神々の住む敷島は世界遺産
2011年6月26日 お仕事今日の誕生日の花は・・・・ザクロ
花ことばは・・・・・・円熟した優美
石榴、柘榴、若榴、学名:Punica granatum)は、ザクロ科ザクロ属
東北地方南部から沖縄までみられる。
原産地については、
・トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジアとする説
・南ヨーロッパ原産とする説
・カルタゴなど北アフリカ原産とする説。
まぁ~ずいぶんと古い果実木であるということ
WIKIが教えてくれる.
科名のPunicaceae、
属名のPunica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来する。
これは古代ローマの博物学者プリニウスが『博物誌』を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」(m?lus p?nica)として
カルタゴ周辺が原産地と考えていたため。
種小名のgranatum は「種の」や「粒の」を意味し、
英名の pomegranate(粒の多いリンゴ)は中世ラテン語の p?mum gr?n?tum, p?ma gr?n?ta(種の多いリンゴ)に由来する
中国語名の「石榴」および「安石榴」は、パルティアの王朝アルサケス(アルシャク:Arshak )を
張騫が「安石」や「安息」と音訳したもの
パルティアを意味する「安息国」に由来する。
また、塗林と呼称した時代もあるが、これはサンスクリットでザクロを意味する darim 、darima の音訳である。
「榴」は実が瘤に似ていることに由来するという。
日本語のザクロは、石榴、柘榴の字音からと考えられており、
呉音では「ジャク・ル」、
漢音では「セキ・リュウ」となる。
『本草和名』では「安石榴、別名 塗林・若榴、和名 佐久呂」とされている。
また、古代イランと中国の文化交流を研究したラウファー(en) は若榴の中国語読みの「zak-lau 」に由来するとの説を唱えている。
また、有力な原産地のひとつと考えられるティグリス川およびペルシア湾の東方にそれに平行してザグロス山脈がある。
ザクロの呼称は、ザクロス山脈を現地音に近い「石榴」の字で音訳したともいわれている
誰かの小説で読んだ記憶なんだが、どうもそうではないようだ。
兎に角も花通人のつもり、花好きのハズなんだが
何故か
二つがダメ
幼児体験、その頃の得た知識は怖いものだ.
秋の代表花マンジュシャゲと果実木ザクロはダメだー
前者は昭和30年代、どこも土葬であったことに由来する.
集落の三ヶ所の土葬の墓の土手には赤き花があった.
隣り集落の山野の裾、田んぼのくろの墓地の雨上がりの夕方
「ボッー」と火の玉をみた。
墓地周りの赤き曼珠沙華は怪しき妖艶の美しすぎ。
お陰で神州天馬峡なぞや江戸川乱歩小泉八雲もの猟奇的書物知識がない.
関門赤間寓に弔われてる耳なし法一なぞもダメ。
刈取った稲は、穂のまま竹のやぐらを組んで天日に干したが
大人たちは何処が一番乾きが早いか熟知してて
大概は土手際にやぐらを組んだものだ。
干しに掛る頃は何時もお日様もお隠れ星もまたたき始める夕暮れどき。
これが怖かった.
土手には赤い花がこちらを見てる
あの花には幼子心ながら祖先たちの霊が取り付いていた
もう一つ
何故ザクロは血の味人の味と知ってたか
何処で教えいただいたかも知らない幼子。
分校にあがるようになり、ある日押川千枝子先生宅に遊んだ.
そこにはザクロが植えてあり
実が熟しててご相伴にあやかった.
もちろんあの頃は常に腹をすかしてるのに
爺目は喰うフリをして怖くて誤魔化し避けた
ご主人は由緒アル妻神社の宮司でもあったが
早熟で沢山の知識を詰め込もうとするが脳みそがパンクしてる
理解し様としようも脳みそがついていけない。
アレって感受性強き特殊な幼子は精神障害一歩手前ではなかったのか.
死が怖かった.
一杯いる身の回りの人々との急なることで死で別れると、
現実ががなくなる
死んだらズッーと寝てばかりで
誰とも話せない遊べないー
症状は去らず、深まり哲学的でさえある。
もっと酷いは地球儀をみて平板でなく球体に驚いた.
自転して夜と昼という
「うそだ~い」「ばか言うじゃぁない」
もがき苦しむ。
なんだろうなー
めまいヒッチコックが映画手法で用いてた
あの状態.
分校からの帰り、電柱とか大木とかまで駆け足
だって球体なら
永久の彼方に
どこまでも闇黒の真っ暗な永久の果てに落ちていく
それが怖かった
地球が間違って急に鳩の目のごとく「クルリっ」と球体たる大地が回ったらどうしようー
創造してるは地震の巨大なる奴ー
リーダーたる餓鬼大将のちょっと変に気ずいてか気ずかずか
電信柱、樹木の側ばかり目指し走りまくるに、
みんなが、ついてくるのわずらわしいかった。
「なんで急に走り出したり、今度はうごかなくなったりー」
轟々の非難の言葉
この人たちは地球が丸いことを知らない.
いいなぁー無知な奴ら。
説明しても無理ー
昼の花火のようでうつろ。
もっともだ
幼い奴ラメ.
父親と母親が夜の睦みごととさえ知らない
早熟な知識はしばし妄想で学び人には邪魔にしかない。
相談相手もなく、かと言って消化能力もない。
ながーき巡り来る一年の頃であったが
社会制度に目覚め
小学校高学年で早や学業を捨てた。
その習性は50年を経ても変わらず
どうもテンション低くなる記事が目に入る
よく身につまされる。
因果応報にある。
25日日経35社会面
柴田泰弘58歳で逝く
1969年高校生で大菩薩峠事件53名に名がアル。
1970年3月129人人質よど号事件にも名がアル。
人質129人解放のに政治家荒船清十郎が身代わりになった
政治家がマダ威厳があった頃
129人そのひとりに聖路加の日野原重明 医師もいたこと
世は混沌としてた。
ひそかに帰国
入出国を繰り返してた
88年旅券法違反
93年国外移送略取で5年刑
94年出所
最近はひとりで生活してた.
俳人・辻田克巳(1931(昭6年) 京都府のひと。
山口誓子、秋元不死男に師事。
昭和32年「天狼」,氷海入会。
平成2年「幡」創刊主宰。
句集:『明眸』『オペ記』『頬杖』『辻田克巳句集』『昼寝』『焦螟』『稗史』『ナルキソス』
昼寝などしてゐるうちに逃げられし
栗の虫すまなささうに出で来る
子供など朝から居らずこどもの日
すぐ横にくちびるがある花火の夜
鳴く雁を仰ぐ六才ともなれば
二階より素足下りくる春の朝
何時も入る妻がいぬ。
朱色の花に妻を重ね思い出す。
NHKラジオ深夜便柴田規久子アンカー教えるきょうの一句
妻の居ぬ 一日永し 花石榴
辻田克巳
世界遺産、朝ドラ、菅直人
三題噺でお祝いー噺の続きで終い完結。
さぁアップでニュースを知る
急遽差し替え
これが酷くなった.
軽い分裂症状ではないのか.
パソコンを枕に寝てるー
PC師匠のお猫さん写真でみたあの状態ー
いやはや岩手の皆様には
これまでのご努力を称えて心よりお祝いの言葉を述べたい
悲願が実り、ワクわくとする。
おめでとう御座います。
いやぁこれは嬉しい。
ニュースが流れる
2007年の「石見銀山遺跡とその文化的景観」(島根県)以来で、12件目。
自然遺産を含めると、24日の小笠原諸島(東京都)に次ぎ16件目となる。
歴史好きの爺目に言わすれば、
なんか並べられると
順序が逆だろう・・
おそいっ!
そういえば雅の都では
法然入滅800年の鎮魂にアル年だ。
浄土のお話絡むので花を添えたものだ
遺徳なんだろうか
華やかな源平絵巻の争いが国の歴史の表舞台にあるが
これに隠れて同じ時期。
安倍氏、清原氏の東北地方の覇権争いは前九年の役、後三年の役を経て、
義経に使えた佐藤兄弟が母を通じてDNAを受け継いだ.
全国にアル佐藤姓の御先祖さま。
清衡がDNA受け継ぎの生き残る。
実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。
これが奥州藤原氏の始まり。
1105年長治2年に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。
1117年永久5年に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興。
その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・
雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったという。
1124年天治元年に清衡によって中尊寺金色堂が建立。
屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆う奥州藤原氏の権力と財力の象徴物。
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、
平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市。
戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。
平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山。
今度の町ごと消滅の大震災地とかぶる
大谷(宮城県気仙沼市)、
鹿折(宮城県気仙沼市)、
玉山(岩手県陸前高田市)、
八針(岩手県気仙郡)、
今出山(岩手県大船渡市)。
1185年文治元年源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
1189年文治5年秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索
結果滅ばされた
822年前のこと
金色堂といえば爺目ら世代は
今 東光 (1898年(明31年)~1977年)千葉の人がダブル。
時代劇小説家でのち参議院議員
作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海は弟。
儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。
医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。
国家主義者の伊東六十次郎は従弟。
外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。
コレラが素養となり、学士でないゆえ菊池寛から疎まれたが
発奮作品に生かされた.
画家新感覚派作家として出発、東郷青児、佐藤春夫らと親交を結び、
東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。
東郷のとりもちで、燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも交際。
1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」掲載、
1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐ。
谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、
1920年、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と称し、
芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1921年、川端の推薦で第6次「新思潮」の発刊参加。
『支那文学大観』の刊行に際しては
「桃花扇」「牡丹亭」等の訳出を担当
帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖。
出家後は住職として住んだ河内や津軽・平泉など
奥州を題材にした作品で知られる。
両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、
平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆
、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完
大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。
文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)
1965年11月、僧正、
1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた
1968年5月、落慶大法要執行
1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、
師僧となり「春聴」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
新聞記事を何度も読んだ記憶がアル。
1969年天台宗による「一隅を照らす運動」その初代会長
葬儀模様をはニュースで知っている.
東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、
椎名悦三郎が続き、皇太子殿下からの供花、福田赳夫首相の献香、
宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が延々と続いた。
坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らの参列者.
週刊誌を何冊か購入した.
墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、
柴田錬三郎の撰文による文学碑にお参りした。
中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔がアルらしい。
寛永寺における折々の偲ぶ会
松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけている。
作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、
一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。
直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、
大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、
吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。
古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、
また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠正成)」など歴史小説を数多く創作
自伝史的
『悪名』は1961年に勝新太郎・田宮二郎出演の映画となりシリーズ化されるほど大ヒットした。
短篇「闘鶏」は男として永田町の幼さを見ると欠かせない.
今 東光の破天荒の人生
よく身につまされる。
加えてこの国の現状を見る
最小不幸社会を信奉、標榜する政権はいけないと
アル意味政策目標は達している
最小不幸社会に成りつつある
国家が溶解しつつアル。
・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、
・ロシア大統領の北方領土訪問、
・韓国閣僚の竹島訪問
「ベトナムに2基の原発を売りつけた」と自慢したばかり。
それなのに舌の根も乾かないうちに「脱原発」
8月には「脱原発」争点で解散し、
総選挙と小泉純一郎路線踏襲を目論む
菅直人は完全に狂っている
救国の政治家が皆無で,殷の暴虐王・紂王のような狂った暴君が居座る.
酒池肉林の紂王(ちゅうおう)のような暴君によって,
国家は滅んでいく。
日本という国は滅びる!
薩摩のDNAが考えるは思想の左右は別で常にひとつ。
もう菅や仙谷や枝野が辞めて,
小沢が総理になっても日本は助からない.
もう間にあわない.
米国に操られてる霞ヶ関特権官僚とCIAと
マスコミの総力をあげた小沢叩きに,国民も喝采する.
だから,何がどう変わろうと,この国は滅んでゆく….
死んで滅びたほうがいいのだ.
霞ヶ関特権官僚と,CIAと,マスコミが滅びなければ,この国は変わらない.
しかし特権官僚やマスコミの死は,数千万人の日本人の死のあとだ.
悲しい.ほんとうに哀しい.
敷島の 大和心を 人問はば
朝日に匂う 山桜花
ご来日のGAGAさまだって
最小不幸社会が総てを打ち消している
3/11以来この国はおかしくなるばかり
6・2の菅内閣不信任案問題
壮大な装置なるヤラセ・・
復興省トップ人事で亀井静香の声も届かなかった.
怨念の民主党政治は変わらない.
何故か
この国を思う如く操るアメリカの支配力があるからだ.
ドルのアメリカは経済の業に入って抜け出せない
宿命の戦争傾斜ドル体勢にアル。
それが劣化、同盟国の支援なければ成り立たない.
8/2ドル・デフォルトさえ囁かれる。
米国最大財閥のデイビッド・ロックフェラーが、連邦政府の「デフォルト」を容認、
基軸通貨ドルからアメロへの切り替えで、
借金半減によって身軽になりたいと策動している
米中関係深化の妨げとなっているのが米国の台湾への武器売却であり、
中国近海における米国の軍事的及び情報収集活動である。
米国は世界のどの地域にも自由に接近出来ることを当然視する
ただそれは、中国にとって米国の活動は恫喝的かつ押しつけがましく映る。
米国は大国として自らを律し、弱小国に対して繊細でなければならない。
こうした点に米国が配慮することが、
米中の軍事的信頼関係を醸成する上で欠かせない。
朝の連ドラの「おひさま」
ストリーは進んで終戦前と佳境ー
三人の仲良しのうち東京にいる友を心配して二人訪ねる
ところで24日放映の・・・この・・
昭和20年3月10日・・・東京都内が下町を中心に壊滅的な被害を
受けた東京大空襲の忌まわしい記憶。
横綱公園に慰霊堂がある。
記述ー
午前0時過ぎから約2時間に及ぶ米軍機による超低空空襲はまさ
に“じゅうたん爆撃”。
『東京空襲を記録する会』の調査
消失家屋は約27万戸、
罹災者は100万人、
死者は10万人
その後のこと
昭和20年4月19日
10時10分、P51戦闘機の少数編隊が
京浜地区上空に襲来して、
機銃掃射を開始
その空襲で
炎上した範多農園母屋
母屋と同時に全焼してしまった長屋門
H・ハンターの夢と資産を次ぎ込んだ
調度や書画 骨董もことごとく灰になってしまった。
たった一つの蔵を残して
全く何も持ち出せない状態
それらの中には国宝級の美術品も含まれていた。
長年かけて収集した貴重な蝶の標本は、
数日後に東大農学部に寄贈する手はずになっていた
警視庁警備課総務係の記録。
「被害状況追加
①4月19日10時10分頃、北多摩郡武蔵野町、小平町、
調布町附近上空ニ小型機延19機来襲、
機銃掃射ヲ受け次の被害ヲ生ズ。
②小平町鈴木新田7725番地範多範三郎方2棟全焼ス」。
(H・ハンターの当時の戸籍名は範多範三郎)
数行の記述では、損失規模の大きさも被害額も想像を寄せ付けな
いが、現在の価格に換算すれば十数億円に上るとみられている。
戦後66年その日からも4月19日で66年目。
さらに、その1ヵ月後の空襲で赤坂・榎町にあった『範多事務所』も、灰
燼に帰してしまった。
これらの空襲でH・ハンターの足跡も功績も歴史も。
H・ハンターの自室床の間。
矢印で指しているのは鯛生金山
で産出した銀塊。
火事場泥棒に持ち去られたという。
H・ハンターが最も愛していた暖炉の間。
飛び切り高級のペルシャ絨毯も灰に。
宮崎での貴重な歴史も消えた
ええっ?ナンノコト?
手元に擬似針で吊り上げた鮎がアル
フライ・フィシングの祖は鉱山師H・ハンターこの人の発明である。
富士五湖のマスのフライ・フィシングなぞ愛好家のファンに知れてること.
体が求める蛋白源確保で三財川で良くやったものだ.
趣味でなく生きるためであった.
季節狙い目で擬似針の色大きさを変えた研究心がいった.
その研究心の差は漁獲量に大差が出た.
宮崎日之影見立で活躍したH・ハンター
何処にいるの
曹洞宗総本山・総持寺
「総持寺 ?なんか聞いたことあるな・・横浜・・」
総持寺境内に咲いていた彼岸花
裕次郎ファンの手向ける線香が絶えない.
そこは・・
H・ハンターが眠る墓もある。
右が離婚した妻の森家の墓。
両家の墓は石原裕次郎の墓の筋向いにある。
昭和22年9月24日、ハンス・ハンターこと範多範三郎は波乱の人生を終えた。
痛切な幕切れだった。享年64歳
宮崎県日之影町見立地区に、『英国館』と呼ばれる欧風の古い館が再興されて忍べる.。
見立川上流、深い谷と森林に囲まれた英国館は、大正末期に見立鉱山の経営者であった、
ハンス・ハンターが、英国から招いた鉱山技師の住居と社交の場として建てたもの。
その当時は、「倶楽部」と呼ばれてました。
当時の日本の洋風建築としては珍しいレイモンド建築様式が用いられ、
丸太材や幅の広い一枚板を使用するなど木の魅力を十分に活かした構造である。
室内には、水洗トイレ、暖炉、電気ストーブ、スチーム暖炉などの設備があり、当時の西欧の生活水準の高さを物語る。
見立鉱山の閉山によりこの建物も荒廃したが、昭和六十年に日之影町がラサ工業(株)から譲り受けた。
現在の建物は、昭和六十一年十一月に日之影町により修復、再現。
当時の建築様式の趣と暮らしをそのままに、
見立鉱山の繁栄を伝える大切な資料館。
見立鉱山は国内で唯一の錫鉱山であり、満州事変(昭和6年9月18日)を契機に
富国強兵策や軍需産業の拡大により錫精鉱の需要は増大し
ていた。
錫はメッキや合金として軍艦の大砲の軸受けや飛行機のプロペラシャフトなど兵器に欠かせないという。
その当時、見立鉱山には精錬所がなかったため、
鉱石は延岡、門司を経てはるばるシンガポールとペナン島まで運ばれ、
現地の『ストレート・トレーディングcom.とペナン・スメルティングcom.で精錬・製品化
日本に輸入されていた。
両社は見立鉱山(東洋鉱山kk)の親会社アングロ・オリエント・マイニング社の関係会社であった。
大分鯛生金山と同様にH・ハンターは見立鉱山にも和洋折衷のクラブハウスを建設した
ハンター氏が逗留中の宿泊施設であり、社交の場として使われた。
見立鉱山鉱脈の発見はふるい.
安土桃山時代の天正10年(1583)、織田信長に滅ぼされた甲州武田勝頼
の家臣高見但馬守安利が家族と僚友の馬場新右衛門と共に、諸国を流
浪して日向の国(宮崎県)にたどり着く。
江戸時代寛永3年(1627)に現在の日之影町見立の五葉岳山麓に洞岳鉱
を、同8年に大吹(大福)鉱を開いたと伝えられる。武田一族は採鉱冶金技
術に長けており、見立に鉱脈を発見したと言われている。
元禄4年(1691)見立鉱山の前身・大吹(大福)鉱山を発見した馬場新右衛
門が大福山を通りかけた時に、見当たり「見立山」と名づけたことから、
『見立』と呼ばれるようになった。
ハンス・ハンターはイギ
リス人実業家の父親と日本人の母親の間に生まれ、 日本名は範多範三
郎と名乗っていた。彼の父親は関西で一二を争う大財閥
ハンター氏は麹町に本宅を、麻布周辺に別宅も構えており、 その別宅の
庭に“越前さんの蔵” があったそうだ。
元々は大岡越前守屋敷にあったといわれる土蔵を、ハンター氏が惚れ込ん
で別宅に移築して、さらに小平に農園を設けるのと前後して、麻布区宮村
町(現在の港区麻布十番) にあった別宅から蔵も移築されたとのこと
範多農園の跡地である日本植物防疫研究所である。
これがまたこの県の発見の歴史につならる。
H・ハンターが大分鯛生金山から手を引いて、
次に手がけたのは宮崎県北部山峡にあった見立鉱山の開発事業。
同鉱山は宮崎、熊本、大分3県の県境に近く、現在でも秘境とされる日之影町の最奥地にあった。
「見立鉱山へは延岡から日之影まで18里、
さらに日之影渓谷に沿って険しい山道を遡ること12里。
天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が降臨した伝えのある高千穂峰や天の岩戸に隣接した神話伝説
の故郷と書かれている。」
見立鉱山の歴史は古く、鉱脈の発見は江戸初期に遡り、本格的に採
掘されるようになった元禄元年 (1688) 当時、この山峡は鉱山夫をはじ
め家族や行商人など多くの人々で賑わい遊郭跡も認められる。
宝暦年間(1751~1763)には錫2,000斤(1.2t) を生産したと記録され
ている。その30年後あたりから減産のため中止してまた明治15年頃から
再開され、明治41年(1908)に旧延岡藩主内藤家に買収された複雑な
経緯がある。
大正6年(1917)内藤家によって本格的に操業が開始されたものの、錫
価の暴落で同10年(1921)には休山していた見立鉱山をH・ハンターが再開に乗り出した。
英国人鉱山技師A.R.ワイゴール の調査により将来性を見込んで、
鯛生金山時代の外国人技師8名を見立鉱山に移駐させた。
見立鉱山の再開発にあたって、日之影までの専用道路の拡幅改良工事を行い、
地形その他詳細を16ミリフィルムに映してロンドンの本社に送り、送鉱ケーブルの配置や選鉱場などの位置規模も本社で検討された。
その設計図に基づいて資材一切もロンドンで調達され、日産20トン能力の選鉱場を建設。
昭和2年11月頃から錫精鉱の生産が再開された。
外国資本で本格的に操業された国内鉱山事業の初めてのケースだった。
日之影から中間地点ぐらいに異様なる光景が目に入る
戸川地区は「石垣の村」とも呼ばれ、この景観の素晴らしさは「日本の棚田百選」に選定されてる。
戸川地区は日之影川に沿ってたたずむ戸数7戸の小さな集落
見事なほどに膨大な石垣が棚田を守るように続いている。
村の歴史は定かではなく、孤立したこの集落の人々は自然石に守られ、
代々自給自足で生活してきたんであろう。
、最も古い石垣は嘉永から安政年間に築かれたもので、
この記録に記された石工は江戸城の修復にも招かれてるという。
この田舎でも箱もの行政
村の中心部には軽食と宿泊研修施設を兼ねた石垣茶屋が整備され、
唯一の 宿泊施設でもアル。
驚くなかれ
1泊 部屋使用料/1人\840
ただし寝具持ち込み
寝具使用料/1人\1,155
石垣茶屋
電話:0982-87-2295
日之影町村おこし総合産業株式会社
電話:0982-87-2491
ココへ経は二人旅
いつもここで批判してる創価の市会議員さんである不可思議さ.
公と私は別で国家的立場での創価をを批判してるわけで
田舎では呉越同舟、
政治的立場の右も左もない.
三題噺もいよいよ佳境ー
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花ことばは・・・・・・円熟した優美
石榴、柘榴、若榴、学名:Punica granatum)は、ザクロ科ザクロ属
東北地方南部から沖縄までみられる。
原産地については、
・トルコあるいはイランから北インドのヒマラヤ山地にいたる西南アジアとする説
・南ヨーロッパ原産とする説
・カルタゴなど北アフリカ原産とする説。
まぁ~ずいぶんと古い果実木であるということ
WIKIが教えてくれる.
科名のPunicaceae、
属名のPunica は「フェニキアの」を意味する Poeni に由来する。
これは古代ローマの博物学者プリニウスが『博物誌』を著した当時、ザクロは「カルタゴのマルス」(m?lus p?nica)として
カルタゴ周辺が原産地と考えていたため。
種小名のgranatum は「種の」や「粒の」を意味し、
英名の pomegranate(粒の多いリンゴ)は中世ラテン語の p?mum gr?n?tum, p?ma gr?n?ta(種の多いリンゴ)に由来する
中国語名の「石榴」および「安石榴」は、パルティアの王朝アルサケス(アルシャク:Arshak )を
張騫が「安石」や「安息」と音訳したもの
パルティアを意味する「安息国」に由来する。
また、塗林と呼称した時代もあるが、これはサンスクリットでザクロを意味する darim 、darima の音訳である。
「榴」は実が瘤に似ていることに由来するという。
日本語のザクロは、石榴、柘榴の字音からと考えられており、
呉音では「ジャク・ル」、
漢音では「セキ・リュウ」となる。
『本草和名』では「安石榴、別名 塗林・若榴、和名 佐久呂」とされている。
また、古代イランと中国の文化交流を研究したラウファー(en) は若榴の中国語読みの「zak-lau 」に由来するとの説を唱えている。
また、有力な原産地のひとつと考えられるティグリス川およびペルシア湾の東方にそれに平行してザグロス山脈がある。
ザクロの呼称は、ザクロス山脈を現地音に近い「石榴」の字で音訳したともいわれている
誰かの小説で読んだ記憶なんだが、どうもそうではないようだ。
兎に角も花通人のつもり、花好きのハズなんだが
何故か
二つがダメ
幼児体験、その頃の得た知識は怖いものだ.
秋の代表花マンジュシャゲと果実木ザクロはダメだー
前者は昭和30年代、どこも土葬であったことに由来する.
集落の三ヶ所の土葬の墓の土手には赤き花があった.
隣り集落の山野の裾、田んぼのくろの墓地の雨上がりの夕方
「ボッー」と火の玉をみた。
墓地周りの赤き曼珠沙華は怪しき妖艶の美しすぎ。
お陰で神州天馬峡なぞや江戸川乱歩小泉八雲もの猟奇的書物知識がない.
関門赤間寓に弔われてる耳なし法一なぞもダメ。
刈取った稲は、穂のまま竹のやぐらを組んで天日に干したが
大人たちは何処が一番乾きが早いか熟知してて
大概は土手際にやぐらを組んだものだ。
干しに掛る頃は何時もお日様もお隠れ星もまたたき始める夕暮れどき。
これが怖かった.
土手には赤い花がこちらを見てる
あの花には幼子心ながら祖先たちの霊が取り付いていた
もう一つ
何故ザクロは血の味人の味と知ってたか
何処で教えいただいたかも知らない幼子。
分校にあがるようになり、ある日押川千枝子先生宅に遊んだ.
そこにはザクロが植えてあり
実が熟しててご相伴にあやかった.
もちろんあの頃は常に腹をすかしてるのに
爺目は喰うフリをして怖くて誤魔化し避けた
ご主人は由緒アル妻神社の宮司でもあったが
早熟で沢山の知識を詰め込もうとするが脳みそがパンクしてる
理解し様としようも脳みそがついていけない。
アレって感受性強き特殊な幼子は精神障害一歩手前ではなかったのか.
死が怖かった.
一杯いる身の回りの人々との急なることで死で別れると、
現実ががなくなる
死んだらズッーと寝てばかりで
誰とも話せない遊べないー
症状は去らず、深まり哲学的でさえある。
もっと酷いは地球儀をみて平板でなく球体に驚いた.
自転して夜と昼という
「うそだ~い」「ばか言うじゃぁない」
もがき苦しむ。
なんだろうなー
めまいヒッチコックが映画手法で用いてた
あの状態.
分校からの帰り、電柱とか大木とかまで駆け足
だって球体なら
永久の彼方に
どこまでも闇黒の真っ暗な永久の果てに落ちていく
それが怖かった
地球が間違って急に鳩の目のごとく「クルリっ」と球体たる大地が回ったらどうしようー
創造してるは地震の巨大なる奴ー
リーダーたる餓鬼大将のちょっと変に気ずいてか気ずかずか
電信柱、樹木の側ばかり目指し走りまくるに、
みんなが、ついてくるのわずらわしいかった。
「なんで急に走り出したり、今度はうごかなくなったりー」
轟々の非難の言葉
この人たちは地球が丸いことを知らない.
いいなぁー無知な奴ら。
説明しても無理ー
昼の花火のようでうつろ。
もっともだ
幼い奴ラメ.
父親と母親が夜の睦みごととさえ知らない
早熟な知識はしばし妄想で学び人には邪魔にしかない。
相談相手もなく、かと言って消化能力もない。
ながーき巡り来る一年の頃であったが
社会制度に目覚め
小学校高学年で早や学業を捨てた。
その習性は50年を経ても変わらず
どうもテンション低くなる記事が目に入る
よく身につまされる。
因果応報にある。
25日日経35社会面
柴田泰弘58歳で逝く
1969年高校生で大菩薩峠事件53名に名がアル。
1970年3月129人人質よど号事件にも名がアル。
人質129人解放のに政治家荒船清十郎が身代わりになった
政治家がマダ威厳があった頃
129人そのひとりに聖路加の日野原重明 医師もいたこと
世は混沌としてた。
ひそかに帰国
入出国を繰り返してた
88年旅券法違反
93年国外移送略取で5年刑
94年出所
最近はひとりで生活してた.
俳人・辻田克巳(1931(昭6年) 京都府のひと。
山口誓子、秋元不死男に師事。
昭和32年「天狼」,氷海入会。
平成2年「幡」創刊主宰。
句集:『明眸』『オペ記』『頬杖』『辻田克巳句集』『昼寝』『焦螟』『稗史』『ナルキソス』
昼寝などしてゐるうちに逃げられし
栗の虫すまなささうに出で来る
子供など朝から居らずこどもの日
すぐ横にくちびるがある花火の夜
鳴く雁を仰ぐ六才ともなれば
二階より素足下りくる春の朝
何時も入る妻がいぬ。
朱色の花に妻を重ね思い出す。
NHKラジオ深夜便柴田規久子アンカー教えるきょうの一句
妻の居ぬ 一日永し 花石榴
辻田克巳
世界遺産、朝ドラ、菅直人
三題噺でお祝いー噺の続きで終い完結。
さぁアップでニュースを知る
急遽差し替え
これが酷くなった.
軽い分裂症状ではないのか.
パソコンを枕に寝てるー
PC師匠のお猫さん写真でみたあの状態ー
いやはや岩手の皆様には
これまでのご努力を称えて心よりお祝いの言葉を述べたい
悲願が実り、ワクわくとする。
おめでとう御座います。
いやぁこれは嬉しい。
ニュースが流れる
2007年の「石見銀山遺跡とその文化的景観」(島根県)以来で、12件目。
自然遺産を含めると、24日の小笠原諸島(東京都)に次ぎ16件目となる。
歴史好きの爺目に言わすれば、
なんか並べられると
順序が逆だろう・・
おそいっ!
そういえば雅の都では
法然入滅800年の鎮魂にアル年だ。
浄土のお話絡むので花を添えたものだ
遺徳なんだろうか
華やかな源平絵巻の争いが国の歴史の表舞台にあるが
これに隠れて同じ時期。
安倍氏、清原氏の東北地方の覇権争いは前九年の役、後三年の役を経て、
義経に使えた佐藤兄弟が母を通じてDNAを受け継いだ.
全国にアル佐藤姓の御先祖さま。
清衡がDNA受け継ぎの生き残る。
実父の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。
これが奥州藤原氏の始まり。
1105年長治2年に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。
1117年永久5年に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興。
その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・
雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったという。
1124年天治元年に清衡によって中尊寺金色堂が建立。
屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆う奥州藤原氏の権力と財力の象徴物。
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、
平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市。
戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。
平泉の金文化を支えたと伝えられている金鉱山。
今度の町ごと消滅の大震災地とかぶる
大谷(宮城県気仙沼市)、
鹿折(宮城県気仙沼市)、
玉山(岩手県陸前高田市)、
八針(岩手県気仙郡)、
今出山(岩手県大船渡市)。
1185年文治元年源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
1189年文治5年秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索
結果滅ばされた
822年前のこと
金色堂といえば爺目ら世代は
今 東光 (1898年(明31年)~1977年)千葉の人がダブル。
時代劇小説家でのち参議院議員
作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海は弟。
儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。
医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。
国家主義者の伊東六十次郎は従弟。
外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。
コレラが素養となり、学士でないゆえ菊池寛から疎まれたが
発奮作品に生かされた.
画家新感覚派作家として出発、東郷青児、佐藤春夫らと親交を結び、
東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。
東郷のとりもちで、燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも交際。
1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」掲載、
1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐ。
谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、
1920年、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と称し、
芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1921年、川端の推薦で第6次「新思潮」の発刊参加。
『支那文学大観』の刊行に際しては
「桃花扇」「牡丹亭」等の訳出を担当
帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖。
出家後は住職として住んだ河内や津軽・平泉など
奥州を題材にした作品で知られる。
両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、
平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆
、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去したため、未完
大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。
文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)
1965年11月、僧正、
1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた
1968年5月、落慶大法要執行
1973年11月の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、
師僧となり「春聴」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
新聞記事を何度も読んだ記憶がアル。
1969年天台宗による「一隅を照らす運動」その初代会長
葬儀模様をはニュースで知っている.
東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、
椎名悦三郎が続き、皇太子殿下からの供花、福田赳夫首相の献香、
宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が延々と続いた。
坪内寿夫、竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らの参列者.
週刊誌を何冊か購入した.
墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、
柴田錬三郎の撰文による文学碑にお参りした。
中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔がアルらしい。
寛永寺における折々の偲ぶ会
松本清張、陳舜臣、半村良も駆けつけている。
作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、
一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。
直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、
大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、
吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。
古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、
また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠正成)」など歴史小説を数多く創作
自伝史的
『悪名』は1961年に勝新太郎・田宮二郎出演の映画となりシリーズ化されるほど大ヒットした。
短篇「闘鶏」は男として永田町の幼さを見ると欠かせない.
今 東光の破天荒の人生
よく身につまされる。
加えてこの国の現状を見る
最小不幸社会を信奉、標榜する政権はいけないと
アル意味政策目標は達している
最小不幸社会に成りつつある
国家が溶解しつつアル。
・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、
・ロシア大統領の北方領土訪問、
・韓国閣僚の竹島訪問
「ベトナムに2基の原発を売りつけた」と自慢したばかり。
それなのに舌の根も乾かないうちに「脱原発」
8月には「脱原発」争点で解散し、
総選挙と小泉純一郎路線踏襲を目論む
菅直人は完全に狂っている
救国の政治家が皆無で,殷の暴虐王・紂王のような狂った暴君が居座る.
酒池肉林の紂王(ちゅうおう)のような暴君によって,
国家は滅んでいく。
日本という国は滅びる!
薩摩のDNAが考えるは思想の左右は別で常にひとつ。
もう菅や仙谷や枝野が辞めて,
小沢が総理になっても日本は助からない.
もう間にあわない.
米国に操られてる霞ヶ関特権官僚とCIAと
マスコミの総力をあげた小沢叩きに,国民も喝采する.
だから,何がどう変わろうと,この国は滅んでゆく….
死んで滅びたほうがいいのだ.
霞ヶ関特権官僚と,CIAと,マスコミが滅びなければ,この国は変わらない.
しかし特権官僚やマスコミの死は,数千万人の日本人の死のあとだ.
悲しい.ほんとうに哀しい.
敷島の 大和心を 人問はば
朝日に匂う 山桜花
ご来日のGAGAさまだって
最小不幸社会が総てを打ち消している
3/11以来この国はおかしくなるばかり
6・2の菅内閣不信任案問題
壮大な装置なるヤラセ・・
復興省トップ人事で亀井静香の声も届かなかった.
怨念の民主党政治は変わらない.
何故か
この国を思う如く操るアメリカの支配力があるからだ.
ドルのアメリカは経済の業に入って抜け出せない
宿命の戦争傾斜ドル体勢にアル。
それが劣化、同盟国の支援なければ成り立たない.
8/2ドル・デフォルトさえ囁かれる。
米国最大財閥のデイビッド・ロックフェラーが、連邦政府の「デフォルト」を容認、
基軸通貨ドルからアメロへの切り替えで、
借金半減によって身軽になりたいと策動している
米中関係深化の妨げとなっているのが米国の台湾への武器売却であり、
中国近海における米国の軍事的及び情報収集活動である。
米国は世界のどの地域にも自由に接近出来ることを当然視する
ただそれは、中国にとって米国の活動は恫喝的かつ押しつけがましく映る。
米国は大国として自らを律し、弱小国に対して繊細でなければならない。
こうした点に米国が配慮することが、
米中の軍事的信頼関係を醸成する上で欠かせない。
朝の連ドラの「おひさま」
ストリーは進んで終戦前と佳境ー
三人の仲良しのうち東京にいる友を心配して二人訪ねる
ところで24日放映の・・・この・・
昭和20年3月10日・・・東京都内が下町を中心に壊滅的な被害を
受けた東京大空襲の忌まわしい記憶。
横綱公園に慰霊堂がある。
記述ー
午前0時過ぎから約2時間に及ぶ米軍機による超低空空襲はまさ
に“じゅうたん爆撃”。
『東京空襲を記録する会』の調査
消失家屋は約27万戸、
罹災者は100万人、
死者は10万人
その後のこと
昭和20年4月19日
10時10分、P51戦闘機の少数編隊が
京浜地区上空に襲来して、
機銃掃射を開始
その空襲で
炎上した範多農園母屋
母屋と同時に全焼してしまった長屋門
H・ハンターの夢と資産を次ぎ込んだ
調度や書画 骨董もことごとく灰になってしまった。
たった一つの蔵を残して
全く何も持ち出せない状態
それらの中には国宝級の美術品も含まれていた。
長年かけて収集した貴重な蝶の標本は、
数日後に東大農学部に寄贈する手はずになっていた
警視庁警備課総務係の記録。
「被害状況追加
①4月19日10時10分頃、北多摩郡武蔵野町、小平町、
調布町附近上空ニ小型機延19機来襲、
機銃掃射ヲ受け次の被害ヲ生ズ。
②小平町鈴木新田7725番地範多範三郎方2棟全焼ス」。
(H・ハンターの当時の戸籍名は範多範三郎)
数行の記述では、損失規模の大きさも被害額も想像を寄せ付けな
いが、現在の価格に換算すれば十数億円に上るとみられている。
戦後66年その日からも4月19日で66年目。
さらに、その1ヵ月後の空襲で赤坂・榎町にあった『範多事務所』も、灰
燼に帰してしまった。
これらの空襲でH・ハンターの足跡も功績も歴史も。
H・ハンターの自室床の間。
矢印で指しているのは鯛生金山
で産出した銀塊。
火事場泥棒に持ち去られたという。
H・ハンターが最も愛していた暖炉の間。
飛び切り高級のペルシャ絨毯も灰に。
宮崎での貴重な歴史も消えた
ええっ?ナンノコト?
手元に擬似針で吊り上げた鮎がアル
フライ・フィシングの祖は鉱山師H・ハンターこの人の発明である。
富士五湖のマスのフライ・フィシングなぞ愛好家のファンに知れてること.
体が求める蛋白源確保で三財川で良くやったものだ.
趣味でなく生きるためであった.
季節狙い目で擬似針の色大きさを変えた研究心がいった.
その研究心の差は漁獲量に大差が出た.
宮崎日之影見立で活躍したH・ハンター
何処にいるの
曹洞宗総本山・総持寺
「総持寺 ?なんか聞いたことあるな・・横浜・・」
総持寺境内に咲いていた彼岸花
裕次郎ファンの手向ける線香が絶えない.
そこは・・
H・ハンターが眠る墓もある。
右が離婚した妻の森家の墓。
両家の墓は石原裕次郎の墓の筋向いにある。
昭和22年9月24日、ハンス・ハンターこと範多範三郎は波乱の人生を終えた。
痛切な幕切れだった。享年64歳
宮崎県日之影町見立地区に、『英国館』と呼ばれる欧風の古い館が再興されて忍べる.。
見立川上流、深い谷と森林に囲まれた英国館は、大正末期に見立鉱山の経営者であった、
ハンス・ハンターが、英国から招いた鉱山技師の住居と社交の場として建てたもの。
その当時は、「倶楽部」と呼ばれてました。
当時の日本の洋風建築としては珍しいレイモンド建築様式が用いられ、
丸太材や幅の広い一枚板を使用するなど木の魅力を十分に活かした構造である。
室内には、水洗トイレ、暖炉、電気ストーブ、スチーム暖炉などの設備があり、当時の西欧の生活水準の高さを物語る。
見立鉱山の閉山によりこの建物も荒廃したが、昭和六十年に日之影町がラサ工業(株)から譲り受けた。
現在の建物は、昭和六十一年十一月に日之影町により修復、再現。
当時の建築様式の趣と暮らしをそのままに、
見立鉱山の繁栄を伝える大切な資料館。
見立鉱山は国内で唯一の錫鉱山であり、満州事変(昭和6年9月18日)を契機に
富国強兵策や軍需産業の拡大により錫精鉱の需要は増大し
ていた。
錫はメッキや合金として軍艦の大砲の軸受けや飛行機のプロペラシャフトなど兵器に欠かせないという。
その当時、見立鉱山には精錬所がなかったため、
鉱石は延岡、門司を経てはるばるシンガポールとペナン島まで運ばれ、
現地の『ストレート・トレーディングcom.とペナン・スメルティングcom.で精錬・製品化
日本に輸入されていた。
両社は見立鉱山(東洋鉱山kk)の親会社アングロ・オリエント・マイニング社の関係会社であった。
大分鯛生金山と同様にH・ハンターは見立鉱山にも和洋折衷のクラブハウスを建設した
ハンター氏が逗留中の宿泊施設であり、社交の場として使われた。
見立鉱山鉱脈の発見はふるい.
安土桃山時代の天正10年(1583)、織田信長に滅ぼされた甲州武田勝頼
の家臣高見但馬守安利が家族と僚友の馬場新右衛門と共に、諸国を流
浪して日向の国(宮崎県)にたどり着く。
江戸時代寛永3年(1627)に現在の日之影町見立の五葉岳山麓に洞岳鉱
を、同8年に大吹(大福)鉱を開いたと伝えられる。武田一族は採鉱冶金技
術に長けており、見立に鉱脈を発見したと言われている。
元禄4年(1691)見立鉱山の前身・大吹(大福)鉱山を発見した馬場新右衛
門が大福山を通りかけた時に、見当たり「見立山」と名づけたことから、
『見立』と呼ばれるようになった。
ハンス・ハンターはイギ
リス人実業家の父親と日本人の母親の間に生まれ、 日本名は範多範三
郎と名乗っていた。彼の父親は関西で一二を争う大財閥
ハンター氏は麹町に本宅を、麻布周辺に別宅も構えており、 その別宅の
庭に“越前さんの蔵” があったそうだ。
元々は大岡越前守屋敷にあったといわれる土蔵を、ハンター氏が惚れ込ん
で別宅に移築して、さらに小平に農園を設けるのと前後して、麻布区宮村
町(現在の港区麻布十番) にあった別宅から蔵も移築されたとのこと
範多農園の跡地である日本植物防疫研究所である。
これがまたこの県の発見の歴史につならる。
H・ハンターが大分鯛生金山から手を引いて、
次に手がけたのは宮崎県北部山峡にあった見立鉱山の開発事業。
同鉱山は宮崎、熊本、大分3県の県境に近く、現在でも秘境とされる日之影町の最奥地にあった。
「見立鉱山へは延岡から日之影まで18里、
さらに日之影渓谷に沿って険しい山道を遡ること12里。
天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が降臨した伝えのある高千穂峰や天の岩戸に隣接した神話伝説
の故郷と書かれている。」
見立鉱山の歴史は古く、鉱脈の発見は江戸初期に遡り、本格的に採
掘されるようになった元禄元年 (1688) 当時、この山峡は鉱山夫をはじ
め家族や行商人など多くの人々で賑わい遊郭跡も認められる。
宝暦年間(1751~1763)には錫2,000斤(1.2t) を生産したと記録され
ている。その30年後あたりから減産のため中止してまた明治15年頃から
再開され、明治41年(1908)に旧延岡藩主内藤家に買収された複雑な
経緯がある。
大正6年(1917)内藤家によって本格的に操業が開始されたものの、錫
価の暴落で同10年(1921)には休山していた見立鉱山をH・ハンターが再開に乗り出した。
英国人鉱山技師A.R.ワイゴール の調査により将来性を見込んで、
鯛生金山時代の外国人技師8名を見立鉱山に移駐させた。
見立鉱山の再開発にあたって、日之影までの専用道路の拡幅改良工事を行い、
地形その他詳細を16ミリフィルムに映してロンドンの本社に送り、送鉱ケーブルの配置や選鉱場などの位置規模も本社で検討された。
その設計図に基づいて資材一切もロンドンで調達され、日産20トン能力の選鉱場を建設。
昭和2年11月頃から錫精鉱の生産が再開された。
外国資本で本格的に操業された国内鉱山事業の初めてのケースだった。
日之影から中間地点ぐらいに異様なる光景が目に入る
戸川地区は「石垣の村」とも呼ばれ、この景観の素晴らしさは「日本の棚田百選」に選定されてる。
戸川地区は日之影川に沿ってたたずむ戸数7戸の小さな集落
見事なほどに膨大な石垣が棚田を守るように続いている。
村の歴史は定かではなく、孤立したこの集落の人々は自然石に守られ、
代々自給自足で生活してきたんであろう。
、最も古い石垣は嘉永から安政年間に築かれたもので、
この記録に記された石工は江戸城の修復にも招かれてるという。
この田舎でも箱もの行政
村の中心部には軽食と宿泊研修施設を兼ねた石垣茶屋が整備され、
唯一の 宿泊施設でもアル。
驚くなかれ
1泊 部屋使用料/1人\840
ただし寝具持ち込み
寝具使用料/1人\1,155
石垣茶屋
電話:0982-87-2295
日之影町村おこし総合産業株式会社
電話:0982-87-2491
ココへ経は二人旅
いつもここで批判してる創価の市会議員さんである不可思議さ.
公と私は別で国家的立場での創価をを批判してるわけで
田舎では呉越同舟、
政治的立場の右も左もない.
三題噺もいよいよ佳境ー
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