今日の誕生日の花は・・・・・テージー
花言葉は・・・・・・・・・・無邪気、幸福
雛菊、学名:Bellis perennis)とは、キク科
別名はデージー、デイジー、長命菊、延命菊
イタリアの国花。
原産地はヨーロッパで、原種は芝生の雑草扱いされている。
北アメリカ、アジア、オセアニアに外来種として広く帰化している
日本には明治時代初期に渡来し、北海道などの冷涼な地域を中心に定着している
♪ヒナギクの花の首飾り やさしく編んでぇ♪
♪ヒナギクのはなぁ~をォ~♪
能村 登四郎(1911年1月5日 - 2001年5月24日)は台東区谷中の人。
國學院大を経て市川学園で教員
水原秋桜子に師事。
中学生の頃より、伯父の手ほどきを受け、俳句を始める。
1939年、俳誌「馬酔木」に投句を始め、
1948年、馬酔木新人賞を受賞。
1970年、「沖」を創刊、主宰。「沖」は三男の能村研三が継承。
2010年9月、既刊の14句集に海外詠を加え6516句を収録した『能村登四郎全句集』(ふらんす堂)が刊行された。
春を告げる奈良の二月堂のお水取り、
今年は寒の戻りも逢ってか、実際はマダマダ寒い
陽だまりを歩く鹿々の群れ
NHKラジオ深夜便アンカ教える今日の一句
お水取 過ぎし寒さを 鹿も知る
能村登四郎
ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図(5)埋もれた初期被ばくを追え」
3月11日:午後10:00~午後11:30(90分)
溢れ返る一日の報道の仲で
冷徹な3・11の珠玉の報道
原発事故が発生したとき、政府がまず行わねばならなかったことは、住民の避難である。
3月11日の夕刻には、メルトダウンの可能性がはっきりと認識された。
圧力容器、格納容器内の圧力を低下できなければ、
水素爆発、水蒸気爆発が発生することが予想された。
米国は、在日米人に対して、原発から80キロ圏外への避難を勧告した。
これに対して、日本政府が避難指示を出したのは、
わずか3キロ圏内の住民に対してだけ。
ベントの実施ができずに10キロにエリアを広げ、
翌12日に水素爆発が起きて初めて避難地域が20キロに拡大された。
危険該当区域には何の情報もなかった
多くの人々が線量のおおいところに避難し
かえってより多く、被曝した皮肉ー
浪江町津島地区は原発より20キロを越える北西に30キロ
よって福島海岸地区
苅野小学校からの避難民があり
8000人がこえた
ところが地政学上からの風向きから、ここは
放射線が溜まる放射線スポット
毎時330、
室外に4時間だけで年間被曝量を超える
12日ベント以前のこと
校長が語る
引き返そうとした
「もどるな」
ジープに乗った白装束姿は福島に逃げてた
12日15:35
放射性物質空中放出の
あとで覚える言葉「ベント」の時間と現地が重なる
毎時330、4時間だけで年間被曝量を超える
100億円以上の国費を投入してSPEEDIと呼ぶシステム情報
それが生かされて、ないっ!ゆえ
ヨウ素131と甲状腺がん避難民、自らが晒した
いずれ
3・11NHKFMラジオ午後1時 00:15~ 02:00
トーキング ウィズ 松尾堂「希望はふるさとにある」
=コレを聴いていた=
映画作家…大林宣彦
東京大学教授・経済学者…玄田有史
【司会】松尾貴史
藤井彩子
「それは遠い夏」 (伊勢正三)
(6分21秒)
「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」
(ドゥービー・ブラザーズ)
(3分07秒)
<WEA WPCP-5337>
「草の想い」 (大林宣彦&FRIENDS)
(3分46秒)
<NECアベニュー NADL-1017>
「ひょっこりひょうたん島」 (前川陽子)
(1分37秒)
<キングレコード KICG 192>
番組の中で戦中世代の大林宣彦雄たけび
談志が言ってた
「いい戦争で戦ってタラ、ある日突然、悪い戦争」
3・11の瓦礫の状態は
心を真っ白にしたあの戦後状態とおなじー
大林宣彦が書評をしていた
大林「おーいっ!戦争がいるのか」
カーチス「そうだろう、アレが人生観を変えた」
日劇を沸かしたロカビリーのカーチスの返した言葉
あの敗戦の劇的価値観の変更の世相ー
「俺戦争音楽」著者ミッキーカーチス
そして・・・
これから言いたい、著作のことー
この爺目、実におかしな一生であった
解らぬものだー
ひょんなことで・・・
再度、歩き始めつつあるが・・
いまになってぇ
プログラマーHTMなりプログラミング言語挑戦
これでPCソースを開くのが
なお、一層楽しくなろう
10日も針きゅう院先生を交え
23時過ぎまで、お話をしてた
私憤を公憤へ
それは「私」がまるっきしなく
常に「公」、
他人様が気になる
滅私奉公的猪突猛進
偏狂的なほどの国家愛、郷土愛にある。
ゆえに
ここまでさえできる
読んでもいないのに
新刊書の紹介
はぁ?
3・11を経て
刊行された
ただ、たんなる、あてぞっぽでもない
ブロガーである
著者のことについて
出自は巡査の父、親爺の事についても
舟で郷里宮崎に帰るシーンを含め
以前にこのブログアップしてる
いつだったか・・
なんとなくテレビで作品を見た
「瀬戸内少年野球団」
ノスタルジーと世相が気になった
幼さなきを育った山間の田舎とソックリのストーリー風景
稲刈り終えたあとの田圃でソフトボールに興じた
あの幼い記憶とダブルゆえであったろう
それが原作
まさか阿久 悠の小説とは
御恥ずかしいそのとき知らなかった
父親が宮崎川南出自で
宮崎でお暮らしである事も含めて
3・11の年に逝った名優田中好子はキャンディーズのスーチャン
瀬戸内少年野球団主演の義妹の死因は奇しくもおなじ病名であった
昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…
5000曲を超える曲
華々しい活躍の成果、
東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が建立され、展示されていて、しのべる
その中の一角に、
3・11を経て奇異な経過を経た
10月13日に岩波書店から出版されたばかりの
「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
まぁそれが本として活字になってる
その認識
ただ・・ナント!驚いた
岩波からだ!
無冠の父
阿久 悠 (著)
「私の父の深沢武吉は、生涯巡査であった」。
戦中から昭和30年頃までの淡路島。
小さな駐在所に身を寄せ合う、ある一家のささやかな幸福と戦争の傷痕。
――自身の父親と家族をモデルに著者が遺した珠玉の物語は、
父親とは何か、
時代の激変のなかの家族のつながり、
人間としての矜持、
生きることの諦観と希望とは何かを問いかけてやまない。
阿久 悠1937‐2007。本名・深田公之。兵庫県淡路島に生まれる。
明治大文学部を経て、広告代理店に勤務して番組企画・CF制作に関わった後、
フリーとなり作詞を中心とした文筆活動に入る。
作詞代表作に「また逢う日まで」「津軽海峡冬景色」「北の宿から」等
5回も受賞したレコード大賞
ブログがある
阿久悠記念館と「無冠の父」 小榑雅章
阿久悠さんが亡くなったのは、2007年8月1日だった。
それから4年余がすぎて、先日10月28日の午後、東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が開館した。
かねてより、この日に開館されるということを知らされていたのと、
同じこの日の夜、明大のホールで阿久悠歌謡祭が開催されるので、
久しぶりに阿久さんに会えるような気分になって、
少しウキウキしながら出かけて行った
阿久さんとは、以前から知り合いであった。
1990年に、兵庫エフエムラジオ放送というFM放送局が開設されるにあたって、
株主の中から、この放送会社の会長には兵庫県淡路島出身の有名文化人の阿久悠さんに就任してもらいたい、
という意向が寄せられた。
株主は、兵庫県や神戸市などの自治体や新聞社、地元の有力企業などで、ダイエーも出資企業の一つだった。
当時、私はダイエーの秘書室長だったが、中内社長に命じられて、阿久さんに会長就任のお願いに行かされた。
阿久さんは、私の話を聞いて、
「うーむ、兵庫県民の代表として会長になってくれといわれても、僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれた
のはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
阿久さんは、あまり乗り気ではないような口ぶりだったが、
それでも、
「会長って何するの?何もしなくていいのなら、引き受けてもいいよ」
と承知してくれた。
何年か後で、「放送会社の会長になれば、黒塗りの車で最敬礼でお出迎えされ、ゴルフでもさせてくれるのかと思ったけどね…」と
笑っていたが、
現実は厳しく、バブルのはじけた1990年の開業は、最初から大赤字。
派手な設備投資も重荷になり、あっという間に債務超過の四苦八苦。
黒塗りの車もゴルフも、一度として実現しないどころか、
一銭の報酬もなく、阿久さんは、たびたびの取締役会や株主総会に呼び出されていた。
3年後の1993年に、何の因果か、この放送局の立て直しに行って来い、と送り込まれることになった。
阿久さんは、
「僕を会長にしたんだから、君の責任は大きいぞ」
と笑ってから、真顔で
「待ってたんだよ」
とボソッと言った。
阿久さんには、本当に申し訳ないと思っていた。
それから死に物狂いで働いた。
荒療治も行なった。
その都度、阿久さんに報告すると「少しは会社らしくなってきたね」「ご苦労さんだね」などと、かならず声をかけてくれた。
阿久悠記念館には、5回も受賞したレコード大賞の盾やトロフィーや「また逢う日まで」などの歌詞、年表、5000曲に及ぶという曲名などの展示と、伊豆宇佐美にあった自宅の書斎をそっくり再現した部屋が常設されている。
昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…
華々しい活躍の成果が展示されている。
その中の一角に、10月13日に岩波書店から出版されたばかりの「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
じつは、この本は出版されてすぐに読んでいた。
この本の末尾に、次のような注記がある。
「『無冠の父』は、阿久悠の手になる長編小説のなかで唯一の未発表作品である。
1993年(平成5)年の9月から11月にかけて執筆され、完成稿が編集者に渡されたが、
改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ、以後、2007年8月に没するまでこの作品についていっさい語ることはなか
った。…」
「改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ…」
とはどういうことなのだろう。
編集者はどこを改めてほしいと言ったのだろうか。
阿久さんは、腹を立てたのだろうか、どうして出版しなかったのだろうか。
本を読みながら、いろいろな思いが湧き上がってきた。
しかしそれはそれとして、阿久さんと同じ年に生まれ、同じ戦中戦後の体験をしてきた自分としては、
どうしても阿久さんの思いに自分を重ねあわせてしまう。
淡路島の駐在所の巡査として、終生一介の巡査として過ごした無冠の父の生きざまを、
少年のまなざしを通して語っている。
父親とは何か、
親子の絆とは何か、
人間の矜持とは何か、
故郷とは何か…
阿久さんが、会長就任を依頼に行った私に
「僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
と何故語ったのか、故郷とはなにか、その答えが、この本にあった。
*「無冠の父」阿久悠 岩波書店刊 1800円+税
深沢は戦前戦後の33年間、警察組織の最低辺の巡査として奉職します。
前回読んだ山口良忠は裁く人でしたが、深沢は取り締まる人でした。
彼もヤミ米には手をつけなかったそうです(ただ妻が上手にやりくりしたようですが)
物語はパリに休暇中の阿久悠の元に寄せられた、父の訃報から始まります。
阿久悠は父のことを思い出します。
父との記憶。
小さな駐在所の巡査としての父、
そして頭頂部に大きな傷痕がある父。
でも父の声だけはどうしても思い出せません。
そして話は今のパリから戦時中の淡路島へ遡ります。
小さな島では、父は唯一の警察官であり、また唯一の国家権力でした。
島民からは「旦那さま」と畏怖心を込めて呼ばれ、少年であった阿久悠も他の子供たちとの間に見えない溝を感じます。
それでも普通の少年として育ち、父と母、姉に妹、そして戦死した兄との淡い思い出が甦ります。
やがて彼も高校生になります。
成績優秀だった少年は、落第生となり映画館に入り浸りの日々を送っていました。
しかし父は彼を咎めません。
卒業後は上京し、父も定年前に退職し、
宮崎で長い隠居暮らしを始めます。
その後の月日は、父親と息子の距離をより一層に離すものでした。
読了後、まず感じたのは父である深沢武吉の諦めです。
単に巡査止まりということではなく、頭のケガのこと、長男を戦死させたこと、
そして時代に器用に合わせて生きられないこと。
ここに嘆き似た諦念を感じます。
彼と対比するかのように、巡査時代の同僚で、終戦後に事業で成功した鶴田という男が登場します。
父は終戦後、淡路島で実直にヤミ物資を取締しまりします。
同僚たちは目こぼしをするのに、彼だけは真面目に取締をしていました。
阿久悠はそんな戦後を次のように見ています。
「終戦になり、よく云う話だが教科書に墨を塗り、幼いながらも世間を見渡すと、およそ理不尽なほどの変貌で、
父は寡黙になり、
巡査は萎え、
先生は豹変し、
一体何をどう信じるべきかを見失った子供たちは、辛うじて、飢餓を条件にしたような自由を取り縋る。
信じると馬鹿を見るから、信じないで済む心構えをまず作ろうと、自衛するのである。
大人たちの、あるいは社会の寡黙、委縮、豹変に対して、子供たちは、どうしたら横着者になれるだろうかと考えるのである。」
(本書240-241頁)
こんな時代の阿久悠少年は、
「私も九歳、十歳、もはや目を光らせて武運長久を祈る軍国少年でもなく、
また、その資質を尊いと思う理由もなく、
ただただ裏切られて狼狽しないことを願って、アホになろうとしていた。」
そんな息子を見て父は、
「何も云わなかった。芝居小屋の少女レビューに連日通っても、映画を見にわざわざ隣り町まで自転車を走らせても、
駐在所の中で流行歌のレコードが鳴り響いても、怒ることはなかった」(本書241頁)と。
秩序が崩壊した時代でのヤミ米の摘発は、馬鹿がつくほどの真面目な行為かもしれません。
しかし、それは遵法精神からではなく、単に時代に合わせられない、悲しいほどの不器用さにある。
そこに私は同情と共に生きることへの悲しみを感じます。
後の父と息子の関係は、お互い対立することもなく、かといって同調することもなく、
よそよそとした関係が続き、ただ、それだけで終わります。
「父と子の間の、おたがい暗黙で作った深い川を中にしたまま、生きてきた。
それがいいと思い、また、父と子はそうあるべきだと、私は思っていた」(本書231頁)
そんな父は定年退職後、在職時の反動があるかのように、何もしない人となります。
父と子の関係を描いた作品は無数にあります。
どれも真実の話なのでしょう。
ただ私には、父の教えとか、父こそが人生の師だったという話。
逆に私が父だったとして、息子や娘らに人生を教えるということにも、違和感を覚えます。
私もきっと不器用な人間なのでしょう。
この物語は著者の生前に発表される予定でしたが、
諸事情により長くお蔵入りしていたそうで
、ようやく陽の目を見たものです。
溢れ返る3・11報道
野田住彦は全国の県に
瓦礫受け入れの文書発送と
11日のニュースにある
汚染列島っ!ここに極まれリ
笑止千万!「みんなの力で瓦礫処理」/田中康夫
新党日本ホームページ 2012年3月8日
http://www.nippon-dream.com/?p=7297
「みんなの力で、がれき処理 災害廃棄物の広域処理をすすめよう 環境省」。
数千万円の税金を投じた政府広報が昨日6日付「朝日新聞」に出稿されました。
それも見開き2面を丸々用いたカラー全面広告です。
“笑止千万”です。
何故って、
環境省発表の阪神・淡路大震災の瓦礫は2000万トン。
東日本大震災は2300万トン。
即ち岩手・宮城・福島3県に及ぶ後者は、被災面積当たりの瓦礫(がれき)分量は相対的に少ないのです。
「静岡や大阪等の遠隔地が受け入れるべきは『フクシマ』から移住を望む被災者。
岩手や宮城から公金投入で運送費とCO2を拡散し、瓦礫を遠隔地へ運ぶのは利権に他ならず。
良い意味での地産地消で高台造成に用いるべき。
高濃度汚染地帯の瓦礫&土壌は『フクシマ』原発周囲を永久処分場とすべき」。
「『広域処理』なる一億総懺悔・大政翼賛の『絆』を国民に強要する面々こそ、地元首長の発言を虚心坦懐に傾聴せよ!」。
ツイッターで数日前に連続投稿した僕は、その中で戸羽太・陸前高田市長、伊達勝身・岩泉町長、両名の“慧眼”発言も紹介しました。
「現行の処理場のキャパシティーを考えれば、全ての瓦礫が片付くまでに3年は掛かる。
そこで陸前高田市内に瓦礫処理専門のプラントを作れば、自分達の判断で今の何倍ものスピードで処理が出来る。
国と県に相談した
ら、門前払いで断られました」。
「現場からは納得出来ない事が多々有る。
山にしておいて10年、20年掛けて片付けた方が地元に金が落ち、雇用も発生する。
元々、使ってない土地が一杯あり、処理されなくても困らないのに、税金を青天井に使って全国に運び出す必要がどこに有るのか?」。
阪神・淡路大震災以前から、産業廃棄物も一般廃棄物も「持ち出さない・持ち込ませない」の域内処理を自治体に行政指導してきた
政府は何故、豹変したのでしょう?
因(ちな)みに東京都に搬入予定の瓦礫処理を受け入れる元請け企業は、東京電力が95.5%の株式を保有する東京臨海リサイクルパワーです。
これぞ産廃利権! 仙谷由人氏と共に東電から献金を受け(朝日新聞1面既報)、
父君が北関東の産廃業界で重鎮の枝野幸男氏、
同じく東電が重用する細野豪志氏に
「李下に冠を正さず」の警句を捧げねば、と僕が慨嘆する所以です。
「復興を進めるために、乗り越えなければならない『壁』がある。」
と件の全面広告には大書きされています。
呵々。
乗り越えるべき「壁」は、「業界の利権が第一。」
と信じて疑わぬ「政治主導」の胡散臭さではありますまいか?!
金メダル野口の走りを見て
爺目ブログ界隈からの引き際を諭された思いー
\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/
↓ ↓
http://localkyushu.blogmura.com/miyazaki_town
ヨロシク ↑ ↑です
\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/\(^_^)/
花言葉は・・・・・・・・・・無邪気、幸福
雛菊、学名:Bellis perennis)とは、キク科
別名はデージー、デイジー、長命菊、延命菊
イタリアの国花。
原産地はヨーロッパで、原種は芝生の雑草扱いされている。
北アメリカ、アジア、オセアニアに外来種として広く帰化している
日本には明治時代初期に渡来し、北海道などの冷涼な地域を中心に定着している
♪ヒナギクの花の首飾り やさしく編んでぇ♪
♪ヒナギクのはなぁ~をォ~♪
能村 登四郎(1911年1月5日 - 2001年5月24日)は台東区谷中の人。
國學院大を経て市川学園で教員
水原秋桜子に師事。
中学生の頃より、伯父の手ほどきを受け、俳句を始める。
1939年、俳誌「馬酔木」に投句を始め、
1948年、馬酔木新人賞を受賞。
1970年、「沖」を創刊、主宰。「沖」は三男の能村研三が継承。
2010年9月、既刊の14句集に海外詠を加え6516句を収録した『能村登四郎全句集』(ふらんす堂)が刊行された。
春を告げる奈良の二月堂のお水取り、
今年は寒の戻りも逢ってか、実際はマダマダ寒い
陽だまりを歩く鹿々の群れ
NHKラジオ深夜便アンカ教える今日の一句
お水取 過ぎし寒さを 鹿も知る
能村登四郎
ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図(5)埋もれた初期被ばくを追え」
3月11日:午後10:00~午後11:30(90分)
溢れ返る一日の報道の仲で
冷徹な3・11の珠玉の報道
原発事故が発生したとき、政府がまず行わねばならなかったことは、住民の避難である。
3月11日の夕刻には、メルトダウンの可能性がはっきりと認識された。
圧力容器、格納容器内の圧力を低下できなければ、
水素爆発、水蒸気爆発が発生することが予想された。
米国は、在日米人に対して、原発から80キロ圏外への避難を勧告した。
これに対して、日本政府が避難指示を出したのは、
わずか3キロ圏内の住民に対してだけ。
ベントの実施ができずに10キロにエリアを広げ、
翌12日に水素爆発が起きて初めて避難地域が20キロに拡大された。
危険該当区域には何の情報もなかった
多くの人々が線量のおおいところに避難し
かえってより多く、被曝した皮肉ー
浪江町津島地区は原発より20キロを越える北西に30キロ
よって福島海岸地区
苅野小学校からの避難民があり
8000人がこえた
ところが地政学上からの風向きから、ここは
放射線が溜まる放射線スポット
毎時330、
室外に4時間だけで年間被曝量を超える
12日ベント以前のこと
校長が語る
引き返そうとした
「もどるな」
ジープに乗った白装束姿は福島に逃げてた
12日15:35
放射性物質空中放出の
あとで覚える言葉「ベント」の時間と現地が重なる
毎時330、4時間だけで年間被曝量を超える
100億円以上の国費を投入してSPEEDIと呼ぶシステム情報
それが生かされて、ないっ!ゆえ
ヨウ素131と甲状腺がん避難民、自らが晒した
いずれ
3・11NHKFMラジオ午後1時 00:15~ 02:00
トーキング ウィズ 松尾堂「希望はふるさとにある」
=コレを聴いていた=
映画作家…大林宣彦
東京大学教授・経済学者…玄田有史
【司会】松尾貴史
藤井彩子
「それは遠い夏」 (伊勢正三)
(6分21秒)
「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」
(ドゥービー・ブラザーズ)
(3分07秒)
<WEA WPCP-5337>
「草の想い」 (大林宣彦&FRIENDS)
(3分46秒)
<NECアベニュー NADL-1017>
「ひょっこりひょうたん島」 (前川陽子)
(1分37秒)
<キングレコード KICG 192>
番組の中で戦中世代の大林宣彦雄たけび
談志が言ってた
「いい戦争で戦ってタラ、ある日突然、悪い戦争」
3・11の瓦礫の状態は
心を真っ白にしたあの戦後状態とおなじー
大林宣彦が書評をしていた
大林「おーいっ!戦争がいるのか」
カーチス「そうだろう、アレが人生観を変えた」
日劇を沸かしたロカビリーのカーチスの返した言葉
あの敗戦の劇的価値観の変更の世相ー
「俺戦争音楽」著者ミッキーカーチス
そして・・・
これから言いたい、著作のことー
この爺目、実におかしな一生であった
解らぬものだー
ひょんなことで・・・
再度、歩き始めつつあるが・・
いまになってぇ
プログラマーHTMなりプログラミング言語挑戦
これでPCソースを開くのが
なお、一層楽しくなろう
10日も針きゅう院先生を交え
23時過ぎまで、お話をしてた
私憤を公憤へ
それは「私」がまるっきしなく
常に「公」、
他人様が気になる
滅私奉公的猪突猛進
偏狂的なほどの国家愛、郷土愛にある。
ゆえに
ここまでさえできる
読んでもいないのに
新刊書の紹介
はぁ?
3・11を経て
刊行された
ただ、たんなる、あてぞっぽでもない
ブロガーである
著者のことについて
出自は巡査の父、親爺の事についても
舟で郷里宮崎に帰るシーンを含め
以前にこのブログアップしてる
いつだったか・・
なんとなくテレビで作品を見た
「瀬戸内少年野球団」
ノスタルジーと世相が気になった
幼さなきを育った山間の田舎とソックリのストーリー風景
稲刈り終えたあとの田圃でソフトボールに興じた
あの幼い記憶とダブルゆえであったろう
それが原作
まさか阿久 悠の小説とは
御恥ずかしいそのとき知らなかった
父親が宮崎川南出自で
宮崎でお暮らしである事も含めて
3・11の年に逝った名優田中好子はキャンディーズのスーチャン
瀬戸内少年野球団主演の義妹の死因は奇しくもおなじ病名であった
昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…
5000曲を超える曲
華々しい活躍の成果、
東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が建立され、展示されていて、しのべる
その中の一角に、
3・11を経て奇異な経過を経た
10月13日に岩波書店から出版されたばかりの
「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
まぁそれが本として活字になってる
その認識
ただ・・ナント!驚いた
岩波からだ!
無冠の父
阿久 悠 (著)
「私の父の深沢武吉は、生涯巡査であった」。
戦中から昭和30年頃までの淡路島。
小さな駐在所に身を寄せ合う、ある一家のささやかな幸福と戦争の傷痕。
――自身の父親と家族をモデルに著者が遺した珠玉の物語は、
父親とは何か、
時代の激変のなかの家族のつながり、
人間としての矜持、
生きることの諦観と希望とは何かを問いかけてやまない。
阿久 悠1937‐2007。本名・深田公之。兵庫県淡路島に生まれる。
明治大文学部を経て、広告代理店に勤務して番組企画・CF制作に関わった後、
フリーとなり作詞を中心とした文筆活動に入る。
作詞代表作に「また逢う日まで」「津軽海峡冬景色」「北の宿から」等
5回も受賞したレコード大賞
ブログがある
阿久悠記念館と「無冠の父」 小榑雅章
阿久悠さんが亡くなったのは、2007年8月1日だった。
それから4年余がすぎて、先日10月28日の午後、東京駿河台の明治大学に阿久悠記念館が開館した。
かねてより、この日に開館されるということを知らされていたのと、
同じこの日の夜、明大のホールで阿久悠歌謡祭が開催されるので、
久しぶりに阿久さんに会えるような気分になって、
少しウキウキしながら出かけて行った
阿久さんとは、以前から知り合いであった。
1990年に、兵庫エフエムラジオ放送というFM放送局が開設されるにあたって、
株主の中から、この放送会社の会長には兵庫県淡路島出身の有名文化人の阿久悠さんに就任してもらいたい、
という意向が寄せられた。
株主は、兵庫県や神戸市などの自治体や新聞社、地元の有力企業などで、ダイエーも出資企業の一つだった。
当時、私はダイエーの秘書室長だったが、中内社長に命じられて、阿久さんに会長就任のお願いに行かされた。
阿久さんは、私の話を聞いて、
「うーむ、兵庫県民の代表として会長になってくれといわれても、僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれた
のはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
阿久さんは、あまり乗り気ではないような口ぶりだったが、
それでも、
「会長って何するの?何もしなくていいのなら、引き受けてもいいよ」
と承知してくれた。
何年か後で、「放送会社の会長になれば、黒塗りの車で最敬礼でお出迎えされ、ゴルフでもさせてくれるのかと思ったけどね…」と
笑っていたが、
現実は厳しく、バブルのはじけた1990年の開業は、最初から大赤字。
派手な設備投資も重荷になり、あっという間に債務超過の四苦八苦。
黒塗りの車もゴルフも、一度として実現しないどころか、
一銭の報酬もなく、阿久さんは、たびたびの取締役会や株主総会に呼び出されていた。
3年後の1993年に、何の因果か、この放送局の立て直しに行って来い、と送り込まれることになった。
阿久さんは、
「僕を会長にしたんだから、君の責任は大きいぞ」
と笑ってから、真顔で
「待ってたんだよ」
とボソッと言った。
阿久さんには、本当に申し訳ないと思っていた。
それから死に物狂いで働いた。
荒療治も行なった。
その都度、阿久さんに報告すると「少しは会社らしくなってきたね」「ご苦労さんだね」などと、かならず声をかけてくれた。
阿久悠記念館には、5回も受賞したレコード大賞の盾やトロフィーや「また逢う日まで」などの歌詞、年表、5000曲に及ぶという曲名などの展示と、伊豆宇佐美にあった自宅の書斎をそっくり再現した部屋が常設されている。
昭和の大作詞家、たぐいまれなヒットメーカー、そして、瀬戸内少年野球団などの小説家…
華々しい活躍の成果が展示されている。
その中の一角に、10月13日に岩波書店から出版されたばかりの「無冠の父」とその直筆の原稿が置かれている。
じつは、この本は出版されてすぐに読んでいた。
この本の末尾に、次のような注記がある。
「『無冠の父』は、阿久悠の手になる長編小説のなかで唯一の未発表作品である。
1993年(平成5)年の9月から11月にかけて執筆され、完成稿が編集者に渡されたが、
改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ、以後、2007年8月に没するまでこの作品についていっさい語ることはなか
った。…」
「改稿を求めた編集者に対して阿久悠は原稿を戻させ…」
とはどういうことなのだろう。
編集者はどこを改めてほしいと言ったのだろうか。
阿久さんは、腹を立てたのだろうか、どうして出版しなかったのだろうか。
本を読みながら、いろいろな思いが湧き上がってきた。
しかしそれはそれとして、阿久さんと同じ年に生まれ、同じ戦中戦後の体験をしてきた自分としては、
どうしても阿久さんの思いに自分を重ねあわせてしまう。
淡路島の駐在所の巡査として、終生一介の巡査として過ごした無冠の父の生きざまを、
少年のまなざしを通して語っている。
父親とは何か、
親子の絆とは何か、
人間の矜持とは何か、
故郷とは何か…
阿久さんが、会長就任を依頼に行った私に
「僕は兵庫県民という意識はあまりないんだよ、淡路島で生まれたのはたしかだけど、故郷という感じではないんだよね」
と何故語ったのか、故郷とはなにか、その答えが、この本にあった。
*「無冠の父」阿久悠 岩波書店刊 1800円+税
深沢は戦前戦後の33年間、警察組織の最低辺の巡査として奉職します。
前回読んだ山口良忠は裁く人でしたが、深沢は取り締まる人でした。
彼もヤミ米には手をつけなかったそうです(ただ妻が上手にやりくりしたようですが)
物語はパリに休暇中の阿久悠の元に寄せられた、父の訃報から始まります。
阿久悠は父のことを思い出します。
父との記憶。
小さな駐在所の巡査としての父、
そして頭頂部に大きな傷痕がある父。
でも父の声だけはどうしても思い出せません。
そして話は今のパリから戦時中の淡路島へ遡ります。
小さな島では、父は唯一の警察官であり、また唯一の国家権力でした。
島民からは「旦那さま」と畏怖心を込めて呼ばれ、少年であった阿久悠も他の子供たちとの間に見えない溝を感じます。
それでも普通の少年として育ち、父と母、姉に妹、そして戦死した兄との淡い思い出が甦ります。
やがて彼も高校生になります。
成績優秀だった少年は、落第生となり映画館に入り浸りの日々を送っていました。
しかし父は彼を咎めません。
卒業後は上京し、父も定年前に退職し、
宮崎で長い隠居暮らしを始めます。
その後の月日は、父親と息子の距離をより一層に離すものでした。
読了後、まず感じたのは父である深沢武吉の諦めです。
単に巡査止まりということではなく、頭のケガのこと、長男を戦死させたこと、
そして時代に器用に合わせて生きられないこと。
ここに嘆き似た諦念を感じます。
彼と対比するかのように、巡査時代の同僚で、終戦後に事業で成功した鶴田という男が登場します。
父は終戦後、淡路島で実直にヤミ物資を取締しまりします。
同僚たちは目こぼしをするのに、彼だけは真面目に取締をしていました。
阿久悠はそんな戦後を次のように見ています。
「終戦になり、よく云う話だが教科書に墨を塗り、幼いながらも世間を見渡すと、およそ理不尽なほどの変貌で、
父は寡黙になり、
巡査は萎え、
先生は豹変し、
一体何をどう信じるべきかを見失った子供たちは、辛うじて、飢餓を条件にしたような自由を取り縋る。
信じると馬鹿を見るから、信じないで済む心構えをまず作ろうと、自衛するのである。
大人たちの、あるいは社会の寡黙、委縮、豹変に対して、子供たちは、どうしたら横着者になれるだろうかと考えるのである。」
(本書240-241頁)
こんな時代の阿久悠少年は、
「私も九歳、十歳、もはや目を光らせて武運長久を祈る軍国少年でもなく、
また、その資質を尊いと思う理由もなく、
ただただ裏切られて狼狽しないことを願って、アホになろうとしていた。」
そんな息子を見て父は、
「何も云わなかった。芝居小屋の少女レビューに連日通っても、映画を見にわざわざ隣り町まで自転車を走らせても、
駐在所の中で流行歌のレコードが鳴り響いても、怒ることはなかった」(本書241頁)と。
秩序が崩壊した時代でのヤミ米の摘発は、馬鹿がつくほどの真面目な行為かもしれません。
しかし、それは遵法精神からではなく、単に時代に合わせられない、悲しいほどの不器用さにある。
そこに私は同情と共に生きることへの悲しみを感じます。
後の父と息子の関係は、お互い対立することもなく、かといって同調することもなく、
よそよそとした関係が続き、ただ、それだけで終わります。
「父と子の間の、おたがい暗黙で作った深い川を中にしたまま、生きてきた。
それがいいと思い、また、父と子はそうあるべきだと、私は思っていた」(本書231頁)
そんな父は定年退職後、在職時の反動があるかのように、何もしない人となります。
父と子の関係を描いた作品は無数にあります。
どれも真実の話なのでしょう。
ただ私には、父の教えとか、父こそが人生の師だったという話。
逆に私が父だったとして、息子や娘らに人生を教えるということにも、違和感を覚えます。
私もきっと不器用な人間なのでしょう。
この物語は著者の生前に発表される予定でしたが、
諸事情により長くお蔵入りしていたそうで
、ようやく陽の目を見たものです。
溢れ返る3・11報道
野田住彦は全国の県に
瓦礫受け入れの文書発送と
11日のニュースにある
汚染列島っ!ここに極まれリ
笑止千万!「みんなの力で瓦礫処理」/田中康夫
新党日本ホームページ 2012年3月8日
http://www.nippon-dream.com/?p=7297
「みんなの力で、がれき処理 災害廃棄物の広域処理をすすめよう 環境省」。
数千万円の税金を投じた政府広報が昨日6日付「朝日新聞」に出稿されました。
それも見開き2面を丸々用いたカラー全面広告です。
“笑止千万”です。
何故って、
環境省発表の阪神・淡路大震災の瓦礫は2000万トン。
東日本大震災は2300万トン。
即ち岩手・宮城・福島3県に及ぶ後者は、被災面積当たりの瓦礫(がれき)分量は相対的に少ないのです。
「静岡や大阪等の遠隔地が受け入れるべきは『フクシマ』から移住を望む被災者。
岩手や宮城から公金投入で運送費とCO2を拡散し、瓦礫を遠隔地へ運ぶのは利権に他ならず。
良い意味での地産地消で高台造成に用いるべき。
高濃度汚染地帯の瓦礫&土壌は『フクシマ』原発周囲を永久処分場とすべき」。
「『広域処理』なる一億総懺悔・大政翼賛の『絆』を国民に強要する面々こそ、地元首長の発言を虚心坦懐に傾聴せよ!」。
ツイッターで数日前に連続投稿した僕は、その中で戸羽太・陸前高田市長、伊達勝身・岩泉町長、両名の“慧眼”発言も紹介しました。
「現行の処理場のキャパシティーを考えれば、全ての瓦礫が片付くまでに3年は掛かる。
そこで陸前高田市内に瓦礫処理専門のプラントを作れば、自分達の判断で今の何倍ものスピードで処理が出来る。
国と県に相談した
ら、門前払いで断られました」。
「現場からは納得出来ない事が多々有る。
山にしておいて10年、20年掛けて片付けた方が地元に金が落ち、雇用も発生する。
元々、使ってない土地が一杯あり、処理されなくても困らないのに、税金を青天井に使って全国に運び出す必要がどこに有るのか?」。
阪神・淡路大震災以前から、産業廃棄物も一般廃棄物も「持ち出さない・持ち込ませない」の域内処理を自治体に行政指導してきた
政府は何故、豹変したのでしょう?
因(ちな)みに東京都に搬入予定の瓦礫処理を受け入れる元請け企業は、東京電力が95.5%の株式を保有する東京臨海リサイクルパワーです。
これぞ産廃利権! 仙谷由人氏と共に東電から献金を受け(朝日新聞1面既報)、
父君が北関東の産廃業界で重鎮の枝野幸男氏、
同じく東電が重用する細野豪志氏に
「李下に冠を正さず」の警句を捧げねば、と僕が慨嘆する所以です。
「復興を進めるために、乗り越えなければならない『壁』がある。」
と件の全面広告には大書きされています。
呵々。
乗り越えるべき「壁」は、「業界の利権が第一。」
と信じて疑わぬ「政治主導」の胡散臭さではありますまいか?!
金メダル野口の走りを見て
爺目ブログ界隈からの引き際を諭された思いー
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ヨロシク ↑ ↑です
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