NHKラジオ深夜便
2005年3月3日この何日かキッチリ4時に目が覚める。
なりっぱなしのNHKラジオ深夜便漬けである。
4時から昨日に続き親鸞と道元を二回にわたり放送した。
敬愛する先哲を聞き覚えてる限りで書き記したい。
お話頂いたのは国際日本文化研究センター山折哲雄所長
昨日は同時代の二人の差を無理して出していた感じがする。
道元は決断の早さ。早熟の天才。2年で比叡山を下りる。
可能性があるとすれば修行せねばならぬ。
親鸞はじっ魂たる師・法然に使えきる。
歎異抄第2条「山に仏法はない。」
それでも山に残る。
すべて阿弥陀如来念仏を唱えた結果地獄はなく後悔しない。
救済を信ずる。
絶対随順で師弟は絶対無垢ついていき学ぶ生き方。
あえて違いを大きく区別する二人の考え方であるがそらは自力と他力である。
道元の「自力の生き方」と親鸞の「他力の生き方」の訳がのっている著書で学べばわかろう。
親鸞の『教行信証』名 日本の名著 6 親鸞 -中公バックス-
著編者 伊藤 整
出版社 中央公論新社
刊行日 1999.05
ISBN 4-12-400396-X
「教行信証」とか「現代(語)訳 正法眼蔵」
道元に関しては『正法眼蔵』でチェツク
書名 日本の名著 7 道元 -中公バックス-
著編者 玉城 康四郎責任編集
出版社 中央公論新社
刊行日 1983.08
ISBN 4-12-400397-8
道元は疑問を持ち山を下りる。
建仁寺のミョウゼン禅師中国にわたる。
どうにも師を尊敬してない。
東大寺のグソク会の発行する今の特権的パスポ−トを求める師匠
菩薩会の並のパスポ−トでいいという道元。修行に行くのである。
テンドウゼンジを去り、中国各地を回り、師匠たるニョジョウ禅師に出会う。
信心ダツラク真の師匠に出会える。
心と体は透明人と仏の体験でニョジョウ禅師から悟った。ミョウゼンを語らず。弱気ショジョウ。
ぶっぽにせいしとして使える。
永平寺を開きニョジョウ禅師
親鸞は法然の厳しき暖かさ随順の姿。
釈迦と達磨は同じ。禅の仏
中国も日本も発展しているが共通の中で本質は同じである。
「正法眼蔵」で変わらない本質を突く。
世界宇宙本質は何か。本質の追求。世の中とは、自然とは
では自分とは何か。
哲学の基本
教行信証7人の僧。
7高僧
インド・・ドンラン・ドウシャン・ゼンドウ
中国・・・リュジュ・テンジン・
日本・・・ゲンシン・ケンクウ(法然)
浄土真宗は阿弥陀如来が集大成。歴史的にとかれ吟味され包まれ歴史的に決まった。
追放される親鸞の対談から
「愚禿」 でしょう。 愚禿というのはすごい名前ですよね。 「やくざ親鸞」 と名乗ったようなものでね。
これはその時代の後鳥羽上皇と慈円というふたりの俗界と宗教界の大立者が親鸞らを流罪にしたことへの、 ものすごい抗議ですね。
後鳥羽上皇は自分の侍女を取られたことへの嫉妬に駆られたに違いないけれど
慈円の方は、 自分は四度座主をつとめた宗教界の大立者で、 学問はあるし、 歌はうまい
自分しか偉い者はないと思っていた。 それが、 自分の一番かわいがっていた弟子の親鸞を法然に取られたというものすごい恨みがあったと思うんですね。
それに対して親鸞は痛烈な怒りをもって、 時の上皇に厳しい非難の言葉を投げつける。 それは日本の宗教者に例がないですね。
変わらざる親鸞の『教行信証』正法信州阿弥陀如来。
本質的認識は歴史的認識
現場の道元。
歴史哲学の親鸞。
親鸞のランはどんらんのランからとり、ゲンシンのしんからとった。
名を変えると人格が変わる。
自覚における脱日本浄土信仰の志の高さが感じられる国際感覚
道元哲学文学歴史が希薄になっている。崩壊している。
国際感覚で集める工夫。
人類の歴史の問い。
人文科学の課題。生産お金キチンと答えずんだろうか。そもそも人間とはなにか。
自己とは何か。とく鍵は親鸞と道元にある。
さまざまに当てはめる。本質が哲学的に流れ出す。
これまでのことを解説書風に起こしたのを変えてみたい。
親鸞は比叡山を二十九歳で下りて法然の門に入る。
それ以後数年の間に三度名前を変えている。
綽空が最初で、 それから善信、 最後に親鸞。
越後に流されるころは親鸞と名乗っていた。
その名前の付け方の心理的な背景について憶測を哲学会の重鎮・梅原猛との対談での言葉である。
、
綽空は道綽の綽と源空の空です。 そうすると中国浄土教と日本の源空の浄土教の組み合わせになる。
善信の善は善導の善と信は源信の信ですね。
どちらも中国仏教と日本浄土教の組み合わせなんです。
最後になってインドの天親と中国の曇鸞からとった親鸞というのが出てくる。
日本人の名前がそこで消えるわけですね。 ですからどうも、 親鸞は最終的に自分の名前を親鸞と決めた時に初めて、
俺は源信と源空から離陸したんだという自覚ができていったのではないでしょうか。
これまでは昨日でそして今日が二日目。
京都西トウインに道元入滅の碑
松原通り東に親鸞入滅
歴史の街たる京都。
歎異抄第6条
9歳で入山20年29歳で山を下りる。
念仏弾圧で流される。
越後直江津の西50分のコタの浜に上陸。
流人で日立の国イナダの西念寺
教行信証完成さす。
築波の山。東山に似ており望郷の念。
弟子捨ての平等主義阿弥陀に対する誓い。
真言宗だけ人間汝みな同じ。
我一人。深い狭義。
如来との垂直道元の 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷 (すず) しかりけり」 と春夏秋冬を歌った言葉、
これは川端康成がノーベル文学賞をもらったとき、 ストックホルムで演説をしたとき、 冒頭で引用した。
日本人の美意識はこういうものだと宗教者は著書より行であるという人と、 自分の教えを伝えるには著書であるという、 著書に執念をかけた人の二つのタイプ
どっちが偉いとは言えない。
行基というのは著書を持たない。 念仏の空也、
それに一遍もそう。 法然もそちらへ入る。
法然の 『選択集』 は、 弟子に手伝わせて口述筆記を行なった。 だが親鸞は自分一人で書いた。
あれほど自分の本に執着した人はない。
手紙もたくさん書いて、 いろいろ経文も書いた
親鸞と道元を一度に書くこと自体が土台無理。
じつにすすまない。
日向に走り、約束手形をいただく。
正直言って・・困るナ〜
当座がないと割り引けないもの。
東郷町、西郷町と走ろうとするも引き返し、
工事現場に向かう。
施工方法を研究して次回からの反省材料にしたい。
高鍋町で矢野としお元町議に会う。
月日の速さに驚く。80歳と言う。
俺は一体何をしていたのであろう。
気持ちはいまだ20代となんらの変化もないが、対象者を見て
老いを感じる。
文字数が尽きた。親鸞と道元。そして日蓮。
鎌倉期に花開いた仏教はその開祖にあたる純粋な教義から800年を経て変わることなき光を放っている。
組織の維持発展の見本である。
なりっぱなしのNHKラジオ深夜便漬けである。
4時から昨日に続き親鸞と道元を二回にわたり放送した。
敬愛する先哲を聞き覚えてる限りで書き記したい。
お話頂いたのは国際日本文化研究センター山折哲雄所長
昨日は同時代の二人の差を無理して出していた感じがする。
道元は決断の早さ。早熟の天才。2年で比叡山を下りる。
可能性があるとすれば修行せねばならぬ。
親鸞はじっ魂たる師・法然に使えきる。
歎異抄第2条「山に仏法はない。」
それでも山に残る。
すべて阿弥陀如来念仏を唱えた結果地獄はなく後悔しない。
救済を信ずる。
絶対随順で師弟は絶対無垢ついていき学ぶ生き方。
あえて違いを大きく区別する二人の考え方であるがそらは自力と他力である。
道元の「自力の生き方」と親鸞の「他力の生き方」の訳がのっている著書で学べばわかろう。
親鸞の『教行信証』名 日本の名著 6 親鸞 -中公バックス-
著編者 伊藤 整
出版社 中央公論新社
刊行日 1999.05
ISBN 4-12-400396-X
「教行信証」とか「現代(語)訳 正法眼蔵」
道元に関しては『正法眼蔵』でチェツク
書名 日本の名著 7 道元 -中公バックス-
著編者 玉城 康四郎責任編集
出版社 中央公論新社
刊行日 1983.08
ISBN 4-12-400397-8
道元は疑問を持ち山を下りる。
建仁寺のミョウゼン禅師中国にわたる。
どうにも師を尊敬してない。
東大寺のグソク会の発行する今の特権的パスポ−トを求める師匠
菩薩会の並のパスポ−トでいいという道元。修行に行くのである。
テンドウゼンジを去り、中国各地を回り、師匠たるニョジョウ禅師に出会う。
信心ダツラク真の師匠に出会える。
心と体は透明人と仏の体験でニョジョウ禅師から悟った。ミョウゼンを語らず。弱気ショジョウ。
ぶっぽにせいしとして使える。
永平寺を開きニョジョウ禅師
親鸞は法然の厳しき暖かさ随順の姿。
釈迦と達磨は同じ。禅の仏
中国も日本も発展しているが共通の中で本質は同じである。
「正法眼蔵」で変わらない本質を突く。
世界宇宙本質は何か。本質の追求。世の中とは、自然とは
では自分とは何か。
哲学の基本
教行信証7人の僧。
7高僧
インド・・ドンラン・ドウシャン・ゼンドウ
中国・・・リュジュ・テンジン・
日本・・・ゲンシン・ケンクウ(法然)
浄土真宗は阿弥陀如来が集大成。歴史的にとかれ吟味され包まれ歴史的に決まった。
追放される親鸞の対談から
「愚禿」 でしょう。 愚禿というのはすごい名前ですよね。 「やくざ親鸞」 と名乗ったようなものでね。
これはその時代の後鳥羽上皇と慈円というふたりの俗界と宗教界の大立者が親鸞らを流罪にしたことへの、 ものすごい抗議ですね。
後鳥羽上皇は自分の侍女を取られたことへの嫉妬に駆られたに違いないけれど
慈円の方は、 自分は四度座主をつとめた宗教界の大立者で、 学問はあるし、 歌はうまい
自分しか偉い者はないと思っていた。 それが、 自分の一番かわいがっていた弟子の親鸞を法然に取られたというものすごい恨みがあったと思うんですね。
それに対して親鸞は痛烈な怒りをもって、 時の上皇に厳しい非難の言葉を投げつける。 それは日本の宗教者に例がないですね。
変わらざる親鸞の『教行信証』正法信州阿弥陀如来。
本質的認識は歴史的認識
現場の道元。
歴史哲学の親鸞。
親鸞のランはどんらんのランからとり、ゲンシンのしんからとった。
名を変えると人格が変わる。
自覚における脱日本浄土信仰の志の高さが感じられる国際感覚
道元哲学文学歴史が希薄になっている。崩壊している。
国際感覚で集める工夫。
人類の歴史の問い。
人文科学の課題。生産お金キチンと答えずんだろうか。そもそも人間とはなにか。
自己とは何か。とく鍵は親鸞と道元にある。
さまざまに当てはめる。本質が哲学的に流れ出す。
これまでのことを解説書風に起こしたのを変えてみたい。
親鸞は比叡山を二十九歳で下りて法然の門に入る。
それ以後数年の間に三度名前を変えている。
綽空が最初で、 それから善信、 最後に親鸞。
越後に流されるころは親鸞と名乗っていた。
その名前の付け方の心理的な背景について憶測を哲学会の重鎮・梅原猛との対談での言葉である。
、
綽空は道綽の綽と源空の空です。 そうすると中国浄土教と日本の源空の浄土教の組み合わせになる。
善信の善は善導の善と信は源信の信ですね。
どちらも中国仏教と日本浄土教の組み合わせなんです。
最後になってインドの天親と中国の曇鸞からとった親鸞というのが出てくる。
日本人の名前がそこで消えるわけですね。 ですからどうも、 親鸞は最終的に自分の名前を親鸞と決めた時に初めて、
俺は源信と源空から離陸したんだという自覚ができていったのではないでしょうか。
これまでは昨日でそして今日が二日目。
京都西トウインに道元入滅の碑
松原通り東に親鸞入滅
歴史の街たる京都。
歎異抄第6条
9歳で入山20年29歳で山を下りる。
念仏弾圧で流される。
越後直江津の西50分のコタの浜に上陸。
流人で日立の国イナダの西念寺
教行信証完成さす。
築波の山。東山に似ており望郷の念。
弟子捨ての平等主義阿弥陀に対する誓い。
真言宗だけ人間汝みな同じ。
我一人。深い狭義。
如来との垂直道元の 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷 (すず) しかりけり」 と春夏秋冬を歌った言葉、
これは川端康成がノーベル文学賞をもらったとき、 ストックホルムで演説をしたとき、 冒頭で引用した。
日本人の美意識はこういうものだと宗教者は著書より行であるという人と、 自分の教えを伝えるには著書であるという、 著書に執念をかけた人の二つのタイプ
どっちが偉いとは言えない。
行基というのは著書を持たない。 念仏の空也、
それに一遍もそう。 法然もそちらへ入る。
法然の 『選択集』 は、 弟子に手伝わせて口述筆記を行なった。 だが親鸞は自分一人で書いた。
あれほど自分の本に執着した人はない。
手紙もたくさん書いて、 いろいろ経文も書いた
親鸞と道元を一度に書くこと自体が土台無理。
じつにすすまない。
日向に走り、約束手形をいただく。
正直言って・・困るナ〜
当座がないと割り引けないもの。
東郷町、西郷町と走ろうとするも引き返し、
工事現場に向かう。
施工方法を研究して次回からの反省材料にしたい。
高鍋町で矢野としお元町議に会う。
月日の速さに驚く。80歳と言う。
俺は一体何をしていたのであろう。
気持ちはいまだ20代となんらの変化もないが、対象者を見て
老いを感じる。
文字数が尽きた。親鸞と道元。そして日蓮。
鎌倉期に花開いた仏教はその開祖にあたる純粋な教義から800年を経て変わることなき光を放っている。
組織の維持発展の見本である。