今日の誕生日の花は・・・・チングルマ
花言葉は・・・・・・・・・可憐
この花を知らない。
こちらに写真がある。
web.hakuba.ne.jp/potatoes/botanic/chinguruma.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%9E
爺になっても左右両党で花より団子!?
食したことないんだが・・
富山銘菓の「ちんぐるま」はこちら↓。
http://www.toyamameika.com/shop/08-asahido/index.html
高山に花畑を作るちんぐるま。
ハナ後に綿帽子みたいにつける姿が幼子の風座車に似てるゆえの花言葉。
歌手新沼賢治「大雪よ」
一説にアル
「限られた夏を精一杯生きる」
日本一の官僚を生み出す県の富山の生活の屏風の山々
似通っている。
立山へ 一歩をしるす ちんぐるま
緑陰をもとめ海へ山へ
買いためた蔵書の山や活字の海へ。
ところがである。
今年の夏になんか足りないもの
こうてい疫騒動、選挙戦、ゲリラ豪雨の中の喧騒ので感じていた
・・・・・
ソウダッ!
サザンオールスターズのあの新曲のリズムが流れないこと。
夏到来を知らせる夏男のリズムがないこと。
今年は夏が来ない。
茅ヶ崎、湘南の波が悲しんでいる。
なんなだろう。
職業柄にシテの患部の場所が場所だ
無理なる声量の長年の酷使に素因があるんだろうか。
あれはポリープとそのものを言ってた。
茅ヶ崎は桑田リズムの原点たる添田 唖蝉坊の癒しの場所でもアル
桑田佳祐、初期段階の食道がんを公表
新作発売延期、全国ツアー中止
ニュースにある。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/j_rock_and_pops/?1280291342
戦後65年もかけてようやく国民目線の政府を持った。
無血革命である。
酔いによった8ヶ月
参議院選挙を終えて時計の針は大きく後戻り。
鳩から菅へ。
だれもが鳩が豆食った状態。
目を白黒。
なんなのコレ?
かって佐藤栄作だったと思うが
「参議院を制するものは日本を制す」
菅民主党内閣は法案の一つも成立させることは出来ない。
死に体内閣である。
ところが誰一人責任を明確にしない。
戦後自民党内閣にさえなかったこと。
政治的不道徳にどの野党も連立の手を差し伸べない。
河豚は食いたい命は惜しし状態。
権力の魔力の蜜さえに寄り付かぬ不可思議さ。
政治的堕落暴挙であるゆえだ。
きわめつけは
落選議員でさえ「民間出身」の詭弁を労して大臣に居座る。
それがである
死刑廃止論者の政治家だったハズなのに急変。
28日いき成りの死刑執行ッ!
正気の沙汰ではない。
選挙敗北の翌日に恐ろしブログがあった。
ネット界隈で盛り上がっている。
現代版の川上音二郎、添田 唖蝉坊、石田 一松そして同時代人高田 渡・・・である。
さすがに師・植草一秀ブログである、
明治のロマン香る壮士節ではないか。
コロッケにでもレコーディングされるをすすめスル。
2010年7月12日 (月)
『菅敗』-菅直人首相参院選完敗の歌-
第22回参議院選挙菅直人首相完敗の歌
『菅敗』
(長渕剛「乾杯」のメロディーで)
かたい絆を あっさり捨てて
仁義を尽くさぬ 裏切りの日々
小沢を傷つけ 出世を喜び
総理の椅子に座った あの日
あれからどれくらい たったのだろう
参院議席を いくつ数えたろう
民主支援者は いまでも君の
心の中にいますか?
完敗!
いま君は人生の厳しく悲しい舞台を去り
はるか険しい道のりを歩き始めた
民主に幸せあれ!
スポットライトの 中の総理は
責任逃れに 血眼(ちまなこ)になる
消費税大増税 言い出したのは君
言い訳なんか しないほうがいい!
選挙の洗礼を 身体に浴びて
振りかえらずに そのまま引けばよい
風に吹かれても 雨に打たれても
信じた政策に 背を向けるな
完敗!
いま君は党内の歪んでねじれた舞台を去り
再編始まる道のりが開き始める
民主に出直しあれ!
完敗!
いま君は党内の歪んでねじれた舞台を去り
国民主権の道のりが開き始める
民主に再生あれ!
民主に再生あれ!
森、渡部両氏「民自の大連立を」
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100724/stt1007240037000-n1.htm
菅仙石枝野体勢を影で会合を主唱してたのは渡部恒三である。
民主党+自民党の組み合わせはあるうる選択肢。
政権復帰に犬猿の仲の村山社会党内閣さえ自民党は画策成就した経緯がある。
一寸先は闇が永田町の定説。
その確証がある裏づけが鳩山由紀夫の復権、その政治的復活。。
「大連立の議論が出たら、民主党を離れますよ」
鳩山前首相、菅政権にダメ出し
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1279847199/
団塊の世代は演歌一色から1967年来日ビートルズの洗礼を受けイロイロの変遷の音楽を許容して来た。
若者のレゲー流行は1973年ボブマリーのレーゲーコンクリートを起源とする。確か。
米ロックをとりいれてメジャー化したリズムのハズ。
ロックの魂をよりいれた74年アイショットザシェルフで不動のものとした。
魂の曲の真髄はジャマイカの腐敗の政情不安への抗議でもある。
73年ロンドンライブは伝説化されている。
サザンの桑田も参考にしたゲットアップ・スタンドアップ。
75年ロンドンの神がかり的はライブの真骨頂
聞き手も体ごとのスタイルのロンドンシアター。ノマン・ノーライ
8年の活動で36歳で逝った。
jポップが興隆
60年代の名曲群
カバーポップス
29日深夜3時から放送された。
嗚呼!わが青春は永久に
心から何故に今宵の如く心から楽しめなかったのだろうか。
焦りで屈折していた・・・。
涙が滲む・・・
、
① 弘田三枝子
「バケーション」
あのダイナミック曲を歌ったのは中学生のとき
同学年生世代のボィツシュ、リズムに驚いたものである。
おかげで英単語のバケーションの綴りだけは忘れない。
②坂本九&ダニー飯田とパラダイシキング
昭和35年「ビキニスタイルのお嬢さん」
詩・岩谷ときこ
③九重祐美子&ダニー飯田とパラダイシキングダニー飯田とパラダイシキング
「シェリー」
詩・さざなみけんじ
④伊東ゆかり
「ロコモーション」
詩・おとわたかし
本来はリッル・エバーでヒット
ロコモーションとはダンススタイル
電車ゴッコみたいに並んで肩に手を乗せ踊る。
ツイスト、モンキーといろいろ会ったダンス曲と同じである。
シェリー
マッシュポテトとあの人と共に水辺で踊ろう
⑤ザ・ピーナツ
「南京豆売り」
詩・おとわたかし
⑥西田佐知子
「コヒールンバ」
詩・なかざわせいじ
荻野目、ヨウスイ
ボヘミアンのかつらぎがカサバーしている
⑦ニーナ
「砂に消えた涙」
詩・さざなみけんじ
月影のナポリ森山加代子の逆版
外国人が日本語で歌う。
⑧コニーフランシス
「渚のデート」
詩・さざなみけんじ
カバーポップス
20代後半
センスで日本語詩
しゃれて軽妙覚えやすい言葉
⑨きもとよしお
「サマーホリディ」
詩みなみかずみ
⑩田代みどり
「パイナップルプリンセス」
可愛いえくぼがはちきれんばかりで零れ落ちそう
九重祐美子のロッテチョコCMより勝ってた
⑪梓みちよ
「ワンボーイ」
詩かもりょうじ
⑫弘田三枝子
「悲しき片思い」
♪うぉぉぉぉイェイイェイ~♪
♪こんな気持ちがいつまで続くのかしら~♪
切ない・・な~
⑬坂本九
「素敵なタイミング」
♪テカテカテカ~~
♪タイミング
♪この世で一番大事なのは~
♪ステキナタイミング♪
フォーク初代世代でもある。
苦々しくも笑いながら1971年の第3回全日本フォークジャンボリー
「自衛隊に入ろう」の3:11。
逆説的アンチテーゼに驚いたものである。
高田渡である。
ペーソス溢れる醸しだす雰囲気が心地いい
何故か。
川上、添田 唖蝉坊、石田 一松
の流れを汲んでいるゆえ。
高田渡のデビューは69年。
1960年代末、京都に拠点を移す。
高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在
当時としては珍しいスプリット形式のアルバム。
五つの赤い風船というグループとレコードの片面ずつを分け合う、
キツイ毒気とやるせない心情が綴られた絶妙な歌詞、高度なギター演奏、
カントリーやフォークを独自に解釈した個性は完全に確立されている。
初めての個人名義の作品は同年の「汽車が田舎を通るそのとき」
画期的レコード。
高田渡/五つの赤い風船 の1998年9月30日発売・東芝EMIに収まってる
「値上げ」
映像原曲はコチラ。↓
とちってても許せる不思議さ。
ライブである。
http://www.youtube.com/watch?v=ngcIIpT5wxs
値上げは、全然考えぬ。
年内、値上げは考えぬ。
当分、値上げはありえない。
極力、値上げは抑えたい。
今の所、値上げは見送りたい。
すぐに、値上げは認めない。
値上げがあるとしても今ではない。
なるべく値上げは避けたい。
値上げせざるを得ないと云う声もあるが、
値上げするかどうかは検討中である。
値上げもさけられないかもしれないが、まだまだ時期が早すぎる。
値上げの時期は考えたい。
値上げを認めた訳ではない。
すぐに値上げはしたくない。
値上げには消極的であるが、年内値上げもやむを得ぬ。
近く、値上げもやむを得ぬ。
値上げもやむを得ぬ。
値上げにふみきろう。
子息高田漣風に
「菅内閣の大連立」
大連立は ぜんぜん考えぬ
年内 大連立は考えぬ
当分大連立はありえない
極力 大連立はおさえたい
今のところ 大連立はみおくりたい
すぐに 大連立を認めない
大連立があるとしても今ではない
なるべく大連立は避けたい
大連立せざるを得ないという声もあるが
大連立するかどうかは検討中である
大連立も避けられないかもしれないが
まだまだ時期が早すぎる
大連立の時期は考えたい
大連立を認めたわけではない
すぐに大連立はしたくない
大連立には消極的であるが
年内 大連立もやむを得ぬ
近く 大連立もやむを得ぬ
大連立もやむを得ぬ
大連立にふみきろう
評論家の江藤淳は、「戦後の日本は、経済分野でのみ、自己実現が許されてきた」と喝破。
自己実現できなかった分野は、複雑に屈折し、共依存に向かう。
安保分野がそう。
さらなる問題は、ポスト冷戦以降、経済分野での自己主張、自己実現にも抑圧がかかっている。
医療現場のカウンセリングで痛感。
共依存からの離脱は手間取る。
自己主張を幾重も封じられた心は、共依存にとどまるべき理由を無限に見つけ出す。
世界的オペラ「あ~る晴れた日に・・」
蝶々夫人には、おそらく圧力を加えられた隠されたエピソードがあるはず、
その地での
海援隊のいろは丸船体絵図が28日見つかったらしい。
最初の海難事故さえ交渉で和歌山藩を論破し賠償金をせしめたた龍馬。
中東では28日商船三井の船が沈んだ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100728-00000747-yom-int
何か起きそうである。
検証可能な戦後史をみても、現実に、日本の指導層は、米側から圧力を受けている。
だが、はね返して、持論を貫いた政治家も。
ジャーナリスト出身の石橋湛山も鳩山由紀夫の祖父鳩山一郎、そうした稀有な人々。
日ソ講和に痛んだ体を引きずり訪ソした信念の宰相。
由紀夫再総理で日ソの総仕上げしてもらいたい。
もちろん北方四島の領土の返還というお土産の
民族の悲願の成就にある。
まだ米国の植民地化
ソ連後のロシアの領土侵略は終わってない。
この国の戦後65年の占領政策化は終了していない。
戦後世代三代目にして成し遂げてもらえないものか。
ご先祖様英霊300万人に申し訳が立たない。
この国に独立に向かおうとした指導者はいたが、米側の圧力で潰されてきた。
そうしたエピソードは、ネットなき時代はほとんど知られていない。
ゆえにネット社会では謀略論でしか語られない難しさ。
なぜこの様な事態に?
団塊の世代の大学進学率は10パーセントもなかった。
高学歴社会と名はナニゾ!
何を学んでいるのか。
象牙の塔内ではナニが論じられているのか。
政治の堕落はDNAの正統なる受け継ぎなき其処にある。
国民はその民度に合った指導者しか擁けない」からか?
○1836年パリ凱旋門完成。
命令者ナポレオンは30年もかかったゆえ見ざるして死去。
○1890年ゴッホピストル自殺
生前売れた絵は一枚だけ。
○1921年ミュンヘン、32才ヒトラー党首へ。
○1960年沖縄カテナ基地からサイゴンに米軍機が飛び立つ。
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①川上音二郎
は以前触れたので略
②添田 唖蝉坊
WIKIは便利なモンで教えていただける。
敬愛する長寿ラジオ番組の「こころだ~~~」小沢昭一はじめ定本三冊での記述がある。
小沢昭一『流行り唄五十年 唖蝉坊は歌う』朝日新聞出版 2008年
木村聖哉『添田唖蝉坊・知道ー演歌二代風狂伝』リブロポート 1987年
加賀誠一『道なきを行く わが青春に小説「教育者」ありき』西田書店 1991年
添田 唖蝉坊( あぜんぼう1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、本名・添田平吉
明治・大正期に活躍した演歌師の草分けである。
号は、自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。
神奈川県の大磯の農家の出
海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいた
海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。
以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していた
1890年(明治23年)、壮士節と出会う。
当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中
自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のもの。
唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を刊した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いた
のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指す。
自身が演歌の歌詞を書くようになる。
唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、
「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで
、1892年(明治25年)の作である。
これ以降、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。
1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。
1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。
翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。
この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、
茅ヶ崎に引っ込む
「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった
「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行。
これがきっかけで、堺利彦に依頼されて、この改作である社会党喇叭節を作詞。
1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になる
その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。
1910年(明治43年)、妻タケが27歳で死去。
唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。
やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。
なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。
その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。
そこで死去した。
浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉の碑が、添田知道筆塚と共にある。
妻タケが死去してから唖蝉坊が住んでいた下谷地区にあった貧民学校、
下谷万年小学校の校長は坂本龍之輔
のち子息添田知道はその小学校に入学し、彼に教えを受けた。
知道の著『小説 教育者』は当時の教育体験を背景にしたもので、主人公は坂本であり、
小説といいつつも、かなり史実に添ったものである。
添田父子は、坂本と深い親交を持っていたといわれるが、知道が途中で挫折したため、
この小説は添田父子が登場するところまでは書かれていない。
竹中労の文とかわぐちかいじの挿絵による『黒旗水滸伝 大正地獄編』(皓星社 2000年)
この中では、
唖蝉坊は香具師―テキヤの世界の飯島源次郎、
その実子分(跡目候補)山田春雄、
あるいは倉持忠助の大立物と親交をもち
、客分として尊敬を受ける演歌師として登場している。
近代露天商組合のリーダーで、国会議員にもなった倉持は、
自身演歌師の出身でもあり、唖蝉坊を師と仰いでいたという。
また石田一松が歌い大ヒットした『のんき節』は、唖蝉坊の作品に手を加えて作ったもの。
他に演歌の収集、保存でも功績のあった小沢昭一は、
その駆け出しの頃、添田父子と親交があったという。
1960年代以降、高石ともや、高田渡、加川良ら日本のフォークシンガーが好んで彼の作品を唄い、
日本のフォークソングの原形として広まった。
しかし、壮士演歌が全く俗な艶唄(つやうた)にすりかえられたように、
日本のフォークソングも、アコースティックギターを使っただけの艶唄のようなものにすり替わったことまで共通している。
1990年代に入り、
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のチンドン・スタイルの
別動隊「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」が、唖蝉坊の『ラッパ節』『むらさき節』『ああわからない』
などをレパートリーにしている。
、『アジール・チンドン』、『レヴェラーズ・チンドン』、『デラシネ・チンドン』
にそれぞれ収録している。
なお、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」は、
唖蝉坊の息子添田さつきの『東京節』『復興節』『ストトン節』
も上記のアルバムでとりあげている。
『添田唖蝉坊・知道著作集』全5巻・別巻1 刀水書房、1982-84年
唖蝉坊流生記 (解説・荒瀬豊)
浅草底流記 (解説・小沢昭一)
空襲下日記 (解説・荒瀬豊)
演歌の明治大正史 (解説・安田武)
日本春歌考 (解説・大島渚)
別巻 流行歌明治大正史 (解説・小島美子)
『唖蝉坊流生記』が、唖蝉坊のもので、同巻には知道の書いた唖蝉坊のその後の様子を伝える著作が含まれている。
その他は、知道の著作。
『日本春歌考』は、大島渚の同名の映画の下敷きになったものだが
、本の内容は春歌の収集と考察について書かれたものであり、これがそのまま映画になったのではない。
③石田 一松
選挙形式の全国区、今は露骨に言わないゆえ比例区と呼ぶ
タレント議員誕生のシステムである。
タレントとの言葉無きゆえ芸能人代議士 という
第一号は誰か
1946年4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙
一人一党の日本正論党を掲げ大選挙区の東京1区から立候補。
この選挙は全国的に女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだ
東京一区では鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らが当選した。
、石田は演説の間に持ち歌を歌って人気を集める。
「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」
結果は・・・
7位で見事当選。
「芸能人代議士誕生」今日言われるタレント議員・第一号とされ、その草分けとされる。
この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回
三木武夫と行動を共にし国民協同党、改進党に属した。
どうするんだろう、谷亮子どこではない。
議席を得ても芸能活動は辞めない。
昼は国会、夜はステージに立った。
1951年、国民民主党に名前を変えていた党の党議に背き
日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、
“全面講和”を主張して離党。
1953年の「バカヤロー解散」による総選挙で落選。
1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。
ヒロポン中毒に悩まされながら寄席に出演し続けた。
1956年、身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去。享年53
『のんき節』の替え歌で世相を炙り出しヤンヤの喝采
自著 『のんき哲学』に残る。
「鮹に骨なしナマコに眼なし 政府に策なし議員に抱負なし 民に職なし 愛もなし 皮肉にや抱負と骨がある へゝのんきだね」
「鬼畜米英アメリカという字は米と書く 米は朝日にてらされて やがて日本のままになる へゝのんきだね」
「權利々々と振りまはされては 權利も權利にやなりかねる 權利を振り廻しすぎますと 利権あさりと間違へる へゝのんきだね」
「物の闇なら物さへ作りや 闇はやむけどやみ難い 人の心に悲しい闇の 影がさしたら世は闇ぢゃ へゝのんきだね」
「正邪善惡非富不富は 人の心の奥にある 善をなしてるつもりでも つもりは心ぢゃありません へゝのんきだね」
「醜い南瓜に唇よせて だまつて見てゐる青い空 南瓜はなんにもいはないけれど 南瓜の氣持はよく判る へゝのんきだね」
「生きてゐりやこそ平和も御座る 死んで花見があるものか 焦土に芽をふく名無草 咲こうよ日本の平和境 へゝのんきだね」
④高田 渡
なぎら健壱の土曜日朝6時はフォークの歴史を追い珠玉の時間。
この人は醸しだす物が総て高田 渡の薫陶を受けタル弟子であるゆえ。
1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤GWAN博、林ヒロシ、
林亭(佐久間順平・大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。
高田 渡(1949年1月1日 - 2005年4月16日)は、1960年代から1990年代にかけて活躍したフォークシンガー。
父親は、詩人・元共産党員・活動家・の高田豊。
スティールギタリストの高田漣は息子。
岐阜県北方町出身、実父は資産家で篤志家で破産、
東京都深川の援護施設で父子生活をする。
少年時代の一時期、佐賀県鹿島市で育てられた。
沖縄出身の山之口貘、金子光晴、草野心平らの現代詩にフォークのスタンダードを
組み合わせ全く別物をつくり上げる作業を得意とした。、
添田唖蝉坊の流れを汲み時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、
皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。
岡林らとの「三億円強奪事件の唄」「自衛隊に入ろう」、「転回」「しらみの旅」「生活の柄」「長屋の路地に」
「鉱夫の祈り」など数多くのアメリカ民謡に詞を乗せた名曲を生み出している
全て原曲はアメリカ楽曲。
「自衛隊に入ろう」は、1968年の第3回関西フォークキャンプ、
1969年の第4回関西フォークキャンプのコンサートのライブ録音が有名。
1960年代後半に、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)
、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。
1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。
「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与える。
1969年にURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー。
また後に、京都のひがしのひとし、古川豪らと親交を深める。
全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。
また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、
フォークシンガーとしてデビューさせる
弾き語りと対話形式の『汽車が田舎を通るそのとき』をリリース。
キングから、大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。
この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、
後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」が収録されている。
「吉祥寺フォーク」の仲間たちと
1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤GWAN博、林ヒロシ、林亭(佐久間順平・大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。
1971年の第3回全日本フォークジャンボリーでジャグ・バンド武蔵野タンポポ団を編成。吉祥寺派に加えて中川イサト、山本コウタローが参加。また、シバ・いとうたかおが武蔵野タンポポ団により人気者に。そのときの模様は、『武蔵野タンポポ団の伝説』『もうひとつの伝説』としてベルウッドからリリース。
『系図』では、タンポポ団を従えてレコーディング。いとうたかおの唄う「あしたはきっと」が収録され、それが好評で、いとうのアルバムデビューの布石となる。 1970年代半ば、カントリー・ブルーグラス色をより深める。
1973年、薗田憲一 (薗田憲一とディキシーキングス)、柳田ヒロを従えた『石』をリリース。
1976年、細野晴臣、中川イサト、ヴァン・ダイク・パークスらをバックに、『FISHIN’ ON SUNDAY』をリリース。春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどに参加。
1977年、佐久間順平らとヒルトップ・ストリングスバンド結成。フォーライフ・レコードから『バーボンストリート・ブルース』を発表。
1983年、『ねこのねごと』リリース。
1993年、『渡』リリース。
1999年、ライヴアルバム『ベストライブ』発表。
2001年、『日本に来た外国詩…。』リリース。
2004年、彼の日常のドキュメント映画『タカダワタル的』が発表され注目を集める。
2005年4月3日、北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院。
4月16日午前1時22分、入院先の北海道釧路市の病院で心不全により死去。
56歳没。死の直前に病院でカトリックの洗礼を受け(洗礼名パウロ)、
葬儀ミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われた。
2008年、『タカダワタル的』に続くドキュメント映画『タカダワタル的ゼロ』が公開。
高田渡のレコード・CDはURC音源の販売権の移動により、同一の作品が時期により違った
レコード会社から発売されている(詳細はアングラレコードクラブを参照)。
花言葉は・・・・・・・・・可憐
この花を知らない。
こちらに写真がある。
web.hakuba.ne.jp/potatoes/botanic/chinguruma.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%9E
爺になっても左右両党で花より団子!?
食したことないんだが・・
富山銘菓の「ちんぐるま」はこちら↓。
http://www.toyamameika.com/shop/08-asahido/index.html
高山に花畑を作るちんぐるま。
ハナ後に綿帽子みたいにつける姿が幼子の風座車に似てるゆえの花言葉。
歌手新沼賢治「大雪よ」
一説にアル
「限られた夏を精一杯生きる」
日本一の官僚を生み出す県の富山の生活の屏風の山々
似通っている。
立山へ 一歩をしるす ちんぐるま
緑陰をもとめ海へ山へ
買いためた蔵書の山や活字の海へ。
ところがである。
今年の夏になんか足りないもの
こうてい疫騒動、選挙戦、ゲリラ豪雨の中の喧騒ので感じていた
・・・・・
ソウダッ!
サザンオールスターズのあの新曲のリズムが流れないこと。
夏到来を知らせる夏男のリズムがないこと。
今年は夏が来ない。
茅ヶ崎、湘南の波が悲しんでいる。
なんなだろう。
職業柄にシテの患部の場所が場所だ
無理なる声量の長年の酷使に素因があるんだろうか。
あれはポリープとそのものを言ってた。
茅ヶ崎は桑田リズムの原点たる添田 唖蝉坊の癒しの場所でもアル
桑田佳祐、初期段階の食道がんを公表
新作発売延期、全国ツアー中止
ニュースにある。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/j_rock_and_pops/?1280291342
戦後65年もかけてようやく国民目線の政府を持った。
無血革命である。
酔いによった8ヶ月
参議院選挙を終えて時計の針は大きく後戻り。
鳩から菅へ。
だれもが鳩が豆食った状態。
目を白黒。
なんなのコレ?
かって佐藤栄作だったと思うが
「参議院を制するものは日本を制す」
菅民主党内閣は法案の一つも成立させることは出来ない。
死に体内閣である。
ところが誰一人責任を明確にしない。
戦後自民党内閣にさえなかったこと。
政治的不道徳にどの野党も連立の手を差し伸べない。
河豚は食いたい命は惜しし状態。
権力の魔力の蜜さえに寄り付かぬ不可思議さ。
政治的堕落暴挙であるゆえだ。
きわめつけは
落選議員でさえ「民間出身」の詭弁を労して大臣に居座る。
それがである
死刑廃止論者の政治家だったハズなのに急変。
28日いき成りの死刑執行ッ!
正気の沙汰ではない。
選挙敗北の翌日に恐ろしブログがあった。
ネット界隈で盛り上がっている。
現代版の川上音二郎、添田 唖蝉坊、石田 一松そして同時代人高田 渡・・・である。
さすがに師・植草一秀ブログである、
明治のロマン香る壮士節ではないか。
コロッケにでもレコーディングされるをすすめスル。
2010年7月12日 (月)
『菅敗』-菅直人首相参院選完敗の歌-
第22回参議院選挙菅直人首相完敗の歌
『菅敗』
(長渕剛「乾杯」のメロディーで)
かたい絆を あっさり捨てて
仁義を尽くさぬ 裏切りの日々
小沢を傷つけ 出世を喜び
総理の椅子に座った あの日
あれからどれくらい たったのだろう
参院議席を いくつ数えたろう
民主支援者は いまでも君の
心の中にいますか?
完敗!
いま君は人生の厳しく悲しい舞台を去り
はるか険しい道のりを歩き始めた
民主に幸せあれ!
スポットライトの 中の総理は
責任逃れに 血眼(ちまなこ)になる
消費税大増税 言い出したのは君
言い訳なんか しないほうがいい!
選挙の洗礼を 身体に浴びて
振りかえらずに そのまま引けばよい
風に吹かれても 雨に打たれても
信じた政策に 背を向けるな
完敗!
いま君は党内の歪んでねじれた舞台を去り
再編始まる道のりが開き始める
民主に出直しあれ!
完敗!
いま君は党内の歪んでねじれた舞台を去り
国民主権の道のりが開き始める
民主に再生あれ!
民主に再生あれ!
森、渡部両氏「民自の大連立を」
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100724/stt1007240037000-n1.htm
菅仙石枝野体勢を影で会合を主唱してたのは渡部恒三である。
民主党+自民党の組み合わせはあるうる選択肢。
政権復帰に犬猿の仲の村山社会党内閣さえ自民党は画策成就した経緯がある。
一寸先は闇が永田町の定説。
その確証がある裏づけが鳩山由紀夫の復権、その政治的復活。。
「大連立の議論が出たら、民主党を離れますよ」
鳩山前首相、菅政権にダメ出し
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1279847199/
団塊の世代は演歌一色から1967年来日ビートルズの洗礼を受けイロイロの変遷の音楽を許容して来た。
若者のレゲー流行は1973年ボブマリーのレーゲーコンクリートを起源とする。確か。
米ロックをとりいれてメジャー化したリズムのハズ。
ロックの魂をよりいれた74年アイショットザシェルフで不動のものとした。
魂の曲の真髄はジャマイカの腐敗の政情不安への抗議でもある。
73年ロンドンライブは伝説化されている。
サザンの桑田も参考にしたゲットアップ・スタンドアップ。
75年ロンドンの神がかり的はライブの真骨頂
聞き手も体ごとのスタイルのロンドンシアター。ノマン・ノーライ
8年の活動で36歳で逝った。
jポップが興隆
60年代の名曲群
カバーポップス
29日深夜3時から放送された。
嗚呼!わが青春は永久に
心から何故に今宵の如く心から楽しめなかったのだろうか。
焦りで屈折していた・・・。
涙が滲む・・・
、
① 弘田三枝子
「バケーション」
あのダイナミック曲を歌ったのは中学生のとき
同学年生世代のボィツシュ、リズムに驚いたものである。
おかげで英単語のバケーションの綴りだけは忘れない。
②坂本九&ダニー飯田とパラダイシキング
昭和35年「ビキニスタイルのお嬢さん」
詩・岩谷ときこ
③九重祐美子&ダニー飯田とパラダイシキングダニー飯田とパラダイシキング
「シェリー」
詩・さざなみけんじ
④伊東ゆかり
「ロコモーション」
詩・おとわたかし
本来はリッル・エバーでヒット
ロコモーションとはダンススタイル
電車ゴッコみたいに並んで肩に手を乗せ踊る。
ツイスト、モンキーといろいろ会ったダンス曲と同じである。
シェリー
マッシュポテトとあの人と共に水辺で踊ろう
⑤ザ・ピーナツ
「南京豆売り」
詩・おとわたかし
⑥西田佐知子
「コヒールンバ」
詩・なかざわせいじ
荻野目、ヨウスイ
ボヘミアンのかつらぎがカサバーしている
⑦ニーナ
「砂に消えた涙」
詩・さざなみけんじ
月影のナポリ森山加代子の逆版
外国人が日本語で歌う。
⑧コニーフランシス
「渚のデート」
詩・さざなみけんじ
カバーポップス
20代後半
センスで日本語詩
しゃれて軽妙覚えやすい言葉
⑨きもとよしお
「サマーホリディ」
詩みなみかずみ
⑩田代みどり
「パイナップルプリンセス」
可愛いえくぼがはちきれんばかりで零れ落ちそう
九重祐美子のロッテチョコCMより勝ってた
⑪梓みちよ
「ワンボーイ」
詩かもりょうじ
⑫弘田三枝子
「悲しき片思い」
♪うぉぉぉぉイェイイェイ~♪
♪こんな気持ちがいつまで続くのかしら~♪
切ない・・な~
⑬坂本九
「素敵なタイミング」
♪テカテカテカ~~
♪タイミング
♪この世で一番大事なのは~
♪ステキナタイミング♪
フォーク初代世代でもある。
苦々しくも笑いながら1971年の第3回全日本フォークジャンボリー
「自衛隊に入ろう」の3:11。
逆説的アンチテーゼに驚いたものである。
高田渡である。
ペーソス溢れる醸しだす雰囲気が心地いい
何故か。
川上、添田 唖蝉坊、石田 一松
の流れを汲んでいるゆえ。
高田渡のデビューは69年。
1960年代末、京都に拠点を移す。
高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在
当時としては珍しいスプリット形式のアルバム。
五つの赤い風船というグループとレコードの片面ずつを分け合う、
キツイ毒気とやるせない心情が綴られた絶妙な歌詞、高度なギター演奏、
カントリーやフォークを独自に解釈した個性は完全に確立されている。
初めての個人名義の作品は同年の「汽車が田舎を通るそのとき」
画期的レコード。
高田渡/五つの赤い風船 の1998年9月30日発売・東芝EMIに収まってる
「値上げ」
映像原曲はコチラ。↓
とちってても許せる不思議さ。
ライブである。
http://www.youtube.com/watch?v=ngcIIpT5wxs
値上げは、全然考えぬ。
年内、値上げは考えぬ。
当分、値上げはありえない。
極力、値上げは抑えたい。
今の所、値上げは見送りたい。
すぐに、値上げは認めない。
値上げがあるとしても今ではない。
なるべく値上げは避けたい。
値上げせざるを得ないと云う声もあるが、
値上げするかどうかは検討中である。
値上げもさけられないかもしれないが、まだまだ時期が早すぎる。
値上げの時期は考えたい。
値上げを認めた訳ではない。
すぐに値上げはしたくない。
値上げには消極的であるが、年内値上げもやむを得ぬ。
近く、値上げもやむを得ぬ。
値上げもやむを得ぬ。
値上げにふみきろう。
子息高田漣風に
「菅内閣の大連立」
大連立は ぜんぜん考えぬ
年内 大連立は考えぬ
当分大連立はありえない
極力 大連立はおさえたい
今のところ 大連立はみおくりたい
すぐに 大連立を認めない
大連立があるとしても今ではない
なるべく大連立は避けたい
大連立せざるを得ないという声もあるが
大連立するかどうかは検討中である
大連立も避けられないかもしれないが
まだまだ時期が早すぎる
大連立の時期は考えたい
大連立を認めたわけではない
すぐに大連立はしたくない
大連立には消極的であるが
年内 大連立もやむを得ぬ
近く 大連立もやむを得ぬ
大連立もやむを得ぬ
大連立にふみきろう
評論家の江藤淳は、「戦後の日本は、経済分野でのみ、自己実現が許されてきた」と喝破。
自己実現できなかった分野は、複雑に屈折し、共依存に向かう。
安保分野がそう。
さらなる問題は、ポスト冷戦以降、経済分野での自己主張、自己実現にも抑圧がかかっている。
医療現場のカウンセリングで痛感。
共依存からの離脱は手間取る。
自己主張を幾重も封じられた心は、共依存にとどまるべき理由を無限に見つけ出す。
世界的オペラ「あ~る晴れた日に・・」
蝶々夫人には、おそらく圧力を加えられた隠されたエピソードがあるはず、
その地での
海援隊のいろは丸船体絵図が28日見つかったらしい。
最初の海難事故さえ交渉で和歌山藩を論破し賠償金をせしめたた龍馬。
中東では28日商船三井の船が沈んだ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100728-00000747-yom-int
何か起きそうである。
検証可能な戦後史をみても、現実に、日本の指導層は、米側から圧力を受けている。
だが、はね返して、持論を貫いた政治家も。
ジャーナリスト出身の石橋湛山も鳩山由紀夫の祖父鳩山一郎、そうした稀有な人々。
日ソ講和に痛んだ体を引きずり訪ソした信念の宰相。
由紀夫再総理で日ソの総仕上げしてもらいたい。
もちろん北方四島の領土の返還というお土産の
民族の悲願の成就にある。
まだ米国の植民地化
ソ連後のロシアの領土侵略は終わってない。
この国の戦後65年の占領政策化は終了していない。
戦後世代三代目にして成し遂げてもらえないものか。
ご先祖様英霊300万人に申し訳が立たない。
この国に独立に向かおうとした指導者はいたが、米側の圧力で潰されてきた。
そうしたエピソードは、ネットなき時代はほとんど知られていない。
ゆえにネット社会では謀略論でしか語られない難しさ。
なぜこの様な事態に?
団塊の世代の大学進学率は10パーセントもなかった。
高学歴社会と名はナニゾ!
何を学んでいるのか。
象牙の塔内ではナニが論じられているのか。
政治の堕落はDNAの正統なる受け継ぎなき其処にある。
国民はその民度に合った指導者しか擁けない」からか?
○1836年パリ凱旋門完成。
命令者ナポレオンは30年もかかったゆえ見ざるして死去。
○1890年ゴッホピストル自殺
生前売れた絵は一枚だけ。
○1921年ミュンヘン、32才ヒトラー党首へ。
○1960年沖縄カテナ基地からサイゴンに米軍機が飛び立つ。
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①川上音二郎
は以前触れたので略
②添田 唖蝉坊
WIKIは便利なモンで教えていただける。
敬愛する長寿ラジオ番組の「こころだ~~~」小沢昭一はじめ定本三冊での記述がある。
小沢昭一『流行り唄五十年 唖蝉坊は歌う』朝日新聞出版 2008年
木村聖哉『添田唖蝉坊・知道ー演歌二代風狂伝』リブロポート 1987年
加賀誠一『道なきを行く わが青春に小説「教育者」ありき』西田書店 1991年
添田 唖蝉坊( あぜんぼう1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)は、本名・添田平吉
明治・大正期に活躍した演歌師の草分けである。
号は、自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。
神奈川県の大磯の農家の出
海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいた
海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。
以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していた
1890年(明治23年)、壮士節と出会う。
当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中
自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のもの。
唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を刊した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いた
のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指す。
自身が演歌の歌詞を書くようになる。
唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、
「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで
、1892年(明治25年)の作である。
これ以降、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。
1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。
1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。
翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。
この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、
茅ヶ崎に引っ込む
「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった
「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行。
これがきっかけで、堺利彦に依頼されて、この改作である社会党喇叭節を作詞。
1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になる
その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。
1910年(明治43年)、妻タケが27歳で死去。
唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。
やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。
なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。
その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。
そこで死去した。
浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉の碑が、添田知道筆塚と共にある。
妻タケが死去してから唖蝉坊が住んでいた下谷地区にあった貧民学校、
下谷万年小学校の校長は坂本龍之輔
のち子息添田知道はその小学校に入学し、彼に教えを受けた。
知道の著『小説 教育者』は当時の教育体験を背景にしたもので、主人公は坂本であり、
小説といいつつも、かなり史実に添ったものである。
添田父子は、坂本と深い親交を持っていたといわれるが、知道が途中で挫折したため、
この小説は添田父子が登場するところまでは書かれていない。
竹中労の文とかわぐちかいじの挿絵による『黒旗水滸伝 大正地獄編』(皓星社 2000年)
この中では、
唖蝉坊は香具師―テキヤの世界の飯島源次郎、
その実子分(跡目候補)山田春雄、
あるいは倉持忠助の大立物と親交をもち
、客分として尊敬を受ける演歌師として登場している。
近代露天商組合のリーダーで、国会議員にもなった倉持は、
自身演歌師の出身でもあり、唖蝉坊を師と仰いでいたという。
また石田一松が歌い大ヒットした『のんき節』は、唖蝉坊の作品に手を加えて作ったもの。
他に演歌の収集、保存でも功績のあった小沢昭一は、
その駆け出しの頃、添田父子と親交があったという。
1960年代以降、高石ともや、高田渡、加川良ら日本のフォークシンガーが好んで彼の作品を唄い、
日本のフォークソングの原形として広まった。
しかし、壮士演歌が全く俗な艶唄(つやうた)にすりかえられたように、
日本のフォークソングも、アコースティックギターを使っただけの艶唄のようなものにすり替わったことまで共通している。
1990年代に入り、
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のチンドン・スタイルの
別動隊「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」が、唖蝉坊の『ラッパ節』『むらさき節』『ああわからない』
などをレパートリーにしている。
、『アジール・チンドン』、『レヴェラーズ・チンドン』、『デラシネ・チンドン』
にそれぞれ収録している。
なお、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」は、
唖蝉坊の息子添田さつきの『東京節』『復興節』『ストトン節』
も上記のアルバムでとりあげている。
『添田唖蝉坊・知道著作集』全5巻・別巻1 刀水書房、1982-84年
唖蝉坊流生記 (解説・荒瀬豊)
浅草底流記 (解説・小沢昭一)
空襲下日記 (解説・荒瀬豊)
演歌の明治大正史 (解説・安田武)
日本春歌考 (解説・大島渚)
別巻 流行歌明治大正史 (解説・小島美子)
『唖蝉坊流生記』が、唖蝉坊のもので、同巻には知道の書いた唖蝉坊のその後の様子を伝える著作が含まれている。
その他は、知道の著作。
『日本春歌考』は、大島渚の同名の映画の下敷きになったものだが
、本の内容は春歌の収集と考察について書かれたものであり、これがそのまま映画になったのではない。
③石田 一松
選挙形式の全国区、今は露骨に言わないゆえ比例区と呼ぶ
タレント議員誕生のシステムである。
タレントとの言葉無きゆえ芸能人代議士 という
第一号は誰か
1946年4月10日、戦後初の衆議院議員総選挙
一人一党の日本正論党を掲げ大選挙区の東京1区から立候補。
この選挙は全国的に女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだ
東京一区では鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎らが当選した。
、石田は演説の間に持ち歌を歌って人気を集める。
「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」
結果は・・・
7位で見事当選。
「芸能人代議士誕生」今日言われるタレント議員・第一号とされ、その草分けとされる。
この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回
三木武夫と行動を共にし国民協同党、改進党に属した。
どうするんだろう、谷亮子どこではない。
議席を得ても芸能活動は辞めない。
昼は国会、夜はステージに立った。
1951年、国民民主党に名前を変えていた党の党議に背き
日米安保条約・対日平和条約の批准に反対、
“全面講和”を主張して離党。
1953年の「バカヤロー解散」による総選挙で落選。
1955年の第27回衆議院議員総選挙では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。
ヒロポン中毒に悩まされながら寄席に出演し続けた。
1956年、身体はがたがたに蝕まれ胃癌により死去。享年53
『のんき節』の替え歌で世相を炙り出しヤンヤの喝采
自著 『のんき哲学』に残る。
「鮹に骨なしナマコに眼なし 政府に策なし議員に抱負なし 民に職なし 愛もなし 皮肉にや抱負と骨がある へゝのんきだね」
「鬼畜米英アメリカという字は米と書く 米は朝日にてらされて やがて日本のままになる へゝのんきだね」
「權利々々と振りまはされては 權利も權利にやなりかねる 權利を振り廻しすぎますと 利権あさりと間違へる へゝのんきだね」
「物の闇なら物さへ作りや 闇はやむけどやみ難い 人の心に悲しい闇の 影がさしたら世は闇ぢゃ へゝのんきだね」
「正邪善惡非富不富は 人の心の奥にある 善をなしてるつもりでも つもりは心ぢゃありません へゝのんきだね」
「醜い南瓜に唇よせて だまつて見てゐる青い空 南瓜はなんにもいはないけれど 南瓜の氣持はよく判る へゝのんきだね」
「生きてゐりやこそ平和も御座る 死んで花見があるものか 焦土に芽をふく名無草 咲こうよ日本の平和境 へゝのんきだね」
④高田 渡
なぎら健壱の土曜日朝6時はフォークの歴史を追い珠玉の時間。
この人は醸しだす物が総て高田 渡の薫陶を受けタル弟子であるゆえ。
1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤GWAN博、林ヒロシ、
林亭(佐久間順平・大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。
高田 渡(1949年1月1日 - 2005年4月16日)は、1960年代から1990年代にかけて活躍したフォークシンガー。
父親は、詩人・元共産党員・活動家・の高田豊。
スティールギタリストの高田漣は息子。
岐阜県北方町出身、実父は資産家で篤志家で破産、
東京都深川の援護施設で父子生活をする。
少年時代の一時期、佐賀県鹿島市で育てられた。
沖縄出身の山之口貘、金子光晴、草野心平らの現代詩にフォークのスタンダードを
組み合わせ全く別物をつくり上げる作業を得意とした。、
添田唖蝉坊の流れを汲み時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、
皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。
岡林らとの「三億円強奪事件の唄」「自衛隊に入ろう」、「転回」「しらみの旅」「生活の柄」「長屋の路地に」
「鉱夫の祈り」など数多くのアメリカ民謡に詞を乗せた名曲を生み出している
全て原曲はアメリカ楽曲。
「自衛隊に入ろう」は、1968年の第3回関西フォークキャンプ、
1969年の第4回関西フォークキャンプのコンサートのライブ録音が有名。
1960年代後半に、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)
、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。
1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。
「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与える。
1969年にURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー。
また後に、京都のひがしのひとし、古川豪らと親交を深める。
全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。
また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、
フォークシンガーとしてデビューさせる
弾き語りと対話形式の『汽車が田舎を通るそのとき』をリリース。
キングから、大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。
この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、
後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」が収録されている。
「吉祥寺フォーク」の仲間たちと
1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ、友部正人、いとうたかお、なぎら健壱、佐藤GWAN博、林ヒロシ、林亭(佐久間順平・大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。
1971年の第3回全日本フォークジャンボリーでジャグ・バンド武蔵野タンポポ団を編成。吉祥寺派に加えて中川イサト、山本コウタローが参加。また、シバ・いとうたかおが武蔵野タンポポ団により人気者に。そのときの模様は、『武蔵野タンポポ団の伝説』『もうひとつの伝説』としてベルウッドからリリース。
『系図』では、タンポポ団を従えてレコーディング。いとうたかおの唄う「あしたはきっと」が収録され、それが好評で、いとうのアルバムデビューの布石となる。 1970年代半ば、カントリー・ブルーグラス色をより深める。
1973年、薗田憲一 (薗田憲一とディキシーキングス)、柳田ヒロを従えた『石』をリリース。
1976年、細野晴臣、中川イサト、ヴァン・ダイク・パークスらをバックに、『FISHIN’ ON SUNDAY』をリリース。春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどに参加。
1977年、佐久間順平らとヒルトップ・ストリングスバンド結成。フォーライフ・レコードから『バーボンストリート・ブルース』を発表。
1983年、『ねこのねごと』リリース。
1993年、『渡』リリース。
1999年、ライヴアルバム『ベストライブ』発表。
2001年、『日本に来た外国詩…。』リリース。
2004年、彼の日常のドキュメント映画『タカダワタル的』が発表され注目を集める。
2005年4月3日、北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院。
4月16日午前1時22分、入院先の北海道釧路市の病院で心不全により死去。
56歳没。死の直前に病院でカトリックの洗礼を受け(洗礼名パウロ)、
葬儀ミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われた。
2008年、『タカダワタル的』に続くドキュメント映画『タカダワタル的ゼロ』が公開。
高田渡のレコード・CDはURC音源の販売権の移動により、同一の作品が時期により違った
レコード会社から発売されている(詳細はアングラレコードクラブを参照)。
コメント
もう一つ、今週は日本振興銀行事件でも新しい展開がありそうだ。
日本振興銀行の見せ金増資や不正融資への政界の関与に注目してきた東京地検特捜部が今週、捜査班を立ち上げる。復元したメールの中に、不正融資のあっせんに関与したことをうかがわせる小泉内閣当時の関係者のメールが見つかったのだとか。
失墜した特捜部の威信は取り戻せるのか。
ちょっとつぶやいただけなのに・・・。
公安関係者から、「政府の調査(インテリジェンス情報)について、みだりに公開するな」と。
でも、削除は断固拒否!
どんな手段であれ、真実を伝えるのが、私のお仕事。
奢る平家は久しからず。平Zもまたおなじ。
天網恢恢、疎にして漏らさず。
こうてい疫問題が現地ゆえ情報が輻輳する。
ピリピリしてて動きようが解らぬのに似ている。
実に恐ろしきなり。