天国と地獄草稿
2007年10月16日秋の夕日は釣る瓶落とし。
夕方7時はスッポリと闇の中でスッカリ暗い。
ほんの先日の夕方7時はギラギラ太陽が熱くて恨めしがったのはウソみたい。
ひよりひよ はげしくサンマもゆ
今日16日の誕生日の花はキク科多年草ヒヨドリ草白き花ゆえ花言葉は清楚。
街を颯爽と駆け抜けるペタルの心地よさは今日からの天候の急変からか。
坪井栄描く24の瞳の小豆島のおんな先生が操る当時まだ珍しき自転車運転状態。。
今朝ほどより、ようやく秋の風で程よく心地よき風。
ただ、まだ上着は要らなない。
電話でのアポ商売は悲喜交々。
ファックスで注文がきたときには自然に両手を合わせて神に感謝した。
それも尾ひれがついてるから天国と地獄、なおさらであった。
「せきやんさん。たいへんなことじゃ〜」
返品の失態が午後一で連絡があり、右往左往で顛末が付くように先方にお詫びをし、
ご了解いただき処理をしてる最中に「また!」である。
人間って不思議なもので同じ思考形態をとるようである。
螺旋状の如く奈落に転落するのは之なんであろう。
病は気からとはよく言ったものだ。
源平合戦で川辺の水鳥にスワッ!敵の来襲!と戦わずして総崩れの平家軍の如し状態である。
ベンセン粛々夜河を渡る。
戦う前に旗指物の「白」は逃げ惑い、まとまりが悪く少なくなり軍旗乱れ、
隊列乱さぬ「赤」の旗指物の勢いのよさにまだ圧倒されていく。
黒澤映画の「乱」」冒頭のシーンを想起する。
弱気の虫、幼き頃の夜の厠の怖いばかりの状態、
田舎の谷あいの家々のどこも厠の建物は母屋とは別に庭をはさんで反対側にあった。
月の光がこうこうと照るのでさえ異様で不気味で怖い。
日本列島を被い尽くす宿命病の「鬱」たる病気の入り口の、要因を突き止めた感じである。
上司の言葉と共にファックス・メモが回され、机上に残され自分の席に帰られた。
近辺の同僚の机の向こうの視線が釘付け、ザワメキが解る。
「大丈夫かぁかいな〜」
励ましと嘲笑と取りようではいかほどでもあろう。
全国に蔓延する「鬱」の一員に入りそうな出来事が襲い掛かる。
ファュクスの紙はナント富山県滑川からのご注文書であった。
上司特有の年齢の余裕から来る広き、やさしき心からの愛の鞭。
「よかったですネ。いいこともないと。」
もうこうであるから片山虎之助のトラ退治の姫井由美子の週間誌記事の
「ぶって!」の不倫相手たる教師の心情がわからぬでもない心情。
街を颯爽と駆け抜けるペタルの心地よさは
今日からの天候の急変だけではなかったわけだ。。
今朝ほどより、ようやく秋の風で程よく心地よき肌、なで行く風。
それでも、ただまだ上着は要らない。
全国に吹き荒れた東国原知事の熱き風も少しずつ、なぁんか軟化してるのであろうか。
一昨日は大阪・吹田で宮崎フェアー。
地名が地名ゆえ大いに人気の風を吹かせてこられたことであろう。
岡山の人・大森うたえもんはお笑いタレントそのまんま東の相方。
東国原知事の表象権「びっきょ」を管理しラーメン店や映画学校の社長にも就任している。
孤児の父宮崎の人・石井十次は岡山のクラボーの御曹司の学友大原孫三郎の知己を得て
日本の社会福祉の原点である孤児問題の事業が続けられた事実がある。
名を知ってる岡山の人々。
野球人もなじみの選手が内野投手にいる。
川相昌弘 星野仙一 平松政次
映画人 水野晴郎、八名信夫 舞台人長門勇、井上聡(次長課長)
スポーツ界にはマラソン有森裕子 水泳 木原光知子
漫画界 スプリッツの効いた風刺漫画 いしいひさいち
政治的行動人、忠臣・児島高徳、 江田五月 江田三郎
和気清麻呂,吉備の真備の宮廷人を生み、
3人の総理、犬養毅、平沼騏一郎、橋本龍太郎(第82・83代)を送り出した。
今次の選挙を象徴する人は笠岡の人。
大臣を複数に経験した片山虎之助の地盤である。
、
選挙で最大の象徴視された姫の虎退治。
片山虎之助VS姫井由美子の岡山。
宮崎から備前の国を目指すと知られてる最初の街は笠岡市
縁あってこの土地を二度も訪れている。
2億年前のバタバタカニ=兜ガニが生息している。
佐賀の産卵の報道があったがどう違ってるか山間に生まれたゆえ解らない。。
小野竹僑は京都画に日本画でその美術業績を残した。
作品を収集して記念の美術館にその偉業をたたえている。
芭蕉の奥の細道は製本されてると思っていたら巻物であることをこの会館の展示で知った。
30代の手習いのあのころ。
・・月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり。・・・
備前の岡山の国は、宮本武蔵や将棋の大山名人を生み、三大名園後楽園がある。
特筆される人はクラレの大原孫三郎。
孤児の父石井十次は医学を捨て孤児問題を障害の仕事に選んだ。
学生時代に放蕩癖のあった学友を儒教的生き方、或いは学究の方に善導した
友人石井十次があればこそ大原孫三郎の業績はあるといっても過言ではない。
大原の存在なくしては日本の社会主義経済史その山脈をなす山川均をはじめとする東大教授陣を含めた人々は生まれなかった。
大阪に大原社会主義問題研究所を興し経済学の研究の没頭する人々を生んだ。
今は法政大学の書架にその研究成果を残す。
労働界の世界会議にも高野房太郎を派遣し、学者高野岩三郎は研究成果を残した。
理論の研究は実践の政治成果に昇華した訳である。
美術史界に世界の七不思議の一つの展示物、
国家的財産の受胎告知の名画が地方の倉敷美術館にあるのも業績のひとつ。
水島コンビナートは宮崎で得た旭化成の資本力があればこその成果である。
宮崎と岡山のつながりはこのように深いが姉妹都市がないのが不思議で行政の怠慢であろう。
西都市なんぞは真っ先に牛窓市や倉敷市と友好都市を結ぶべきである。。。
日向の祖・伊東氏とのつながりが深いからである。
日南市延岡市でもおなじだが県民性から期待は持てない。
岡山・牛窓は海岸線が入り組み万葉の昔から栄えていた。
平清盛が滞在し西行が留まっている。
1590年の建設の岡山城で10月8日初めての式があった。
鉄砲隊、鬼太鼓が鳴らされ新郎新婦の二人は歩いた、
医師・学、ナオコが城主の間で結婚式を挙げた。
郷土愛の発露と永久の愛。郷土愛はいずこの県民性も同じだ。
牛窓は万葉奈良から交易の中心。
牛窓=潮間門で良港である。
用語の事例を九州に見れる。
牛深=潮深ウシオフカに通づる九州の良港。
佐渡オケサなど海岸都市の民謡の原点で九州・牛深=潮深ウシオフカに通づる。
歴史にあらた登場する人々でこれほどまでの数奇な人生はあるまい。
伊東三位入道義祐。
岡山県牛窓市、伊東三位入道義祐はこの地にも足跡を残している。
先祖は源頼朝の高官・工藤祐経。
源氏・頼朝は二代頼家が暗殺され、三代実朝が二代目の息子の甥公卿から鎌倉八万の前で刺され三代で
滅んだ。
頼朝の代になるも義経、4年後その兄の範義と兄弟間で殺戮があった。
その伯父たちも壮絶なる動きがあった。
前九年後三年、保元、承久、源氏は血の争いが耐えなかった。
頼朝の御家人も滅亡の歴史が横たわる。
その御家人の一人が伊東家の祖・工藤祐経。
自分自身が日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。
日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いたが
家督をめぐっての争いは家臣団をも巻き込んで壮絶な歴史を残している。
日向西都・都於郡での伊東家には地付きの四天王・山田、荒武、津留、大脇がいた。
稲津、落合、湯地、川崎は従って下ってきた四天王。
初めての顔合わせのとき、
下向の衆として客間、
居付の衆として主座に着した地付き四天王。
これは先例となりこのことが家臣団にはいろいろと困難が生じ、お家の一大事になった。
都於郡の本城の落城を寸前に大分を目指し流浪のたびを経て
四国松山終焉の地大阪その都度家臣団の力で一生をおよぎきった足跡を残す。
海岸線を一路大分を目指したが財部の城を守るは落合籐九郎。
城下通過の挨拶に行くと
「小人の城下挨拶は無用!」との返事である。
三位入道は日頃、落合を評して
「あいつは小人じゃぁ」といってたのを思い知らされた。
凋落するとこうである。
冬の雪積もる中の米良の山越えを選択せざる得なかった。
大分では伊東家の領土回復の島津追悼軍が組まれたが
児湯郡木城町切原川の戦いで大友宗麟軍は大敗、敗走した。
後の歴史家の言う九州最大の天下分け目の戦い「耳川の戦い」である。
日向の地誌に弱い大友軍の軍記で「耳川」と書かれたため河川名が間違い
そのまま耳側の戦いとされてるが最低でも本流たる「小丸川の戦い」
実際対峙した本流小丸川の支流たる「切原川の戦い」とすべきだがそうはいかないのであろう。
大友城下に居留守する伊東家一族は厄病神扱い。居場所がない
祐兵の妻松寿への横恋慕の宗麟の孫総五郎能乗との愛憎劇になるのをさけ、
伊東家に使える僧快永が大友の城から救い出し大分を逃げ出すことにした。
宗麟のもとを逃げるように夜陰に乗じて松山河野家を頼った。
伊東三位入道父子が伊予道後に渡ったのは天正7年巳卯4月
道後は代々河野家の居城で河野四郎道直の代である
義益夫人阿喜多の妹が河野六郎晴通の夫人で急場を頼った
夜陰ゆえの急遽成る計画なきゆえ乗船する船が入手できず途方にくれてると
落合四郎左衛門兼家が船をもってぬかずく。
薩摩に人質に行ったときに拝領した刀を手放し船を入手したのである。
「すまぬのう。武士の魂の刀を引き換えに船を得たとな。」
「殿!もはや老人に刀は用なきもの。これ以上のご同行は一向にご迷惑をかけまする」
「まことに勝手ながら拙者はここでお暇をいただきこの地に残りまする」
負け戦(いくさ)のしんがりほど大事な役目はない。
勝ち戦での凶暴化した集団と負けた集団の殺される恐怖心の手段との差は
今の社会問題の虐めの構造の心理状態に似通ってその何十倍であったろう。
文部省唱歌で箱根の山を教わったときにチョッピリ大人びた知的喜びを感じた。
♪箱根の山は天下の剣♪まだ理解できる範囲でもある。
この歌が小学6年生にはどう写ったものだろう。
文部省唱歌「児島高徳」は『尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された。
南朝の忠臣として讃えられ、船上山『太平記』による。
1914年、岡野貞一作曲(作詞者は不明)
船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄、
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』
御心ならぬいでましの、
御袖露けき朝戸出に、
誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、
桜の幹の十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』
児島高徳の妻は、伊東家の縁続き、伊予国の河野氏一族、河野和道の三女の貞子で、夫婦の間には3男1女が生まれた。
太郎高秀 明治6年(1873年)維新のご新政にもつくした。
8月発行の国立銀行紙幣2円券の表面には、右側に稲村ヶ崎で太刀を奉じる新田義貞が
、左側に桜の木に詩を墨書する児島高徳が描かれている。
いずれも、第二次世界大戦終結までの学校で使われた教科書で取り上げられた有名なエピソードである。
裏面は竜宮城。
傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお
見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り
書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。
因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい
為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。
この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、
翌年に名和長高がその導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父とともに
赴いて幕府軍と戦った。
備前美作から管、和田・・・、備前の武人はいち早く南方朝天皇の下に駆けつけた。
管は時の人菅直人の先祖。山口宇部に17年菅直人も暮らしたと10月10日国会で福田総理に
質問するとき9時30分ごろ自ら告白している菅直人。
伊予河野の名も見出すことができる。
道後は代々河野家の居城で河野四郎道直の代である
義益夫人阿喜多の妹が河野六郎晴通の夫人で急場を頼った。
家臣の川崎祐長の口上を聞いて難しそうな顔をした当主
「日向一国を支配されたお方じゃ左様な方を悲運の今日
流浪の御身とはいえわれらがお抱え申すことはできぬ。」
「こまった。」
河野一族で大内次郎左衛門尉信孝と言う家臣がいた。
「某の知行でよろしければ・・・」と久保田の荘、王庵と言う僧坊に向かい入れた。
高松空港の近辺である。
背後が山で、地形がどこか日向・都於郡に似ている
みな楽しかったあの頃を懐かしかった。
安堵の気持ちがどこか余裕が出てきたからであろう。
「ありがたい信孝どのはこの世の仏じゃ」
九州に成った一大豪将も今は意地も張りも失い見る影もない。
そういう信孝もただ禄は河野家の被官しかない。
何かして食い扶持を立てようと考え合わせた。
百姓はもちろんのこと木を切り薪にして売り歩いた。
都於郡で造っていた濁り酒をつくり、川崎祐長が売りに出ることになった。
その初めて装う物売りの井出達の滑稽な身なりにみな泪をため笑う
阿竹は木綿帯を織る
「すまんのう すまんのう」
落魄してわかる人情である。
買うものが褒めた「これは面白い」と大層評判になった。
以来後世まで道後で木綿帯を売ったのはこのときからである。
主も家来も無かった。
都於郡には島津の臣鎌田が入り地酒の岩乃鶴の焼酎文化が今だ残る。
都於郡・青山に焼酎の新工場が建設され出荷まじかである。
今は高千穂資本が中心ではある。
この四月焼酎廃液の海洋投棄の全面禁止でその施設作りで社に赴いたことがある。。
近代化された工場だが、排出物の悩みはこの産業にはつき物。
かっては河川に流し岸辺の柳の木などに綿状の廃液辺がくっついていたものだ。
天正7年4月10年正月4年間。松山にあった伊東家である。
伊東家家臣・三部快永は天正9年8月大峰登山に開運祈願に出かけることとした。
生国は下野である。
伊東家の開運を賭け家来も無かっただけてである。
帰りに播磨によると姫路築城で賑やか、
羽柴秀吉の一番油の乗った頃で鳥取城・吉川径家を滅ぼしてのことだ。
今は備中高松上を囲んでいる。
城下で呼び止めるものがある。
「卒時ながら何処の方なりや」丁寧な言葉がけ。
「九州日向のものでござる」
「少将お尋ねしたい子細がござるシツレイながら手前の屋敷までお越しくださるまいか」
見るからに裕福そうな屋敷構えである。
庭の木々の手入れも行き渡って家風が表されている。
客間に通され遠慮なく座ってると程なく先ほどの人が現れた。
当主御自ら声を掛けていただいてたわけだ。
ただならんことで背筋がピシッと成った三部快永。
「お急ぎのところおよび止め申し訳けござらん。伊東掃部助ともうします伊豆伊東の流れでござる」
「日向の伊東殿は浪人せられたと聞き及んだが作用でござろうか」
「隣国島津の謀にはまり領国を手放さざるはめにあいなりもうした」
、
「それは難儀であり申した。解からぬゆえもそっと教えてくだされ」」
「なんなりとご遠慮なく」
「伊東の「東」は藤か東か」
「東でございます。」
「おおっ同家じゃ伊豆伊東家の流れじゃ」
「ご不運なこと一族のものとして見過ごしにはできぬ。」。
羽柴殿に使えられるならば吾ら種篤申すべし。
帰られてこのことを告げてくださるまいか。
天正10年正月。三位入道70、祐兵24
秀吉配下への決断は安住の地を得た女子たちの反対もありのびのびに成っていた。
「あれに控えるはだれぞ。」
「伊東家嫡男・祐兵でございまする」
「おお!いつぞやの話のものか。」
「城につれ参れ!」
「御意」
「日向の主(あるじ)三位殿も今は浪々の身。不憫なものよ。わしに使えるよう伝えよ。家禄をとらせようぞ。
日薩隅三州の大守を名乗った伊東酸味入道の意地がうまくいかない。
早速祐兵父に喜び勇んで伝えると意外なことに武士の意地たる魂をみせつけられた。
腐っても鯛である。見上げたものその心意気。
なんと父三位義祐は一笑にふした。
「身不肖なれど三位に階り、歳すでに70を越えた。
浪人の身と言え何の面目あって木下籐吉づれに追随できようぞ」
「そちは別じゃ。子孫再興のためなれば格別じゃ。一筋の希望が出てきたの〜。」
三位入道は息子祐兵の秀吉に召抱えられるのに安堵して従者一人を連れたびに出た。
周防山口に、として伊東三位入道義祐の歌
行く末の 空知らぬとの言の葉は
今身の上の限りなりけり
後醍醐天皇が隠岐に流される途中の摂津の昆陽野で読まれた
命あれば こやの軒端の月も見つ
またいかならむ 行く末の空
こやの=今夜=昆陽野
後醍醐帝が隠岐にあったことを知ってるので読める教養人の一端を示している。
さすがに従三位の官位をえてた人である。
当時の武士には従三位との最高の栄誉は、言われてる金銭だけで買ったものでゃないことの証左である。
従三位は朝廷と武家の力が逆転した徳川時代には家康の孫クラスには官位が出てるが
この当時の武士では際立ってる高官位。
ぴったりとはいかぬが明治期の子爵でいいかと思える。
それが一人、いわゆるのたれ死に。
このような波乱万丈な人はこの人のみである。
山口城下で奇遇な出会いがあった。
地付きの四天王
山田・荒武・津留・大脇が伊東家を支えた。
そのかっての伊東家に仕えた大脇家・大脇曾丹である。
山口にかっての主君が行ってるのを伝え聞きあちこち捜し求めた。
ようやく奇跡的に再開した。
大脇は奇遇を喜び恩讐を彼方に追いやり
「ぜひ其の家へ」と誘った。
伊東家を去ったのは項である。
犬追いの行事のとき、犬老い者の弓次郎の役を命じられた。
「不服でゴザル」と伊東家を辞した。、
その後大内家に召抱えられ
古備郡に五百石、知行豊かな暮らしをしていた。
かっての主君伊東三位入道祐義の流浪山口に在すを伝え聞いて
あちこちに見かけたら連絡するように依頼していた矢先のことであった。
昔の恨みを忘れ連歌などを催しねんごろにもてなした。
知らず知らず一年過ごした。好ましかった故でもあろう。
行く末の空知らぬとの言の葉は
今身の上の限りなりけり
山口では奇縁でそのかっての家臣の家で一年ばかりを過ごしていた伊東三位入道義祐。
大内文化の瑠璃光寺、雪舟の庭などを見たものであろうか。
四天王、大脇曽丹は三位入道義祐から犬追物の下役を命じられ
、これを不服して伊東家を立ち退き山口の大内家に召抱えられていた。
従者の黒木総右衛門について周防を出立するときのことである。
「総右衛門!曽丹の家に忘れ物をした取って参れ」
真に受けて走り去るのを見て義祐は道を変えて姿をくらました。
後で必死に探すもわからず、やむなく摂津にいた祐兵へ報告すると
祐兵は怒って黒木に勘気を申し付けた。
73才の天正13年ころの天涯孤独の彷徨。
かって三州の太守と豪語して金柏寺に寄進した鐘に日薩隅三州大守と刻んだ。
周防の三田尻から息子祐兵に上方を志し、備前牛窓に船が着いた。
大きな光がポッカリと小波に光を落とし・・中秋の名月である。
風もなく散る病葉に秋の楽士は秋の香りである。
秋の陽はうら寂しく真っ赤に落ち一面には虫の音の違いがあり秋も足音を忍ばせている。
草むらのそこそこたまらななくさびしいものがある。
6尺の大男も72歳。気分も滅入ってくる。
名月や・・
廊下を風鈴がリリ〜ンと歩いてくように這って鳴る。
歌詠みには夢のような静寂
名月や・・・
うなるような声が漏れる。
寺はあちこちから旅僧も訪れるのでいまのアンテナショップ
満月夜の感激は名月の空にいろんな形をした雲が過ぎてゆくところにもある。
日向路の秋を思っての万巻の想い
旅は憂いし 窓のつき見る 今宵かな。
(牛窓風土物語)
境の浦に船中で病気の乞食坊主を捨て去った
噂は「大きな乞食坊主が浜で行き倒れになっている」と風評が立った。
人生とは奇縁とは言ったもの不思議なものである。
朝鮮出兵で息子の祐兵はいないが妻の松寿が境に住んでいた
日向西都・都於郡から大分四国松山との同行者でもある。
天正13年8月15日に没した。
美禄で貧しきゆえ旅の遍僧に頼んでの野辺の送りであった。
綺羅の法燈の下の回向でなく
ましてや、従三位の官位を知られずに秀吉に仕官しない魂ゆえ
不本意ながらも満足なるものであったろう。
これほどの波乱万丈の人は日本の歴史に存在しない。
息子祐兵は秀吉に仕えお家再興を図らんとしている。
義祐には百姓の出の秀吉配下にはなる相談ではない。
伊東三位入道の詠んだと言われるうたが岡山に残されている。
「牛窓風土物語」である。
旅は憂し 窓の月見る 今宵かな
日向全土を支配し、島津領土を伺う勢いで頂点に上り詰め、
そのひとが一人身の奈落の底に転がり落ち流浪の身で、死を間際に詠んだ背景を知っていると
そぬ深き句の持つ意味が光る。
天正13年夏。
九州に覇を競っていた伊東三位入道祐義73歳。、
従者の黒木総右衛門をうまく誤魔化し
一笠一杖天涯孤独の放浪である。
ぼろぼろの法衣で誰が見ても乞食坊主。
達磨のようだった肉は痩せ、腰はちじみ、干ぼししたような面相
埃と垢で正視もできない顔であった。
周防の三田尻から備前についたその日は仲秋の名月。
塵輪島、前島の山頂高くに月はある。
空は澄み切って月光はさえて海面に降り注ぐ。
三位入道はここで一句詠んだ。
周防山口
「月もみつ またいかならむ 行く末の空」
元弘2年後醍醐天皇が隠岐に流さるるとき、摂津・昆陽野・で詠んだ
行く末の 空知らぬとの 言の葉は
今身の上の 限りなりけり
之をもとに先ほどの句を詠む味わい。
「月もみつ またいかならむ 行く末の空」
天正10年は歴史に多くのことが見える激動の年。
武田勝頼、織田信長、明智光秀が亡くなり、柴田勝家が自刀
秀吉は家康と長久手で争った。
大叔父がこの状態のときに丁度伊東マンショは天正遣欧少年使節として
ローマに向かい1月28日長崎を出向した。
都於郡落城から九州山地の冬の山中を経て隣国肥前大分の大友宗麟庇護を目指した。
大分城下で宣教師に拾われマンショは長崎セミナリヨに学ぶ機会を得て、神の加護を得た。
備前安芸周防から大内義隆を偲び山口によった。
滅亡の後を弔うためである。
京に似しての城下。公卿を気取った形跡を見るにつれその姿は自分のこれまでを見る思いであった。。
大力無双の勇士と人づてにみみにはいるのは満更でもなかった。
3千瀬mんし加賀守
元亀三年5月、伊東家の隆盛の基礎を築いた祐持10代目の孫のとき抗争は激化。
下克上の様相を呈した。
10歳で家督を相続したが、叔父から追い出される。
上洛を目指したが船中にあり、呼び返され、叔父一族を討ち果たす
ところが治まらず僧籍に入ってた弟を擁する動きがおこり一時屈したが勢力を追い出す。
坊主拍子過信は染まずにはsiltuta.
6尺肝属と組み永禄…
夕方7時はスッポリと闇の中でスッカリ暗い。
ほんの先日の夕方7時はギラギラ太陽が熱くて恨めしがったのはウソみたい。
ひよりひよ はげしくサンマもゆ
今日16日の誕生日の花はキク科多年草ヒヨドリ草白き花ゆえ花言葉は清楚。
街を颯爽と駆け抜けるペタルの心地よさは今日からの天候の急変からか。
坪井栄描く24の瞳の小豆島のおんな先生が操る当時まだ珍しき自転車運転状態。。
今朝ほどより、ようやく秋の風で程よく心地よき風。
ただ、まだ上着は要らなない。
電話でのアポ商売は悲喜交々。
ファックスで注文がきたときには自然に両手を合わせて神に感謝した。
それも尾ひれがついてるから天国と地獄、なおさらであった。
「せきやんさん。たいへんなことじゃ〜」
返品の失態が午後一で連絡があり、右往左往で顛末が付くように先方にお詫びをし、
ご了解いただき処理をしてる最中に「また!」である。
人間って不思議なもので同じ思考形態をとるようである。
螺旋状の如く奈落に転落するのは之なんであろう。
病は気からとはよく言ったものだ。
源平合戦で川辺の水鳥にスワッ!敵の来襲!と戦わずして総崩れの平家軍の如し状態である。
ベンセン粛々夜河を渡る。
戦う前に旗指物の「白」は逃げ惑い、まとまりが悪く少なくなり軍旗乱れ、
隊列乱さぬ「赤」の旗指物の勢いのよさにまだ圧倒されていく。
黒澤映画の「乱」」冒頭のシーンを想起する。
弱気の虫、幼き頃の夜の厠の怖いばかりの状態、
田舎の谷あいの家々のどこも厠の建物は母屋とは別に庭をはさんで反対側にあった。
月の光がこうこうと照るのでさえ異様で不気味で怖い。
日本列島を被い尽くす宿命病の「鬱」たる病気の入り口の、要因を突き止めた感じである。
上司の言葉と共にファックス・メモが回され、机上に残され自分の席に帰られた。
近辺の同僚の机の向こうの視線が釘付け、ザワメキが解る。
「大丈夫かぁかいな〜」
励ましと嘲笑と取りようではいかほどでもあろう。
全国に蔓延する「鬱」の一員に入りそうな出来事が襲い掛かる。
ファュクスの紙はナント富山県滑川からのご注文書であった。
上司特有の年齢の余裕から来る広き、やさしき心からの愛の鞭。
「よかったですネ。いいこともないと。」
もうこうであるから片山虎之助のトラ退治の姫井由美子の週間誌記事の
「ぶって!」の不倫相手たる教師の心情がわからぬでもない心情。
街を颯爽と駆け抜けるペタルの心地よさは
今日からの天候の急変だけではなかったわけだ。。
今朝ほどより、ようやく秋の風で程よく心地よき肌、なで行く風。
それでも、ただまだ上着は要らない。
全国に吹き荒れた東国原知事の熱き風も少しずつ、なぁんか軟化してるのであろうか。
一昨日は大阪・吹田で宮崎フェアー。
地名が地名ゆえ大いに人気の風を吹かせてこられたことであろう。
岡山の人・大森うたえもんはお笑いタレントそのまんま東の相方。
東国原知事の表象権「びっきょ」を管理しラーメン店や映画学校の社長にも就任している。
孤児の父宮崎の人・石井十次は岡山のクラボーの御曹司の学友大原孫三郎の知己を得て
日本の社会福祉の原点である孤児問題の事業が続けられた事実がある。
名を知ってる岡山の人々。
野球人もなじみの選手が内野投手にいる。
川相昌弘 星野仙一 平松政次
映画人 水野晴郎、八名信夫 舞台人長門勇、井上聡(次長課長)
スポーツ界にはマラソン有森裕子 水泳 木原光知子
漫画界 スプリッツの効いた風刺漫画 いしいひさいち
政治的行動人、忠臣・児島高徳、 江田五月 江田三郎
和気清麻呂,吉備の真備の宮廷人を生み、
3人の総理、犬養毅、平沼騏一郎、橋本龍太郎(第82・83代)を送り出した。
今次の選挙を象徴する人は笠岡の人。
大臣を複数に経験した片山虎之助の地盤である。
、
選挙で最大の象徴視された姫の虎退治。
片山虎之助VS姫井由美子の岡山。
宮崎から備前の国を目指すと知られてる最初の街は笠岡市
縁あってこの土地を二度も訪れている。
2億年前のバタバタカニ=兜ガニが生息している。
佐賀の産卵の報道があったがどう違ってるか山間に生まれたゆえ解らない。。
小野竹僑は京都画に日本画でその美術業績を残した。
作品を収集して記念の美術館にその偉業をたたえている。
芭蕉の奥の細道は製本されてると思っていたら巻物であることをこの会館の展示で知った。
30代の手習いのあのころ。
・・月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり。・・・
備前の岡山の国は、宮本武蔵や将棋の大山名人を生み、三大名園後楽園がある。
特筆される人はクラレの大原孫三郎。
孤児の父石井十次は医学を捨て孤児問題を障害の仕事に選んだ。
学生時代に放蕩癖のあった学友を儒教的生き方、或いは学究の方に善導した
友人石井十次があればこそ大原孫三郎の業績はあるといっても過言ではない。
大原の存在なくしては日本の社会主義経済史その山脈をなす山川均をはじめとする東大教授陣を含めた人々は生まれなかった。
大阪に大原社会主義問題研究所を興し経済学の研究の没頭する人々を生んだ。
今は法政大学の書架にその研究成果を残す。
労働界の世界会議にも高野房太郎を派遣し、学者高野岩三郎は研究成果を残した。
理論の研究は実践の政治成果に昇華した訳である。
美術史界に世界の七不思議の一つの展示物、
国家的財産の受胎告知の名画が地方の倉敷美術館にあるのも業績のひとつ。
水島コンビナートは宮崎で得た旭化成の資本力があればこその成果である。
宮崎と岡山のつながりはこのように深いが姉妹都市がないのが不思議で行政の怠慢であろう。
西都市なんぞは真っ先に牛窓市や倉敷市と友好都市を結ぶべきである。。。
日向の祖・伊東氏とのつながりが深いからである。
日南市延岡市でもおなじだが県民性から期待は持てない。
岡山・牛窓は海岸線が入り組み万葉の昔から栄えていた。
平清盛が滞在し西行が留まっている。
1590年の建設の岡山城で10月8日初めての式があった。
鉄砲隊、鬼太鼓が鳴らされ新郎新婦の二人は歩いた、
医師・学、ナオコが城主の間で結婚式を挙げた。
郷土愛の発露と永久の愛。郷土愛はいずこの県民性も同じだ。
牛窓は万葉奈良から交易の中心。
牛窓=潮間門で良港である。
用語の事例を九州に見れる。
牛深=潮深ウシオフカに通づる九州の良港。
佐渡オケサなど海岸都市の民謡の原点で九州・牛深=潮深ウシオフカに通づる。
歴史にあらた登場する人々でこれほどまでの数奇な人生はあるまい。
伊東三位入道義祐。
岡山県牛窓市、伊東三位入道義祐はこの地にも足跡を残している。
先祖は源頼朝の高官・工藤祐経。
源氏・頼朝は二代頼家が暗殺され、三代実朝が二代目の息子の甥公卿から鎌倉八万の前で刺され三代で
滅んだ。
頼朝の代になるも義経、4年後その兄の範義と兄弟間で殺戮があった。
その伯父たちも壮絶なる動きがあった。
前九年後三年、保元、承久、源氏は血の争いが耐えなかった。
頼朝の御家人も滅亡の歴史が横たわる。
その御家人の一人が伊東家の祖・工藤祐経。
自分自身が日本三大敵討ちに名を連ね、曽我兄弟に富士の裾野で打たれた。
日向・都於郡に下向して伊東家が242年も続いたが
家督をめぐっての争いは家臣団をも巻き込んで壮絶な歴史を残している。
日向西都・都於郡での伊東家には地付きの四天王・山田、荒武、津留、大脇がいた。
稲津、落合、湯地、川崎は従って下ってきた四天王。
初めての顔合わせのとき、
下向の衆として客間、
居付の衆として主座に着した地付き四天王。
これは先例となりこのことが家臣団にはいろいろと困難が生じ、お家の一大事になった。
都於郡の本城の落城を寸前に大分を目指し流浪のたびを経て
四国松山終焉の地大阪その都度家臣団の力で一生をおよぎきった足跡を残す。
海岸線を一路大分を目指したが財部の城を守るは落合籐九郎。
城下通過の挨拶に行くと
「小人の城下挨拶は無用!」との返事である。
三位入道は日頃、落合を評して
「あいつは小人じゃぁ」といってたのを思い知らされた。
凋落するとこうである。
冬の雪積もる中の米良の山越えを選択せざる得なかった。
大分では伊東家の領土回復の島津追悼軍が組まれたが
児湯郡木城町切原川の戦いで大友宗麟軍は大敗、敗走した。
後の歴史家の言う九州最大の天下分け目の戦い「耳川の戦い」である。
日向の地誌に弱い大友軍の軍記で「耳川」と書かれたため河川名が間違い
そのまま耳側の戦いとされてるが最低でも本流たる「小丸川の戦い」
実際対峙した本流小丸川の支流たる「切原川の戦い」とすべきだがそうはいかないのであろう。
大友城下に居留守する伊東家一族は厄病神扱い。居場所がない
祐兵の妻松寿への横恋慕の宗麟の孫総五郎能乗との愛憎劇になるのをさけ、
伊東家に使える僧快永が大友の城から救い出し大分を逃げ出すことにした。
宗麟のもとを逃げるように夜陰に乗じて松山河野家を頼った。
伊東三位入道父子が伊予道後に渡ったのは天正7年巳卯4月
道後は代々河野家の居城で河野四郎道直の代である
義益夫人阿喜多の妹が河野六郎晴通の夫人で急場を頼った
夜陰ゆえの急遽成る計画なきゆえ乗船する船が入手できず途方にくれてると
落合四郎左衛門兼家が船をもってぬかずく。
薩摩に人質に行ったときに拝領した刀を手放し船を入手したのである。
「すまぬのう。武士の魂の刀を引き換えに船を得たとな。」
「殿!もはや老人に刀は用なきもの。これ以上のご同行は一向にご迷惑をかけまする」
「まことに勝手ながら拙者はここでお暇をいただきこの地に残りまする」
負け戦(いくさ)のしんがりほど大事な役目はない。
勝ち戦での凶暴化した集団と負けた集団の殺される恐怖心の手段との差は
今の社会問題の虐めの構造の心理状態に似通ってその何十倍であったろう。
文部省唱歌で箱根の山を教わったときにチョッピリ大人びた知的喜びを感じた。
♪箱根の山は天下の剣♪まだ理解できる範囲でもある。
この歌が小学6年生にはどう写ったものだろう。
文部省唱歌「児島高徳」は『尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された。
南朝の忠臣として讃えられ、船上山『太平記』による。
1914年、岡野貞一作曲(作詞者は不明)
船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄、
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』
御心ならぬいでましの、
御袖露けき朝戸出に、
誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、
桜の幹の十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』
児島高徳の妻は、伊東家の縁続き、伊予国の河野氏一族、河野和道の三女の貞子で、夫婦の間には3男1女が生まれた。
太郎高秀 明治6年(1873年)維新のご新政にもつくした。
8月発行の国立銀行紙幣2円券の表面には、右側に稲村ヶ崎で太刀を奉じる新田義貞が
、左側に桜の木に詩を墨書する児島高徳が描かれている。
いずれも、第二次世界大戦終結までの学校で使われた教科書で取り上げられた有名なエピソードである。
裏面は竜宮城。
傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の越王・勾践に対するように、決して帝をお
見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り
書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという。
因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は、何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい
為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。
この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、
翌年に名和長高がその導きにより天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父とともに
赴いて幕府軍と戦った。
備前美作から管、和田・・・、備前の武人はいち早く南方朝天皇の下に駆けつけた。
管は時の人菅直人の先祖。山口宇部に17年菅直人も暮らしたと10月10日国会で福田総理に
質問するとき9時30分ごろ自ら告白している菅直人。
伊予河野の名も見出すことができる。
道後は代々河野家の居城で河野四郎道直の代である
義益夫人阿喜多の妹が河野六郎晴通の夫人で急場を頼った。
家臣の川崎祐長の口上を聞いて難しそうな顔をした当主
「日向一国を支配されたお方じゃ左様な方を悲運の今日
流浪の御身とはいえわれらがお抱え申すことはできぬ。」
「こまった。」
河野一族で大内次郎左衛門尉信孝と言う家臣がいた。
「某の知行でよろしければ・・・」と久保田の荘、王庵と言う僧坊に向かい入れた。
高松空港の近辺である。
背後が山で、地形がどこか日向・都於郡に似ている
みな楽しかったあの頃を懐かしかった。
安堵の気持ちがどこか余裕が出てきたからであろう。
「ありがたい信孝どのはこの世の仏じゃ」
九州に成った一大豪将も今は意地も張りも失い見る影もない。
そういう信孝もただ禄は河野家の被官しかない。
何かして食い扶持を立てようと考え合わせた。
百姓はもちろんのこと木を切り薪にして売り歩いた。
都於郡で造っていた濁り酒をつくり、川崎祐長が売りに出ることになった。
その初めて装う物売りの井出達の滑稽な身なりにみな泪をため笑う
阿竹は木綿帯を織る
「すまんのう すまんのう」
落魄してわかる人情である。
買うものが褒めた「これは面白い」と大層評判になった。
以来後世まで道後で木綿帯を売ったのはこのときからである。
主も家来も無かった。
都於郡には島津の臣鎌田が入り地酒の岩乃鶴の焼酎文化が今だ残る。
都於郡・青山に焼酎の新工場が建設され出荷まじかである。
今は高千穂資本が中心ではある。
この四月焼酎廃液の海洋投棄の全面禁止でその施設作りで社に赴いたことがある。。
近代化された工場だが、排出物の悩みはこの産業にはつき物。
かっては河川に流し岸辺の柳の木などに綿状の廃液辺がくっついていたものだ。
天正7年4月10年正月4年間。松山にあった伊東家である。
伊東家家臣・三部快永は天正9年8月大峰登山に開運祈願に出かけることとした。
生国は下野である。
伊東家の開運を賭け家来も無かっただけてである。
帰りに播磨によると姫路築城で賑やか、
羽柴秀吉の一番油の乗った頃で鳥取城・吉川径家を滅ぼしてのことだ。
今は備中高松上を囲んでいる。
城下で呼び止めるものがある。
「卒時ながら何処の方なりや」丁寧な言葉がけ。
「九州日向のものでござる」
「少将お尋ねしたい子細がござるシツレイながら手前の屋敷までお越しくださるまいか」
見るからに裕福そうな屋敷構えである。
庭の木々の手入れも行き渡って家風が表されている。
客間に通され遠慮なく座ってると程なく先ほどの人が現れた。
当主御自ら声を掛けていただいてたわけだ。
ただならんことで背筋がピシッと成った三部快永。
「お急ぎのところおよび止め申し訳けござらん。伊東掃部助ともうします伊豆伊東の流れでござる」
「日向の伊東殿は浪人せられたと聞き及んだが作用でござろうか」
「隣国島津の謀にはまり領国を手放さざるはめにあいなりもうした」
、
「それは難儀であり申した。解からぬゆえもそっと教えてくだされ」」
「なんなりとご遠慮なく」
「伊東の「東」は藤か東か」
「東でございます。」
「おおっ同家じゃ伊豆伊東家の流れじゃ」
「ご不運なこと一族のものとして見過ごしにはできぬ。」。
羽柴殿に使えられるならば吾ら種篤申すべし。
帰られてこのことを告げてくださるまいか。
天正10年正月。三位入道70、祐兵24
秀吉配下への決断は安住の地を得た女子たちの反対もありのびのびに成っていた。
「あれに控えるはだれぞ。」
「伊東家嫡男・祐兵でございまする」
「おお!いつぞやの話のものか。」
「城につれ参れ!」
「御意」
「日向の主(あるじ)三位殿も今は浪々の身。不憫なものよ。わしに使えるよう伝えよ。家禄をとらせようぞ。
日薩隅三州の大守を名乗った伊東酸味入道の意地がうまくいかない。
早速祐兵父に喜び勇んで伝えると意外なことに武士の意地たる魂をみせつけられた。
腐っても鯛である。見上げたものその心意気。
なんと父三位義祐は一笑にふした。
「身不肖なれど三位に階り、歳すでに70を越えた。
浪人の身と言え何の面目あって木下籐吉づれに追随できようぞ」
「そちは別じゃ。子孫再興のためなれば格別じゃ。一筋の希望が出てきたの〜。」
三位入道は息子祐兵の秀吉に召抱えられるのに安堵して従者一人を連れたびに出た。
周防山口に、として伊東三位入道義祐の歌
行く末の 空知らぬとの言の葉は
今身の上の限りなりけり
後醍醐天皇が隠岐に流される途中の摂津の昆陽野で読まれた
命あれば こやの軒端の月も見つ
またいかならむ 行く末の空
こやの=今夜=昆陽野
後醍醐帝が隠岐にあったことを知ってるので読める教養人の一端を示している。
さすがに従三位の官位をえてた人である。
当時の武士には従三位との最高の栄誉は、言われてる金銭だけで買ったものでゃないことの証左である。
従三位は朝廷と武家の力が逆転した徳川時代には家康の孫クラスには官位が出てるが
この当時の武士では際立ってる高官位。
ぴったりとはいかぬが明治期の子爵でいいかと思える。
それが一人、いわゆるのたれ死に。
このような波乱万丈な人はこの人のみである。
山口城下で奇遇な出会いがあった。
地付きの四天王
山田・荒武・津留・大脇が伊東家を支えた。
そのかっての伊東家に仕えた大脇家・大脇曾丹である。
山口にかっての主君が行ってるのを伝え聞きあちこち捜し求めた。
ようやく奇跡的に再開した。
大脇は奇遇を喜び恩讐を彼方に追いやり
「ぜひ其の家へ」と誘った。
伊東家を去ったのは項である。
犬追いの行事のとき、犬老い者の弓次郎の役を命じられた。
「不服でゴザル」と伊東家を辞した。、
その後大内家に召抱えられ
古備郡に五百石、知行豊かな暮らしをしていた。
かっての主君伊東三位入道祐義の流浪山口に在すを伝え聞いて
あちこちに見かけたら連絡するように依頼していた矢先のことであった。
昔の恨みを忘れ連歌などを催しねんごろにもてなした。
知らず知らず一年過ごした。好ましかった故でもあろう。
行く末の空知らぬとの言の葉は
今身の上の限りなりけり
山口では奇縁でそのかっての家臣の家で一年ばかりを過ごしていた伊東三位入道義祐。
大内文化の瑠璃光寺、雪舟の庭などを見たものであろうか。
四天王、大脇曽丹は三位入道義祐から犬追物の下役を命じられ
、これを不服して伊東家を立ち退き山口の大内家に召抱えられていた。
従者の黒木総右衛門について周防を出立するときのことである。
「総右衛門!曽丹の家に忘れ物をした取って参れ」
真に受けて走り去るのを見て義祐は道を変えて姿をくらました。
後で必死に探すもわからず、やむなく摂津にいた祐兵へ報告すると
祐兵は怒って黒木に勘気を申し付けた。
73才の天正13年ころの天涯孤独の彷徨。
かって三州の太守と豪語して金柏寺に寄進した鐘に日薩隅三州大守と刻んだ。
周防の三田尻から息子祐兵に上方を志し、備前牛窓に船が着いた。
大きな光がポッカリと小波に光を落とし・・中秋の名月である。
風もなく散る病葉に秋の楽士は秋の香りである。
秋の陽はうら寂しく真っ赤に落ち一面には虫の音の違いがあり秋も足音を忍ばせている。
草むらのそこそこたまらななくさびしいものがある。
6尺の大男も72歳。気分も滅入ってくる。
名月や・・
廊下を風鈴がリリ〜ンと歩いてくように這って鳴る。
歌詠みには夢のような静寂
名月や・・・
うなるような声が漏れる。
寺はあちこちから旅僧も訪れるのでいまのアンテナショップ
満月夜の感激は名月の空にいろんな形をした雲が過ぎてゆくところにもある。
日向路の秋を思っての万巻の想い
旅は憂いし 窓のつき見る 今宵かな。
(牛窓風土物語)
境の浦に船中で病気の乞食坊主を捨て去った
噂は「大きな乞食坊主が浜で行き倒れになっている」と風評が立った。
人生とは奇縁とは言ったもの不思議なものである。
朝鮮出兵で息子の祐兵はいないが妻の松寿が境に住んでいた
日向西都・都於郡から大分四国松山との同行者でもある。
天正13年8月15日に没した。
美禄で貧しきゆえ旅の遍僧に頼んでの野辺の送りであった。
綺羅の法燈の下の回向でなく
ましてや、従三位の官位を知られずに秀吉に仕官しない魂ゆえ
不本意ながらも満足なるものであったろう。
これほどの波乱万丈の人は日本の歴史に存在しない。
息子祐兵は秀吉に仕えお家再興を図らんとしている。
義祐には百姓の出の秀吉配下にはなる相談ではない。
伊東三位入道の詠んだと言われるうたが岡山に残されている。
「牛窓風土物語」である。
旅は憂し 窓の月見る 今宵かな
日向全土を支配し、島津領土を伺う勢いで頂点に上り詰め、
そのひとが一人身の奈落の底に転がり落ち流浪の身で、死を間際に詠んだ背景を知っていると
そぬ深き句の持つ意味が光る。
天正13年夏。
九州に覇を競っていた伊東三位入道祐義73歳。、
従者の黒木総右衛門をうまく誤魔化し
一笠一杖天涯孤独の放浪である。
ぼろぼろの法衣で誰が見ても乞食坊主。
達磨のようだった肉は痩せ、腰はちじみ、干ぼししたような面相
埃と垢で正視もできない顔であった。
周防の三田尻から備前についたその日は仲秋の名月。
塵輪島、前島の山頂高くに月はある。
空は澄み切って月光はさえて海面に降り注ぐ。
三位入道はここで一句詠んだ。
周防山口
「月もみつ またいかならむ 行く末の空」
元弘2年後醍醐天皇が隠岐に流さるるとき、摂津・昆陽野・で詠んだ
行く末の 空知らぬとの 言の葉は
今身の上の 限りなりけり
之をもとに先ほどの句を詠む味わい。
「月もみつ またいかならむ 行く末の空」
天正10年は歴史に多くのことが見える激動の年。
武田勝頼、織田信長、明智光秀が亡くなり、柴田勝家が自刀
秀吉は家康と長久手で争った。
大叔父がこの状態のときに丁度伊東マンショは天正遣欧少年使節として
ローマに向かい1月28日長崎を出向した。
都於郡落城から九州山地の冬の山中を経て隣国肥前大分の大友宗麟庇護を目指した。
大分城下で宣教師に拾われマンショは長崎セミナリヨに学ぶ機会を得て、神の加護を得た。
備前安芸周防から大内義隆を偲び山口によった。
滅亡の後を弔うためである。
京に似しての城下。公卿を気取った形跡を見るにつれその姿は自分のこれまでを見る思いであった。。
大力無双の勇士と人づてにみみにはいるのは満更でもなかった。
3千瀬mんし加賀守
元亀三年5月、伊東家の隆盛の基礎を築いた祐持10代目の孫のとき抗争は激化。
下克上の様相を呈した。
10歳で家督を相続したが、叔父から追い出される。
上洛を目指したが船中にあり、呼び返され、叔父一族を討ち果たす
ところが治まらず僧籍に入ってた弟を擁する動きがおこり一時屈したが勢力を追い出す。
坊主拍子過信は染まずにはsiltuta.
6尺肝属と組み永禄…