今日の誕生日の花は・・・・ゲッカビジン
花言葉は・・・・・・・・ただ一度だけ会いたくて


月下美人、はサボテン科クジャクサボテン属
メキシコの熱帯雨林地帯を原産地常緑多肉植物

宮崎の地でも山間では管理に苦労した記憶がアル
非耐寒性ゆえ、摂氏7度以下になるときは室内に入れて保護。
朝太陽が昇る頃に日に当てるという厄介モンあの当時ビニールはなく紙に油を塗って保温施設を作ってたものだ.
凍傷になるとその部分の組織が壊死、葉状茎に褐色斑点ができる月下美人
その葉っぱも含めた美しさのためや珍奇植物として好奇の目で隣保班みなで開花を愉しんだ
開花は地域のミニニュース珍現象の時代だった
定説1年に1度しか咲かないはウソ。
手入れをきちんとすると2度咲く。
花を咲かせるだけの栄養素の蓄積や体力回復のゆとりが、成長期に十分あるかどうかの問題。
新月の夜にしか咲かない もそう。
管理原書にあるのは
野生状態で受粉を行うコウモリは、月齢に合わせたサイクルで花粉や蜜を食べに来るのではない。
そもそもゲッカビジンの受粉に関わるような小型のコウモリは、毎日食事をしなければ餓死してしまう。
従って、月齢に合わせた開花サイクルを進化させる必要はなかった。
写真は↓コチラ
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%82%B2%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%B3

現れてより立ち通し曼珠沙華
風花のおしもどされて漂へり

倉田紘文は(1940(昭15)・1・5-・)大分のひと。
高野素十に師事。
「蕗」主宰
48年に別府大教授

蛍待つ闇を大きく闇つつむ
水広きところにけふもかいつぶり
風ゆきしあと花びらの流れけり
遠く来て沖を見てゐる薄暑かな
滑走路空へつづける草紅葉
ゆけむりの一と伸びしたる時雨かな
いつ終るともなく枇杷の花終る
遠く暮らす母を思う
ひらがなばかりの暖かさとせつなさ
静寂の秋の日と重なる

NHKラジオ深夜便アンカー教える今日の一句

秋の灯に ひらがなばかり 母の文
             倉田紘文


爺目現役世代の社会解析手法は二大パワー国家勢力を背景に組み立てた
つまり
アメリカを中心とする資本主義国
       VS
ソ連邦を中心とする社会主義経済勢力勢力

それから自国の政治経済分析にとりかかる。
   自民党・経済団体結集の勢力
    VS
社会党総評ブロックの反自民三分の一働く勢力

最近はとりわけ副島学問グループの特筆する
社会分析手法で紐解かれる
つまり英国米国の

銀行屋・ロスチャイルド
VS
戦争屋・ロックフェラー

で紐解く史観が主流を占めてる

歴史観分析で明治維新に対しての

労農派
VS
講座派

学者総動員二分化しての論争での手法が
人脈的にも色濃く残してた学問的残滓ゆえかもしれない
こんど副島学問グループスタッフから新刊書が刊た。
『新興大国権力者図鑑』日本文芸社刊。
『世界権力者人物図鑑』に新鮮で驚いたものだが
第二巻『ヨーロッパ超富豪人物図鑑』
に続く三冊目。
10数カ国トップ富豪の個別情報が写真入で解説されてる
公安警備さえ常備するはずの優れモン。
欧州経済危機が叫ばれる中、
危機解消、救済には
BRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の動向が鍵になってる
世界経済政治状況にあるゆえ、それぞれの国家の個別富豪が掲載されてる

何故植民地状況から65年も脱却できず
日銀紙幣さえ20年間増刷できぬままデフレ経済運営を強いられてるのか。
アメリカ軍事基地もその対価費用のアメリカ発行国債を毎年交わされつづけるのか
国民挙げて作りえた公平なる富の分配はなされず、
 国富を宗主国に朝具せねば成らぬのか.

そのため国家自立の経済運営の民族派政治家はスキャンダラスなり命さえ狙われ抹殺されてきたのか
対米従属派政治家は平穏無事。
詳しくは個人政治家ごと9月22日 台風一 家 1
「経世会(旧田中派)」VS「清和会」でアップされてるので参照お願いしたいところ。
http://blogs.yahoo.co.jp/tt23vd8m/archive/2011/9/22

植民地支配国、権力者が意図をもって嵌めるを冤罪という
無罪はありえない
何がなんでもどうしても有罪なんである
証拠なぞ不用、裁きの場に検察なぞ不要
裁判官の推定認定=推認で罪が作られるー

9・26裁判は後々まで語り続けられよう
東京地検特捜部が決め手を得られずに立件を断念した「1億円裏献金」を、
裁判所が勝手に踏み込んでデシャバってクロと断定してしまう。
5000万ずつ
場所も特定して
秘書は受取った
証拠は・・・
証拠は供述調書さえないが、「推認」
岩手秋田地域では天の声で公共事業が決まってた
天の声の立証もない
野党であったので職務権限もない
これじゃあ、検察そのものが不要。
ムチャクチャすぎるというものだ。

北朝鮮や一党独裁中国なぞと
 とても笑える状況何処でないことが
     この国の司法制度で生じた
  植民地国ゆえ宗主国アメリカに物が言えない支配構造維持体制
闇黒国家である
 世界が崩れ行くこの国に懸念を寄せよう。

9・26小澤一郎秘書三人の有罪ほど
これまで培われたこの国の裁判制度を愚弄したものはない.
恐らく検察の良心的な人手さえ驚いていよう
法とは何か
ほんの文庫本の一冊でも読んだ人なら
9・26裁判のムチャクチャさに
怒りを通り越し嗤ってしまおう

実は爺目は反小澤一郎である
現役の頃小澤一郎或いは小澤一郎的政治手法に対峙した
生活の総てを賭けて、デモに国会行動に
エネルギー転換也から来る社会騒乱の九州各地の運動に参画してきた
今は国難っ!
民族派政治家に国家の行く末を託す以外に
多数派の政治家群はいない
束ねきれるは小澤一郎を持って以外この国にはにない。
47歳政権党幹事長も69歳
 もう神のくれた時間は残ってないー

1958年(昭和33年)頃から1971年(昭和46年)まで13年間に亘って続いた
下筌ダム・松原ダム建設反対
室原知幸翁に代表される蜂の巣城紛争以外は
三池炭鉱のホッパー決戦後に寝泊りした
大隈コンビナート、水俣水銀、健軍基地人間の鎖、
長崎への原潜艦エンタプライズ入港には
余りのも巨大さに木の葉っぱ以下の伝馬船で死を感じる恐怖を味わった

宮崎県内は社会改革の熾烈なぶつかりあい争闘の連続。
何故なら巨大軍事基地があるゆえだ
列島西空を守る空軍基地新田原基地を抱えるゆえ、
 毎年10・21国際反戦デーは多忙すぎた。
プルサーマル旭化成研究施設建設反対
誘致企業倒産が頻繁で処理に当たっての闘争支援も大変であった.

まだネットなりウィキーリスなりの相互情報交換がない時代ゆえ
冤罪の支配構造が保守陣営にさえあることが理解できてなかった.
保守
VS
革新
の対立軸での分析手法が運動を導ける手法の時代であった

いま人脈でこの国の支配構造を読み解くには
2代遡れば、現役世代はその人々の孫の世代にある。
8日国会自民世耕の質疑で孫たるを確認
すべてが一つの意図に練りこまれ収斂されるー

まさに万里一空を持ち出して
大関の意気込み矜持を述べてた九州柳川のひと新大関琴昇菊の教える如く

『日本再占領』中田安彦)8月6日に刊行された。
アメリカの外交公電・ウィキリークス文書に依拠し
裏切り者の外務官僚たちの現役の外務官僚の例えば、
有馬裕・国際連合日本政府代表部参事官、
船越健裕・現在の外務省北米局・日米安保条約課長
といった人物たちの政権交代に対する怨念の吐露にも似た発言が収録されてる。

日本が大震災にきちんと対処できないのは、政治家・官僚・財界人たちが、
この大震災に数ヶ月右往左往していた理由は、日本の国家としての統治能力=ガバナンスが決定的に欠如していたからだ。
その原因を探っていくと、やはりそこには日本の冷戦時代からの「対米従属」を良しとする姿勢がある。

有馬龍夫やその周辺の財界人、外交官の人物ネットワーク、
戦後アメリカに留学した「金門クラブ」の留学生たち、
日米安保を推進してきた「菊クラブ」という存在

文化交流を通じて外交・経済的な目的を達成しようとする
アメリカの基本国家戦略のひとつ。

まず登場するは
戦前から知日派と呼ばれて日本の政財界に深く根を張っていた、
元駐日大使のジョゼフ・グルーを中心とした人脈。
グルーはあのペリー提督の兄のひ孫アリスと結婚したアメリカの外交エスタブリッシュメントの一人。
マサチューセッツ州ボストン生まれで、地元の名士の家柄。
JPモルガン商会経営者ジョン・ピアポント・モルガンの従兄弟、血筋が非常に良かった。

 そのグルーが日本大使を務めた時代のことをまとめた本『滞日十年』毎日新聞社刊。
この書籍の印税をもとにグルーは、戦後日米文化交流の基礎となるひとつの財団を作る。
それがグルー基金。
この財団は、日本の学生(高卒生)をアメリカの大学に留学させるための基金を構成している。
留学先:http://www.grew-bancroft.or.jp/college/list.html
知己日米協会会長の樺山愛輔(かばやまあいすけ)に相談。
若き日にアメリカのリベラルアーツの名門であるアマースト・カレッジに学んだ樺山は、
日本側の窓口として労を惜しまず、グルー基金と名づけた奨学金制度を設立
、日本の若者にリベラルアーツ教育を受けさせることを提案した。
樺山は、日銀総裁だった
一万田尚登、
吉田茂総理大臣、
石川一郎経団連会長、
新渡戸稲造
などの政財界の賛同を得た。
この財界資金とグルーの印税が基金が原資。

同種の基金として樺山は駐日大使だったエドガー・バンクロフトにちなんだバンクロフト基金も設立している。
二つの基金は1952年に設立され、
それ以来毎年のようにアメリカに留学生を送る奨学金を無償で付与している
この文化戦略が、反共を国家戦略として打ち出したアメリカにとっては対日戦略の要となった。

「民間結社」(シビル・ソサエティ、同じ意図を持っていた人たちの集まり)を創りだした。
それが、「菊クラブ」(クリサンセマム・クラブ、The Chrysanthemum Club)。
この「菊クラブ」こそが戦後の外務省の日米人脈の裏糸として存在してきた集団。

「菊クラブ」の第1世代がグルーや樺山愛輔、一万田尚登、そして松本重治
その総帥的な立場にあったのが、米国の巨大財閥の三代目
、ジョン・D・ロックフェラー3世。
つまり、ジェイ・ロックフェラーの父親ー。

この人脈の結節点の象徴的存在が「国際文化会館」アイハウス。
ロックフェラー財団をはじめとする内外の諸団体や個人からの支援により設立された、
日米の研究者、文化人、芸術家、企業人等が集うシンポジウムを企画している。


 現在の理事長は、元国連事務次長の明石康、
フルブライト留学生としてアメリカに渡り、バージニア大学大学院を修了、コロンビア大学で学んだ人物。
タフツ大学フレッチャースクール博士課程在学中の1957年に、日本人として初めての国連職員に採用されたという。

 この初代理事長が樺山愛輔、
  第二代理事長が 松本重治・同盟通信記者。
   松本は明治の藩閥政権の重鎮である元老松方正義の孫に当たる人物。
第3代理事長は政治家永井道雄
第五代目が高垣佑(たすく)。
この高垣は、旧東京銀行頭取だった金融財界人、
初代三菱商事社長・高垣勝次郎は父親。

国際文化会館の敷地は、戦前は三菱財閥の4代目総帥、岩崎小弥太(岩崎弥太郎の甥)の所有していた岩崎家・鳥居坂本邸
大空襲で焼けて戦後、岩崎家から物納を受けて国有地、
結局、国際文化会館の用地として払い下げられた。
三菱=岩崎財閥が時代背景から「反共・逆コース」と日米知的文化交流の「場」で設立された


三菱商事の元会長で相談役の槇原稔。
日本経済新聞「私の履歴書」に回顧録を著した。

 日米財界人会議議長などを務め、旧長銀が米投資ファンドに買収されて新生銀行となった時、
ロックフェラー家の当主であるデイヴィッド・ロックフェラー(元チェース・マンハッタン銀行頭取、現在96歳)
と共に、その社外取締役となった財界人。
社長就任時、社内で英語公用語化を目指したロックフェラーと親しい、黒い目をしたアメリカ人
回顧録によると
槇原稔は松本重治や樺山愛輔たちの文化交流を受けて登場した戦後派の世代であり、
現在はその息子や孫たちの世代

槇原稔の父親・覚(さとる)は、1894年生まれ
「履歴書で初代三菱財閥・岩崎弥太郎の長男である久弥の世話になって教育をうけている

久弥は自分の3人の息子とともに学ぶ大学生を集めており、そこに覚も呼ばれた。
卒業後覚は三菱商事に入社。
息子の稔は、入社後9年後の1930年にロンドンで生まれた。
幼少期にニューヨークとロンドンを行き来する生活、
稔には英語が生涯の武器。

 稔は7歳の時、ロンドンから帰国後に、やはり三菱グループと縁の深い東京・吉祥寺の「成蹊学園」に入学。
明治・大正期の教育者・中村春二が、同級生の岩崎小弥太と今村銀行(後に第一銀行と合併)頭取・今村繁三の協力を得て
創設した私塾「成蹊園」が母体。
成蹊学園の出身者には政治家著名財界人も多い。

外交官となり日米の交流のキーパーソンとなった、
有馬龍夫
加藤良三

有馬裕の父親龍夫
加藤良三は駐米大使後、プロ野球コミッショナー
読売渡邉恒雄主筆とも関係が深い。
プロ野球もアメリカのソフトパワーの一環という側面があり、
コミッショナーに日米関係の事務方で重要な地位にあった人がつく。

 槇原稔が、やがて外交官となる有馬龍夫と交流を深める
、槇原が高校生として有名なセント・ポールズ高校(米ニューハンプシャー州)に留学してから
きっかけは1947年「毎日新聞社主催・マッカーサー杯」という英語での弁論大会。

国分寺にあった岩崎邸に身を寄せていたが一部がなぜか米国聖公会というキリスト教団に接収された。
マッカーサー元帥が聖公会であったから、絡みか
ともあれ、そこにハーバード大学出身のバイエル主教が赴任。
「自分はぜひハーバード大学に留学したい」とリクエストした。
そこでバイエル主教がアドバイスしたのはセント・ポールズ高校への留学である。
槇原覚は載っていた船を戦時中アメリカの潜水艦に撃沈されたのに米国に渡る

無償の留学を通じたアメリカへの親しみは、アメリカの国家戦略である「ソフトパワー戦略」として自然と組織化されていく。グルー基金やフルブライト奨学生制度がそれである。
槇原や有馬がハーバードに在学中のころ、
アメリカにひとつの旋風が吹き荒れていた。
それが、ジョン・F・ケネディ大統領の登場である。

ケネディは結局暗殺され、
世界はベトナム戦争という米ソ冷戦緊張の時代に突入
岸信介内閣が行った「安保改定」学生らが中心で騒然と成る
1961年に駐日大使のエドウィン・ライシャワー赴任66年までの長きの大使。
松方正義の孫であるハルと再婚していた
特別補佐官ジョージ・パッカード(後に新潟の浦佐市にある国際大学学長)
報道官のナサニエル・セイヤー
セイヤーは、SAISライシャワー・センター東アジア研究所日本研究担当教授。
このライシャワーゆかりの研究所の現在の所長は「在外米軍基地」についての興味深い研究を行った、
ケント・カルダー教授(クリントン政権時代の在日アメリカ大使館特別補佐官)である。

ナサニエル・セイヤーは中曽根康弘元首相とも極めて親密、
中曽根に対し、共産党の議員
「セイヤーはCIAに近い人物ではないか」と尋ねた
中曽根が「CIAそのものである」
予算委員会で答弁したので共産党議員はそれ以上質問ができなかったというエピソードを持つ。

ライシャワーは左翼勢力を勢いづかせることを避けるために
、ベトナム戦争には最後まで賛成の立場を取りつづけた。
その意味でライシャワーは「共産主義ドミノ理論」の信奉者。

 共産主義者や社会主義者を取り込もうとした一方でライシャワーは彼らに論戦を仕掛けた。
それが「近代化論」
マルクス主義的な歴史学の日本史解釈は、日本は未だに封建制社会であり、欧米のような近代市民革命を経ていないという立場をとっていた
ライシャワーが一般向けにこの「近代化論」の布教者として選んだのが、作家の司馬遼太郎。
『竜馬がゆく』の主人公の坂本龍馬をメジャー化させた。
司馬の歴史小説にはモデルがある。
ライシャワーの知的サークルのメンバーの一人にマリウス・ジャンセンというプリンストン大学の
日本学教授の著作『坂本龍馬と明治維新』(時事通信社)。
司馬が『竜馬がゆく』執筆の際、最も参考にしたといわれる本。

 代表作である『坂の上の雲』を始めとする司馬遼太郎の一連の新聞小説は多くは明治維新以降、
第二次世界大戦直前までの歴史。
この新聞小説を読んだ、「モーレツ・サラリーマン」のお父さんたちは左翼学生運動の時代を生きた人たち。
司馬の小説は「マルクスかぶれ」の元左翼学生たちにとって
格好の「解毒剤」。

同時に「坂の上の雲」の下にはすぐ「奈落」が存在したことを知っていた。
それはグルー駐日大使や樺山愛輔のような「菊クラブ」のメンバーたちにとっては暗黒時代とも言うべき
軍部の支配する大東亜戦争時代。
だから、司馬遼太郎は歴史小説としてはこの暗黒の時代については書けなかったし、
きっとライシャワーに書かせてもらえなかった。

「菊クラブ」は日本の文化人を使った日本大衆からの左翼勢力の分離を行っている
。日本人が共産主義への違和感を感じていたという下地があったとはいえ、
その手腕の巧みさには舌を巻かざるをえない。

 同じように文化工作に利用されたのが、作家の阿川弘之。
阿川の「海軍提督三部作」は東京裁判によって打ち出された
「陸軍悪玉論・海軍善玉論」をナイーブに肯定するためのもの。
海軍が決して平和主義者ではなく、米内光政が戦争終結後に東条英機らを連合国に売ったのである。
海軍善玉史観のおかしさは歴史家の故・三村文男が著作で徹底的に明らかにしている。
『米内光政と山本五十六は愚将だった』三村文男著・テーミス

阿川弘之もまた、「菊クラブ」の一員。
横須賀海軍通信学校で「対敵通信諜報暗号解読機関」の要員だった広島生まれの阿川は終戦時に海軍大尉
1955年にロックフェラー財団の資金でアメリカに留学
この留学で阿川は親米、アメリカかぶれになって帰ってきたと息子の尚之が回想している。

おおっ!ラジオ放送が止まったっ~~
この時間お決まりの・・地震情報・・・か・・

29日4:18「4・4の地震」
震度3は
・宮城南部
・福島浜通うり

4:28分続報
津波の心配はありません
(小声が聞こえる)
茨城日立震度2

ライシャワーはジョージ・パッカードともども、反米デモや安保反対運動をやっていた安保全学連たちにアプローチを仕掛ける。
、フルブライト留学生小田実
、姫岡玲治(、本名:青木昌彦・スタンフォード大学教授)。

ライシャワーはパッカードに対して、他の国務省の役人とは異なり、
「左翼的活動にかかわった日本人の渡米ビザ発給を、ただやみくもに禁じる」という姿勢の逆を取った。

 青木昌彦は元安保ブント1963年にミネソタ大学に留学しようとしたとき、共産主義活動を理由にビザを断られた
パッカードはライシャワーに「ビザの発給を認めるように」。
青木はマルクス経済学に幻滅し、アメリカへの留学を希望していた。
アメリカのグローバリズムを推進する論陣鞍替え。
このように左翼からの「転向」に成功し、保守論壇の著名人になった人物は他にも、西部邁(中曽根康弘のブレーン)など
『ライシャワーの昭和史』ジョージ・パッカード著・講談社に詳しい


 全学連のアメリカ留学はリーダー育成の一環。
これと似たようなリーダー養成プログラムをアメリカは今も行っている。
これはいわゆる「三週間プログラム」で正式には国務省が行っている、「インターナショナル・ビジター・リーダーシッププログラム」という。
過去のプログラム参加者
鳩山由紀夫前首相、
菅直人首相、
枝野幸男官房長官、
江田五月法務大臣、
細川護煕元首相、
海部俊樹元首相
福島瑞穂社民党代表
などの政治家や、
大江健三郎
、村上春樹、
林真理子
などの作家、
ジャーナリストの日高義樹(ハドソン研究所研究員)。

外人も垂れあい八百長朝青一派追放で日本人力士復活
政界永田町界隈も
民族派政治家小澤一郎
亀井静香を復活させ
万里一空で精進し国家の復権を図りたいものだ

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9.26陸山会事件の判決を聞いて(江川紹子)

(Egawa Shoko Journal 2011年09月28日)

 裁判所の大胆で強気な判断の連続に、判決を聞いていて驚きを禁じ得なかった。

 実際に報告書を作成した石川知裕、池田光智両被告は有罪とされることは十分ありうる、と思っていた。この事件は、お金の出入りについて、政治資金収支報告書に記載すべきかどうか、いつ記載すべきかが、本来は最大の争点だった。なので、実際に支出があった年に報告しなかったり、小沢一郎氏の他の政治団体など身内間の金の融通についても逐一報告しなければ違法、と判断すれば、有罪になる。

 なので、主文言い渡しの際、2人が有罪となったことについては(求刑通りという厳しさには「おっ」と思ったが)、特に驚いたわけではない。驚いたのは、判決理由と、陸山会事件で大久保隆規被告も有罪とした点だった。  

 東京地裁は、6月に証拠採否の決定で、検察側主張を支える供述調書の多くを退けた。自ら証拠を排除しておいて、判決ではそれを「当然…したはずである」「…と推認できる」など、推測や価値観で補い、次々に検察側の主張を認めていった。しかも、その論理展開は大胆に飛躍する。

 たとえば、大久保被告の関与。同被告が政治資金報告書の作成に関与していないことは争いがない。しかも、石川、池田両被告が「報告書原案を大久保被告に見せて了承を得た」とする検察側主張を、裁判所は判決で退けている。

 にも関わらず、石川被告から土地の登記の日をずらすよう不動産会社と交渉して欲しいと頼まれたことで、小沢氏が建て替えた4億円を隠蔽することについてまで、大久保・石川両被告人は「意思を通じ合った」と決めつけた。さらに、それから半年後の報告書に虚偽を記載する共謀までできあがったと認定。そのうえ、石川被告から後任の池田被告に事務に関する引き継ぎをもって、「石川を通じて池田とも意思を通じ合った」と断定した。そんな証拠はどこにあるのだろうか。

 法廷で明らかになったことは全く逆の事実だった。石川被告が自身の選挙の準備で忙しく、丁寧な引き継ぎを行わなかったうえ、この2人の関係は疎遠だった。池田被告は厳しい石川被告を恐れ、満足に問い合わせもできずにいた。そのため、報告書に記載された金についての認識も、両者で食い違う。

 にも関わらず、石川被告を媒介に大久保被告と結びつけられたうえ、判決でいきなり「大久保に報告するのが自然である」と認定された池田被告は、よほど驚いたのか、目をぱちくりさせていた。

 いくら「名ばかり」といえども、会計責任者になっている以上、石川、池田両被告人の行為が違法と判断されれば、大久保被告の道義的、あるいは政治的な責任が問われるのは当然だろう。しかし、だからといって刑事裁判において、裁判官の価値観と推測によって、かくも安易に共謀を認定し、刑事責任を負わせるというのは、あまりに荒っぽく、危険に思えてならない。

 犯罪の実行に直接関与せず、それについての相談にも乗らず、謀議もなく、事後にも何の報告も受けず、犯罪の存在すら知らずにいても、共謀が成立して有罪となるのでは、企業などでは部下の犯罪は知らずにいても上司の罪となりうる。これでは、郵便不正事件で、係長が行った公的文書の偽造を上司の村木厚子さん(当時課長)は知らないはずがない…という思い込みから出発した(と考えられる)大阪地検特捜部の発想や判断と同じではないのか。

 水谷建設から石川被告への5000万円の授受も、目撃者も裏付け証拠もないまま、同社関係者の証言だけで、「あった」と断定した。これなら、複数の仲間が一定の意図の下に「金を渡した」というストーリーに基づいて話を合わせれば、それが事実ということになり、いくらでも事件が作れてしまう。石川被告に5000万円を「渡した」とする証人は1人だけで、しかも、その証言に疑問を投げかける別の証人も2人いた。にも関わらず、「渡した」と決めつけるのは、被害者の訴えだけで逮捕されたり有罪判決を受けたりする痴漢冤罪事件と同じ構図に見えてならない。

 冤罪を防ぐために、昨今は痴漢事件でも、手に付着した下着の繊維片などの裏付け証拠が重視されるようになってきた。今回の判決は、こうした証拠重視の時代の流れに逆行していると言わざるをえない。

 もう1つ気になったのは、裁判所が、肝心の政治資金収支報告書の記載について淡々と証拠と法律に基づいて判断するのではなく、「政治とカネ」問題を断罪することに並々ならぬ熱意を注いでいたことだ。

 そもそも本件、つまり政治資金の虚偽記載に関して、水谷建設からのヤミ献金の有無は直接関係がない。なぜなら、検察側の主張するヤミ献金の受け渡しは、土地購入のために小沢氏が4億円を立て替えた後の出来事で、この4億円に問題とされた水谷マネーは入りようがないからだ。なので、小沢氏を起訴した検察官役の指定弁護士は、この問題を争点から外している。

 ところが、秘書3人の事件では、検察側は「動機もしくは背景事情」として、このヤミ献金疑惑の立証にもっとも力を入れた。そして、裁判所もそれを許した。裁判を傍聴していても、これはいったい何の事件だったのか、ヤミ献金事件、もしくは収賄事件の裁判ではないかと錯覚しそうになったほどだ。

 そして迎えた判決も、この点に多くが割かれ、読み上げる登石郁朗裁判長の声にももっとも熱が込められていた。やはり、これは収賄事件の判決ではないかと思うほどであった。そして、すでに閉廷予定時刻の5時が迫っているのに、量刑の理由を読み上げる前に、わざわざ10分間の休廷をはさみ、一気呵成に「小沢事務所と企業の癒着」を論難した。

 その口調からは、裁判所が「政治とカネ」の問題を成敗してやる、という、ある種の「正義感」がびんびんと伝わってきた。そこに、我々が社会の不正を正してやる、という特捜検察の「正義感」と相通じるものを感じて、私は強い違和感を覚えた。この種の「正義感」は「独善」につながることを、一連の特捜検察の問題がよく示しているのではなかったか。

 証拠改ざん・隠蔽事件で大阪地検特捜部の検事三人が逮捕されて一年。検察の独自捜査の問題点が少しずつあぶり出され、検察自身も改革を進めつつある。せっかく取り調べの可視化や客観証拠を重視することで冤罪をなくしていこうという機運が高まってきたのに、こういう判決は「マスコミを活用した雰囲気作りさえできていれば、薄っぺらな状況証拠しかなくても、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージにならないかと危惧する。

 刑事司法の問題はすなわち裁判所の問題だ。検察が無理をしても調書を作るのは、裁判所がそれを安易に採用し、信用するからだ。しかし、郵便不正事件以降、裁判所も検察を過信するのを控えるようになってきたのではないか、という期待もあった。ところが、それはあまりに甘い見方だったようだ。

 今、もっとも改革が必要なのは、裁判所かもしれない。

(9月27日の朝刊に掲載された共同通信配信の原稿に、大幅加筆しました)

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