隣国からのお客様

2006年3月11日
歴史の功労者は紙幣などとなったり、記念碑,冠をかぶせた大会と名を残す。
ここんとこ情報が途絶えている隣国フイリッピン。
クーデターに怯えるフィリピンのアロヨ政権が警戒下に置いたのは「アギナルド基地」
スペインから独立宣言した建国の父エミリオ・アギナルドの名を冠した同国の原点とも呼べる場所である。
1898年に独立軍を率いた初代大統領は当時29歳。
肖像は5ペソ硬貨にも刻まれている。
ニッケル銅の薄い金色の輝きが今は寂しい。
アギナルドには日本と浅からぬ縁があった。
接点は日活の創設者の1人梅屋庄吉だ。
庄吉は27歳のとき香港で写真館を営んでいた。
ここで29歳の孫文と出会い、後年、私財を投げて辛亥革命を支援する。
自転車屋だった亡命者のアギナルドとも親交を深め、3人はアジアの連携や自立を熱く語り合った。
庄吉が集めた武器を積んだ船は密(ひそ)かに長崎を出たが、嵐で沈んだ。
独立したはずのフィリピンは軍備不足で今度は米国の植民地となり、梅屋家は破産状態となった。
さらに新聞は伝える。
庄吉の孫である日比谷の料理店「松本楼」の新居嗣朗副社長(70)は祖父の時代をこう語る。
「名や財よりアジアに胸をときめかせた日本人がいたことは忘れないでほしい」
昨日のテレビニュースをみてて驚いた
隣国の大統領であった朴正煕パク・チョンヒ、1917年11月14日 - 1979年10月26日の娘が来日してインタビューに応じていた。
ハンナラ党代表の朴槿恵で長女だという。。
懸案の靖国問題などに穏健なる発言で父親譲りの知日派を感じた。
李承晩と朴正煕 はわれらの世代の記憶にはある。
、日本語読みは「ぼく・せいき」だがパクチョンヒと侮蔑もこめ呼んだものだ。
後に大統領になる金大中を日本国内で拉致して本国に連れ帰った何でもありのところもあったからだ。
さらにクーデターで政権を奪取した大韓民国の軍人政治家ゆえである。
第5〜9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を勤め、軍事独裁政権を築いた。
この韓国語の読み方の変遷を見て気づかされた。
日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになり、漢字表記のままで「パク・チョンヒ」と韓国語読みされるのが一般的である
以下ホームページからの転載
日本統治時代の朝鮮慶尚北道亀尾出身。
父親は科挙に合格したが、日韓併合で没落し墓守をしていた。
大邱師範学校を卒業し教師をした後、日本国籍のまま満州国軍の新京軍官学校で学び、同校を首席で卒業する。優秀な成績のため、特に選ばれて日本の陸軍士官学校に留学した。
その後、創氏改名で高木正雄と名乗る。1944年に日本の陸軍士官学校を卒業(57期)し、終戦時は満州国陸軍中尉だった。
戦後大韓民国が独立した後は新たに創設された韓国軍に入隊した。しかし南朝鮮労働党に加入し、軍内工作の首謀者であったことが粛軍運動で発覚して逮捕され、死刑を宣告される。だが、南朝鮮労働党の内部情報を提供したこと、北朝鮮に通じていることが米軍当局に認められて釈放された。朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰し、さらに戦闘情報課長から作戦教育局次長へと昇進した。
1961年5月16日、「軍事革命委員会」の名の下、張都暎らとともに軍事クーデターを起こす(5・16軍事クーデター)。
反共親米、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などが決起の理由とされる。当時の朴正煕は陸軍少将の階級にあり、第2軍副司令官であった。政権を奪取した後は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、治安向上や経済改善などを実行に移した
。6月10日には秘密諜報機関・韓国中央情報部(KCIA)を発足させ、7月3日に至って張都暎を失脚させ自ら軍事政権のトップに立った。
これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていくことになる。それゆえ、頻繁にデモが起こるようになるが、武力でこれらを押さえ込んだ。
また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「ヤクザも敵わぬ朴将軍」と言われるようになる。
大統領としての業績
1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。
前大統領の尹潽善を破り、自らが大統領の座に就く。
1965年6月22日には、国民の反対の声がありながらも日本との国交を回復(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)。
またベトナム戦争への派兵も決定するが、次第にアメリカの敗色濃厚となるに従い、ナショナリスト的な立場からアメリカから離れていく。西ドイツへ労働者を派遣し、その給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結やベトナム派兵により有償・無償の資金供与を日米等から受ける様になる。
中国の核兵器開発に対抗して、密かに核・ミサイル開発に着手して米国と衝突して中止するなど、ハリネズミのごとく武装する「小強国」ビジョンに基づく独自の自主国防計画を推進することになる。
内政においては典型的な開発独裁で、国家主導で産業育成をはかるべく財閥、国策企業を通じ、重工業にカネ、モノを重点的に投入した。これによって作られた代表的なものに浦項製鉄所がある。この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」と呼ばれる飛躍的な発展を遂げたものの農業の遅れが目立つようになり、それを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の近代化を果たした。
政治的なスローガンとしては「維新体制」を標榜したが、開発独裁といわれる朴正煕の経済開発手法は彼が実際に見聞した満州国における政府主導の重工業化からヒントを得ているとする分析がある。
また、数次にわたる五カ年計画方式は、北朝鮮の計画経済をモデルにしていると思われ、必要と思えばイデオロギーに関係なく何でも取り入れる現実主義的柔軟性は注目される。
1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。
一方、国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁色を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧をも行った。
自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていたが、1974年8月15日、
日本統治から「解放」されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、日本の警察から奪った拳銃を用いた在日韓国人・文世光に銃撃を受け、夫人の陸英修女史が頭部を撃たれて死亡(文世光事件)、日韓両国の政治問題へと発展した。
そして自身も、釜山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)が、遺体は国葬となり、現在、国立墓地、顕忠院に葬られている。
死去後の評価
彼の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が二代続き、その経済開発路線を継承する。
民主化後、彼の強圧的な独裁政治への批判が高まるが、生活が豊かになり、その恩恵を国民が感じ始める中で次第に変化が現れ、彼の独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。
政敵であった金大中が、大統領選を控えて保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたとの位置付けがほぼ固まった。独裁的でありながら、私生活はいたって質素、潔癖であった彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるともいわれる。
また、ネポティズム(縁故採用)も嫌ったとされる。
終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み、決定的な経済格差を付け、朝鮮半島の統一問題と東アジア地域の国際関係に劇的変化をもたらせたことも指摘せねばならない。
一方、批判的な見地からは知日派である彼を親日派と非難する事が多い。2004年に日本統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相究明特別法が可決され、その時代に日本の士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼も槍玉に挙げられる(最終的には、彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。これらは韓国で行われている歴史見直しの一環であるが、次期大統領選絡みで、彼の娘であり有力候補の一人であるハンナラ党党首・朴槿恵の人気低下を狙ったという見方もある。
とにかく政治には評価が定まらない。
佳境を迎えてる1500枚太陽光発電パネル工事。
さいごの建物の430まいにとりかかる。
現地泊は続いている。
延岡より図面作成に一日中おられるのでご一緒した。
予定者が風邪で途中自宅にかえる変更の処理要員のためである。
この多忙さと4月の仕事。
日向をお客さん訪問の予定をキャンセルすることとなる。
いい骨休みである。
隣国たる国々ともこうでなくちゃ〜

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