今日の誕生日の花は・・・・ニチニチソウ
花言葉は・・・・・・楽しい思い出、友情
日々草はキョウチクトウ科の一年草。
マダガスカル原産で熱帯各地宮崎でも野生、宿根草化する。
色は白、ピンク、赤、赤紫などがあり中心だけ色が違うものもある。
初夏から晩秋まで次々に咲くので「日々草」。
こぼれ種でも増え観賞用に栽培されるが抗がん剤の原料ともされる。
ただ脱毛などの副作用・毒性があるので素人の利用は危険。
たんに食すると嘔吐や下痢程度では済まないことになる。
杉良助NHK文化教室の講師でさいたまアリーナ教室も担当されてる
漆黒の 和牛ちらばる 夏野かな
NHKラジオ深夜便須磨佳津江アンカー教える今日の一句
子規庵を 訪ふひと絶えず 日々草
杉良助
大震災の復興の最中、エライことしてくれる
隣国韓国と、なんとなくきな臭いに火をつけた.
「北」の防波堤の役割も裏にアル韓国。
いいではないか。
政治家が今なすべきこと.
優先順位が違ってないか.
自民党の新藤義孝、稲田朋美両衆院議員と佐藤正久参院議員は、
日本固有の領土竹島の韓国占有状態が許せぬらしいー
そこまでは爺目もおなじ立場にアル。
元総理安倍普三の大学時代の家庭教師の平川勝栄議員は予定のみで
何故か参加しなかったようだ.
鬱陵島(ウルルン)視察入国拒否 自民3議員帰国 松本外相が抗議
鬱陵島視察入国拒否 自民3議員帰国 松本外相が抗議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110802-00000086-san-pol
日本の2011年版防衛白書に竹島(韓国名・独島)は日本固有の領土との記述が盛り込まれたことについて
「強力に抗議し、直ちに是正することを要求する」との論評を発表した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110802-00000096-jij-int
ラジオが沸いている
爺目脳髄にメラメラと火をつけた
3日1:00~2:00
明日へのことば・アンコール
「辛亥革命を支えた曽祖父と私」
孫文と梅屋庄吉研究センター顧問…小坂文乃
香港で成功した写真屋梅屋は孫文の活動を助け関係する書物にも触れた。
「革命をプロデユースした日本人」というこの人の著作も既刊。
図書館にアル。
お話しに感動し思い巡らせた.。
3日 4:00~5:00
▽インタビュースペシャル
「ヒロシマを描き続けて」
イラストレーター黒田征太郎
六甲山中腹高台で大阪炎上B29を綺麗に見てる
神戸に疎開での空襲の体験
野坂昭如作品ほたるかわの舞台。
滋賀に疎開途中
大阪駅でケロイドに蛆虫の御座に座ってる女の群れ
声が聞こえる
「新型爆弾やでぃ」
いずれアップしたい
三名の自民議員、なにも見えてない
全国に出回る眼鏡は福井鯖江製品であるわけだが
ここの眼鏡を誂えるをお勧めする。
さすれば、少しは列島を巡る領土問題で取り組まねば鳴らぬ事が見えてこよう。
もっと広大なる領海の問題がアル。
石油資源確保は海底に向いている.
南進せよっ!
奥寺 淳(1971年~)は愛媛のひと。
産経新聞を経て96年に朝日新聞に移り、仙台、さいたま総局、
大阪本社と東京本社の経済部、中国留学を経て、08年4月から香港支局長。
大学時代からアジアに恋い焦がれ、時間さえあればリュックを背負って旅に出た。
このひとが三人の議員以上のことをしてる
台湾は、南沙諸島の島々も実効支配している。
空から立派な滑走路が写っている写真がアル。
「西沢島」サンゴの海に紛争は似合わない(台湾発) 8/08/02
詳しくはコチラ↓に記事がある。
https://aspara.asahi.com/blog/tokuhain/entry/DWEfuEGSfz
このブログでは触れてないこと.
ただ「西沢島」の固有名詞は使ってるので事情を配慮してるのだろうか
実はココは西沢島の名がアル。
西沢島
これがアチコチと繋がりがアル。
もちろん松山ともー
上野の小山を北に下ると子規の暮らした子規庵がアル。
途中落語界の人脈を誇る林家三平師の三平堂は直ぐ近く。
正岡の家は妹の律が継ぎ、律も子なきゆえ養子をとる。
松山のひとで従兄弟の忠三郎。
司馬遼太郎の著作にアル
ひとびとのあし音(上)中公文庫1983年刊行
あらすじ・・は・・
タクシーに乗った司馬遼太郎が阪急本社を探すところから物語はスタート。
かって京大を経て阪急に勤めていた忠三郎という人物を調べるためで、
この人物が正岡子規の養子忠三郎。
正岡子規や秋山兄弟の名前が出てくる「坂の上の雲」別版でとっても面白い。
3年がかりのNHK大作放映が近づいてる
コチラのほうが原作に近い
そこには正岡子規を看病した妹の律のその後や、秋山家の話等、皆、司馬遼太郎が知り合った人々の物語。
正岡子規の養子:忠三郎は昭和51年没、
ココに登場される人々の皆さん、歴史の証人でこの本が出る少し前まで存命だったー。
正岡子規の養子であった忠三郎
その友人が出てくる。
この作品は司馬遼太郎が描く英雄・豪傑の物語と異なり、
親友の正岡忠三郎と西沢隆二(1903年11月18日 - 1976年9月18日)の両名と各々の家族など周辺の身近な市井の人々の生死を描いたもの。
これらのいわば、無名の人々が、女性を含め、英雄豪傑のように生き生きとして、愛情をもって描かれている。
個性的な大正・昭和のロマンが香るその背景さえ感じる。
雁字搦めの東大一直線社会の平成の御世のとりわけ政治の貧困性との差もこのあたりで感じ取れる。
正岡忠三郎は、忠三郎と書かれている
西沢隆二のほうは、漢字でなく、カタカナで「タカジ」。
隆二はよく「リュウジ」と読むことが多い。
野球チームに一人足りない末っ子の爺目、直兄は隆の名を持つタカジと読む。
きかんぼーの弟は「タカシロビキ」やぁーぃ」と揶揄し毎日喧嘩のタネに使ったものだ。
ところで西沢隆二でなくペンネーム「ぬやまひろし」と聞いて驚かれよう。
労農派の立ち位置の爺目とは相対立する
講座派系列に連なるナップやコップ戦旗掲載の作品群を追った時期がある.
そこに宮本顕一やより子以上に「ぬやまひろし」のネームバリューで記憶にアル。
1930年に日本プロレタリア作家同盟=ナルプ書記長
エスペラントでの表記はNUJAMA HIROjI。
筆名の由来は、「のやまひろし」をエスペラントで表記したとき、
「のやま」が「ぬやま」と聞こえることに由来している。
大正時期に花開いた非共産系のプロレタリア文学で仏国クラルテ運動の創始者金子洋文小近屋小牧
「種播く人」を秋田に訪ねたことがアル。
墓参もさせていただいて画家で県会議員の種播く人顕著会会長さん宅でお世話になった.
詩人でペンネームは「ぬやまひろし」。
共産党員であるが除名されても戦中は獄中で転向せず12年間過ごす。
戦後、徳田球一の娘婿の関係もあり活動する
歌と踊りを活動に結びつける独自な運動を展開。
「ダンス至上主義」「歌う(踊る)共産党」と相対立するゆえ揶揄したものだー。
WIKIでも教えてくれる
党中央委員なども務め、レッドパージ後に徳田ら所感派が中華人民共和国に渡って北京機関を組織したときには西沢もその一員となった。
しかし、西沢は宮本顕治らの国際派への妥協を唱えて徳田と対立、
徳田からは義絶を宣言された。
西沢は野坂参三に接近、徳田が病気で昏睡状態になったあとに野坂とともに伊藤律を除名・幽閉した。
徳田が余命幾ばくもないことを知った西沢は後継者について
「宮本顕治は組織活動が全くわからず、志田重男は文化問題がわからない」
として二人の協力による体制作りをすることを考えたと後に記している。
この路線は1955年の日本共産党第6回全国協議会で実現する。
その後、日中共産党の路線対立の際に、党の組織方針に従わずに除名され、
福田正義ら率いる日本共産党(左派)に参加。
毛沢東思想研究会を設立し、同会の機関誌毛沢東思想研究編集人となった。
詩人としては戦前から堀辰雄・中野重治・佐多稲子らとともに「驢馬」の同人、
獄中で綴った詩を戦後公刊した詩集『編笠』で頭角をあらわす。
「若者よ」「われらの仲間」・・・
「歌う共産党」時代につくられた歌曲の作詞者。
正岡忠三郎との交流子規研究から講談社版の『子規全集』の編集委員にも名を連ねている。
また敗戦から間もない時期に、夫婦で腕を組んで歩き、年齢に関係なく名前で呼び合っていた。
一時期、イタリア共産主義の影響も受け、実子に「ミラノ」「ナポリ」というふうに、イタリアの地名をもって命名
した。長女・長男は共に子役で、映画「姉妹」に出演してる。
宮本顕治 - 蔵原惟人を罵倒した詩を多数執筆し意見諸問題で除名される。
不屈の信念を貫いた
何故為しえたか
DNAであろう。
司馬遼太郎とタカジの関係はこの「ひとびとのあし音」の作品にもある。
ところで西沢隆二の、その親父が西沢吉治。次男である。
西沢吉治ほどの器の稀な実業家はなかろう
実に豪快な人物はDNAゆえか。
幕末四賢公、松平春嶽(越前)・伊達宗城(伊予)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)の英君
その春嶽公のお国、福井鯖江のひと。
西沢吉治は明治5年にココで生まれた。
明治40年の時に香港沖の無人島に上陸して西沢島と名付け、
生活設備を持ち込んでリン鉱石を採掘、販売。
それも独立国である.
西沢島憲章のもと紙幣も発行され300名ほどが島で暮らしたー。
電話線も、トロッコも、地下の水道管も敷設された。
一つの国家を夢見たのであろうか。
燐が豊富でこれで利益を上げた。
当時、海にあまり関心がなかった大陸国家の清国政府もこれに気がつき、翌年、日本政府に抗議が来た。
交渉の末、すでに日本人の活動実体があるので、清国が買収して正式に清国領土にすることになった。
日本側は島の値段を決めるため、国勢の弱くなっている清国への脅しもあったのか、
軍艦三隻でこの島に来た。
三隻のうち『明石』の艦長は鈴木貫太郎大佐=後に海軍大将、太平洋戦争終結のとき内閣総理大臣である。
結局、38万円として評価して清国も日本の言い値で承知した。
現在の貨幣価値にすると10数億円程度になろうか。
ただ西沢吉治の手元に残ったのは10万6千円ー
、投資した資本よりはるかにすくなく、大きな損失ー。
この島は、現在は台湾領の東沙諸島にある東沙島。
1939年に日本軍が占領し、飛行機の滑走路を作った。
太平洋戦争後、蒋介石政権のものとなり、現在も台湾領となっているー。
東沙島には空港が設置され中華民国軍のC-130輸送機と立栄航空のチャーター便が毎週木曜日に、高雄国際空港から1便運行されている。
東沙空港の滑走路は約1,500mであり、現在島と本島を連絡する重要な交通手段である
余談がアル
逸見厚は、平成11年頃、サラリーマンをやめ、古物商を開業するため、商品の買い付けをしていた。
その頃、神奈川県の骨董市で、いろいろなものが入っているダンボール箱を買った
、そこに三つ折になっていた1枚の「西澤島五圓通用引換券」があった。
明治40年西澤商店発行とあった。
「西澤島」を地図で調べたがない
ゆえにそのままになっていた。
その後、神奈川の相模原市に「雅楽多堂」を開店、9年たった一昨年の春、
この通用券を入札に出品しようと思い、インターネットで検索をした。
そこで初めて全体像が分かった。
引換券の知的街道の一連の物語は、「非売品」として「雅楽多堂」のパンフレットになっている。
ここには、ここを取材した、愛媛のひと奥寺 淳特派員の記事と島の写真もある。
札は復刻版で売りに出されるのだろうか。
五圓というと、現在の価値からすると、10万円くらいになろうか。
壱圓券もあったのだろうか。
何故、五圓の1枚が残っていたのだろうか。
三隻のもう一隻
「音羽」艦長が秋山真之で、秋山家との親交はこの頃から始まる。
結局金銭で売リ渡された、西沢吉治は前述のとおり大損。
ところが、めげない人で、今度は南方の開発に行ったり、そこが駄目ならと
大正10年にはウラジオストックにシベリア開発会社を作る。
樺太の北半分に西沢領と書き込んでいるゆえ、もう一度独立国家を作るつもりだったことが伺える。
経緯はコウだ.
このときの事件で始まった海軍との交際から1914年(大3)の第一次世界大戦を契機にふたたび吉治にチャンスが回ってくる。
すなわち、「タカジが中学校一年、忠三郎さんが二年のときに、日本が第一次大戦――日本側は日独戦争とよんでいた――に参戦し、多分に欧州のどさくさにつけ入るようなかたちで、アジアのドイツ領や権益をおさえたとき、
海軍はドイツ領南洋諸島を占領した」。
その中に燐鉱石が産出されるアンガウル島があった
海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の吉治
「資金については、この当時、大正の船成金の象徴的人物といわれた内田信也から出た」。
しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」
ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となった。
こうして挫折したかに見えた吉治の事業は、司馬が
「古風な表現でいえば涜武の典型」であり、「国家的愚挙のはじまりであった」と厳しく批判したシベリア出兵1918年のときにもう一度だけ希望がみえたかに思えた。
すなわち、吉治はこれに乗じて「シベリア開発会社」を設立
「吉治の沿海州・樺太の夢も、反革命軍の崩壊と大正十一年の撤兵によってやぶれた」
「吉治の生涯は、噴火口から噴出する熱いガスのなかで熱気球を挙げようとする図に似ていた。
たかく太虚に舞いあがっては、気球が破裂して墜落してゆく」
と記した。
タカジや忠三郎たち大正の若い知識人が、海外へと「膨張」を続ける日本の将来に抱いた不安は大きかったのであり、このような時代に青春を送っていたタカジは二高を落第したのちに東京で、詩人たちの同人誌「驢馬」の会に近づき、次第に革命家へと変貌していくことになる。
司馬はその変貌の過程を「阿佐ヶ谷」の章で描く、
その前の一連の章で子規に強い影響を与えた叔父・加藤拓川と陸羯南の人物と思想に触れている。
司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で
「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」
と記していたことに注意を促して、
「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。
大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として、
「日本魂」育成の必要を説く。
破天荒と言うか鉱山師的山っ気もあるが明治期の英傑のひとりである。
なでしこジャパンが2日国民栄誉に輝いたが
大震災、四つの隣国とあつれきのに鑑み、この人こそ国民栄誉賞モンだろうて。
これらの話に関する
世界遺産の小笠原諸島、藤原文化も関係することもあるが
いずれアップした.
実は肝心の三男坊が漏れてた.
宮崎の茶臼原大地に世界の孤児の父石井十次の偉業の施設は今も活動している.
その茶臼原大地は国営畑潅すい事業4200へクタールで日本有数の事業が為された.
ここに日本一の理論家が実践された.
父の果たされた偉業の南洋のリン肥料財は時代の差で来てない。
なんどかこのブログでもアップしている.
農業先進の知能部分のJA理論誌「家の光」の理論的支柱・松丸志摩三1907-197311月7日である。
時代が農学部に優秀な頭脳が集まる頃の指導的立場の全国一の農事評論家。
東大を経て朝鮮総督府畜産技師,同畜産課長をつとめ,戦後は評論活動のかたわら千葉,静岡,宮崎の各県で,酪農事業と「新しい村づくり運動」の指導をおこなった
この人は幼少名は西沢志摩三。
松丸家に養子で家を継いだ。
この西沢吉治の三男でアル。
西沢隆二「ぬやまひろし」は実兄
と聞いて驚かれよう。
一面いっぱいの何万本の水仙がご自宅周りに咲き誇る不思議な夢の光景が忘れられない.
貴賓溢れる奥様は健筆を振るわれご健在
何処かの総理夫人の「泣く大臣は首、あなたも泣いたら離婚」
伸子夫人にご紹介したイぐらい.-
あれっ?不敬罪っ!、
そうじゃぁないだろ毎夜の狂乱食事ゆえ
不経済ー
児湯郡高鍋町ナゾの里の会でご活躍、地元新聞投稿常連ナゾ知る人ゾ知る有名人。
果たしてご主人のDNAが福井発にアルのをご存知かどうかは聞いていないー
九州ブログ 宮崎参加!
よろしくお願いいたします。
↓ ↓
http://localkyushu.blogmura.com/miyazaki_town/
↑ ↑
花言葉は・・・・・・楽しい思い出、友情
日々草はキョウチクトウ科の一年草。
マダガスカル原産で熱帯各地宮崎でも野生、宿根草化する。
色は白、ピンク、赤、赤紫などがあり中心だけ色が違うものもある。
初夏から晩秋まで次々に咲くので「日々草」。
こぼれ種でも増え観賞用に栽培されるが抗がん剤の原料ともされる。
ただ脱毛などの副作用・毒性があるので素人の利用は危険。
たんに食すると嘔吐や下痢程度では済まないことになる。
杉良助NHK文化教室の講師でさいたまアリーナ教室も担当されてる
漆黒の 和牛ちらばる 夏野かな
NHKラジオ深夜便須磨佳津江アンカー教える今日の一句
子規庵を 訪ふひと絶えず 日々草
杉良助
大震災の復興の最中、エライことしてくれる
隣国韓国と、なんとなくきな臭いに火をつけた.
「北」の防波堤の役割も裏にアル韓国。
いいではないか。
政治家が今なすべきこと.
優先順位が違ってないか.
自民党の新藤義孝、稲田朋美両衆院議員と佐藤正久参院議員は、
日本固有の領土竹島の韓国占有状態が許せぬらしいー
そこまでは爺目もおなじ立場にアル。
元総理安倍普三の大学時代の家庭教師の平川勝栄議員は予定のみで
何故か参加しなかったようだ.
鬱陵島(ウルルン)視察入国拒否 自民3議員帰国 松本外相が抗議
鬱陵島視察入国拒否 自民3議員帰国 松本外相が抗議
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110802-00000086-san-pol
日本の2011年版防衛白書に竹島(韓国名・独島)は日本固有の領土との記述が盛り込まれたことについて
「強力に抗議し、直ちに是正することを要求する」との論評を発表した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110802-00000096-jij-int
ラジオが沸いている
爺目脳髄にメラメラと火をつけた
3日1:00~2:00
明日へのことば・アンコール
「辛亥革命を支えた曽祖父と私」
孫文と梅屋庄吉研究センター顧問…小坂文乃
香港で成功した写真屋梅屋は孫文の活動を助け関係する書物にも触れた。
「革命をプロデユースした日本人」というこの人の著作も既刊。
図書館にアル。
お話しに感動し思い巡らせた.。
3日 4:00~5:00
▽インタビュースペシャル
「ヒロシマを描き続けて」
イラストレーター黒田征太郎
六甲山中腹高台で大阪炎上B29を綺麗に見てる
神戸に疎開での空襲の体験
野坂昭如作品ほたるかわの舞台。
滋賀に疎開途中
大阪駅でケロイドに蛆虫の御座に座ってる女の群れ
声が聞こえる
「新型爆弾やでぃ」
いずれアップしたい
三名の自民議員、なにも見えてない
全国に出回る眼鏡は福井鯖江製品であるわけだが
ここの眼鏡を誂えるをお勧めする。
さすれば、少しは列島を巡る領土問題で取り組まねば鳴らぬ事が見えてこよう。
もっと広大なる領海の問題がアル。
石油資源確保は海底に向いている.
南進せよっ!
奥寺 淳(1971年~)は愛媛のひと。
産経新聞を経て96年に朝日新聞に移り、仙台、さいたま総局、
大阪本社と東京本社の経済部、中国留学を経て、08年4月から香港支局長。
大学時代からアジアに恋い焦がれ、時間さえあればリュックを背負って旅に出た。
このひとが三人の議員以上のことをしてる
台湾は、南沙諸島の島々も実効支配している。
空から立派な滑走路が写っている写真がアル。
「西沢島」サンゴの海に紛争は似合わない(台湾発) 8/08/02
詳しくはコチラ↓に記事がある。
https://aspara.asahi.com/blog/tokuhain/entry/DWEfuEGSfz
このブログでは触れてないこと.
ただ「西沢島」の固有名詞は使ってるので事情を配慮してるのだろうか
実はココは西沢島の名がアル。
西沢島
これがアチコチと繋がりがアル。
もちろん松山ともー
上野の小山を北に下ると子規の暮らした子規庵がアル。
途中落語界の人脈を誇る林家三平師の三平堂は直ぐ近く。
正岡の家は妹の律が継ぎ、律も子なきゆえ養子をとる。
松山のひとで従兄弟の忠三郎。
司馬遼太郎の著作にアル
ひとびとのあし音(上)中公文庫1983年刊行
あらすじ・・は・・
タクシーに乗った司馬遼太郎が阪急本社を探すところから物語はスタート。
かって京大を経て阪急に勤めていた忠三郎という人物を調べるためで、
この人物が正岡子規の養子忠三郎。
正岡子規や秋山兄弟の名前が出てくる「坂の上の雲」別版でとっても面白い。
3年がかりのNHK大作放映が近づいてる
コチラのほうが原作に近い
そこには正岡子規を看病した妹の律のその後や、秋山家の話等、皆、司馬遼太郎が知り合った人々の物語。
正岡子規の養子:忠三郎は昭和51年没、
ココに登場される人々の皆さん、歴史の証人でこの本が出る少し前まで存命だったー。
正岡子規の養子であった忠三郎
その友人が出てくる。
この作品は司馬遼太郎が描く英雄・豪傑の物語と異なり、
親友の正岡忠三郎と西沢隆二(1903年11月18日 - 1976年9月18日)の両名と各々の家族など周辺の身近な市井の人々の生死を描いたもの。
これらのいわば、無名の人々が、女性を含め、英雄豪傑のように生き生きとして、愛情をもって描かれている。
個性的な大正・昭和のロマンが香るその背景さえ感じる。
雁字搦めの東大一直線社会の平成の御世のとりわけ政治の貧困性との差もこのあたりで感じ取れる。
正岡忠三郎は、忠三郎と書かれている
西沢隆二のほうは、漢字でなく、カタカナで「タカジ」。
隆二はよく「リュウジ」と読むことが多い。
野球チームに一人足りない末っ子の爺目、直兄は隆の名を持つタカジと読む。
きかんぼーの弟は「タカシロビキ」やぁーぃ」と揶揄し毎日喧嘩のタネに使ったものだ。
ところで西沢隆二でなくペンネーム「ぬやまひろし」と聞いて驚かれよう。
労農派の立ち位置の爺目とは相対立する
講座派系列に連なるナップやコップ戦旗掲載の作品群を追った時期がある.
そこに宮本顕一やより子以上に「ぬやまひろし」のネームバリューで記憶にアル。
1930年に日本プロレタリア作家同盟=ナルプ書記長
エスペラントでの表記はNUJAMA HIROjI。
筆名の由来は、「のやまひろし」をエスペラントで表記したとき、
「のやま」が「ぬやま」と聞こえることに由来している。
大正時期に花開いた非共産系のプロレタリア文学で仏国クラルテ運動の創始者金子洋文小近屋小牧
「種播く人」を秋田に訪ねたことがアル。
墓参もさせていただいて画家で県会議員の種播く人顕著会会長さん宅でお世話になった.
詩人でペンネームは「ぬやまひろし」。
共産党員であるが除名されても戦中は獄中で転向せず12年間過ごす。
戦後、徳田球一の娘婿の関係もあり活動する
歌と踊りを活動に結びつける独自な運動を展開。
「ダンス至上主義」「歌う(踊る)共産党」と相対立するゆえ揶揄したものだー。
WIKIでも教えてくれる
党中央委員なども務め、レッドパージ後に徳田ら所感派が中華人民共和国に渡って北京機関を組織したときには西沢もその一員となった。
しかし、西沢は宮本顕治らの国際派への妥協を唱えて徳田と対立、
徳田からは義絶を宣言された。
西沢は野坂参三に接近、徳田が病気で昏睡状態になったあとに野坂とともに伊藤律を除名・幽閉した。
徳田が余命幾ばくもないことを知った西沢は後継者について
「宮本顕治は組織活動が全くわからず、志田重男は文化問題がわからない」
として二人の協力による体制作りをすることを考えたと後に記している。
この路線は1955年の日本共産党第6回全国協議会で実現する。
その後、日中共産党の路線対立の際に、党の組織方針に従わずに除名され、
福田正義ら率いる日本共産党(左派)に参加。
毛沢東思想研究会を設立し、同会の機関誌毛沢東思想研究編集人となった。
詩人としては戦前から堀辰雄・中野重治・佐多稲子らとともに「驢馬」の同人、
獄中で綴った詩を戦後公刊した詩集『編笠』で頭角をあらわす。
「若者よ」「われらの仲間」・・・
「歌う共産党」時代につくられた歌曲の作詞者。
正岡忠三郎との交流子規研究から講談社版の『子規全集』の編集委員にも名を連ねている。
また敗戦から間もない時期に、夫婦で腕を組んで歩き、年齢に関係なく名前で呼び合っていた。
一時期、イタリア共産主義の影響も受け、実子に「ミラノ」「ナポリ」というふうに、イタリアの地名をもって命名
した。長女・長男は共に子役で、映画「姉妹」に出演してる。
宮本顕治 - 蔵原惟人を罵倒した詩を多数執筆し意見諸問題で除名される。
不屈の信念を貫いた
何故為しえたか
DNAであろう。
司馬遼太郎とタカジの関係はこの「ひとびとのあし音」の作品にもある。
ところで西沢隆二の、その親父が西沢吉治。次男である。
西沢吉治ほどの器の稀な実業家はなかろう
実に豪快な人物はDNAゆえか。
幕末四賢公、松平春嶽(越前)・伊達宗城(伊予)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)の英君
その春嶽公のお国、福井鯖江のひと。
西沢吉治は明治5年にココで生まれた。
明治40年の時に香港沖の無人島に上陸して西沢島と名付け、
生活設備を持ち込んでリン鉱石を採掘、販売。
それも独立国である.
西沢島憲章のもと紙幣も発行され300名ほどが島で暮らしたー。
電話線も、トロッコも、地下の水道管も敷設された。
一つの国家を夢見たのであろうか。
燐が豊富でこれで利益を上げた。
当時、海にあまり関心がなかった大陸国家の清国政府もこれに気がつき、翌年、日本政府に抗議が来た。
交渉の末、すでに日本人の活動実体があるので、清国が買収して正式に清国領土にすることになった。
日本側は島の値段を決めるため、国勢の弱くなっている清国への脅しもあったのか、
軍艦三隻でこの島に来た。
三隻のうち『明石』の艦長は鈴木貫太郎大佐=後に海軍大将、太平洋戦争終結のとき内閣総理大臣である。
結局、38万円として評価して清国も日本の言い値で承知した。
現在の貨幣価値にすると10数億円程度になろうか。
ただ西沢吉治の手元に残ったのは10万6千円ー
、投資した資本よりはるかにすくなく、大きな損失ー。
この島は、現在は台湾領の東沙諸島にある東沙島。
1939年に日本軍が占領し、飛行機の滑走路を作った。
太平洋戦争後、蒋介石政権のものとなり、現在も台湾領となっているー。
東沙島には空港が設置され中華民国軍のC-130輸送機と立栄航空のチャーター便が毎週木曜日に、高雄国際空港から1便運行されている。
東沙空港の滑走路は約1,500mであり、現在島と本島を連絡する重要な交通手段である
余談がアル
逸見厚は、平成11年頃、サラリーマンをやめ、古物商を開業するため、商品の買い付けをしていた。
その頃、神奈川県の骨董市で、いろいろなものが入っているダンボール箱を買った
、そこに三つ折になっていた1枚の「西澤島五圓通用引換券」があった。
明治40年西澤商店発行とあった。
「西澤島」を地図で調べたがない
ゆえにそのままになっていた。
その後、神奈川の相模原市に「雅楽多堂」を開店、9年たった一昨年の春、
この通用券を入札に出品しようと思い、インターネットで検索をした。
そこで初めて全体像が分かった。
引換券の知的街道の一連の物語は、「非売品」として「雅楽多堂」のパンフレットになっている。
ここには、ここを取材した、愛媛のひと奥寺 淳特派員の記事と島の写真もある。
札は復刻版で売りに出されるのだろうか。
五圓というと、現在の価値からすると、10万円くらいになろうか。
壱圓券もあったのだろうか。
何故、五圓の1枚が残っていたのだろうか。
三隻のもう一隻
「音羽」艦長が秋山真之で、秋山家との親交はこの頃から始まる。
結局金銭で売リ渡された、西沢吉治は前述のとおり大損。
ところが、めげない人で、今度は南方の開発に行ったり、そこが駄目ならと
大正10年にはウラジオストックにシベリア開発会社を作る。
樺太の北半分に西沢領と書き込んでいるゆえ、もう一度独立国家を作るつもりだったことが伺える。
経緯はコウだ.
このときの事件で始まった海軍との交際から1914年(大3)の第一次世界大戦を契機にふたたび吉治にチャンスが回ってくる。
すなわち、「タカジが中学校一年、忠三郎さんが二年のときに、日本が第一次大戦――日本側は日独戦争とよんでいた――に参戦し、多分に欧州のどさくさにつけ入るようなかたちで、アジアのドイツ領や権益をおさえたとき、
海軍はドイツ領南洋諸島を占領した」。
その中に燐鉱石が産出されるアンガウル島があった
海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の吉治
「資金については、この当時、大正の船成金の象徴的人物といわれた内田信也から出た」。
しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」
ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となった。
こうして挫折したかに見えた吉治の事業は、司馬が
「古風な表現でいえば涜武の典型」であり、「国家的愚挙のはじまりであった」と厳しく批判したシベリア出兵1918年のときにもう一度だけ希望がみえたかに思えた。
すなわち、吉治はこれに乗じて「シベリア開発会社」を設立
「吉治の沿海州・樺太の夢も、反革命軍の崩壊と大正十一年の撤兵によってやぶれた」
「吉治の生涯は、噴火口から噴出する熱いガスのなかで熱気球を挙げようとする図に似ていた。
たかく太虚に舞いあがっては、気球が破裂して墜落してゆく」
と記した。
タカジや忠三郎たち大正の若い知識人が、海外へと「膨張」を続ける日本の将来に抱いた不安は大きかったのであり、このような時代に青春を送っていたタカジは二高を落第したのちに東京で、詩人たちの同人誌「驢馬」の会に近づき、次第に革命家へと変貌していくことになる。
司馬はその変貌の過程を「阿佐ヶ谷」の章で描く、
その前の一連の章で子規に強い影響を与えた叔父・加藤拓川と陸羯南の人物と思想に触れている。
司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で
「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」
と記していたことに注意を促して、
「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。
大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として、
「日本魂」育成の必要を説く。
破天荒と言うか鉱山師的山っ気もあるが明治期の英傑のひとりである。
なでしこジャパンが2日国民栄誉に輝いたが
大震災、四つの隣国とあつれきのに鑑み、この人こそ国民栄誉賞モンだろうて。
これらの話に関する
世界遺産の小笠原諸島、藤原文化も関係することもあるが
いずれアップした.
実は肝心の三男坊が漏れてた.
宮崎の茶臼原大地に世界の孤児の父石井十次の偉業の施設は今も活動している.
その茶臼原大地は国営畑潅すい事業4200へクタールで日本有数の事業が為された.
ここに日本一の理論家が実践された.
父の果たされた偉業の南洋のリン肥料財は時代の差で来てない。
なんどかこのブログでもアップしている.
農業先進の知能部分のJA理論誌「家の光」の理論的支柱・松丸志摩三1907-197311月7日である。
時代が農学部に優秀な頭脳が集まる頃の指導的立場の全国一の農事評論家。
東大を経て朝鮮総督府畜産技師,同畜産課長をつとめ,戦後は評論活動のかたわら千葉,静岡,宮崎の各県で,酪農事業と「新しい村づくり運動」の指導をおこなった
この人は幼少名は西沢志摩三。
松丸家に養子で家を継いだ。
この西沢吉治の三男でアル。
西沢隆二「ぬやまひろし」は実兄
と聞いて驚かれよう。
一面いっぱいの何万本の水仙がご自宅周りに咲き誇る不思議な夢の光景が忘れられない.
貴賓溢れる奥様は健筆を振るわれご健在
何処かの総理夫人の「泣く大臣は首、あなたも泣いたら離婚」
伸子夫人にご紹介したイぐらい.-
あれっ?不敬罪っ!、
そうじゃぁないだろ毎夜の狂乱食事ゆえ
不経済ー
児湯郡高鍋町ナゾの里の会でご活躍、地元新聞投稿常連ナゾ知る人ゾ知る有名人。
果たしてご主人のDNAが福井発にアルのをご存知かどうかは聞いていないー
九州ブログ 宮崎参加!
よろしくお願いいたします。
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