温故知新

2011年7月15日 お仕事
今日の誕生日の花は・・・・ネムノキ
花ことばは・・・・・歓喜、胸のときめき

合歓木はネムノキ科(広い意味でマメ科)ネムノキ属 の落葉高木。
イラン・インドから東南アジアを経て日本の東北地方北部まで自生する。
飛び抜けて耐寒性が強く高緯度まで分布する
陽樹であり、荒れ地に最初に侵入するパイオニア的樹木。
河原などで見ることも多い。
山奥の清流に枝一杯伸ばし咲き、河鹿の音を聴てると
盛夏のあるこの国がいとましー

和名のネム、ネブは、夜になると葉が閉じる就眠運動に由来する。
漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたもの
貝原益軒記述「この木を植えると人の怒りを除き、若葉を食べると五臓を安じ、気をやわらげる」

夏の季語で、万葉集や松尾芭蕉、与謝蕪村の句に登場する。
昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓ぶの花 君のみ見めや戯奴さへに見よ紀女郎(きのいらつめ)(巻八-1461)
(ネムの花がうらやましい。昼間は美しく咲き、夜は好きな人に抱かれるように眠るんだから・・)

わぎも子が形身の合歓木は花のみに 咲きてけだしく実にならじかも大伴家持(巻八-1463)
(あなたからもらった形身の合歓木は、花が咲くばかりで実にはならないかもしれません・・)

ねむたぎ、ねぶたぎ(眠た木):宮城県、山形県、福島県などの一部
ねふりのき(眠りの木):京都府の一部
ねむりこ(眠り子):大分県、宮崎県の一部
はまくわー(浜小):沖縄県石垣島
ねむたぎ、ねぶたぎ(眠た木):宮城県、山形県、福島県などの一部

お世話になってるWIKIだが
どうにも写真がネムの木確認が出来ない。
WIKI記述者は合歓木を知ってるんだろうか.
合歓木の写真↓コチラ。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%8D%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%82%AD
宮城まり子創設の「ねむの木学園」のスタッフの制服は、
ネムノキの花の薄いピンク色。
吉永小百合の♪ねんねのネムノ木眠りの木♪唄うときも衣装はピンクであったなぁー


大野 林火(りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日)は、横浜の人。
本名は大野正(まさし)。近現代的で叙情質の高い作風で知られる。
東大経済を経て教職に就く。
1921年、俳誌「石楠」に入会、臼田亞浪に師事。
1939年、句集『海門』(交蘭社)を上梓、
水原秋櫻子や加藤楸邨らと交流。
1946年、俳誌「浜」を創刊、主宰。
1956年、横浜俳話会発足に発起人のひとり参加。
1953年、俳人協会会長に就任、
1980年には俳人協会訪中団団長、日中文化交流にも力を尽くした
NHKラジオ深夜便教えるきょうの一句

花合歓に 夕日旅人は とどまらず
        大野林火


「1046」魁皇が新記録樹立。
驚くなかれっ!
曙、若乃花貴乃花と同期入門というから恐ろしくタフである。
ヨタヨタノ下半身状態をご勘弁くだされ.
15日5日目の「1047」の取り組みの相手は
御国は牛久の人で上り調子の唯一の横綱候補稀瀬の里

この地牛久は偉人が住んでたところ.
牛久は親は常陸国牛久藩の大目付で横山大観らと日本美術院で活躍した画家小川芋銭( うせん、1868年慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年))の過ごしたところ.

その小川芋銭旧宅近くの城中町に60年暮らした人がいる.
1935年以来夫の編集者・農民文学者の犬田卯の郷里である
ゆえ住んで執筆を続けた人が住井すゑ(1902年- 1997年)。

『橋のない川』1部から7部までの累計発行部数は800万部を超える。
奈良県のある被差別部落・小森部落を描いた.
あらすじ時代背景は・・・
1908年(明治41年)、大和盆地(奈良)の山村・小森。
誠太郎と孝二の幼い兄弟は、父を日露戦争で失った
しっかり者の祖母ぬいと心やさしい母ふでに大切に育てられる。
やがて小学校に通い始めた二人だが、そこには思いもかけぬ日々が待っていた。
兄弟は小学校や路上で、ことごとにいじめられる。
小森は被差別部落であったのだったー

最終的には京都市・岡崎で行われた水平社宣言をもって締めとしている。

1969~70年と1992年の二度にわたって映画化された。
今井正監督メガホンの「橋のない川」は部落解放同盟・朝田善之助らの差別助長批判で継続断念.
ようやく第一部・第二部ともにDVD化されて今は観れる。
ジャーナリスト・エッセイストの増田れい子は実娘。

15日5日目の「1047」を目指す魁皇。
福岡直方の出の九州人は実直で極めて控えめな物言い。
物議を醸した現在担ぎ込まれて九大病院に入院してる部落解放同盟初代委員長の松本治一郎の孫・部落解放同盟副委員長松本前復興相のみがなにも九州人福岡の人ではない。
その地の15日
「オイサッ!おいさぁ~」
770年の歴史の無病息災の博多祇園山笠の追い山で男気が満ち溢れてる

ヤクルトがトップで折り返した。
その主砲リディングヒッター宮崎の人青木親宣。

3割1分6厘で競ってる巨人軍75代4番は2年目長野で東野が押さえで14日対阪神を破り連敗ストップ。
背番号「7」は団塊の世代は柴田
その背番号「7」は昨年日ハムを断念一年ホンダで過ごし、
昨年ドラフト1位巨人軍入団。
1年目にして規定打席に到達、打率.288、19本塁打をマーク。
19本塁打は高橋由伸と並び、巨人の新人では3位の記録。
2010年の新人王を獲得。
巨人からは前々年の山口鉄也、前年の松本哲也に続き、3年連続の新人王誕生
佐賀三養基郡基山町出身の九州男子。

大相撲名古屋場所にかん口鳥が鳴いている
初日来場者は満員の7割に満たない5500人、
名古屋場所初日としては記録が残る85年以降最少入場者。

名古屋の裏社会を仕切るは山口組司忍の出身母体の弘道会。
興行には江戸時代から続く地元の複雑さの表面化できないしがらみで成り立っているわけで
そこと断っ!ゆえ生じてること。
所詮興行ごとには八百長が付きまとう。
まぁそれで上手くいってた入場者確保もあった.

相撲界は眼が厳しいので・・・
セリーグトップのヤクルトの古傷。

キャンプ地は宮崎西都であった。
何故西都?
当時の野村監督は知ってたのか.

○水野 成夫(1899年11月13日 - 1972年5月4日)は、静岡の人
一高東大を経て1927年日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国で武漢国民政府の樹立に参画する。
1928年に帰国するが、三・一五事件で検挙獄中での転向声明第一号。
出所後、1929年にコミンテルンからの離脱を宣言。
天皇制の下での共産主義運動を標榜する日本共産党労働者派解党派結成
日本共産党批判に回るが、ほどなくして労働者派の組織・運動は消滅
政治活動から離れ、翻訳業に就く。

7・14はフランス革命の歓喜にわくフランス人
フランス大使館は出張のパリ祭で福島郡山で開催されたそうだ.

水野 成夫はその先駆者でフランス通、アナトール・フランスの紹介に功績。
水野翻訳によるフランスの著『神々は渇く』は名訳として名高くベストセラー。
その他、『舞姫タイス』、『現代史』などフランスの著作約20作品、
アンドレ・モーロア著『英国史』なども翻訳している

渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。
また、この時期、尾崎士郎、尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つ。

1938年、同じく転向者で、その後も水野の片腕として行動を共にする南喜一が米糠を媒体に使い、
新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込む。
陸軍軍事課長・岩畔豪雄は、国策としてパルプ自給をはかるという計画を持っていたため1938年、日清紡績社長・宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立、
若い南と水野を見込み、周囲の反対をはねつけ1940年、二人に国策パルプ工業の全額出資で別会社・大日本再生製紙を作らせた。
大日本再生製紙の実務は、この二人と篠田弘作を加えた三名。
鹿内信隆はこの時の陸軍の担当事務官・需品本廠監督官。
太平洋戦争開戦後に岩畔がインド独立工作に関わるため、水野は岩畔に招かれ同工作に関与した。
また大日本再生製紙設立時に宮島清次郎と師弟関係になったことで、
戦後に政財界に強い影響力を持つことになる。

大日本再生製紙は1945年に国策パルプと合併。
1946年、現在も続く出版社酣燈社を文芸・学術専門の出版社として創業するが、数年で手を引き、酣燈社は後に航空関係専門の出版社となった。
GHQの出版規制を経て
航空ジャーナル社の設立者である青木日出雄が航空自衛隊出身に精神が引き継がれた.
1946年、経済同友会幹事。
1951年国策パルプ社長就任。1960年会長に就任。
1956年、民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任。
これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。
文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、
保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。
「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評される。

1957年に経団連理事に就任。ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立、同社初代社長に就任。
1958年には前田久吉から産経新聞社を買収して社長に就任。
在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為「マスコミ三冠王」と呼ばれる
、のちのフジサンケイグループの土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策
 通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした
組合は日本新聞労働組合連合より脱退
「産経残酷物語」とか「水野天皇制」と呼ばれた.
産経新聞そのものは、水野社長就任1年で黒字に転換、
フジサンケイグループの強固な基盤が確立されたとされる。
1956年、文化放送の傍系事業として日本フィルハーモニー交響楽団を結成。
池田勇人内閣時代に「財界四天王」の一人と称される
1965年に日本国有鉄道から国鉄スワローズを買収、
サンケイアトムズ=現東京ヤクルトスワローズの経営を手がけた。
辻井喬の小説『風の生涯』の主人公のモデル。

西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政調会長をつとめた水野誠一は長男。

○南 喜一(1893年 - 1970年)は石川金沢のひと。
ガマの聖談はサンディー毎日のコラムで性豪猥談の名手
爺目新聞配達の小学生の頃から愛読した.
1968年『ガマの聖談』光文社で刊行されてる
まさか同一人物と知ったときの驚きはなかった.

苦学して早稲田理工科を経て
1923年、関東大震災後の混乱に乗じて起こった亀戸事件で実弟・吉村光治を警察に殺されたことを契機に、
当時非合法の第二次共産党に入党、各種の労働争議を指導する。
1928年三・一五事件で逮捕され、獄中で転向。

1940年転向仲間の水野成夫と古紙再生会社「大日本再生製紙」を設立。
1945年には宮島清次郎が社長を務めていた国策パルプと合併、同社の常務取締役。
戦後は副社長(1959年)、副会長(1960年)、会長(1962年)を歴任。
ヤクルト本社会長、日本クロレラ研究所会長。
「ガマ将軍」は友人の尾崎士郎が命名者で、なお、南は人生劇場の登場人物のモデルの一人。

ヤクルト本社会長時代、プロ野球・サンケイアトムズを産業経済新聞社・フジテレビジョンから買収した。

同球団や産経・フジテレビはいずれも水野が経営していたものであり、
経営が悪化した同球団をヤクルト本社が買収した
この一件について、当時は「水野の窮地を盟友の南が救った」と言われていた。

○西山広喜死去。

共同通信・朝日新聞がその死去を報じた
毎日・読売両新聞はまだ死亡欄にその名前が見えない(2005.2.28現在)

訃報に強い毎日が今の時点で報じていないのは
西山広喜に関する確実なニュースソースをつかむのに苦労している様子が窺われる。
何故か
その死去について住吉連合からかん口令が敷かれているらしい。
なかなか取り上げるにも勇気の要る人物とアル。
児玉誉志夫と並んで語られることが多い。

西山広喜は1923年生まれ宮崎の人。
西都妻高校を放校され福岡に行く
一度アップしている.
児玉誉士夫の資金源
2010年7月2日 http://webcache.googleusercontent.com/search?num=100&hl=ja&newwindow=1&c2coff=1&lr=lang_ja&q=cache:zLzyQ-peQMMJ:http://sekiyann.diarynote.jp/?day=20100702+site%3Ahttp%3A//diarynote.jp/+%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%BA%83%E5%96%9C%E3%80%80%E3%81%9B%E3%81%8D%E3%82%84%E3%82%93&ct=clnk
西山広喜(大正2年3月31日~平成21年)は
平家の里椎葉に生まれ中学は西都市の妻中学=現妻高校
福岡の英数学館時代に部落解放運動のトップリーダー 松本治一郎や 松本英一 上杉佐一郎と知己をえる
宮崎から社会党青年部の本部役員となり上京
 新橋のツツミビルの党本部に詰めた 
片山哲が委員長時代で 書記長は西尾末広 組織部長が浅沼稲次郎 会計は松本治一郎
後に国会で活躍する只松祐治 楢崎弥之助 麻生良方とはこのころからの知り合いで 立場を超えて交流した。
ナベツネを初め鍋山貞近ら右翼には左翼からの転向社者が多く、一つの人脈を形成しているほどだが
、戦後転向したのは、浅沼美知雄と西山広喜くらいのもの。
社会党から一転して右翼運動に飛び込むのは、三浦義一を知ってからのこと。
松本治一郎の周辺には、むしろ右翼イデオロギーに近いと見られる人がたくさんいた。
差別と戦いながら苦難の道程を通過してきた松本には
 それだけの、包容力があったのであろう。
だが、政党となるとそうはいかない。
特に左翼政党には官僚的な統制や教条主義がついて回り 規律の名の元に しばしば
 個人の情熱を摘み取ってしまう。
だから 理論よりも人間関係を大切にして
感性で行動するタイプには政党には向かない。
西山は、そのことを真剣に考え始めた時期に 藤井丙牛を介して 三浦義一を知る。
興論社幹部として活動する中で 三浦邸を頻繁に訪れるようになった。
三浦義一の手足となって動くのは 昭和36年3月 昭和維新連盟を結成して独立してからである。
日本の右翼 猪野健治 ちくま文庫 西山広喜の項に詳しくある。

これらの人々が児玉誉士夫の下にいたゆえ幅広き人々による
  自民VS社会党
支配が長らくつづいていたのである。

児玉誉士夫の資金源2010年7月2日にアップしてる

牛久の住井すゑのもとに児玉誉士夫の指示名代で西山広喜は大金を届けている.

西山広喜・・その師は三浦義一。
60年安保の反対の波に対抗するため児玉誉士夫に依頼して民族運動の赤尾敏笹川良一児玉誉士夫三浦義一西山広喜らが対峙した。 ...

三浦義一は、大分市長でもあった数平の子として1898年に東京都で生まれた。
北原白秋の内弟子となったが白秋の私生活は、それ自体小説になるほど話題豊富である
1920年に早大中退後、九州水力電気に入社。
1927年に上京。その後、1932年に大亜義盟を結成
  虎屋事件、益田孝不敬糾弾事件、
1939年中島知久平狙撃事件などを起こす。
これら3事件の罪により懲役2年に服す

、南京市長顧問などの公職もこなして
隠然たる勢力を保つ。
1949年に日本橋室町に事務所を持ち、「室町将軍」と呼ばれる
戦後はますます政財界の黒幕としての名声を得る。
時の日銀総裁であった一万田尚登や、GHQのG2と親しかったのが効いたらしい。
その実態はほとんど一般人には知らされないまま
1971年に死去。

西山は三浦に師事した後、右翼団体である「昭和維新連盟」を結成
日比谷公園を見下ろすビルの17階に事務所を構えるに至る。
西山は文字通り(政財界の)「黒幕」
1996年に共同通信社から出版された「沈黙のファイル」で
児玉、瀬島といった大物絡みの事件の当事者として描かれた。
これにより、突如知名度は高まった

1979年に伊藤忠商事は、社員の庄司春男によって脅迫されていた。
庄司は元航空自衛隊の幹部で、伊藤忠の実力者であった瀬島龍三によって
伊藤忠入りして、軍用機の発注などで謎の動きをしたいわくつきの人物
当時、参院選に出馬すると突然言い出して、伊藤忠商事に金を要求。
一社員が自分の勤務する会社に対して、選挙に出るから金をくれ、というのも妙な話ではあるが
詳細は不明ながら、伊藤忠はその要求を断った。
すると、かつて軍用機商戦の担当者であった強みで、
伊藤忠の内幕を暴くネタを週刊誌に売り始めたのである。

伊藤忠側は困って、付き合いの深い児玉誉士夫に「庄司の件」の処理を頼んだ。
しかし、児玉はすでにロッキード事件捜査によって、表立って活躍することができなくなっていた。
児玉は西山を自宅に呼んで、西山の目の前で伊藤忠商事会長の瀬島に電話をする。
「庄司の件は西山君に任せます。僕の代わりに信頼して何でも相談してください」と言った後
机に向かい、「庄司の件は西山に委任」という内容の瀬島宛の親書をしたためた。

その親書がなぜか共同通信社記者の魚住昭のもとに渡って、
魚住が1995年頃に西山の事務所を訪ね、親書の説明を聞いた、というのが、
上記「沈黙のファイル」の該当部分である。

西山は、庄司を説得して脅迫を止めさせ、伊藤忠にも相応の金を出させて庄司に渡し、期待通りに決着をつけた。
すでに引退同然であった児玉に代わって、実力右翼として第一人者の貫禄を見せたわけである。

西鉄が黒い霧で池永が追放に追い込まれた.
その後のヤクルト球団に危機があった

>ヤクルトの試合は八百長だったのか?
>(1998年)6月1日の各スポーツ紙のトップニュースには皆たまげた。
>ヤクルトが20年間も「昭和維新連盟」という右翼暴力団の西山広喜に
>年2千万も利益供与をし、もみ消し恐喝の依頼をしていたと言うことだ。
>西山広喜は企業から金集めの恐喝を仕事とする「日本青年社」の顧問。
>ヤクルト選手のスキャンダルを恐喝で消したということだ。
>試合の八百長はあったのだろうか。どうもこのところの負け方がおかしい。
>なにしろしょっちゅう港区の料亭で広域暴力団の幹部と右翼の幹部が
>ヤクルト側の役員と会っていたそうだから。
>警察へのもみ消しに政治家を使って入っているらしい。
>野球ファンをなめている。

ヤクルトといえば、ちょうどその頃に薩摩の人・岡留安則が発行してたスキャンダル雑誌「噂の真相」が
当時ヤクルトに在籍していた主力打者の一人の選手について
ビジターで連戦中に暴力団絡みのトラブルに巻き込まれてしまい
結局、右翼の大物が事後処理をして事なきを得た、という記事を書いた。

右翼の大物というところがいかにも、という感じである。
これこそ火のないところに煙は立たず、といった類であろう。
もっとも、特定の人脈かもしれず、会社ぐるみかどうかは定かでない、
どちらにせよ、1998年6月1日のスポーツ紙の報道にあること。

西山広喜が顧問のグローバル・レインボーシップ
国会タイムズの五味社主が、カンボジア難民などの世話をしているうちに
難民流出の原点を確かめたい、という発想で
カンボジア視察団を組んで現地に行くということになり
昭和56年10月6日~11日に第2回視察を実施した
顧問の西山広喜も一緒に現地を訪れた。

この団体、会長が三塚博、顧問が西山とか細川隆一郎
理事及び特別会員に立川談志、同じく理事で仲宗根美樹、中松義郎、ジョー山中、菅原やすのり等がいる。

これらがからみ総体で動かしてるのが永田町界隈。
あの水野 成夫や南喜一さえも政界には表面的には口を挟まなかった.

東大共産党読売新聞の渡邊恒夫=ナベツネは
では何故?

読売ナベツネは世界支配の核兵器原料絡む正力松太郎/中曽根康弘のテレビ原発CIAで暴かれた
CIA使命ゆえやむえぬこと。
植民地国のこの国の対米従属維持装置の国家の中枢にアルゆえのこと。

どうも爺目に菅直人支持を迫られる
冗談ジャァない。
私憤を公憤への一生であった.
何故に転んだ菅直人を示威するのか.
憂国の生き様で歩いてきたゆえトント理解が行かぬ.

原発VS反原発
そのセオリーなら理解する.

ただ菅直人の反原発はとってつけたもの
所信演説にも6・2延命したときにも
海江田訪佐賀現地説得の6・15にも反原発はなかったこと.
政権維持に菅直人の餌食にされるだけ。

国家運営は議会制、政党政治で、国家のトップは国民が直接選ぶ大統領制ではない。
議員互選で独裁を避け党内民主主義でナイト物事は進まないシステムの合議制にアル。

政治家の仕事は結果責任。
その要諦は「信なかずば立たず」

菅退陣論が渦巻く中の
「居直り」
政治家でなく政治屋

居座るのは何故か。
そこに今の政治の真実がある。

総理のポストである、
そのことは国家とは何かを紐解くことになる。
国家の正体は暴力装置なる国家と革命の言葉を教条的に引用したくはない。

完結したイタリア在住の塩野七生の「ローマ人物語」
「国家にとって最大の責務は国民の安全を守ることである」

「それを支えたのはローマ市民の負託を受けた、軍事、政治の両面に責任を負っている皇帝である、」

日本に置き換えると
現場とは戦争リアリズムであり、皇帝とは尊敬される自衛隊で変貌する軍事力そのもの、その統率者。
それは?だれ?

日本はシビリアンコントロール=文民統制
と軍の制服組を政治家・行政システムが国家の象徴たる軍を抑えてることに国家システム上なっている。

自民党のタカ派より右の政治グループさえ抱え込んでる5つの党派の存在する連立合同政党の民主党。
仙石前原らの凌雲会、黄門さまこと福島弁の渡部恒三
ネオコン長島昭久一派
小沢排除で菅直人を総理候補に担いだ一派.
 それが
菅ヤメロっ!の大合唱。
おかしな話だ.

菅VS小沢で争った党首選
菅支持グループでの菅おろし。
菅と党首選挙を争った小沢一郎一派は全く関知してない。

岡田幹事長、枝野官房長官が菅総理に反発
○14日脱原発依存は「首相の思い」=民主・岡田氏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110714-00000119-jij-pol

○菅首相会見「脱原発は将来の思い」―枝野官房長官
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110714-00000049-jij-pol

この1週間の官邸をめぐる動く
○クローズアップ2011:「脱原発」方針表明 首相独走、募る疑心
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20110714ddm003010121000c.html

○13日、「国益を考える会」の吉良州司、長島昭久両衆院議員らが
菅直人総理の即時退陣を求める提言を、総理官邸で仙谷由人官房副長官に提出した。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110714k0000m010111000c.html
九州電力玄海原発の再稼働や、ストレステスト(耐性試験)導入を巡る混乱を批判している。

   原発VS反原発
国家根幹のエネルギー問題が表面化
それには軍事武装のグループ分業化があったことの証左である。
平和利用の名の原発には核兵器の基本プルトニューム製造が隠されてる。
世界の覇権の核兵器支配の核兵器の分業体制ー

国民は騙されてきただけだ.

佐藤栄作がノーベル賞をえたのには
非核三原則「作らず持たず持ち込ませず」
ここに秘密のベールがあった

国民意識たる民意はなく総てがお上頼みの国民気質を上手く利用した.

15日朝NHKニュース6時、7時
テレビを見ると馬鹿になる.
ふくしま原発より80キロもアル浅川町の農家の牛の藁に
放射能があり、それが元凶で牛肉の食品汚染と
なにか農家が悪き用な印象メデイア操作。
ばっかじゃぁなかろうか。

野菜や海産魚介類は一帯どうなってるとの創造性さえないのか.

3・11以降福島原発に際して安全を繰り返してたのは誰だっ!
爺目は2ヶ月もブログ労力を奪われた
 国家は政府は大嘘をついている
核兵器投下、核爆発、核との戦いに備えよっ!
逃げろっ!
放射能から逃げよっ!
とりわけ未来アル子らや生命の受け渡し身体の婦女子は逃げよッ!

3・12より悲報の必死の訴えをした.
原子炉が狙われている

いま列島は放射能で蔓延化してる
なにも福島浅川町畜産農家が悪いんではない.

何故政府は一時非難を
原発最悪の爆発に備えた報道をせず隠してきたのだ.

その菅内閣が
今も政権の座にあること事態が茶番だっ!
大和民族を根絶やしにせんとの愚策の第一義は
情報を隠蔽した菅内閣にアル。

何故緊急のフレを出さなかった

福島第一原発事故
原発からの初期の放射性物質放出
正門付近の放射線量

3月12日4時00分まで0.07μSv/hと正常範囲だったが、
   4時30分に0.59μSv/h、
   7時40分に5.1μSv/hと上り、
   15時29分には1号機北西敷地境界付近で1,015μSv/h。
12日15時36分に1号機で爆発が発生、火炎を視認できない透明な爆発と同時に地面を這うような白煙が広がった(水素爆発)。
政府は12日18時25分、半径20km以内の住民に避難を指示した

3月14日11時01分、3号機で一瞬の透明な爆発の直後、燃料プール付近で一瞬の赤い炎が発生し、
    黒いきのこ雲を伴う現象が発生した(保管燃料由来の水素爆発とされている)。
付近の翌15日10時22分の線量は400mSv/h(1mSv/hは1μSv/hの1,000倍)と非常に高かった
  、大量の放射物質が出たと推測された。

15日6時10分、2号機でも爆発音があり(事前に水素爆発対策の穴が空けられていたため、建物の外見には大きな変化は無し)

、圧力抑制プールは圧力が3気圧から大気圧の1気圧に低下したので、損傷したとみられる
ほぼ同時刻に4号機でも爆発があった。4号機は、15日と16に火災もあった。
15日11時06分、半径30km以内の住民に屋内退避を指示した。その後敷地の線量は減少
5月2日21時に正門付近では45μSv/h。

  津波が来る前に全冷却系喪失していた
計算上ーショミレーションでは全冷却系喪失後
3時間半でメルトダウンが始まる

時系列
11日午後2時46分 地震発生
11日午後2時47分 原子炉緊急停止、制御棒正常挿入 原子炉圧力上昇開始
11日午後2時52分 非常用腹水機(非常用冷却装置)自動起動
※主冷却装置と非常用ディーゼル発電機が壊れない限り自動では起動しないもの。
11日午後3時00分 原子炉圧力減少、非常用腹水機、手動にて停止

【この間に圧力を下げすぎない為、手動にて停止&起動を繰り返した結果、冷却機能喪失】
※手順書、マニュアルに則った規定の作業

11日午後3時27分 津波第一波到達
11日午後7時30分 1号機燃料棒、溶融開始、空焚きスタート メルトダウン開始

12日午前3時6分  放射性物質放出の可能性。航空系へ政府警報
12日午前3時12分 枝野会見にて「菅総理視察、現着までベント延期要請」と答える
12日午前5時50分 1号機燃料棒完全露出
12日午前6時50分 1号機 燃料棒全溶解
12日午前6時50分 東電本店から福一現場に「総理が視察に行くから準備しろ」と指令
12日午前7時10分 菅総理、福島第一現着。
12日15時36分に1号機で爆発が発生し、火炎を視認できない透明な爆発と同時に地面を這うような白煙が広がった(水素爆発)

総理が来る遥か前にメルトダウンしてます 
視察行く約半日前にメルトダウンしてますので

メルトダウンの一因として、ベントが遅かったではなく
メルトダウン起こり (圧力容器が損傷しないよに及び)内部圧力が高く冷却の為に注入する為にベントが遅くなり被害が拡大した可能性があるが正確な所ー。

噂の真相の岡留安則
は沖縄で隠遁にある。

福島第一原発のメルトダウンから4か月が経過した。
にもかかわらず、原発収拾のメドはいまだに先がまったく見えない。
原発事故以降、時間差をおいて次々と出てきた新たな情報や週刊誌の報道などを見ていると、
東京電力も原子力安全・保安院も長期にわたりズブズブの馴れ合い関係でやってきたために、
住民や国民に対して情報隠しやコントロールすることは朝飯前という思い上がりが露骨に感じられる。

過去、各地の原発が冷却水漏れ、臨界事故、MOX燃料データ改ざんなどを繰り返し、
それを隠してきた電力会社の歴史を見れば、これは国策としての原発とその運営のやりかたじたいに根本的な欠陥があったという事になる。
にもかかわらず、いまだに泥棒と警察が一緒に原発のルールを決めるというバカ気たシステムがまかり通っているのだから、
この国の政・官・業の利権トライアングルは根本から腐りきっているのだ。
 
  そんな中、福島第一原発から30キロ離れた南相馬市の牛から高濃度の放射性物資・セシウムが検出された。
当然、出荷は禁止である。
魚介類に関してはまだ明確なデータが出されていないが、検査体制も含めて徹底調査すべきである。
一応、調査結果も不完全ながら発表されてはいるが、その基準値を決めているのが電力会社と癒着した原子力安全・保安院なのだから、到底信用できるものではないというのが国民の実感だろう。

牛や野菜、魚介類は人体に直接影響を与える有害物質だけに、国民が納得する形での放射線量調査や数値を明確かつ定期的に公表すべきである。
それが徹底されない限り、福島原発の放射線量が垂れ流しにされた海や大地の「風評被害」が消えるはずがない。
いや、これは風評被害ではなく、国や電力会社に対する不信感から来たもので、国じたいに責任がある人為的な「国家被害」
というべきではないのか。 

 九州電力・玄海原発の再稼働に関してもインチキが露呈した。
たった一回の住民説明会で原発再稼働を狙う九電はやらせメールで組織ぐるみの世論操作を画策した事実が発覚してしまった。

経済産業省は、何が何でも原発を再稼動させることが「原発利益共同体」と省益を守る途であり、「安全性が確認された」
として、玄海村の岸本町長に再稼働を納得させた。

経産省に洗脳された海江田大臣も現地に足を運び、古川康佐賀県知事も再稼働に大きく傾いていた。
その背後には町長の利権装置や知事までも九電との露骨な癒着関係が指摘されている。うんざりだ。 

岸本町長は「町民が私を疑うならいつでも町長を辞める」と開き直るが、自分自身が玄海原発の安全性を揺るがす張本人だということに気付くべきだ。
菅総理はストレステストの前に『岸本玄海町長・岸本組・九州電力』の『政治倫理テスト』を行うべきだ。
岸本町長の実弟が社長の岸本組が、町長就任2006年8月以降受注・着工した工事総額は、町発注分約23億円(うち電源3法交付金事業12億円超)・九電発注分約5億円。
岸本玄海町長は実弟が経営する岸本組の主要株主で、町長就任後5年間、株式の売買・配当で1,140万円の利益。
首長や議員の親族企業による当該自治体工事の受注を禁じる政治倫理条例を導入する自治体は福岡県で86%・熊本県で67%に対し佐賀県は10%、玄海町に同条例はない。

そこへ、菅総理の得意の思いつき発言が飛び出した。

EU並みの基準外の地震などの天災を想定したストレステストをやるべきという提案である。
経産省と歩調を合わせて原発再稼働で動いていた海江田大臣はハシゴを外された形になった。
大手メディアは菅総理バッシングに躍起だが、結果的には原発の安全性により慎重な姿勢を打ち出した菅総理の方が正解ではないのか。
過ちを正すことにはばかることなかれ!だ。

菅総理も原発処理には3年、5年,10年、廃炉にいたっては数十年かかることを明言した。
これも正しい認識である。
しかし、これも菅総理の延命工作にすぎないという見方が消えない。人徳のなさだろう。
しかし、節電は原発とは関係なく必要なことだろうが、ホントに電力は不足しているのか。
次世代再生エネルギーへの方向転換を恐れる電力会社の世論操作がないのか、
大手メディアは御用報道ではなく、とことん疑ってかかるべきだ。

反原発を提唱してきたのは、
社民党の福島瑞穂党首らの少数派
そのほかは、自民党の河野太郎衆院議員程度。

一国の総理大臣が、「脱原発」を明言した歴史的意義は、大きい。
「15%」に下がっている内閣支持率への巧妙な計算と対策である。

 菅直人総理が「脱原発」を明言して、
「仙谷由人代表代行(官房副長官)切り」をしようと策動している。
この2人の関係は、ここまで険悪化しているということ。

実は、この作戦を裏で指揮しているのが、小沢一郎だという。
菅直人総理は、いまや小沢一郎元代表を最も信頼しており、逐一、情報を伝えて、次なる行動の指示を仰いでいる。
小沢一郎元代表は、このことを知られるとまずいので、無関係を装い、煙幕を張っている。

温故知新=「子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」

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