席で観客の反応をみるということを滅多にしませんし、ここは中国ですからいささか緊張して見ていたんですが、泣いている人が多かったのは意外でしたね。
それと、僕は"満州"育ちなものですから、悪いことをしたという加害者意識があって、中国に来るのがじつに後ろめたい。中国の人に"反戦・平和"みたいなカッコいい映画を、見ていただく資格がないと思っているんです……」
日本でいう終戦は、中国にしてみれば「抗日戦争勝利」にあたる。侵略国の日本に落ちた原爆の受けとめ方も、中国ではさまざまで「原爆のおかげで戦争が終わった」と見るむきもある。
じっさい、別の日の上映会では、CGで合成された原爆投下のシーンで「来、来、来」「来た、来た、来た)と嘲笑するような中国人の小声もあったと聞くが、初回で見た限りにおいては最後まで席を立つ人はなく、すすり泣く声があちこちから漏れていた。
映画が終わると、ごく自然に拍手が起こった。観客はいずれも日本人と中国人が半々ぐらい。中国のある若い観客は「原爆にどれだけの威力があったのか、知りませんでした。あの戦争で、悪いのは日本の一部の軍国主義者で、一般民衆は被害者だったと習ったけれど、民衆の悲しみが少しは理解できたような気がします」と、率直な感想を話してくれた。
「59年前に、世界で初めて原爆が広島と長崎に落とされました。それは広島で14万人、長崎で7万人の命を一瞬にして奪い、その後も30万人の被爆者を後遺症で苦しめています。
いま地球上にある核爆弾は、一人あたり10トンを抱える計算になるそうです。中国も核保有国の一つでしょう。
この映画に少しでも共感してもらえるところがあって(将来的に)100グラムでも200グラムでも核爆弾を減らすことに役立つとしたら、この映画を作った甲斐があると思うのです」
作品に込めた、監督の切なる願いだ。
工事部隊は佐土原、高千穂の二ヶ所と早朝より月末〆めに東奔西走中。
セキ○○の現場は、厳しくて手勉強になるはずだ。
素直に仕事振りをおぼえとぃってほしいものだ。
若き職人さんが復帰してくれている。
何らかの改善が姿になって見せえなければならぬ。
若者の考え方と女性の考え方は時代を牽引していく。
宮沢リエのセリフ回しの魔法の如く。
凄い営業トークとなろうな。今や天下の大女優。
吉永小百合のイメージの太陽光発電に彼女がいても何ら違和感はない。
宮崎の生んだ平和の使徒、黒木和雄監督は今や、日本一の監督になろうとしている。
その珍しき出来事があると言うのでホールに足を運んだ。
「父と暮らせば」は岩波ホールで7・31〜12・17で上映中であり、封切りと言うには少し具合いが悪いいが宮崎ゆえ仕方ないか。
太陽光発電の仕事をしていると不思議によく出くわす。
今朝の新聞では文化功労者の中に映画普及・国際交流の高野悦子氏(75)小説・戯曲の井上ひさし氏(69)をみつけ、曰く、因縁を感じ取ってるのだが考えすぎなのか。
実はこうなのである。先ほど舞台挨拶をした黒木和雄監督は1930年生まれの、宮崎県えびの市出身。
?1988.08.13TOMORROW 明日
?2002.12.14美しい夏キリシマ キリシマ1945
? 2004.07.31 父と暮せば と
三部作は監督の平和のオマージュ。
父と暮せば で全面協力したコマツ座は83年1月「樋口一葉」で旗揚げした井上ひさしの作品のみを演じる劇団。
HP担当の井上都の通信に書いてある。
明日から発行サル新札の方が第一作とはコリャまた出来すぎ。
岩波の映画は日曜日夜のNHK12チャンネルの世界名画劇場で私の映画鑑賞の世界の殆どをしめている。
その支配人は発足の日より高野悦子が務めている。黎明期の映画人、川喜多かしこご夫妻のご尽力のたまものであろう。
1968年2月9日 岩波ホール・ホール開き(232席)には大内兵衛氏、野上彌生子氏の祝辞、山本安英氏による朗読、近藤乾三氏の舞囃子で幕
を開ける。とあるが、
70年安保時の社会党の活発な議論は向坂逸郎・大内兵衛の社会主義協会を抜いては語れない。
私も大内兵衛宅の稲村ガ崎には訪ねたことがある。鞍馬天狗の大仏次郎宅やその頃の私の限界での資本の走具たる川端康成邸もあり鎌倉文化人をなしていた。
社会的作品を問い続けた野上彌生子、舞台人の神様・山本安英、能楽の宝生流の人間国宝の 近藤乾三といずれも故人だがそうそうたる名の中にキラリと光る人選を感ずる。文化人たる姿勢である。なんかフランスの文化の根底たるレジスタンスの臭いさえ感じる。その息やよし!
まさに文化人、国際人である。やってるぞ日本人も!で世界に誇れる文化のあり方である。
井上ひさしは遅筆、遅れる入稿で編集者泣かせだが選ばれたことに一番驚いてるのではなかろうか。
辞退・拒否を関係者は心配したことであろう。そのてんなら演劇の蜷川幸雄氏(69)小説の平岩弓枝氏(72はともかく映画の山田洋次氏(73)もそうであったろう。
寅さん後、新境地を藤沢周平 の時代劇で活を見いだしたようだ。
新作は隠し剣・・何とかであったが同じ日に封切りである。
第2次大戦後59年。戦争はなくなるどころか、父ブッシュの恨みばらしで世界中を不穏なムードに高める再選まで2日のオイルまみれのブッシュ。
そうした中で「戦争レクイエム三部作」完結編である。
井上ひさしの同名戯曲を「父と暮せば」として映画化した。自分ひとりが生き延びたことに苦悩しながら暮らす娘(宮沢りえ)が、原爆で死んだ父(原田芳雄)の幽霊に励まされつつ、生きる希望を取り戻していく4日間の物語。
埴谷雄高は僅か4日を『死霊』に生涯賭け書きつづけ、
全編が滅んだ日本に対するオマージュのようなものであった。
皆滅んだ日本への愛惜を描いていたとの命題に従えば、埴谷雄高の『死霊』と同じ時期に坂口安吾は『堕落論』で太宰は『斜陽』だ。
高橋和巳も書き始め、三島由紀夫も含め論壇では直に近代の超克が始まる。
みな戦争に負けて悔しく、皆滅んだ日本への愛惜に基づいた行動ではないのか。
吉田満は『戦艦大和ノ最後』小島信夫は『小銃』を書いた。高井有一の『白い河』にも愛惜と憧憬は残っている。
日本がアメリカに負けたのは恥ずべきことだし、悔しく情けないことだ、という単純な認識を戦後はできなかったし、今もできないでいる。
だからこそこの国は肉体を持てないで、霊だけが見えない姿で空中を浮遊している。
イラクでは死亡は誰なのか。本人や否やではなく、では誰なのかと第三者にはならぬ不可思議さ。
生命体であったのには変わらないハズだ同じ日本人なんだろうヨ!。
まるで落語のらくだや黄金飴の人間の業を越えてるブラックの世界。
米軍さん!まっさか「違うの出しちゃった〜ヤバ〜!」
じゃナインてば!いっぱいあるの?首のない人たち?
他者の目で見る戦争、反戦映画の反響も面白いハズだ。
「父と暮らせば」は北京の日本映画祭では、王府井そばの新世紀影院など2会場で、計4回上映された。
「じつは、極端ないい方なのですが、中国の会場からは(上映後)ブーイングが起こるんじゃないかと思ったんです。
客席で観客の反応をみるということを滅多にしませんし、ここは中国ですからいささか緊張して見ていたんですが、泣いている人が多かったのは意外でしたね。
それと、僕は"満州"育ちなものですから、悪いことをしたという加害者意識があって、中国に来るのがじつに後ろめたい。中国の人に"反戦・平和"みたいなカッコいい映画を、見ていただく資格がないと思っているんです……」
日本でいう終戦は、中国にしてみれば「抗日戦争勝利」にあたる。侵略国の日本に落ちた原爆の受けとめ方も、中国ではさまざまで「原爆のおかげで戦争が終わった」と見るむきもある。
じっさい、別の日の上映会では、CGで合成された原爆投下のシーンで「来、来、来」「来た、来た、来た)と嘲笑するような中国人の小声もあったと聞くが、初回で見た限りにおいては最後まで席を立つ人はなく、すすり泣く声があちこちから漏れていた。
映画が終わると、ごく自然に拍手が起こった。観客はいずれも日本人と中国人が半々ぐらい。中国のある若い観客は「原爆にどれだけの威力があったのか、知りませんでした。あの戦争で、悪いのは日本の一部の軍国主義者で、一般民衆は被害者だったと習ったけれど、民衆の悲しみが少しは理解できたような気がします」と、率直な感想を話してくれた。
「59年前に、世界で初めて原爆が広島と長崎に落とされました。それは広島で14万人、長崎で7万人の命を一瞬にして奪い、その後も30万人の被爆者を後遺症で苦しめています。
いま地球上にある核爆弾は、一人あたり10トンを抱える計算になるそうです。中国も核保有国の一つでしょう。
この映画に少しでも共感してもらえるところがあって(将来的に)100グラムでも200グラムでも核爆弾を減らすことに役立つとしたら、この映画を作った甲斐があると思うのです」
作品に込めた、監督の切なる願いだ。
工事部隊は佐土原、高千穂の二ヶ所と早朝より月末〆めに東奔西走中。
セキ○○の現場は、厳しくて手勉強になるはずだ。
素直に仕事振りをおぼえとぃってほしいものだ。
若き職人さんが復帰してくれている。
何らかの改善が姿になって見せえなければならぬ。
若者の考え方と女性の考え方は時代を牽引していく。
宮沢リエのセリフ回しの魔法の如く。
凄い営業トークとなろうな。今や天下の大女優。
吉永小百合のイメージの太陽光発電に彼女がいても何ら違和感はない。
宮崎の生んだ平和の使徒、黒木和雄監督は今や、日本一の監督になろうとしている。