野田総理、千葉何人目の総理? 修正削除 移動 傑作(0)
2011/8/31(水) 午前 8:42日記練習用 Yahoo!ブックマークに登録 野田佳彦は千葉の生んだ総理大臣
二代目なのか初代なのかでブログが盛り上がっている

鈴木貫太郎がいるので二人目と地元愛で語る
それは違うといわれる
大阪ではないかと・・
日本の歴代総理大臣一覧があるコチラ↓
http://www1.cnc.jp/aisaikaen/012-zatugaku/souri.html
     其れによると
42 鈴木貫太郎 昭和20.4.7~昭和20.8.17 133 77 大阪府
ははぁ~~ん
鈴木貫太郎の出生地は今の大阪府堺市。
ただし、この土地、関宿藩の飛び領地。
で、
関宿町=今の野田市に
鈴木貫太郎記念館ができた。
千葉県出身と勘違い混乱される原因はそのあたりか。

まぁ政治家を輩出してる県ではアル
元・公明党党首神埼 天津市出身 千葉高校→東京大学→公明党党首
現・民主党党首野田 船橋市出身 船橋高校→早稲田大学→民主党党首(総理大臣)
元・共産党党首志井 船橋市出身 千葉高校→東京大学→共産党党首

鈴木貫太郎
千葉の藩士の子で、飛び地である大阪の千葉の藩領で生まれた
千葉が出身。
船橋市民60万を丸ごと納めた千葉4区は日本最大規模の選挙区確か。
総理が出るのも当然ちゃ当然だな ー

野田の辻舌鋒原点はこの駅にあるラシ
駅前大學はNOVA
駅前演説は野田

千葉から輩出したとは言ってもたった一人で
その上村山、宇野、羽田辺りってのは逆に輩出してない方がマシじゃないか
もう涙目。

爺目は千葉に肩入れ
この国、宮崎の人が作ったんだもの。
ウ~ン??
まぁあとで。

歴史的にはこのようである.
千葉県は安房国,上総国,下総国の3国からなる。
房総は海のほうから上総),下総と呼ばれている。
安房の「房」と上総国),
下総国の「総」を組合わせてこう房総と呼ぶ。
古代の房総は,総国(ふさのくに)とよばれていた。
総国は二つに分けられ,南部に上総国,北部に下総国が成立した。
特に麻がよくとれることから総(ふさ)の国と名付けられた。
総の国は都に近い方が上総,遠い方が下総と呼ばれた。
安房地方は,阿波国の海洋部族である斎部氏が移民して新たな国を造ったとの史実がある。
つまり,千葉県人の先祖は徳島県人ということ。
これを語るものとして,両地方の地名や方言にも共通性がみられる。
安房には,おおらかな南国気質が今でも残る。
民謡「安房節」は,県南の女性の情の深さを歌っている
“背戸の菜畑で話したことを,
   うぬしゃあじゅしてくれるのか”
東京に隣接する県西部上総や北部の下総地域は,東京のベッドタウン化が進み,郷土意識は崩れつつある。
郷土意識を持たない新住民は,
当時の言葉でいうところのゴーイングマイウェイの生き方は「チバリーヒルズ」といった言葉を生み出した。
 
九十里には鰯を迫って大阪や和歌山の人々が移住しているし,
銚子市に住む和歌山県人の末裔は,いまでも毎年夏になると,先祖の墓参りに戻る人たちがいるという。
安房郡,夷隅(イスミ)郡は三重県の志摩半島,静岡県の伊豆半島とともに,海女の活躍する地域である。
女性が活躍するエリアに共通して,
家庭内での女性がサイフを握り,その発言権もきわめて強いことがあげられる。
07年実施の第33回県政に関する世論調査によると,
「千葉県に住み続けたい」が65.6%,
「千葉県以外に移りたい」が5.6%

この国はホンノわずかの太陽暦143年でしかない。
瑞穂の国ゆえ太陰暦のお月様が支配する国。
日向の国では明日のお天道様事情からして一日早いお月様を一人お祝いしている。
まんま~るは浅っぽい知識の一茶像なんだろうが
本来は若き頃の放蕩生活と謂われながら老いては生地信州に帰り
厳しき財産争いを勝ち抜いた長男たる個人事情にあった一茶を小説で読んだ。
現代人は二面性タル一茶の現実は見ない好々爺の像を留め置いてんであろう。
その視点を入れるとこの名句も霞んで見える。
最後を「我が子かな」とどうしても詠んでしまう頑固な爺目に呆れている。

名月を 取つてくれろと 泣く子かな

国家とはなにか。
削ぎ落とせば国防と外交に収斂される。
さらにその国家の本性とはなにか
徴税権と逮捕権にある。
いまその国家の基本がガタガタズタズタになりつつある。
国家が溶解しつつある。

菅内閣は本家をたどれば社会党分派 社民連と民社党内閣。
菅家は古く勤王家。
武術にも優れていた。
それが
核兵器爆発での放射能拡散隠しで
国家の信頼をメチャクチャにした

日向の霊験名高い鵜戸神宮では能楽堂を利用して高座をもった。
柳家小さんの弟子宮崎新富町の出・さん枝師。

この鵜戸神宮の裏の巨大な石畳に脚組みし剣聖達は悟りを開いた。

千葉の香取郡多古町多古。
ここに天真正伝香取神道流の開祖となる飯篠家直が鎮座する。
60歳で入道してから長威斉と名乗る。
『兵法とは平和の法なり!』。
戦乱の世ゆえに生まれた平和剣法
きわめて弁証法的でアル

千葉県指定の無形文化財の誇る600年の歴史を持つ天真正伝香取神道流
連綿と続く日本武道の源流の一つ。
その技と精神は代々の門下に受け継がれ、長い歴史の中で語られる。

新陰流の開祖上泉伊勢守信綱、
鹿島の塚原土佐守とその子卜伝、
豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛など、
剣聖といわれる傑出した武道家を輩出

また、宮本武蔵も神道流の道場を訪ねたと伝えられている。
この天真正伝香取神道流を起こしたのが、
下総国飯篠村、現在の多古町に生まれた飯篠長威斎家直。

ときは1455年(室町時代中期)。
多古町一帯が千田 荘と呼ばれていた戦乱の世、のちに「千葉家騒動」として伝わる騒動がきっかけとなり、
家直は天真正伝香取神道流を起こす。

決まった「型」のなかった武術の世界に、
くさり鎌、棒術、薙刀、槍、小太刀、二刀流など百般にわたる武道の原型をつくりました。

「真実の武道は人の心にあり、人の道である。
心の中が善であれば、武芸は人を助け世の中を平和にする。
したがって自分自身を完成された人間に近づく努力をしなければならない」

と門人たちにさとし、心身鍛練の術として武士から庶民まで広く教えた。

晩年家直は、生家の近くに如意山地福寺を創建
その2年後、102歳で大往生をとげた。

悟りを開いたのは
日向の地鵜戸神宮の巨石のうえ。

薩摩の支藩ゆえそのDNAをそれとなく生活に思考法に受け継いでいる。

読書も夢中無為になれる作家群
司馬遼太郎「北斗の人」、講談社
津本陽:「千葉周作」(上・下)、角川書店
山岡荘八:「千葉周作」(1,2)、講談社
千葉周作の父・成胤は
千葉県松戸市、馬医者を開業する。
水戸藩前藩主の徳川斉昭より召し抱えられた。

千葉県は元は、房総三国、すなわち律令制以来の上総国・安房国・下総国の一部

、葛飾郡は東京になり、そのほか埼玉千葉茨城と割譲された。

千葉の歴史は古く
、『日本書紀』と『古事記』の両書には、応神天皇由来がある。
縄文出土も豊富。

千葉の初代知事は宮崎の人である。
千葉県初代知事は柴原和:1873年6月15日-1880年3月8日(権令→県令)と成っていようが
歴史の間違い。

その前の混沌としてた頃の千葉の歴史が欠落している。
千葉の人調べてください!

千葉県初代知事は宮崎国富の人・ 水筑周一である

大分県日田豆田には九州の天領地を支配する代官所があった。
又ここには全国一の規模の塾があった。
咸宜園(かんぎえん)1897年(明治30年)まで存続した。
延べ4000人を超える入門者があり江戸時代の中でも日本最大級の私塾。
出身者には、高野長英や大村益次郎、の名もある。

広瀬淡窓(1782~1856)が塾を主唱。
淡窓の後、弟の広瀬旭荘や、林外、青邨などが塾主を務めた
広瀬大分県知事は末裔。

日向人入門は1811年からで、1885年(明治18年)
までに62名
延岡19幕府領23
高鍋5名
佐土原5名
飫肥5名
外4
本庄16名
幕府領23名のうち16名は実に多い。

その一人高妻五雲は六日町医者・秀庸ノ子
秀庸は大塩平八郎とも親交があった。
高妻は筆塚に祭られている。

16名の入門者に水筑周一の名がある。
元は秋月藩で事情で国富本庄に住んだ。
別の名を秋月橘門(1809~1880)といった。

咸宜園の塾頭をつとめ、佐伯藩藩校・四教堂の先生となる。

明治期に新政府に指名され、たのか、名前が出てくる。

下総国内の旧幕府領を管理するために下総知県事と
を設けた(知県事熊本藩士佐々布直武→12月17日以後佐伯藩士水築之龍)。
とある。

明治2年1月13日に下総知県事に代わって本格的な行政組織として設置されたのが
葛飾県である。

知事は設置されずに初代の権知事には水築之龍が任命され、
県庁は東京に近い江戸川河畔の葛飾郡加村に設置され、県名もその郡名に基づいて定められた。

東京女子高等師範(現御茶ノ水)校長
貴族議員を務めた。
佐伯市養賢寺に眠る。

白状するとジャーナリスト矢野龍溪(旧佐伯藩士であった父の矢野光儀)と間違い夜半苦労した。

これまで何度と爺目はアップしている。
国富町の古刹
2007年8月16日
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:VOVhei5A0sEJ:36488.diarynote.jp/%3Fday%3D20070816+site:http://diarynote.jp/+%E5%8D%83%E8%91%89%E5%88%9D%E4%BB%A3%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%80%80%E3%81%9B%E3%81%8D%E3%82%84%E3%82%93&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja
国富町本庄・和泉屋・日高圃友(1745~1811)長男習之(1778~1845)
父子の名が残る。
習之は句集「雁のわかれ」を編んだ。

白鷺も首のす雁の別れかな
城跡の哀れに広し冬の朝
我が物とすれば少なし虫の声
初時雨油売り一人走りけり

「いや~トウッ!」
「チェスドーッ!」

一撃必殺の魔剣・薩摩示現流は幕末この国を席巻した。
示現流の名づけ親は宮崎の人・南浦文之(なんぽぶんし)=南浦玄昌は僧であり薩摩藩の学問の師文之和尚は弘治元年(1555年)日向国飫肥南郷の外浦(とのうら-現宮崎県南郷町アジア優勝西武キャンプ地大リーガー松坂のよりどころ)
何度かアップしている。

京都のお公家さんには裏切りを平気でする風土なんだろうか。
前原政審会長に一日だけでもイイ
剣聖達の教えを受けるがいい。
趣味の列車旅行体験での政審会長のイスではなかろうに。
売国奴にはムリか?
国難に立ち向かえ!

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