今日の誕生日の花は・・・・サフラン
花言葉は・・・・・・・・愛への誘い

アヤメ科のさふらんは明治の女の母を思い出す。
幼児期ヨチヨチ歩きの頃の爺である。
深夜ションベンでお起きてのこと。
夢か現かである。
土間のかまどの前に左手で頭に手をやりうつむいている。
文化かまどの端には紙袋が茶碗にいっている。
赤い入れクスリの箱の富山の常備漢方薬
それが実母散なる今で思うとこのさふらんであった。
血の道とか書いてあったのを覚えている。
その意味ナゾ解るハズもない幼子。
それでも密かに常備薬の箱を覗いていたり兄に習ったりで「ジツボサン」は知っていた早熟の幼子。
チンチンお湯が沸くと茶碗に麦茶色が滲み出る。
「頭を抑えながらしかめ顔で飲みまたうつむく
苦痛の顔である。
ゆえにサフランの記憶は辛い。

さて記憶はどちらが先だったんだろう
生誕後の最初の記憶はどこまでさかのぼれるのか。
三島由紀夫は仮面の告白だったと思うが
産湯がキラキラしてたと生誕最初の記憶を言う。
義務教育時分ゆえしっかりの記憶はない。
金閣寺の小僧坊主が悩み火を放つまでの記憶に織り込まれてたのではとの事さえよみがえる程度の読後感が風化している。
産湯・・・爺はそこまでは記憶はない。
あの頃この田舎の東京ほどの大都会に見えた隣村の中心地岩崎。
車は未だ一台もない頃ひたすら歩くのが移動手段。
三財川の木橋を超えると真っ暗な全域が急にパッと明るくなるところには映画館もあった。
その唯一の往来の記憶は何歳であったんであろう。
 映画マデソン郡の橋は途中アーチ状で近代橋。
岩崎橋の木橋はそうでなく丸太が十数本ずつスパンごとに並べてある。
その上に砂利、土がのっており馬糞さえあったり草さえ生えている。
維持手入れ悪いゆえ途中「ポコッ」と穴が開いており川の水が見える危険なる代物
月の光なり懐中電灯さえ無きゆえ手元のカンテラを頼りに恐る恐る渡る大変なる時代。
不思議と落ちた人ナゾの事故ひとつなかった。
そのときの映画は覚えていないが帰りは奥山からのおろしが吹き荒れていた。
背中におんぶされ右左歩くたびに幼子は揺れた
綿入れ丹前の淵の今で言うボアー状が肌さわりが気持ちいい。
時々どちらかに手で背中をパタパタとやってくれるのも心地よい
ヨチヨチ歩きの兄らの手を握ってるゆえその愛の手もたまにしかこない。
視野の狭い中見上げる夜空はキラギラのお星様。
良薬は口に苦し。
サフランには苦い記憶があるがほのかに暖かい。

事業仕分けが教育に切り込んだ
全国学力テスト第一回の世代の爺には学力テストは未だいいとしても不可解さもあった。
ジックリこの国の教育制度を考えるの丁度よかった
大急ぎ一夜漬けで教育制度を俯瞰してみた。
この国の教育制度の変遷は聞いたことがあるとおり
 家塾有、党痒有、街雨有 国学有
順序それぞれ<家><学><村><義塾>
いまもかわらないが勤労国民にあり
ただ最初の家庭教育が欠けつつあるようだ。
漢学国学洋学医学を基本とした。
ウェキペデアでは私塾は1500を数えたとある。
NHKテレビ25日22時~歴史ヒストリでやっていた。。

この国が明治維新を迎えるにあたって時勢を見据えて一番に先駆したのは水戸の開明の学問にあった。
祖父以来の藩学を引き継ぐ藤田東湖は時代を席巻した
大地震で江戸の藩邸でなくなったが藩挙げての勤皇党に集った人々は哀れなる形で
時代が少し早すぎたため憂国の精神は力になりきれなかった。
ほとんどの人が殺され人材は枯渇したゆえである。
土佐も武市半平太なぞ惨殺され坂本竜馬ナゾの脱藩組みの活躍がアッたればこそで明治維新に参戦できた
長州も蛤の門で多くの人材をなくした。
明治維新はゆえに藩が結束ジックリ維新を備えた薩摩が中心で薩長土肥の主力は薩摩であった。
明治政府が薩摩長州で勧められたのはやむ得ないところがある。

そのようなる事情もあり先週17日江戸末期陽明学の本家本元の藩校弘道館の水戸市の市長が大分の日田をたづねた
ここは以前などもアップしている日本一の私塾のあった咸宜園のことである。
 咸宜園は、江戸後期の1821年に広瀬淡窓が開塾した。
80年間も存続し♪ミヤサン宮さん♪で江戸城開城に向かう総隊長の大村益次郎や第23代総理清浦奎吾総理、蘭学者の高野長英らを輩出4000人を超えた。
日向人も三桁の塾生の数を誇る。

最大規模の藩校水戸との連携先として
①足利学校(藩校の源流)
②閑谷学校(公営の庶民教育)
③咸宜園(近世最大級の私塾)
これが現在進行中の水戸、足利、備前の3市による世界遺産構想である。
 咸宜園の広瀬淡窓は今の広瀬知事のご先祖様。
筑紫哲也の祖父もここの出身である。

日本一の藩校弘道館と日本一の私塾咸宜園で世界遺産指定をシヨウではないか。
ということである。

九州一円の西日本新聞に記事があった。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/132782
水戸のはこのように報じられていた。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E5%A4%A7%E5%88%86%E6%96%B0%E8%81%9E%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%B7%A1%E7%AA%93&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&u=www.ibaraki-np.co.jp/main/topnews.htm&w=%E5%A4%A7%E5%88%86+%E6%96%B0%E8%81%9E+%E8%8C%A8%E5%9F%8E+%E5%BA%83%E7%80%AC+%E6%B7%A1%E7%AA%93&d=aXf_Td29T1AQ&icp=1&.intl=jp
之と他に爺の注目している県がある。

越中義塾について、今日広く人々に知られている情報と、その出典についてまとめると、概ね以下の通りとなる。
この県は明治維新後の第二第三の世代にたとえば瀬島龍三正力松太郎角川書店社主なぞ生み出している。
田中・利根川のノベール賞受賞者・・・

官僚批判が何かと強いご時世であるが爺が俯瞰するところ一番輩出してる県はどうやら富山県との認識がある。
その因を乱暴で一夜漬けで追ってみると 明治14年11月設立の越中高岡の片原横町に創立された越中義塾にある。
創立者は、高岡木町で代々材木問屋を営む大橋十右衛門。
米騒動の発祥の地、さらには国会開設を控えての自由民権運動の高揚ガ急がせたのか。

 大橋の相談相手は、東京日々新聞の記者としてたびたび上京していた、越中国射水郡中老田出身の富農、海内果である。
京都で漢学を、東京で英語を治めた。
 明治14年の春、二人は高岡に学塾を設けることを決した。
しかし、この年の9月に海内が腸チフスで急死したため、大橋が独力で越中義塾を設立することになった

教育はまず指導者に尽きる
 越中義塾の教師は海内と親交のあった
英学担当が熊本出身の同志社出の和田正脩
漢学担当が大分出身の咸宜園出の園田朝弼。

東京の慶應義塾に範を取った
学科は英漢の二学科で、正課の修業年限は4年間であった。
 授業料は月額1円で、寄宿生の食費は月額3円。足
りない分は大橋十衛門の義金によって補った。
 生徒は常に百名を下ることがなく、盛況
ところが廃校となったのは、明治16年12月に徴兵令が改正され、徴兵猶予の特典が私塾の在校生に与えられなくなったことが原因とされる。

和田正脩から英学を学んだとされる人物の一人に、藤井壽松がいる。
藤井は明治4年、高岡の生まれ。医師藤井貞為の長子。
越中義塾を経て明治18年に上京33年7月、東京帝国大学医科大学医学部を卒業。
ナント恩師の国熊本病院外科部長、熊本医学専門学校教授、となったヒト。
富山県下で最初の洋学校の伏木小学校が設立されたときは越中義塾卒業生の吉田五十穂が教鞭をとった。
偉人越中義塾創立者の大橋十右衛門は高岡古城公園の碑に詳しくあるとブログに写真まである。
残念ながら富山に行ったときにその確認はしていない。

先週大河ドラマが終了したが歴史好きの爺は「愛」のかぶとの武将を知らなかった。
実は之はやむ得ないことである。
歴史は為政者が作るもの。
130万石の上杉家も30万石さらに減り、版籍返上の今で言う倒産の状況下にあった
日向の地秋月藩から鷹山公が婿入りしたときは15万石。
類似の小倉藩ナゾは藩士は1600名ぐらい。
ところが15万石の上杉藩の藩士は5800名
JALどこではない完全に財政はパンク情況で60万石の藩の借金があった。
それを緊縮とせず拡大の積極財政策で蘇らせた。
藩内に産業を興したのである。
財政再建②成功したの先ほどの第9代藩主上杉治憲=鷹山が形としてあった
直江兼続以来の学問所を再興し熊本藩より招聘した細井平洲が指導した。
人材を作り上げ藩意を統一させ殖産興業に成功したのである。
大河ドラマTV放送の頃から200年後くらいのことである。
日本人から忘れられてたヒトである。

ケネディーが来日でインタビューに応じた。
「誰を日本人で一番尊敬するか」
「上杉鷹山ッ!」
「??・・」
その答えは以外であった。
居合わせた記者で知ってるヒトは誰もいなかった

直江は徳川の治世ゆえ上杉の歴史に埋もれられてたヒト。
考えてみればいい。
全国トップの知行を15万石までしてて英雄扱いはなかろう。
NHKの描き方にはどうにも思い入れがありすぎるゆえ
あの英雄史扱いのドラマになってしまっているんである。
今でも米沢町内で堂々と祭られてないのが直江兼継である。歴史ヒストリアのテレビでそう放映していた。

上杉家は徳川家に対立し最上家伊達家のように世渡りが出来なかったゆえだ。
直江兼続の唯一の功績は藩校の基礎を作ったことにある。
法泉寺に藩の学問所禅林文庫を創設したただそれだけが功績である。
4代藩主吉良家から養子の上杉綱憲が学問所を建立。
それを受け継いで200年後藩校・興譲館で鷹山が設立した。
興譲館とは「大学」の一節「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲」から採られた。

現在の日本一古き高等学校である。
山形県立米沢興譲館高等学校で偏差値授業万能の中
今でもすばらしき儒教教育にある。
三つに特化されている。
「一、自他の生命を尊重する精神。」
「一、己を磨き、誠を尽くす精神。」
「一、世のために尽くす精神。」

述べてき学問所で唯一共通項がある。
これらの教室の前に掲げてあり皆で音読することから授業が始まる。
「白鹿洞書院掲示」(びゃくろくどうしょいんけいじ)

学校の生徒心得として朱子が示したもの。
「父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり…」で始まる人間の心得である。
日本では江戸時代、各藩の藩校にこの「白鹿洞書院掲示」が掲げられ、人づくりの指針とされた。

山形には「白鹿洞書院掲示」を朝な夕なに詠んでる高校生がいるのである。

  父子有親 君臣有義 夫婦有別 長幼有序 朋友有信
   右五教之目。発舜常識為書徒業敷五教、即此是也。学者学此而已。
而其所以学之之序亦有五焉。其別如左。

  博学之 審問之 謹思之 明弁之 篤行之

   右為学之序。学問思弁智者、所以窮理也。若夫篤行誓事、則自修身愚書千畑事黒物、卑官有要。其別如左。

  言忠信行篤敬 三盆窒慾遷善改過

   右修身之要。

  正其義不謀其利 明其道不計其功

   右処事之要。

  己所不欲勿施於人 行有不得反求諸己
   右接物之要。

「中国古典の名文集―あの名言・名句四千年の叡智」著者守屋 プレジデント刊み治められている。
日本の先人たちは中国古典を教養の根幹としてきた。
先人たちの経験を追体験し日本の優れた伝統を見直そうというのが本書の狙い。
 諸葛孔明「出師の表」、陶淵明「帰去来の辞」
など、いずれも日本でなじみ深いものだ。
このなかに漢文、読み下し文、訳文のほか、作者や
文章の出所、日本での読まれ方なども紹介されている。
「白鹿洞書院掲示」もここにある。

爺にはもうとても無理であり朱子デいうなら漢詩『偶成』に託す程度。
「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んず可からず」
この勧学を諭したコンパクトな言葉も齢から万事休す
この有難い老婆心はお隣の国の歴史性を重ねることを知らなかった。
隣国では次第に時代の為政者の元・明・清及び、中国に勃興する新民の心を捉えてゆく「白鹿洞書院掲示」もここにある。

事業仕分けで気になったるところである。
25日のNHKテレビ歴史ヒストリアで上杉鷹山を放映していた
高校生の「白鹿洞書院掲示」唱和には感心したものである。

○不可思議なるマスメデアだ。
捜査中の事はマル秘の筈だ
公務員には守秘義務がある。
メデアを使った検察主導にあることを何故いわないのか
捜査中が出るゆえ
本人コメントは
「驚いている」
適切ではないか。
何をメデアは騒ぐ。
捜査中が公表されているのは予断を与えないのか。

○今日26日は昭和49年の年に田中角栄が総理辞表を表明した日。
アメリカに楯突くと総ての組織が牙をむく。
従属国からの脱皮はこの国には無理である。
世界で唯一64年を経てもいまだ独り歩きできない国。

○小泉純一郎が厚生大臣の頃の事務次官二人が国会召還日程が決まっていたら・・・
ナント!犬のチロの敵で殺害した小泉殺害者の裁判の日。
こんな不可解の田舎芝居はない。
恥を知れ日本の捜査当局。
恥ずかしくないのか。

○ノーベル賞受賞者5人がそろった
昔は平和を訴えるためにノーベル賞受賞者が並んだ
予算分捕り合戦の最中の緒戦でこれとは恐れ入った。
なんと品のない国になったものか。ノーベル賞の程度が知れる。
まだ仕分け作業中である。
国会審議さえないではないか。
恥ずかしくないのか。
非核三原則で受賞した佐藤栄作ともども
受賞を取り消せッ!

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